マンスリーレポート

2019年7月8日 月曜日

2019年7月 医師にメール相談をしよう

 過去にも述べたように、13年前に太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)をオープンさせるとき、「ウェブサイトはつくらない方がいいよ」と助言してくれた医師が何人かいました。その理由は「ネットで医療機関を探す患者は、ドクターショッピングを繰り返していることが多く診察に時間がかかるから」というものでした。そして、私の答えは「だからこそつくるんです!」でした。これまで医療機関でイヤな思いをしたという人にこそ受診してもらいたいと考えていたのです。

 大学(大阪市立大学)の総合診療科の医師たちはこの私の考えに賛成してくれて、私のやろうとしている総合診療をウェブサイトで社会に知ってもらうべきだ、と励ましてくれました。ですが、「メール相談を無料でおこなう」という私の意見に賛成してくれた医師は(ほぼ)ゼロでした。そして、今も私は「メール無料相談を始めようよ」と他の医師に促すのですが、同意してくれる医師は少数です。つい最近開業した大学の総合診療科の若い先生もウェブサイトはつくっていますが、そのサイトからメール相談はできません。

 メール無料相談は患者側だけでなく医師側からみてもとても有用なものであることを私は確信しています。ですから、残りの医師としての人生をかけてでも、私と同じようなメール無料相談をする医師を増やしていきたいと考えています。

 今回はメール相談にはどのようなものが多いかについて紹介していきたいと思います。しかしその前に、このようなメール無料相談をしている医師は私だけではないということを紹介しておきたいと思います。

 過去のコラムで報告したように、私は自身が患者として2014年に脊椎の手術を受けました。その病院を受診する前、私はその病院のウェブサイトから医師に直接メールを書きました。驚いたのは同日に返事をいただいたことです。そして、その返事が励みとなり疾患に向き合う気持ちになり、その医師に手術をしていただきました。その後、私は医師として、自分が診ている患者さんが重度の脊椎疾患があればその医師に相談させてもらっていますが、翌日には返信メールが届きます。かなり多忙な医師なのにもかかわらず、です。

 もうひとつ、私の身内の話をします。あるがんの末期で、大学病院で「手術不能で余命数ヶ月」と言われたのですが、ある病院の医師にその病院のウェブサイトからメールをしたところ同日に返答がとどき、とんとん拍子に話が進み、手術を受けられることになりました。それから数年が経ちますが、今も元気で再発がありません。この話はまさに”奇跡”で、もちろんその医師の技術が極めて高度だったからでありますが、メールがきっかけで手術が受けられるようになったのは事実です。

 このようにメール相談を受け付けているのは決して私だけではないのですが「メール無料相談などやるべきでない」と考えている医師の方がずっと多いのが実情です。その理由として、「メールだと不正確な情報しか分からないからきちんとしたことが言えない」「誤ったことを伝えて後で訴えられたらどうするのだ」「長文メールが何通も届くと対応できない」などとよく言われて、それはそれで正しくはあるのですが、私からすれば「どこに行っていいか分からず苦しんでいる人はどうするんだ!」となるわけです。今、紹介した二人の医師は(私とは異なり)全国的に有名で多忙な医師です。その医師たちが患者からのメール相談を受けて、実際救われている患者(私も含めて)がいるのですから、他の医師にもやってもらいたいと私は言い続けているのです。

 過去12年半の間に谷口医院に寄せられたメール相談は約9千です。メールが1通もこない日はほとんどなくて、多い日は10通近くが届くこともあります。そのひとつひとつに回答しているわけですから平均すると毎日1時間程度はメールの返信に費やしていることになります。メールを分類してみましょう。

〇当院を受診したことのある患者さん

 「予想より早くよくなったから薬を中止してもいいか」「薬疹が出たかもしれない」「いったんよくなったけど再発したみたい」といった内容が多く、皮膚疾患の場合は写真を添付されることもあります。診察中は私は電話に出られませんし、夜間も(現在は)電話に出ませんから、このようなメールでの質問は非常に効果的です。患者さんは受診しなくてすみますし、私からみても受診不要な患者さんの見極めができれば、その分の時間を他の患者さんにあてることができるからです。

 家族のことで相談される人も少なくありません。その家族は未受診であっても、メールをされている患者さんのことは分かっていますから(顔を思い浮かべて返信できますから)、ある程度詳しいことまで伝えることができます。受診してもらうこともありますが、「受診する必要はありません。悪化すればまた教えてください」で済ませられることも多々あります。

 このように再診の方であれば、本人のことはもちろん、家族でも、あるいは友達のことでもメール相談はたいていスムーズにうまくいきます。

〇当院未受診の患者さん(どこも受診していない場合)

 「健診で異常が出たが受診すべきか」「1か月前から〇〇の症状がある」「(私がメディアに書いた記事などを読んで)△△という病気が怖くなった」など、質問の種類は多岐に渡ります。顔を見たことのない人からの相談の場合、その人のキャラクターが分かりませんから、あまりつっこんだことまでは言えず、どうしても一般的なことのみの説明に限定されてしまいます。これでは答えになってないな、という場合も多いのですが、意外なことに「ようやく受診する決心がつきました。ありがとうございます」といったお礼のメールをいただくこともしばしばあります。このタイプのメールは遠方からも届きます。

〇当院未受診の患者さん(他院でイヤな思いをした場合)

 長文メールが多いと言えます。医師やその病院の悪口を延々と書いてあるものもあります。ですが、たいていの場合よく読むと、その医師の人格を否定しているのではなく、「きちんと診てもらえなくて不安が強い」というのが本音であることが分かります。こういうケースでは、そのように思われたのも無理はないということを伝え、そして同時に「医療不信にならないで」ということを訴えます。その後も何度もメールが届くことが多いのですが、根気よく対応していると(途中で無視することはありません)、たいていは最終的には受診できる医療機関が見つかったとの連絡が来ます。このタイプは過半数が他府県(文字通り北海道から沖縄まで)です。

〇その他メール

 私は受験や勉強の本を出版していることもあり「医学部受験や看護学校の受験を考えている」「資格を取ろうと思っている」というメールがときどき来ます。私が書いたり取材を受けたりしたメディアの記事を読んで感想を送ってくれる人もいます。また、「医師の彼氏に二股をかけられていた。復讐したい」とか「主治医に恋してしまった」というような相談(?)もときどきあります(なんで私に相談されるのか不明ですが…)。

