2025年12月27日 土曜日
2025年12月28日 やはりベンゾジアゼピンは認知症のリスクを上げる
ベンゾジアゼピンが認知症のリスクを上げるのか上げないのか。この問題については本サイトでも繰り返し取り上げています。2024年7月の医療ニュース「べンゾジアゼピンは脳を萎縮させる」では、認知症のリスクはともかく、ベンゾジアゼピンが脳を萎縮させるとした研究を紹介しました。
この度、カナダから「ベンゾジアゼピンはやはり認知症のリスクを上げる」とした論文が医学誌「Journal of the Neurological Sciences」2025年12月15日号に「ベンゾジアゼピンと認知症の関連性:カナダの健康調査と医療行政データベースを用いた症例対照研究(Association between benzodiazepines and dementia: A case-control study from Canadian health surveys and medico-administrative databases)」というタイトルで掲載されました。
研究の対象者はカナダのデータベース「Canadian Community Health Survey」から抽出されています。結果は以下のとおりです。
・50歳以上の認知症の患者1,082人と認知症を発症していない人4,262人を比較すると、ベンゾジアゼピンの使用が認知症に関連していることがわかった。ベンゾジアゼピンの使用で認知症の発症リスクは1.65倍(オッズ比1.65)となっていた。
・認知症のリスクは、作用時間が長い(半減期が長い)ベンゾジアゼピンでより高かった(作用時間が長いベンゾジアゼピンでのリスクは2.81倍、中程度のベンゾジアゼピンでのリスクは1.57倍)
・使用期間が短期であっても、長期であっても認知症のリスクは上昇していた
************
過去のコラム「認知症のリスクになると言われる3種の薬」で紹介した研究のように、「ベンゾジアゼピンは必ずしも認知症のリスクを上げない」とするものもたしかにあります。ですが、おしなべて言えば「リスクだ」とする研究の方が優勢なような気がします。
谷口医院の経験でいっても、高齢者のベンゾジアゼピンの使用は認知機能を低下させ、生活の質を落としているようにみえます。やめればとたんに眠れなくなりますから、患者さんは最初は抵抗を示すことが多いのですが、それでもまずはリスクを知ってもらい、ついで他の安全な睡眠薬に置き換えていく治療をする必要があります。
谷口医院の過去19年の歴史からいえば、たいていはうまくいきます。
投稿者 | 記事URL
2025年12月18日 木曜日
第268回(2025年12月) 「イライラ」のメカニズムと特効薬
うつ病や不安症に比べると「イライラ」はさほど病気として認識されていないかもしれません。また、そのような症状で医療機関を受診すべきでないと考えている人もいるようです。しかし、谷口医院でいえば、「イライラ」で受診する人は決して少なくありません。「イライラ病」という表現は一般的でなく、医学用語では「易刺激性」と呼ぶのですが、言葉の問題はどうでもよいので本コラムでも「イライラ」で統一します。今回はイライラの原因、そして私が考える“特効薬”を紹介します。
イライラの原因でまず除外しなければならないのは別の疾患が原因のイライラです。
頻度は少ないものの忘れてはならないのが「トキソプラズマ」です。トキソプラズマは「トキソプラズマ原虫 (Toxoplasma gondii)」と呼ばれる微生物による感染症で主にネコや非加熱の肉から感染します。国立健康危機管理研究機構によると、世界では3人に1人がトキソプラズマに感染していて、ブラジル、ドイツ、フランス、インドネシアなどで感染率が高く、日本では約1割が感染しています。10人に1人が感染しているならこの感染症で悩んでいる人は多そうですが、実際にはそういません。なぜなら健常者は感染してもたいてい発症しないからです。脳炎や網脈絡膜炎などから診断がつくのですが、私の経験でいえばそういう事態になるのはたいていHIV陽性で未治療の人です。しかし、HIVが陰性であれば心配ないのかというとそういうわけでもなく、妊娠中に感染すると胎児は正常に育ちません。妊娠中にネコに触れてはいけないと言われるのはそのためです。
