メディカルエッセイ
2015年8月21日 金曜日
第151回(2015年8月) 二人の医師が死亡したトライアスロン
マラソンやトライアスロンのブームは加速し続けているような印象があります。そして、あまり報道はされませんが、大きなマラソン大会やトライアスロンの大会には事故が少なくありません。しかも心肺停止に至るものも珍しくはなく、なかには死に至ることもあります。
2015年7月19日、鳥取県米子市皆生(かいけ)で開催された「第35回全日本トライアスロン皆生大会」に参加した愛知県一宮市の医師、則武克彦さん(56歳)がスイム中に意識を失い死亡しました。同日に山形県鶴岡市鼠ケ関(ねずがせき)で開催された「温海トライアスロン大会」では、同市の開業医、今野拓さん(48歳)がやはりスイム中に意識を失い死亡しました。
マラソンやトライアスロンでの死亡事故はあまり報じられませんが、今回一般紙で二人の死亡が報道されたのは、職業が医師だからでしょうか。つまり、自分の健康管理ができている(と思われている)医師が死亡したために取り上げるべきとマスコミが判断したのかもしれません。
ここでこういったスポーツがどれだけ危険なものかを考えてみたいと思います。トライアスロンの方がマラソンよりも死亡事故率が高いのはほぼ間違いないでしょうが、トライアスロンについてはきちんとしたデータがないこともあり、競技人口の多いマラソンでまずは考えてみたいと思います。
フルマラソンでは、だいたい10万人に1人程度の割合でレース中に心肺停止が起こると言われています。日本でマラソンが急激に普及したのは2007年に第1回が開催された東京マラソンがきっかけとなったと思われます。その後全国で一般市民が参加できるマラソン大会が相次いで開催されるようになりました。
私の知る限り、マラソンブームが起こった2007年以降、大きな大会での死亡事故というのはあまりなく、全国紙レベルで報道されたのは、2015年4月に長野県飯田市で開催された「天竜峡温泉健康マラソン大会」で60代の男性が死亡した事故くらいではないかと思います。
しかし「死亡」にまではいたらなくても「心肺停止」になりその後医療者が蘇生をおこなったというケースはけっこうあります。最も有名なのは、2009年の東京マラソンで心筋梗塞を起こし致死的な不整脈がでたものの救護班の迅速な対応で一命を取り留めたタレントの松村邦洋さんだと思いますが、有名人でなく一般人が心肺停止を起こす事故は報道されないだけであって珍しくはありません。(そういった情報は医療者から伝わってきます)
ランニングの場合、危険なのは初心者ではなく中堅からベテランのランナーです。そして危険なのは30km、とりわけ35kmを過ぎてからです。1980年代以降、日本での死亡例は数件程度ですが、心肺停止ではおそらく平均すると1つ大会があれば1件程度は起こっているのではないかと思われます。
私は一度大阪マラソンの救護班に参加したことがあります。大会では5kmごとに班が設置され、そこにはAED(心肺停止時に電気ショックを与える器械)を置いていますがそれだけではありません。自転車にAEDを積んで、実際にコースを巡回する医師もいます。また、救急車はいつでも発動できるように待機しています。これだけの準備をしますから、レース中に突然倒れ心肺停止が起こっても助かる可能性が高いのです。
日頃私が診察している患者さんのなかにも、フルマラソンを趣味にしている人、トライアスロンに果敢に挑む人、なかには100kmのウルトラマラソンを目標にしている人もいます。健康のために運動をおこなうことは非常にいいことなのですが、度を超えると危険性が増します。
運動が健康にいいのは自明であり、「運動が身体に悪い」と考えている医療者も一部いるようですが、”適度な”運動が健康に有用であるということは世界中の研究で明らかになっています。体重が落ちなくても運動を続けることで生活習慣病のリスクが低減できることも判ってきています(注1)。
しかし、運動のやりすぎが健康を害するどころか危険なのもまた自明です(注2)。毎日トライアスロンに参加することを想像してみれば明らかでしょう。では、どの程度の運動が理想なのでしょうか。これについては年齢、性別、元々の運動能力や持っている疾患によって変わってきますから一概には言うことはできずかなりの個人差があります。
トライアスロンの他の競技をみてみましょう。同日に別の大会で二人の医師を死にいたらしめた「スイム」が危険なのは明らかです。とはいえ、私は「水泳」を否定したいわけではありません。プールで自分のペースで泳ぐのはすぐれた有酸素運動ですし、肩周囲や大腿の筋肉も鍛えられますから同時に筋トレもできるわけで、ランニングよりもむしろ有効な運動ともいえます。(ランニングでは上半身の筋肉強化はほとんどできません)