 過去のコラム(マンスリーレポート2019年5月「教科書を読めない人」はそんなに多いのか)で述べたように、2019年1月31日で谷口医院のスマホサイトを閉鎖したところ、メール相談が一気に減りました。そのコラムで述べたように、PCでなくスマホしか見ない人にも再びメールを活用してもらおうと考え結局スマホサイトを復活させることになりました。ウェブサイト作成会社からは「いったん閉鎖すると再びアクセス数が増えるまでに時間がかかる」と聞いていますが、メール相談の数は少しずつ再び増加してきています。

 以前にも述べたように、当院未受診でメール相談をされる人が実際に谷口医院を受診するのは5%未満ですから、医療機関を運営(経営)の観点からみると「費用対効果が悪すぎる」と指摘されるのですが、そもそも医療機関は営利団体ではありませんし、メールだけで済ませることができれば他の患者さんに時間を取れますから双方にとって有益なわけです。「メール相談は医師のノブレス・オブリージュ」というのが私の考えです。

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2019年6月9日 日曜日

2019年6月 競争しない、という生き方~その2~

 このことは生涯誰にも話さず棺桶まで持っていこう……。そう思ったのは1991年3月、翌月に就職する会社のオリエンテーションのときです。そのときの情景が私にはとてもショッキングであり、「これは誰にも言ってはいけない」と言い聞かせてきました。それから30年近くたちますが、今もときどきそのシーンが蘇ります。その時は(その人の名誉のために)「棺桶まで持っていく」と誓ったのですが、これだけ時間が経てば個人を特定できないでしょうからそろそろ他言してもいいのではないか、と最近になって考えるようになりました。今回はその話をします。

 そのオリエンテーションは一泊二日で会社の保養所でおこなわれました。同期の者どうし酒を飲み議論を交わし深夜まで楽しく過ごしたことを覚えています。ようやくみんなが就寝する頃、私は眠れずにその保養所のキッチンにひとりでタバコを吸いにいくことにしました(当時の私は喫煙者でした)。

 ポケットにタバコがあることを確認しながら廊下を歩いていると、ある部屋からシクシクと泣き声が聞こえてきます。「なにやら聞いてはいけないものを聞いてしまったようだ。そうっと引き返そう……」、と今なら思うかもしれませんが、当時22歳のバカな私は「これは面白い!」と不謹慎なことを考え、ドアの隙間から部屋の中の様子を伺うことにしました。

 泣き声の主は同期の者ではなくその会社の男性社員でした。しかも30代半ばの中堅社員で、このような場で涙を見せるような人ではありません。もうひとりその部屋にいたのがその上司で、どうやら中堅社員が上司に泣きながら何かを訴えているようなのです。そして、その社員が次の言葉を放ったとき、私の身体は凍り付きました。その言葉とは、「なんで僕は出世できないんですか」というものだったのです……。

 過去のコラム「競争しない、という生き方」で、私の初任給が他の同期の者より2千円少なかったことで、私の上司が怒り出したことを紹介しました。実はこのコラムを書いたときも、この中堅社員が泣き出した話も書くことを考えたのですが、そのときは”封印”しておくべきだという結論になりました。しかし、「競争しないこと」をいろんな人に勧めている立場の私としては、この「競争をしらけさせるエピソード」をやはり伝えておくべきだ(もう個人の特定はされないだろう)、と考えるようになりました。

 過去のコラム「己の身体で勝負するということ」で述べたように、私は大学名や家柄といった「肩書」には何の意味もないことを大学生時代に当時の先輩たちから学びました。この頃は「出世」というものを深く考えていませんでしたが、出世とは昇進して課長とか部長といった肩書がつくことですから、先輩たちから真実を学んでいた私からすれば、この中堅社員が涙を流して訴えるシーンがただただ馬鹿馬鹿しく、とても愚かなものに見えたのです。

 果たして人は、上司に涙を流しながら訴えるようなことまでして出世しなければならないのでしょうか。出世すれば給料が上がるのでしょうが、出世しなかったときと比べてそんなに大きな差がつくのでしょうか。むしろ出世して管理職になって残業代がつかずに給与が下がった、という話もよく効きます。出世すれば尊敬されるのでしょうか。そうかもしれませんが、出世に価値を見出さない者は私だけではないでしょうし、私も出世を蔑むようなことまではしませんが、いい歳をした大人が涙を流して訴えるシーンを見てしまうと、私のような性格の者は「そんな出世ならいらない」と考えてしまいます。

 そもそも出世というのは、その会社のなかだけのものであり、取引先の人からはそれなりに評価されることもあるかもしれませんが、その会社に縁もゆかりもない人からは何の興味ももたれません。私が就職したような小さな会社ではなく、大企業の課長さんなどであれば「すごいですね~」と言われるのかもしれませんが、私のように大企業がすごいと思わない者も一定数はいるはずです。

 出世する人は人間的に魅力のある人なのでしょうか。これは私の「課題」として長い間考えてきましたが、今年51歳になる現在の私がたどり着いた結論は「そんなものは関係がない」です。

 学歴や職歴を”無視”して「己の身体で勝負する」を金科玉条としている私は、あえて「出世」や「肩書」を拒否してきました。それでこれまで困ったことは一度もありませんし、冒頭で述べた中堅社員のエピソードを思い出すと、出世を目指すことがつまらないことにしか思えません。

 そして、私のこの考えにさらに拍車がかかったのが、NPO法人GINAの関連で、タイでいろんな人にインタビューをしていたときの経験です。2004~2006年頃、繰り返しタイに渡航していた私は、現地で長期間滞在(多くはいわゆる”沈没組”)している日本人の声を集めていました。買春や違法薬物に手を染めている人たちにインタビューすることが主目的でしたが、結果として”健全な”日本人とも知り合いました。

 興味深いことに、そのような人たちのいくらかは高学歴で大企業勤務の経験があります。なかには官公庁に務めていた人や、進学校の元教師という人もいました。そして、こういった人たちにもいろんなタイプがいて、「ああ、この人のコミュニケーションの取り方は誤解を招くだろうな…」と感じる人もいれば、「この人は話もおもしろくて器が大きい生徒会長タイプなのにどうして…」と思う人もいました。