そのトキソプラズマがイライラを起こすという研究があります。2016年に医学誌「The Journal of Clinical Psychiatry」に掲載された「トキソプラズマ感染症:精神疾患患者における攻撃性との関連(Toxoplasma gondii Infection: Relationship With Aggression in Psychiatric Subjects)」です。間欠性爆発性障害(=intermittent explosive disorder)と呼ばれる、いわば「突然キレる」病気があって、この障害を有している人はトキソプラズマに感染していることが多いことが示されたのです。
尚、トキソプラズマについてはこの話も含めて、2018年の「医療プレミア」に計3回にわたりコラムを書いたことがあるので興味のある方はそちらを参照ください(すべて無料です)。
実際に「イライラする原因がトキソプラズマだった」と展開していく事例はさほど多くないのですが、比較的頻度の高い疾患もあります。その代表は甲状腺機能亢進症です。私の経験でいえば、「大好きなはずの飼い犬の鳴き声にイライラさせられる」という訴えで受診した30代の男性が甲状腺機能亢進症によるものだったことがあります。
甲状腺機能亢進症よりも罹患者がはるかに多いのが甲状腺機能低下症です。橋本病がもたらすことで有名なこの疾患は女性の方が圧倒的に多く、ときにうつ病と誤診されていることがあります。甲状腺機能低下症の患者さんに治療(=甲状腺ホルモン内服)をすると、突然元気になることがよくあります。体重が減り、便秘が治り、性格が明るく活発になり行動に変化が現れます。若い女性は治療で体重が減少したことを喜び、さらに薬を増やしたいと希望することもあります。しかし危険が待っています。甲状腺ホルモンを増やし過ぎたとき、あるいは増やさなくても自然に機能低下が回復した場合には甲状腺ホルモンの値が上がりすぎてイライラし始めるのです。
PMS(月経前症候群)や(女性の)更年期障害といった女性ホルモンの低下、あるいはアンバランスが生じたときにもイライラが起こり得ます。これは男性からは理解されにくいことが多く、ときに上司や顧客への暴言やパートナーとの破局、あるいは家庭崩壊につながることもあります。イライラは抑えがたく、本来理性的でこれまでの人生で不平不満などほとんど口にしたことがないような女性が、突然理不尽な怒りを大切な人にぶつけてしまうのです。PMSや更年期障害の治療には様々なものがありますが、イライラが出現した場合は(ピルやLEPと呼ばれるものも含めて)エストロゲン(女性ホルモン)の内服や貼付が最も有効です。文献的にははSSRIと呼ばれる抗うつ薬も効果があるとされていますが、谷口医院の過去19年の歴史でいえば、SSRIが有効だった事例はさほど多くなく全体の1割程度です。
薬剤性のイライラも疑わねばなりません。谷口医院の経験でいえば、SSRIやSNRIでイライラが生じていた事例がありました(これらはイライラに有効とされていますが、その逆にイライラを悪化させたり促したりすることもあるのです)。他にはADHDで用いるアトモキセチンも起こり得ます。以前ADHDの治療によく使われていたコンサータなどの覚せい剤類似物質はもっと高頻度に起こします。もちろん違法薬物としての覚せい剤でもイライラが起こります。ステロイドにも注意しなければなりません。最近は生物学的製剤の普及で、関節リウマチやその他膠原病でステロイドを使う機会は減りましたが、それでもステロイド長期使用が原因のイライラは珍しくありません。低血糖が生じたときにもイライラすることがあります。糖尿病の薬が効き過ぎているときや、インスリノーマなど低血糖を起こす疾患にも注意が必要です。
