メディカルエッセイ
36 医師の努力がむくわれないとき 2006/4/1
年々、患者さんが医療従事者を訴える、いわゆる医事紛争が増加していますが、同様に、刑事的に医師が逮捕や書類送検されるという事件が目立つようになってきました。
最近、福島県のある病院の産婦人科医が、業務上過失致死と医師法違反で逮捕されるという事件が世間の注目を集めています。
この事件を振り返ってみましょう。
2004年12月、この医師が帝王切開した女性(当時29歳)が死亡し、24時間以内に届けなかったとして、福島県警がこの医師を逮捕しました。報道によりますと、この医師は、帝王切開の手術を執刀した際、胎盤の癒着で大量出血する可能性があり、生命の危険を未然に回避する必要があったにもかかわらず、癒着した胎盤を漫然とはがし大量出血で女性を死亡させたとのことです。また女性の死体検案を24時間以内に警察署に届けなかったことが医師法違反に該当するとのことです。
この逮捕に対し、日本産科婦人科学会、日本医師会などが次々と反対の意思を表明しています。例えば、ある学会は、「術前診断が難しく、治療の難度が最も高い事例で対応が極めて困難。産婦人科医不足という現在の医療体制の問題点に根差しており、医師個人の責任を追及するにはそぐわない部分がある」と声明を発表しました。
すると今度は、「産婦人科医不足や現在の医療体制の問題を理由にするのは、患者さんの立場に立った理由ではない」といった旨をマスコミに発表する医師も登場し、事態の混乱が続いています。
話は少々ややこしくなっていますので、ここで整理をしておきましょう。
まず、検察が逮捕に踏み切った理由は、業務上過失致死と医師法違反です。
業務上過失致死というのは、例えばトラックの運転手などが路上で人をはねて死亡させたときなどに適応される法律用語です。この場合、運転手に殺人の意図がなくても法律(この場合は「道路交通法」)は適応されます。
医師が全力を尽くしたのにもかかわらず、術中、あるいは術後に患者さんが亡くなった場合はどうなるのでしょうか。もちろん、すべての死亡が業務上過失致死にはなりません。業務上過失致死と認められるのは、文字通り「過失」がある場合のみです。
では、今回の福島県の事件では「過失」があったのでしょうか。検察は、あらかじめ大量出血が予見できて生命の危険を未然に回避できた、と主張していますが、これを実証するのは簡単ではありません。癒着した胎盤というのを私は教科書でしか知りませんから、私自身はコメントする立場にありません。ただ、産婦人科の各団体が、一斉に逮捕に抗議をしていることを考慮すると、明らかな「過失」があったとは到底考えられないように思われます。
次に、医師法違反についてですが、同法には、「医師は,死体又は妊娠4月以上の死産児を死体検案して異状があると認めたときは,24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。」との記載があります。ところが、この「異状」の定義がはっきりしておらず、以前より問題視されていました。
今回のケースでは、胎盤の癒着から大量出血が起こったということ事態が「異状」に該当するのかどうかという点が争点になるのかもしれませんが、定義のあいまいさが以前より指摘されている法律をこのような症例に適応するというのは問題があるように私には思えます。それに、大量出血を「異状」とするなら、あらかじめ「大量出血を予見できた」と主張する検察のコメントが「過失」ではないことを示していないでしょうか。
今回のこの事件が大きな意味をもつひとつの理由は、同業者である他の医師や病院、あるいは医学生、さらには医学部受験を考えている受験生にも少なくない影響を与えているということです。すでに、癒着した胎盤の帝王切開はやりたくない、と考える産科医が現れているそうです。少しでも危険のある帝王切開は他院にまかせようとする病院もでてくるに違いありません。産科をやめたいと考えている医師もいるという噂もあります。さらに、将来産科医になることを考えている研修医、医大生、受験生も進路の変更をおこなうかもしれません。すでに、医事紛争の増加で減少の一途をたどる出産施設が今後加速度的に増加することが予想されるわけです。