 何人かにインタビューをして私が感じたことは、(買春や違法薬物はNGですが)一年に一度日本に帰国してアルバイトでそれなりのお金を稼ぎ、タイにやってきてのんびりと過ごしたり、難解な書物を読み解くことに一日を費やしたりしている人は少なくとも”不幸せ”には見えない、ということです。

 タイに滞在しているときは、出世など初めから求めず楽しそうにしているタイ人が気になります。過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で紹介した「タイの農民と日本のビジネスマン」の逸話からもわかるように、彼らの多くはあまり働きません。

 私自身の場合も、出世を求めたことは一度もなく、医師になり研修医を終えてから、しばらく日本でHIVについて学び、その後タイに渡航しエイズ施設でボランティアをおこないました。そこで知り合った欧米の総合診療医達に感化された私は帰国後、母校の大阪市立大学総合診療部の門を叩きました。しかし常勤ではなく他の医療機関にも学びに行くことを選択しました。つまり好きなことをさせてもらっていたのです。出世など頭の片隅にさえない私は周りからみれば気楽な人生を送っているように見えるでしょうが、これはその通りで、「出生しない」「他人と競争しない」と割り切ってライバルをつくらなければ不要なストレスを避けることができ、嫉妬心に悩まされることもありません。

 私自身の人生が他人から羨ましがられることはないでしょうが、出世や肩書を捨ててタイで楽しく過ごしている日本人や、あまり働かないタイ人と比べ、「出世」に躍起している人たちは幸せなのでしょうか。そこに幸せがあると考えるから涙を見せてまで上司に訴えるのでしょうか。

 ちなみに、若い頃の私に「己の身体で勝負せよ」と教えてくれた魅力的な先輩たちも、大企業で役職をもつような「出世」はされずに(一部大企業の幹部になっている人もいますが)、魅力的な仕事を持ち幸せな生活をされています。冒頭で紹介した涙で出世を訴えていた中堅社員の行方は知りません。

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2019年5月16日 木曜日

2019年5月 「教科書を読めない人」はそんなに多いのか

 前回のマンスリーレポートでお伝えしたように、2019年1月31日をもって太融寺町谷口医院のスマホサイトを閉鎖したところ、その影響は予想以上に大きいものとなりました。スマホサイト閉鎖で変わったこととして次のようなものが挙げられます。

#1 「なんで閉鎖したんですか」という意見(クレーム?)が予想以上に多く寄せられた。

#2 スマホサイトからの「メール問い合わせ」がなくなったことにより、相談メールが激減(半分から3分の1に)した。

#3 新患患者数も同様に大きく減少した。当然のことながら、スマホサイト閉鎖以降の初診の患者さんは、谷口医院に通院している人の家族か知り合い、またはPCサイトを初めから読んでくれている人がほとんどとなった。

 これらで意外だったのは#1です。なかには「私の会社で前のよりももっときれいなのを作りますよ」と言ってくれたウェブ作成会社に勤めている人や、「知り合いのウェブデザイナーにお願いしますよ」と申し出てくれる人もいました。もちろん、単に「自分はPCを見ないんでスマホサイトを復活させてください」という人もいました。当初我々は「スマホでPCサイトを見ればそれでいいのでは?」と考えていたのですが、谷口医院のPCサイト(このサイト)は古いタイプの形式のようで、(何でも率直に物を言ってくれる)ある患者さんに言わせれば「読みにくい。どうしても知りたい情報がある人はそれでも読むだろうけど、気軽に情報収集したい人からは避けられる」そうです。

 この意見に対し「谷口医院のPCサイトは読みたい人だけ読めばいい」と言ってしまうのは「上からの目線」だと思います。3ヶ月ほどかけて私の友人知人に”リサーチ”をしてみました。その結果、大半の人は「いまどき旧式のPCサイトだけなんて、時代遅れも甚だしい」という意見で、逆に「PCサイトだけでもいい」と答えた人はゼロでした。

 どうやら私の「ITリテラシー」は相当遅れているようです。私自身もスマホは持ち歩いていますが、例えば国内外のニュースや医療情報などをスマホで調べた経験はほとんどなく、こういった情報は、移動中にはiPAD、自宅か職場にいるときはPCを使っています。ちなみに、私はツイッターやフェイスブックなどのSNSもほとんど利用した経験がありません。

 SNSやスマホが今ほど普及していなかった頃、おそらく2010年代前半頃までは、全員ではないにせよ多くの人がPCを見ていたのではないでしょうか。スマホが急速に使いやすくなったことで、大半の人が「PCはなくてもやっていける」ことに気付いたのではないかと思うのです。我々のように物を書く機会の多い職業に従事していればPCなしの生活は考えられませんが、一般企業勤務のホワイトカラーの人たちでも「報告書は自宅で書く」という人を除けば(最近はこういうことも禁じられていると聞きます)、スマホだけで事足りるのかもしれません。意外だったのは、ある企業のCEOでかつては会社のPCサイトにブログを書いていた人までもが「今はスマホしか見ない」と言っていたことでした。

 私の知人へのリサーチを通してもうひとつ学んだことがあります。それは、「文章を読めない人が増えていることがPC離れを加速させている」ということです。最初にこの話を聞いたときに「この人は何を言っているの?」と思ったのですが、ある会社で人事をしている人に聞くと、入職時の試験で小論文を書かせると、学歴は高いのにほとんど文章が書けない若者が少なくなく、さらに新聞を読めない者も増えているというのです。

 そんなとき、ある書評で高評価を得ていた数学者新井紀子氏の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』を読んでみました。この本には興味深いことがいくつも書かれているのですが、特に衝撃的なのは「多くの中高生たちが教科書を理解できない」ことを証明していることです。ここでいう「教科書の理解」というのは国語の難問である「作者はどのようなことが言いたかったのか」が解けるかという意味ではなく、単に各教科の教科書に書かれている平易な記述を理解できない子供たちが多いということです。著書には理解度を問う設問の例が挙げられています。素直に日本語を読めば分かるだろうという設問に、中学生の4割、高校生(しかも対象は進学率が100%の高校)の3割が正解できていないのです。ちなみにこの問題は作者らが開発した試験問題を解くロボット「東ロボくん」は正解しています。著者の新井氏は「中学生の半数は、中学校の教科書が読めていない状況」と断言されています。