さて、こういった他の疾患や薬剤からのイライラが否定された場合にはどういった原因を考えればいいのでしょうか。まずはすべてのイライラが異常ではないことを認識しましょう。おそらくイライラは人類が、あるいは少なくとも哺乳類が進化を遂げる上で必要な脳の活動だったはずです。実際、レバーを押すと報酬がもらえるように訓練したマウスに報酬を与えないことでイライラを起こすことができ、それを続けるとレバーをより強く長く押すことを示した研究があります。この現象、まるでなかなか来ないエレベーターのボタンをイライラしながら何度も押す大阪人のようです(この現象は大阪特有だと聞いたことがあります。真相は定かではありませんが)。
このマウスや大阪人が異常かというと、おそらくそうではないでしょう。したがって治療の対象にはなりません(周囲の人たちからは「治療を受けろ」と言われているかもしれませんが)。この程度のイライラは日常生活で多くの人が自覚しているのではないでしょうか。2024年に米国の成人42,739人を対象に実施された調査では、参加者の平均イライラ度は5(全くイライラしない)から30(常に非常にイライラしている)までの尺度で13.6でした。女性、若年、低学歴、低収入でイライラ度が高いという結果が出ています。しかし、この調査では無視できない結果が導かれています。イライラのスコアが高いと自殺のリスクが上昇することが示されているのです。尚、イライラが自殺のリスクになるとする論文は2020年に医学誌Neuropsychopharmacologyにも掲載されています。
イライラしたとき、脳内ではどのような変化が起こっているのでしょうか。それを検証した論文によると、イライラしやすい子供では報酬処理の領域である線条体が活性化していました。また、課題遂行に重要な神経領域で異常な反応が見られることが分かりました。イライラすれば集中力が低下することが脳科学的に証明されたことになります。さらに別の論文では、イライラしやすい子供は扁桃体に異常な活動が見られることが示されています。これらの研究から、子供がイライラしたとき、その責任は本人にあるのではなく、脳が反応するからやむを得ないのだと考えるべきではないでしょうか。そして、成人を対象とした研究は見当たりませんが、おそらく成人の脳にも同様なことが起こっているでしょう。とすると、脳内の神経活動は理性ではコントロールできませんから、イライラしている人がいればその人を責めるのではなく、他の臓器疾患を気遣うように、その人の脳内の神経活動を慮るべきではないでしょうか。
冒頭で、イライラはうつ病や不安症に対して軽視されているのではないかという問題提起をしましたが、実際にはイライラはうつ病や不安症がある人がよく苦しめられています。おそらくこの3つには密接なつながりがあり、さらにはADHDなどの神経発達症や他の精神疾患とも関連している場合が多いと言えます。また、谷口医院の経験でいえば、イライラはおそらくPTSD(やPTSDの診断がつかなくても過去の凄惨な体験)にも関連しています。結局のところ、うつ、不安、イライラ、その他あらゆる精神症状は同時に診ていかねばならないのです。これが谷口医院で様々な精神疾患をみてきた現在の私の考えです。
では治療はどうすればいいのでしょうか。すでに述べたようにSSRIやSNRIが有効な事例はそんなに多くありません。女性の場合はホルモン剤が奏功することが多いのですが、血栓症の既往などで使用できないこともあります。ベンゾジアゼピンやメジャートランキライザーはベネフィットよりもリスクの方が大きい場合が多すぎます。結局のところ、これら薬剤を少量使ったり、漢方薬、あるいはスルピリドという古典的な抗うつ薬をいろいろと試しながらその人にあった治療法を探していくことになります。ただし、谷口医院の経験でいえば薬よりも「人」の方がはるかに有効です。最も分かりやすい例は理想的なパートナーと巡り合ったことで精神症状が大きく改善するケースです。
登場が望まれている薬が「オキシトシンの点鼻薬」です。オキシトシンは愛情ホルモンと呼ばれることもある、人を穏やかな気持ちにさせるホルモンで、海外では授乳分泌薬として使われることもありますが、イライラ薬としては承認されていません。日本で研究が進んでいるとされていますが現時点では実用化の目途はたっていないようです。