膝の痛みや腰痛がありジョギングができないという人も、プールで自分のペースで歩くという方法ならおこなえます。フィットネスクラブでは、水泳教室の他にも、水中でのダンスやエアロビクスのコースもあります。プールでの運動は(ある程度のお金は必要でしょうが)是非ともすすめたいものです。
しかしながら、トライアスロンのスイムはそう勧められるものではありません。まず海での水泳の危険性はプールとは比較になりません。それに、トライアスロンでは、少しでも前に行こうとする人が少なくなく、そのため押し合いへしあい、というかもっと言うと殴る蹴るといった格闘技に近いことも実際にあります。意図的ではなかったとしても、たとえばキックした足が他人の頭にあたり脳震盪を起こすということもあり得るのです。
トライアスロンのバイク(自転車)を考えてみましょう。バイクでは私の知る限り、日本の大会での死亡事故はないと思います。しかし、骨折を伴う事故は珍しくはありません。また、大会では自動車との交通事故はないでしょうが、当然のことながら練習中には自動車との接触に注意しなければなりません。実際、練習中に交通事故で死亡している人は稀ではありません。なかには駐車中の車に激突して即死したような例もあります。
マラソンやトライアスロンの大会に出ようと思っているんです・・・。患者さんからそのような相談をされたとき、返答に困ることがあります。特に負けず嫌いで頑張り屋の性格の人の場合、何と助言しようか躊躇することがあります。こういった大会はゴールしたときの感動が大きいですし、大会を励みに練習すれば健康の向上にも寄与するのは事実です。
しかしながら、同時に危険性も理解してもらわねばなりません。心肺停止のリスク以外にも熱中症や外傷、低体温のリスクなどもあります。ハーフマラソン程度なら走行中の水分補給すら絶対必要というわけではありませんが、フルマラソンになってくると水分補給は必須ですし塩分の補給も考える必要がでてきます。そのため、練習はもちろん、大会中の身体の管理も簡単ではないのです。
私が中2のとき、フルマラソンの距離42.195kmは「必ずテストに出すから覚えておけ」と先生に言われ、何度も口ずさんで記憶しました。42.195というこの数字について、最近ある患者さんから興味深い覚え方を教えてもらいました。
死(4)に(2)行く(19)カクゴ(5)と覚えるそうです。
注1 1つ研究を紹介しておきます。医学誌『Hepatology』2015年2月17日号(オンライン版)に掲載された論文です。たとえ体重が落ちなくても運動が脂肪肝を改善するとしたもので、タイトルは「Moderate to vigorous physical activity volume is an important factor for managing nonalcoholic fatty liver disease: a retrospective study.」で下記のURLで概要を読むことができます。
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/hep.27544/abstract
注2:運動のやりすぎが危険とする研究についても紹介しておきます。医学誌『Mayo Clinic Proceedings』2012年6月号(オンライン版)に掲載された論文でタイトルは「Potential Adverse Cardiovascular Effects From Excessive Endurance Exercise」で、下記URLで概要を読むことができます。
http://www.mayoclinicproceedings.org/article/S0025-6196%2812%2900473-9/abstract
医学誌『Heart Disease』2014年3月4月号(オンライン版)では、「Study finds that long-term participation in marathon training/racing is paradoxically associated with increased coronary plaque volume」というタイトルで、運動のしすぎが心疾患を引き起こす可能性があることを述べています。下記URLを参照ください。
また、『The Wall Street Journal』紙2013年5月24日号(オンライン版)では、「The Exercise Equivalent of a Cheeseburger?」(運動はチーズバーガーと同じ?)というタイトルで過度な運動の危険性を報じています。
http://www.wsj.com/articles/SB10001424127887323975004578501150442565788
参考:はやりの病気第123回(2013年11月)「マラソンに伴う健康被害と利点」
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