 さて、教科書レベルの日本語が読めないのは中高生だけでしょうか。同書では大学生や社会人でさえも簡単な日本語が理解できていないことを独自の調査で明らかにしています。本当に教科書が読めない中学生が増えているならこれは当然のことで、日本の中学生がある時突然読めなくなったわけではないでしょう。おそらく少しずつ日本人の読解力(中学の教科書を読むレベルの読解力)が低下してきているのでしょう。

 だとすると、教科書を読めない人は自分の健康のことで困ったことがあったとしても、わざわざ文字数が多く読みにくいPCサイトを探さないことが予想できます。前回のコラムで、スマホサイトを見ての電話問い合わせで苦労するエピソードを紹介しましたが、おそらく「長い文章は読みたくない。文字が必要ならSNSでやり取りされる程度の簡単なものがいい」と考えている人は少なくないのでしょう。

 興味深いことに、太融寺町谷口医院にはその正反対というか、例えば大量の論文のコピーを持参するような患者さんもいます。彼(女)らは日本語のみならず英語で難度の高い文章をインターネットで入手して読みこなしているのです。「格差社会」という言葉はすっかり人口に膾炙していますが、たいていは収入や資産のことを指しています。ですが、この「文章を読む力」の格差も相当大きく、もしかすると収入や資産以上に広がっているかもしれません。

 ただ、私自身はそういう社会を必ずしも是正しなければならないとは考えていません。「いろんな人がいる」のが社会です。収入や資産の格差社会がいいとは言いませんが、海外に比べると日本の格差などたかがしれています。読解力にしても格差が少ないのが理想かもしれませんが、よく考えてみると日本人の識字率はほぼ100%であり、世界的にみれば最優秀のレベルです。私がタイでボランティアをしていたとき、母国語のタイ語がほとんど読めない患者さんもそれなりにいましたし、小学校にすら行かせてもらっていない子供たちも珍しくありませんでした。新井紀子氏がされている日本人の読解力を向上させる活動に私は賛同しますが、同時に「文章が読めない人もいての社会」を受け入れるべきだとも考えています。

 ロヒンギャ難民が深刻な状態にあることを毎日新聞「医療プレミア」で紹介しました(「少数民族ロヒンギャの命を奪うジフテリア」)。そのコラムでは難民を受け入れない日本を非難し、ロヒンギャからの難民は館林市にしかいないことを指摘しましたが、最近神戸にもやってくるようになりました。彼(女)らを支援している人に話を聞くと「無文字社会のロヒンギャとどうやってコミュニケーションをすればいいかが問題」とのことでした。

 結論を述べます。前回も述べたように、そもそも私が「病院勤務ではなく自分でクリニックを立ち上げなければ」と考えたのは、他の医療機関でイヤな思いをした人や、どこに相談していいか分からないと考えている人たちの力になりたかったからであり、そういう人のなかには「効率よく情報収集できない人」、つまり「スマホは見るがPCはほとんど見ない人」も少なくないでしょう。それから、これも過去に述べたように(「身体の底から湧き出てくる抑えがたい感情」)医療機関を受診できないと考えている外国人がますます増えています。彼(女)らは短期から長期の旅行者が多く、情報収集はPCでなくスマホでおこないます。

 ならばスマホサイトを持つべきなのではないか。結局、そのような考えにたどり着きました。現在、スマホサイト復活の準備を開始し、さらにもっと見やすくて誰もが気軽にメール相談しやすいような工夫を検討しているところです。

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2019年4月4日 木曜日

2019年4月 当院がスマホサイトを閉鎖した理由

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)を開院した2007年当時は、まだウェブサイトを持たないクリニックもそれなりにありました。谷口医院をオープンするとき、ある医療者から「ウェブサイトを見て受診する患者は時間のかかることが多いからつくらない方がいいよ」というアドバイスをもらったこともあります。

 それを聞いた私は「だからこそつくるんです!」と言いました。これまでいろんなところで述べているように、私が開業を早くしたかったのは、まさにそんな人たち、つまり、「他院でイヤな思いをした」「どこの医療機関を受診したらいいか分からない」「それはうちじゃないから他に行ってくれ、と言われた」「複数の症状がありいくつもの医療機関を受診するのは面倒」「日本語ができず断られた」「セクシャルマイノリティが理由で差別を受けた」「HIV陽性者は診られない、と言われた」…、といった人たちに「ちょっと待って! 病院嫌いになる前にうちに来て!」と言いたかったからです。そのメッセージを伝えるためにウェブサイトが絶対に必要だと考えたのです。

 そして、「健康のことで悩みがあるけど医療機関受診は敷居が高いし、過去に受診したときはイヤな思いをしたし……」という人が少なくないことを知っていたが故に、「無料メール相談」を開始しました。

 「未受診の人からの相談にも答えるのは大変じゃないの?」というのはよくある質問です。たしかに、毎日毎日、回答にはそれなりに時間を費やしますから負担がないわけではないのですが、それで患者さんの不安がとれたり元気になってくれたりするのであればお安い御用です。メール相談をされる人で実際に谷口医院を受診するのは全体の5%未満ですから、医療機関を経済(経営)的にみると「不効率極まりない」あるいは「費用対効果が悪すぎる」となるのでしょうが、そもそも医療機関は営利団体ではありません。相談に対する回答についても、私が長年言い続けているように「検査や薬は最小限」が基本です。

 それは2013年でした。ウェブサイトを私自身が編集しやすくするために、ある会社の申し入れによりホームページをリニューアルしました。その際に(同社の推薦もあって)スマホサイトを作成しました。同社によると、「最近はスマホで何でも済ませる人が多くて従来のPCサイトはあまり見られない」とのことでした。そのときは、そんなものかぁ、と考え、当院を知るきっかけがスマホサイトでもいいか、と思ったのですが、年を重ねるにつれて、PC派とスマホ派に「違い」があることに気が付きました。
 
 それは、一言で言えば、スマホサイトから電話をしてくる人は当院のPCサイトを読まれておらず(当然と言えば当然ですが)、「誤解」があるのです。例えば、こんな感じです。