ならば天然のオキシトシンを自ら”製造”すればいいわけです。どうすればいいか。オキシトシンはロマンスが進行すれば分泌量が増えることが分かっています。ロマンスが始まったときには興奮系のホルモンが大量に放出され、ドキドキ・ワクワクがしばらく続き、その次のフェーズに入るとオキシトシンに置き換わり長期にわたり分泌量が増えるとされています。ですから、イライラを防ぎたければ、信頼できて一緒にいるだけで平和的な気持ちになれるパートナーを見つけるのが最善です。パートナー以外でも、例えば、友情や親子の愛情、あるいはペットとの絆でもオキシトシンは分泌されるはずです。
と考えると、イライラの最大のリスクは孤独や孤立なのかもしれません。
投稿者 | 記事URL
2025年12月14日 日曜日
2025年12月14日 胃薬PPIは高血圧のリスクにもなる
他の医師からは絶賛され、極めて多くの人が内服していて、しかも効果を実感しているのだけれど、私が以前から危険性を主張しているのがいわゆる「PPI」(=プロトンポンプインヒビター)と呼ばれる胃薬です。本サイトではこれまでも、PPIが認知症、脳梗塞、骨粗しょう症、糖尿病、腸炎、新型コロナウイルスなどのリスクになるとする研究について紹介してきました。今回は、そのPPIが高血圧のリスクにもなるという論文を紹介します。
論文は医学誌「BMJ Open」2025年11月27日号に掲載された「PPIと高血圧の関連性:VigiBaseを用いた記述的および不均衡性解析(Association between exposure to proton pump inhibitors and hypertension: a descriptive and disproportionality analysis of VigiBase)」です。
結論は「ランソプラゾール以外のPPIは高血圧を発症するリスクがあり、服薬量が多ければ多いほどリスクが高い」となります。研究の方法はデータベースの解析です。論文著者らはWHOの薬物関連のデータベース「VigiBase」を用いてPPI使用と高血圧の関連性を調べました。具体的な数値は以下の通りです。
・PPIが原因となったと考えられる高血圧は26,587人
・オメプラゾール、エソメプラゾール、ラベプラゾール、pantoprazole(日本未発売)、dexlansoprazole(日本未発売)は高血圧のリスクとなっていた
・ランソプラゾールのみは高血圧との関連がなかった
・PPIの薬剤服用量が多いほど、また服薬期間が長いほど高血圧のリスクが上昇していた
・ただし、これらは統計学的有意性は認められなかった
************
過去に繰り返し述べているように、他院から当院にうつってくる患者さんでPPIを内服している人にこういったリスクの説明をした上で他の胃薬に変更してもらうことがあります。ほとんどの場合、その変更した薬で胃症状のコントロールができています。一部には再びPPIに戻さざるを得ない事例もありますが少数です。
医療ニュース
2020年10月31日 胃薬PPIは糖尿病のリスクにもなる
2020年8月6日 胃薬PPIは新型コロナのリスクになる
2019年12月28日 やはり胃薬PPIは認知症のリスクを増やすのか
2017年1月25日 胃薬PPIは細菌性腸炎のリスクも上げる
2016年8月29日 胃薬PPIが血管の老化を早める可能性
2016年12月8日 胃薬PPI大量使用は脳梗塞のリスク
2018年4月6日 胃薬PPIは短期使用でも骨粗しょう症のリスクに
2017年4月28日 胃薬PPIは認知症患者の肺炎のリスク
2017年1月23日 胃薬PPIは精子の数を減らす
2017年11月15日 ピロリ菌除菌後の胃薬PPI使用で胃がんリスク上昇
はやりの病気
第151回(2016年3月) 認知症のリスクになると言われる3種の薬
投稿者 | 記事URL
2025年12月11日 木曜日
2025年12月 「振動裁判」は谷口医院の全面敗訴
すでに「日経メディカル」の連載コラム「階上ジム振動裁判は控訴審でも全面敗訴、『医療機関が勝手に出ていけ』が司法の判断」で報告したように、移転前の谷口医院の階上キックボクシングジムによる振動で、谷口医院の患者さんと我々スタッフが針刺し事故のリスクに晒されていたことに対する訴訟は谷口医院の全面敗訴に終わりました。「振動で針刺し事故が起こったのならそれは谷口医院の責任。振動は起こしても問題ない」が司法の最終判断だったのです。