さて、今回の一連の報道で私が疑問に感じるのは、患者さんのご遺族のコメントがまったく報道されていないという点です。私は医師として、患者さんとこの産科医がどのような話をされていて、この事件に対して遺族はどのような感想を持たれているのかを知りたいのですが、私の知る限りそういったことは報道されていません。医療の主役は患者さんであるということが忘れられているような気がしてさみしく思います。
もちろん、「業務上過失致死」や「異状死体届出義務違反」というのは、患者さんやご家族がどのような感想を持たれるかに関係なく適応されなければならないものです。また、検察官や警察官は、個人的にどのような意見があろうとも法律に基づいて任務を遂行しなければなりません。
しかしながら、私はひとりの医師として、患者さんがどのような思いで手術を受けられ、またご遺族はどのように思われているのかが知りたいのです。というのも、極端に言えば、嫌がる患者さんを無理やり説得してその病院での帝王切開に踏み切ったのと、あらかじめある程度の危険性を認識された上で、その医師による帝王切開を強く希望されていたのとでは天と地ほどの差があると思うからです。これは法律とは別の次元の話です。
私の率直な感想を言えば、これから自分がおこなう医療のなかでこの産科医と同じような経験をしないという確信は持てません。私はいつも患者さんにとって最善と思われる治療を選択しているつもりです。さらにその治療法を患者さんに説明し同意が得られたときにのみ実施するようにしています。また、その治療法が、例えば難易度が高く私にはできないような手術などのときには、他の医師を紹介するようにしています。おそらくほとんどの医師がこのようにしているに違いありません。
しかしその結果が不幸を招いたとき、あるいは努力がむくわれなかったときというのも、今後起こりえない保証はありません。おそら今後の医師人生のなかで一度くらいは予期せぬ結果というものが起こりえるのではないかと思います。
そんなときにどうすべきかというと、法を犯したのであれば法に従い、最後まで患者さんやその家族の立場にたった態度を貫き通すということです。これ以外にはありません。
法律や医事紛争を恐れて治療をおこなっていれば、患者さんにとってのいい治療ができなくなってしまいます。例えば、後に医事紛争になったときに自分に有利になるように、といった観点からのみカルテを書けばどのようになるでしょうか。カルテはあくまで患者さんにとって最善になるような観点から書かれるべきものです。それに、医事紛争のことばかりを気にしていると、少しでも診断がつきにくかったり、少しでも未知数があったりする症例をすべて他の病院に搬送することばかりを考えるようになるかもしれません。これでは常に、自分の身を守ることだけを考えて、患者さんにとっての最善の医療ができなくなってしまいます。
医師にとって必要なことはたくさんあります。絶え間ない知識や技術の習得、高い人格、協調性、など、あげればいくらでもありますが、私がもっとも重要視しているのは「良心」です。常に自分の「良心」に従って診療をおこなう限り、少なくとも後に後悔することはなくなるはずです。いつも「良心」に従っていれば、結果的に法律を犯したことになったとしても、それほど恥じることもないのです。たとえ患者さんにとってみれば不幸な結末になったとしても、最後まで「良心」に従い、最後まで患者さんの立場にたった態度を取り続ける限り、それが謝罪や慰謝料というかたちになったとしても、少なくとも自分の「良心」は傷つけることはないわけですから。また、「良心」は常に鍛えていくということも必要です。そのためには、日頃からどんな行動をとるときにも「良心」に従うことが大切です。
これから医師を目指されている方がこれを読まれているとすれば、どうかこの点をよく考えていただきたいと思います。医療とは、自分の身を守るものではなく、患者さんのためにおこなうものなのです。
私が診させている患者さんがこれを読まれているなら、私が良心に従っていない治療をおこなっているのでは、と感じられるようなことがあればすぐにご指摘いただければ幸いです。
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