患者さん:「アレルギー検査っていくらですか?」
当院:「検査には様々なものがあり、診察を受けられていない状態でお答えすることは難しいんです」
患者さん:「なんか、セットになった検査があるって聞いたんですけど……」
当院:「そもそも検査が必要かどうかは診察時に検討されることになりますから、この時点ではなんとも言えないんです」
患者さん:(このあたりから気分を害され)「値段だけでも教えてくれてもいいでしょ!」
当院:「と言われましても……」

 これが、当院のPCサイトを詳しく読まれている方なら「検査は必要最小限にすべき」「セット検査は精度が劣る」「検査はあくまでも参考であり問診の方が重要」と言ったことを事前に理解してくれていることが多く、診察もすごくスムースに進みます。

 ですが、私はスマホサイトを見て電話をしてきた患者さんを非難しているわけでは決してありません。むしろ気持ちはよく分かります。おそらくこの患者さんは、どこかで「検査をすれば何にアレルギーがあるかが分かる。だからそれを避けるような生活をすればいい」と聞かれたのでしょう。「原因となるものを避ける」というのは基本的な予防のコンセプトですから、このように考えられたことはまったく間違っていません。

 ですが、「どのような検査が必要になるか(あるいはまったく不要か)は診察時に検討されるべき」ということを電話で伝えることはときに非常に困難なのです。

 一方、あらかじめPCサイトを見られた人たちは、電話にしてもメールにしてもスムースに事が運びます。軽症の方もおられますが、ちょうど先に述べた私が早く開業して診たいと考えていたような患者さん、すなわち「他院で診断がつかなかった」「うちには来ないでくれ、と言われた」というような内容のものもあります。「複数の医療機関でたくさんの薬が処方されているが減らしてもらえないでしょうか」「前医で長年にわたりデパスを処方されているが減らしたい」といった、おそらく私が書いたコラムを読んで相談してくる人も少なくありません。

 スマホサイトのトップページには「詳しくはPCサイトを参照してください」と書いてあるのですが、それならば初めからスマホサイトがなければこういった問題は起こらないわけです。それに、患者数をもう少し減らしたいというのもありました。これは私を含めたスタッフがしんどいというよりも(それもありますが)、患者さんの待ち時間を減らしたいというのも理由のひとつです。「医療機関なんだから2時間くらいは待ってください」というのはこちら側の理屈であり、症状を訴えやって来た患者さんを長時間待たすのは我々も辛いのです。

 そして、2019年1月31日をもって谷口医院のスマホサイトを閉鎖しました。やはり効果はあるようで、谷口医院を受診したことがない人からのメールでの問い合わせが大きく減り、新患の人数も減りました。これまでは新患(当院を初めて受診する患者さん)がだいたい日に10人くらいいましたが、最近は少ない日は2人ということもあります。しかも、新患の大半の人は、元々谷口医院にかかっている人の家族や知り合いか、PCサイトから相談してきた人の一部です。
 
 何人かの患者さんからは「スマホサイトなくなったんですね」と言われました。そういう人たちは、スマホサイトに表示される待ち時間を見て受診するかどうかを決めているとのことでした。また、「(谷口医院に)何かあったのですか?」と心配してくれる人もいました。PCサイトにも待ち時間情報を載せていることを伝え、これまで通り(これまで以上にしっかりと)診察をおこなうことを約束し安心してもらいました。

 ただ、スマホサイトを閉鎖した弊害がないわけではありません。「日ごろの情報収集のツールはスマホのみでパソコンを見ない」という人は、谷口医院の情報に触れる機会がほとんどなくなったわけです。我々にできることは限られていますし、必ずしも満足してもらえるわけではありませんが、それでも「他で診てもらえなかった」という人たちにできることを考えていきたいと思っています。

 そういう意味で、スマホサイトを復活させるべきなのかもしれない……。実は現在も悩んでいます。

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2019年3月11日 月曜日

2019年3月 そんなに医者が憎いのか・続編

 本サイトの過去のコラム(メディカルエッセイ第164回(2016年9月)「そんなに医者が憎いのか」)で紹介した「事件」は当初の私の予想を大きく外れる展開となっています。まずは事件の経過を振り返ってみましょう。

 2016年5月、東京のある病院。胸部の手術直後の30代の女性が病室で40歳の執刀医からわいせつ行為を受けたとして、この医師が警視庁に逮捕されました。わいせつ行為の内容は、「術後病室に戻された患者に対し、二度にわたり着衣をめくり、手術していない左乳房の乳首をなめ、自慰行為に及んだ」そうです。女性患者の病室は4人部屋で他にも3人の患者がいました。

 先述のコラムで述べたように、この女性は”真実”を述べていると思われますが「術後せん妄」と呼ばれる状態にあり幻覚が生じていたことは自明であり、まさか本当に起訴されるなどとは私は微塵も思っていませんでした。しかし、実際に裁判がおこなわれたのです。

 2016年11月30日、第1回の公判で検察は「手術後で抗拒不能状態にあり、ベッドに横たわる女性患者A氏に対して、診察の一環として誤信させ、着衣をめくって左乳房を露出させた上で、その左乳首を舐めるなどのわいせつ行為をした」と述べました(参考:m3.com「乳腺外科医裁判、2月20日の判決迫る」)。

 2018年9月11日、第3回公判でA氏は「男性外科医は左胸の衣服をめくった。頭の上から変な息遣いが聞こえた。左手で衣服をめくり、右手をズボンの中に入れて出口を見ながら自慰行為をしていた」と証言しました(先述の参考記事参照)。

 検察に有利な証言をする医療者が出てくることはあり得ないと考えられていましたが、予期せぬことが起こりました。

 2018年9月27日、第7回公判で(なんと)A氏を擁護する精神科医が登場したのです!この医師は「術後せん妄でなく事実があった」と証言しました(参考:m3.com『精神科医「術後せん妄で説明する必要はない」』)。しかし、この医師はせん妄に詳しくないことが判り、2019年1月におこなわれた検察側の論告求刑ではこの医師の証言は引用されていません(これは「異例の扱い」だそうです)。

 意外なことに、A氏を擁護する医師がもう一人現れました。2018年10月30日、第10回公判で検察側・弁護側の双方が麻酔科医を証人とし、検察側の麻酔科医が「術後せん妄の可能性は低い」と述べたのです。