もちろんこの大阪高裁の判決に対し、「最高裁に上告すべきだ」という患者さんからの声は多数届いています。しかし、我々としてはこれ以上司法に時間とお金をかけるべきでない、という結論に達しました。振動のせいで悲鳴を上げたり、恐怖のあまりしゃがみ込んで動けなくなってしまった患者さんたちのことを思うと「なんとか無念を晴らさねば……」という気持ちは消えないのですが、司法とはそういうものだ、と認識するようになりました。その経緯は冒頭で示したコラムやメルマガにもある程度は書いたのですが、日経メディカルは医療者しか読めないこともあり、ここで深く取り上げてみたいと思います。
まず地方裁(一審)の判決で我々が納得できなかったのは、判決文には「針刺し事故」の「は」の字も見当たらなかったからです。また、振動のなかで医療行為ができないことを証明するために神経内科の大家である池田正行先生に法廷で「振動下では医療ができない」ことを証言してもらったのに、判決文には池田先生の「い」の字も出てきませんでした。これではとうていきちんと検討してもらえたとは思えません。そこで、「一審では本当に振動下での医療行為の危険性について考えてもらえたのでしょうか」と訴えて控訴審に臨んだわけです。
すると、裁判官から「和解」の申し入れがありました。我々としては「大切な患者さんやスタッフを針刺し事故の恐怖に陥れたキックボクシングジム『リフィナス』と『すてらめいとビル』を許せない」と考えていたわけですが、ジムとビルに直接話をできるのはまたとないチャンスです。なぜ、あれだけひどいことが平然とできたのかを聞きたかったのです。そもそも、「壁にヒビが入るほどの振動(計測では64.4dB)のなかで患者として診察を受けろ」と言われて誰ができるでしょう。もしも、自分や自分の家族が被害者になればどう思うのかを聞いてみたかったのです。
ところが、和解というのは原告(我々)と被告(ジムとビル)のそれぞれが裁判所に出向いて裁判官の立ち合いのもとで話し合いをするのではなく、裁判官と原告、裁判官と被告が別々に話をするだけだったのです。このことを後から司法に詳しい知人数人に聞いてみると、「そりゃそうだ」と言われたのですが、私はてっきりジムとビルの社長及び彼らの弁護士と話ができると思い込んでいたのです。なにしろ、ビルの社長は振動問題が起こってからどこかに雲隠れし、ジムの社長もいつのまにか見かけなくなっていたのです。
ただ、すてらめいとビルの社長は谷口医院がビルから退去する直前に偶然に会いました。そのとき私は「どういうことですか?!」と詰め寄ったのですが、社長は何のことか分かっていない様子で、何を聞いても何を言っても「暖簾に腕押し」という感じでまったく要領を得ませんでした。おそらくこの”事情”が、すてらめいとビルが社長を我々に合わせなかった理由でしょう。
ジムの社長は何度か話し合いの機会を持ちましたが、目を合わせることすらできない人物で、まるで話がかみ合わず、まともにコミュニケーションが取れたことが一度もありません。裁判官がいればきちんと話ができるかも、と期待したのですが結局最後まで実現しませんでした。振動問題が苦痛だった最大の理由は針刺し事故のリスクですが、この「ビルの社長ともジムの社長ともまともなコミュニケーションが取れない」というのも大きなフラストレーションになっていました。
話を戻すと、その和解では「進展」もありました。一審の判決文には針刺し事故のリスクが一切触れられていませんでしたが、和解の場では、その裁判官は「針刺し事故のリスクを理解できる」と言ったのです。しかも、その裁判官自身が過去に医療裁判に関わっていて、針刺し事故の被害者の証言を聞いていると言うのです。針刺し事故というのは、もちろんそのときに単に「痛い」という話ではありません。まず感染症のリスクがあります。B型肝炎については我々はワクチン接種をし抗体形成を確認していますし、HIVについては暴露後予防(PEP)という方法があります。ですが、C型肝炎やHTLV-1については針刺しをしてしまえば「感染していませんように」と祈るしかないのです。C型肝炎は現在ほぼ治癒する疾患となりましたが治療費には700万円ほどかかります。HTLV-1については感染してしまえば生涯にわたり複数の難治性疾患のリスクに怯えなければならなくなります。