 2018年11月1日の第11回公判ではA氏の胸に付着したという唾液に関するDNAやアミラーゼ反応について尋問が行われました。この尋問で、科捜研(警視庁科学捜査研究所)の職員が試料を残しておらず、検査自体がかなりずさんであったことが明らかとなりました。我々医療者(というよりすべての科学者)のルールに則れば、試料が残っておらず再現性が担保できないのであれば、こんなものはもはや「科学」ではありません。司法の世界でも、このような信ぴょう性のない「捜査」に説得力はないでしょう。

 ところが、2019年1月8日の第13回公判で、検察側は「徹底した矯正教育を施すことが必要不可欠」として被告の医師に懲役3年を求刑したのです。

 そして多くの医療者が注目するなか、2019年2月20日、東京地裁の判決が言い渡されました。もちろん「無罪」です。

 しかしながら、東京地裁のまともな判断に安堵したのも束の間、2019年3月5日、東京地検は東京地裁判決を不服として控訴しました。

 もう一度、「事件」のあった状況を考えてみましょう。場所は4人部屋。一応カーテンはありますが、他に3人の患者がいて、看護師など他の医療者や入院患者の家族がいつ入ってくるか分からない状況です。そんななか、自分が手術をした患者さんの胸を舐めて自慰行為をすることができるでしょうか。

 現在の私は手術(執刀)をしていませんが、研修医の頃からクリニックを開業して1年くらいまでは皮膚の手術はおこなっていて、自分が執刀したのは約100件、研修医の頃に助手として手術に関わった症例も加えれば数百件になります。手術の後、患者さんを診に行くときはいつも緊張します。縫合が上手くいったかどうか、出血や腫脹、感染徴候がないかなどに注意しなければならないからです。そんな状況で患者さんの胸を舐めて自慰行為などできるはずがありません。

 ただし、残念なことに世の中にはわいせつ行為をする医師はいます。定期的に新聞や週刊誌に恥ずべき事件が報道されていることからもそれが分かります。入院中の女児にいたずらをした香川の小児科医、乳癌検診を受けにきた女性の裸をスマホで撮影した大阪の医師、患者や看護師のスカートの中を院内で盗撮した福島の内科医。最近では、女性に睡眠作用のある薬を飲ませて自宅に連れ込み性的暴行をはたらいた東京の二人の男性医師が逮捕されました。15歳の女子中学生にわいせつ行為をした北九州の50代医師も逮捕されました。

 ですから、私はこの乳腺外科医の事件に対して「高い人格を持つ医師がそんなことをするはずがない」と言っているわけではありません。また「悪意で虚言を吐く患者を許すな」と言いたいわけでもありません。この事件で重要なのは「術後せん妄でそういったことがあり得る」ということをまず関係者全員が認識し、そして社会に伝えることです。

 報道によるとA氏は次のような発言をしています。

 「(事件のあった)病院は私に対してセカンドレイプをした。病院が守るべきは医師ではなく、患者ではないか。(男性医師の名字)さん、あなたは性犯罪者です。今まであなたが楽しんだ分の長い長い実刑を望みます」(参照:m3.com「被害女性「医師免許剥奪、長い長い実刑を」

 私は2014年に患者として手術を受けたことがあります。そのときにメインに使われていた麻酔薬はA氏と同じプロポフォールでした。術後の記憶はあいまいで、後から聞いた話では、一応辻褄の合う会話をしていたそうですが、その会話の内容を覚えておらず、夢と現実をいったりきたりしていた感じでした。

 A氏が”嘘”を言っていないのは事実だと思います。医療者から「術後せん妄だ」と言われても、警察や検察、そして自身の弁護士らからは「事件はあった。医師を許してはいけない」と言われ続け、無罪判決が出た後も東京地検はすぐに控訴したわけですから、おそらくA氏は自分が”真実”を述べていると確信しているでしょう。ここまでくると、「もはや自分のためだけではない。”正義”のためにも戦わなくては!」とさえ感じているのではないでしょうか。

 検察が控訴しても東京高裁は無罪判決を出すでしょうし、検察が上告することはないと思います。しかし、すでに”一線”を超えてしまっています。A氏が「やっぱり術後せん妄だったんですね」と思い直す可能性はほとんどないでしょうし、先述したように医師のなかにさえ「事件はあった」と証言する者がいるのですから。

 ちなみに、私はこの事件の話をこれまで医療者以外の知人何十人かに話してみました。誰一人「事件はあったのでは?」と答えず、全員が「あるはずがない。お前(私のこと)の言う通りだ」と言います。もちろん、私の周りの医療者は一人の例外もなく全員が「冤罪であり起訴などあり得ない」と言っています。

 「常識」とはとても脆いものではありますが、それでもこの「事件」に関しては、常識的に考えて冤罪以外の何ものでもないのです。

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2019年2月14日 木曜日

2019年2月 身体の底から湧き出てくる抑えがたい感情

 医学部入学時には医師になるつもりのなかった私が、少しずつ医師への道を考え出したきっかけのひとつが病気で困っている人たちからの声を聞き始めたことでした。

 「医師になる気はない」と事あるごとに言っていても、世間はそうはみなしません。そして世間の人からは医師も医学生も変わりがないと思われるのでしょう。医学部入学当初から、知り合いの知り合いといった人たちから「病気の相談に乗ってほしい」という依頼がよく来ました。

 まだ医学を学び始めたばかりの者にそんな相談をされてもまともな答えができるはずがありません。まして私は「医師になる気はない」と言っているのです。「知り合いの知り合い」ですから会ったこともない人たちであり、無責任なことは言えませんからやんわりと断るようにしていました。ですが、知り合い(必ずしも親しいわけではない)から「話だけでも聞いてやってほしい」としつこく言われ、渋々と話を聞くという機会が何度かありました。

 彼(女)らは口をそろえて「医者はまともに話を聞いてくれない」と言います。医学部で実習が始まるのは5回生からで、このとき私はまだ臨床の現場をほとんど知りません。初めて会う人たちから医師の悪口を聞かされてもどうしていいか分かりません。そもそも他人を悪くいう話を聞くときは、できるだけ客観的な立場に立ち、相手(この場合は医療者)からも話を聞くべきです。ですが、そういったことを差し引いたとしても私には彼(女)らの気持ちが分かるような気がしました。もう少し正確に言うと「医者側にも言い分があるだろうが、受診してこのような絶望的な気持ちになってしまっている人がいることをきちんと受け止めなければならない」と感じたのです。

 仏語の勉強で挫折し、実験にセンスがないことを認めざるを得なくなり、入学時に考えていた研究の道を諦めかけていたところに、こういった話を頻繁に聞くようになり、私の心は次第に臨床へと傾いていきました(参考:マンスリーレポート2017年8月「やりたい仕事」よりも重要なこと~後編~)。自分が医師になったなら患者さんにこういう気持ちを持たせたくない、と考えるようになったのです。

 そのうち私はあることに気づきました。私に「医者はまともに話を聞いてくれない」と言うとき、本当に言いたいことは医師の傲慢さや非人間性についてではなく、「医療者から見放されればどうしていいか分からない…」という”絶望感”だということに。そして、「いかなる人にもこの”絶望感”を持たせてはいけない」と思ったのです。

 その後私は医療者や医療機関に不満をもつ多くの人と話す機会を持ちました。いわゆる「たらい回し」をされた人、セクシャルマイノリティであることを知られて差別的な言葉を言われたという人、セックスワークをしていることを思い切って医師に話すとひどいことを言われたという人、民間療法の話をすると医師にキレられたという人…。医師になってからはHIV陽性の人から話を聞く機会も増えてきました。医療者や医療機関に不満をもつ彼(女)らはたしかに軽症例も多いのですが、受診が必要、少なくとも医療者からの適切な助言が必要な人たちです。

 こういった人たちのことを考えると、身体の奥から「抑えられない感情」が湧き出てきます。この感情は奥底からジワジワと湧き出てくるもので、私の身体を支配し、ときに思考を停止させます。病気の人を放っておいてはいけないというのは正しいことですが、正しいから実践するのではなく、私にとってはこの感情が文字通り「抑えられない」が故に行動せざるを得ないのです。初めてタイのエイズ施設を訪問し、他の医療機関で門前払いをされたという患者さんの話を聞いたときには抑制できない”怒り”がこみ上げてきました。

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)には「他の医療機関で診てもらえなかった」といって何軒も渡り歩いてようやくたどり着いた、という患者さんが少なくありません。そういった症例は軽症である場合も多く、そもそも医療機関受診が客観的には不要というケースも多いのですが、そうでない場合もときにあります。

 そのような「他院で診てもらえなかった」という症例で、数年前から増加しているのが「外国人」です。

 外国人の患者さんの多くは、たとえ日本語か英語ができたとしてもそれなりに時間がかかります。また、英語は医師なら少なくとも読み書きはできますが、受付スタッフや看護師となるとコミュニケーションをとるのが困難という場合も少なくありません。これは大きな病院でも(というより、大きな病院の方が)融通が利かず、患者さんが電話しても話が通じず切られ、直接受診しても追い返され、ということがしばしばあります。

 谷口医院を受診するまでにすでに5、6軒の医療機関を受診したという外国人も珍しくありません。こういう話を聞くと身体の奥から湧き出てくる感情が抑えられなくなってくるのです。医療は平等、とかそういったきれいごとを言いたいわけではありません。理屈の上で正しいからといった正論を述べたいわけでもありません。そのような理想を語りたいのではなく、もっと根源的で個人的な「感情」に抗うことができないのです。

 海外で困った事態となったときや、突然の病気や怪我が起こったときに、現地の人たちに優しくしてもらった経験がある人は少なくないでしょう。キリスト教では聖書の「ヘブル人への手紙」のなかで「旅人をもてなすことを忘れてはならない」と書かれています(参考:「ヘブル人への手紙」)。イスラム教ではコーランの中に「旅人を助けよ」という教えがあると聞きます。仏教では私の知る限り「旅人」という言葉は見当たりませんが「利他」が基本的な教えであることは言うまでもありません(注1)。

 日本に興味がありはるばる異国の地からやってきて、そこで予期せぬ病気に罹患してしまった。こんなとき、我々日本人はその外国人を助ける義務があると言えば言い過ぎでしょうか。谷口医院のミッション・ステイトメント第3条は「年齢・性別(sex,gender)・国籍・宗教・職業などに関わらず全ての受診者に対し平等に接する」です。逆差別もしないことを原則としていますが、複数の医療機関でイヤな思いをしてきたという外国人には少々優先的に働きかけるべきではないかとさえ最近は思っています。

 ですから、メールでの問い合わせがあったとき、(内容にもよりますが)英語での外国人からの問い合わせを優先して返答するようにしています(もちろん日本人の患者さんからのメールもルール通り翌朝には返信しています)。谷口医院は総合診療のクリニックですから小児から高齢者までたいていの疾患は治療しており外国人の場合も95%は谷口医院で完結させるか、または帰国直後に母国の医療機関を受診できるように紹介状を作成します。ですが、残りの5%は日本国内での入院や専門医の治療が必要となり、このときに紹介先が見つからずに苦労することが多々あります。

 そのようないきさつから、昨年(2018年)7月に「関西の外国人医療を考える会」という任意団体を立ち上げました。先日(2019年1月27日)は第2回の集会を開いて外国人医療に関心のある医療者と意見交換をおこないました。来阪する外国人は増加し続けているのにもかかわらず英語で対応してくれる医療者や医療機関が今もとても少ないのです。

 残された医師としての時間のなかで、外国人が医療を受けるのに苦労しない社会を必ずつくる! これが現在の私が最も力をいれているミッションのひとつです。

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注1:『大乗起信論』(岩波文庫)によれば、「五門」の第一の布施門のなかに次のような記載があります。
「もし人が厄難に遭い、恐怖し、また、危険が切迫しているのを見た場合には、己れに可能な(堪任)度合に応じて、その人に無畏を与えよ」

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2019年1月12日 土曜日

2019年1月 「妊婦加算」の是非

 この通達は”異例”と言っていいでしょう。

 2018年12月28日、厚生労働省は全国の関係者に対し「妊婦加算の取扱い」というタイトルの通達をおこない、2019年1月1日より「妊婦加算を算定してはいけない」ことを決めました。

 妊婦加算は2018年4月から開始となった新しい制度です。妊婦加算の是非を考える前に、まずはこの制度をおさらいしておきましょう。

 妊娠中は非妊娠時に比べ注意点の説明などに診察に時間がかかるからという理由で(おそらく)、2018年4月1日より妊婦加算が導入されました。初診なら220~230円(3割負担の場合)、再診時には110円(同上)の別料金が必要になります。