針刺し事故のリスクは感染症だけではありません。CRPS(Complex Regional Pain Syndrome=複合性局所疼痛症候群)と呼ばれる、疼痛が長期間残る疾患のリスクもあります。この疾患を発症すると数年、ときには数十年間にわたり、耐えがたい疼痛に苦しめられることになり、社会復帰できなくなる場合もあります。
裁判官は、針刺し事故のリスクを認識し、実際にCRPSの被害者の声も聞いているのです。これは我々に有利になるはずです。実際「針刺し事故がいつ起こるか分からないような状況で医療行為が続けられるはずがない」ことには同意してくれました。しかし、ここまでくれば我々の逆転勝利が約束されたようなものでは……、と考え始めた次の瞬間、地獄に突き落とされるような言葉が待っていました。「ただし、司法の判断はまた別のところにあります」……。
控訴審の判決文を一部抜粋すると「本件診療所で(針刺し事故を起こすかもしれないという)心理的不安を抱えながら診療を継続すると、実際に針刺し事故が生じてしまう可能性を否定できず、一度でもそのような事故が発生したら取り返しがつかないと考え、安全性の確保を最優先にして本件建物から移転するという控訴人の判断は、医療機関として正当な判断であると考えられる」とされています。しかしその後には「被控訴人が賃貸人の義務として(移転にかかる費用などを)負担すべき立場にあったということはできない」と書かれていました。
要するに、「振動のなかでは医療行為が続けられず移転を余儀なくされたことは認めるが、だからといってその費用を振動を起こし続けた『リフィナス』や『すてらめいとビル』が負担する必要はない」、もっと端的に言えば「針刺し事故を防ぎたいなら勝手に出ていけば?」が司法の判断だというわけです。
上告して最高裁判所で戦ってください、と訴えられる患者さんには大変申し訳ないのですが、本音をいえば、我々はこの大阪高裁の判断ですっきりしました。そもそも、司法が絶対的に正しいものでないことは初めから分かっていたことです。私自身、本サイトを含めこれまでいろんなところで述べているように、人間にとって大切なのは法律よりも「掟」です。どれだけ人道に悖る行為に手を染めても、それを裁く法律がなければその輩は無罪です。ですが、人の掟に背いた者は許されることはありません。病気で医療機関を受診した患者さんを振動で恐怖に陥れる行為が掟に背いているのは明らかでしょう。それが理解できない者とは関わらないのが一番です。
投稿者 | 記事URL
最近のブログ記事
- 2025年12月28日 やはりベンゾジアゼピンは認知症のリスクを上げる
- 第268回(2025年12月) 「イライラ」のメカニズムと特効薬
- 2025年12月14日 胃薬PPIは高血圧のリスクにもなる
- 2025年12月 「振動裁判」は谷口医院の全面敗訴
- 2025年11月30日 運転時のカフェイン多量摂取は危険
- 2025年11月27日 「コーラ1本で寿命が12分縮まる」は本当か
- 第267回(2025年11月) 子宮内膜症、子宮筋腫、子宮腺筋症
- 2025年11月 私が安楽死に反対するようになった理由(後編)
- 第266回(2025年10月) 難治性のSIBO、胃薬の見直しと運動で大部分が改善
- 2025年10月17日 カリフォルニアでは「超加工食品」が学校給食禁止に
月別アーカイブ
- 2025年12月 (2)
- 2025年11月 (2)
- 2025年10月 (2)
- 2025年9月 (2)
- 2025年8月 (2)
- 2025年7月 (2)
- 2025年6月 (2)
- 2025年5月 (2)
- 2025年4月 (2)
- 2025年3月 (2)
- 2025年2月 (2)
- 2025年1月 (2)
- 2024年12月 (2)
- 2024年11月 (2)
- 2024年10月 (2)
- 2024年9月 (5)
- 2024年8月 (1)
- 2024年6月 (2)
- 2024年5月 (2)
- 2024年4月 (2)
- 2024年3月 (2)
- 2024年2月 (3)
- 2024年1月 (1)
- 2023年12月 (2)
- 2023年11月 (2)
- 2023年10月 (2)
- 2023年9月 (2)
- 2023年8月 (1)
- 2023年7月 (3)
- 2023年6月 (2)
- 2023年5月 (2)
- 2023年4月 (2)
- 2023年3月 (2)
- 2023年2月 (2)
- 2023年1月 (2)
- 2022年12月 (2)
- 2022年11月 (2)
- 2022年10月 (2)
- 2022年9月 (2)
- 2022年8月 (2)
- 2022年7月 (2)
- 2022年6月 (2)
- 2022年5月 (2)
- 2022年4月 (2)
- 2022年3月 (2)
- 2022年2月 (2)
- 2022年1月 (2)
- 2021年12月 (2)
- 2021年11月 (2)
- 2021年10月 (2)
- 2021年9月 (2)
- 2021年8月 (2)
- 2021年7月 (2)
- 2021年6月 (2)
- 2021年5月 (2)
- 2021年4月 (4)
- 2021年3月 (2)
- 2021年1月 (2)
- 2020年12月 (3)
- 2020年11月 (3)
- 2020年9月 (2)
- 2020年8月 (2)
- 2020年7月 (1)
- 2020年1月 (2)
- 2019年12月 (2)
- 2019年11月 (2)
- 2019年10月 (2)
- 2019年9月 (2)
- 2019年8月 (2)
- 2019年7月 (2)
- 2019年6月 (2)
- 2019年5月 (2)
- 2019年4月 (2)
- 2019年3月 (2)
- 2019年2月 (2)
- 2019年1月 (2)
- 2018年12月 (2)
- 2018年11月 (2)
- 2018年10月 (1)
- 2018年9月 (2)
- 2018年8月 (1)
- 2018年7月 (2)
- 2018年6月 (2)
- 2018年5月 (4)
- 2018年4月 (3)
- 2018年3月 (4)
- 2018年2月 (5)
- 2018年1月 (3)
- 2017年12月 (2)
- 2017年11月 (2)
- 2017年10月 (4)
- 2017年9月 (4)
- 2017年8月 (4)
- 2017年7月 (4)
- 2017年6月 (4)
- 2017年5月 (4)
- 2017年4月 (4)
- 2017年3月 (4)
- 2017年2月 (1)
- 2017年1月 (4)
- 2016年12月 (4)
- 2016年11月 (5)
- 2016年10月 (3)
- 2016年9月 (5)
- 2016年8月 (3)
- 2016年7月 (4)
- 2016年6月 (4)
- 2016年5月 (4)
- 2016年4月 (4)
- 2016年3月 (5)
- 2016年2月 (3)
- 2016年1月 (4)
- 2015年12月 (4)
- 2015年11月 (4)
- 2015年10月 (4)
- 2015年9月 (4)
- 2015年8月 (4)
- 2015年7月 (4)
- 2015年6月 (4)
- 2015年5月 (4)
- 2015年4月 (4)
- 2015年3月 (4)
- 2015年2月 (4)
- 2015年1月 (4)
- 2014年12月 (4)
- 2014年11月 (4)
- 2014年10月 (4)
- 2014年9月 (4)
- 2014年8月 (4)
- 2014年7月 (4)
- 2014年6月 (4)
- 2014年5月 (4)
- 2014年4月 (4)
- 2014年3月 (4)
- 2014年2月 (4)
- 2014年1月 (4)
- 2013年12月 (3)
- 2013年11月 (4)
- 2013年10月 (4)
- 2013年9月 (4)
- 2013年8月 (172)
- 2013年7月 (408)
- 2013年6月 (84)