 導入時には医療機関からは特に反対意見は上がっていませんでした。また、患者側からも特に問題視する意見は聞かれませんでした。しかしそれは当然で、患者サイドとしてはこういった情報を知る術がないからです。

 医療機関から疑問の声が出なかったのはそれなりの理由があるからです。その理由とは「妊娠している患者さんの診察には時間がかかるから」です。もちろん、症例によってまちまちですが、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の例でいえば、妊娠に無関係の女性に比べて、妊娠時には2~3倍くらいの時間がかかることもあります。

 まず体調の変化やもともとの持病が悪化していないかといったことを聞かねばなりませんし、処方する薬が妊娠に影響するかどうか、するとすればどの程度かといったことを理解してもらわねばなりません。さらに、たいていは妊娠中の注意点についての質問を受けます。感染症対策を聞かれることもしばしばあり、特にインフルエンザワクチンの有用性、危険性については毎年何人もの妊娠している女性から質問を受けます。

 ここ数年間、妊娠中にかかってはいけない感染症として風疹がよく取り上げられ、たしかに妊娠前には風疹の説明をすることが多いのですが(ただし風疹だけが重要なのではない)、むしろ妊娠してからは、リンゴ病(伝染性紅斑)、サイトメガロウイルス感染症、トキソプラズマ感染症などについて尋ねられることが多いといえます。トキソプラズマについては「ネコに気を付ける」ことは把握されている場合が多いのですが、肉のタタキなどについてきちんと理解していない人が珍しくありません(参照:はやりの病気第174回(2018年2月)「トキソプラズマ・前編~猫と妊娠とエイズ~」)。

 妊娠中に初めて出現する疾患や症状もあります。蛋白尿や高血圧は産科での定期健診でもチェックされていますが(それでも谷口医院で診療することも多い)、皮疹(湿疹が多い)や便秘などは産科でなく、たいていはこれまでと同様谷口医院で相談されることになります。

 妊娠以外のことで受診されたときに「妊娠しているかもしれません」と言われることもあります。この場合、最終月経や性行為について質問し必要あれば妊娠反応を確認することになります。なぜなら、もしも妊娠していた場合には使えない薬が多数あるからです。そして、妊娠していた場合、診察にはそれなりに時間がかかります。特に、「3日前に風邪薬を飲んでしまった…」といった場合にはかなり時間をとって説明しなければなりません。

 また、患者さんは気づいていなくても妊娠していることがあります。便秘や腹部膨満感の原因が妊娠であった、ということがあり、その場合は妊娠していることを理解してもらい、これからどうするのか(こういう場合「望まない妊娠」であることが多い)について相当長い時間をとって話し合わねばなりません。

 このように妊娠している女性の診察には、場合によってはかなり時間がかかるのは事実です。ですから妊婦加算はそれなりに合理的なものではあります。

 一方、妊婦加算が「合理的でない」理由もあります。

 まず、妊娠している女性に時間がかかるのは上に述べた通りですが、実は「”妊娠前”の女性」の方がむしろ時間がかかることが多いのも事実です。

 「妊娠前の女性で時間がかかる場合」を3つにわけてみましょう。

 1つめは「(避妊をやめて)妊娠を検討している」です。この場合、先述したように、感染症の説明は必須です。ワクチンの説明と接種(風疹以外にも重要なものがいくつかあります)にはそれなりに時間がかかりますが、ワクチンで防げない感染症の説明にはもっと時間をとられます。食事にはどのような注意が必要か、サプリメント(特に葉酸と鉄)はどうすればいいのか、といったことも説明が必要になります。

 2つめは「妊娠を希望しているがなかなかできない」です。なかには40代半ばで相談されることもあります。こういうケースは「不妊治療を実施している医療機関を受診してください」が結論になるわけですが、「不妊治療にはどんなものがあるか」から始まり「危険性は?」「費用は?」「成功する確率は?」「補助制度は?」など、聞かれることも多く、「お勧めのクリニックを紹介してください」と言われることもあります。

 3つめは「望まない妊娠をしてしまったかもしれない」で、これもそれなりに時間がかかります。月経周期から考えてまず妊娠はまずないだろうと思われる場合も、「100%間違いないですか」と問われると、返答に迷うこともあります。「では産婦人科を紹介しましょうか」と言うと躊躇しだす女性も多く、たいていは「いつも診てもらっている医師に大丈夫と言ってもらいたい」というのがホンネのことがあります。

 もちろん、状況によってはすぐに緊急避妊が必要なことがあり、この場合は一刻も早い方がいいわけですから谷口医院で対応します。もっとも、緊急避妊が必要になるときは保険適用にならず診察代も自費になり、妊婦加算とは関係のない話ですが。

 緊急避妊を実施するにしてもしないにしても、薬を処方して終わり、というわけにはいきません。谷口医院の経験上、緊急避妊で受診する人は初回でない、つまり何度も繰り返していることが多いのです。この場合、(嫌がられず説得力のある方法を模索しながら)「同じことを避けるにはどうすればいいか」、という話をせねばなりませんが、それ以前に「緊急避妊に頼ってはいけない」ことから始めなければなりません。「キケンかもしれないことがあってもアフターピルがあれば安心!」と考えている女性が多いことに驚かされます。

 なかにはレイプの被害ということもあります。この場合「セカンドレイプ」にならないようにひとつひとつの言葉を慎重に選ばなければなりません。

 話を戻しましょう。妊婦の診察に時間がかかるのは事実であり「妊婦加算」にはある程度の合理性はあると思います。ですが、ときに”妊娠前”の方がはるかに時間のかかる場合もあります。もっと言えば、不定愁訴や精神疾患にもそれなりに時間がかかりますし、がんの告知をするときも短時間で終わらせるわけにはいきません。

 ならば「不定愁訴加算」「がん告知加算」なども設けるべきでは?という考えもでてきます。また、加算を算定するクリニックとしないクリニックがあれば患者さんは混乱するでしょうし不公平になります。これらを考えると、すべての医療機関で「~加算」をすべて廃止し「どんなことを相談しても診察代は同じ」がいいのではないか、というのが私の考えです。

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2018年12月17日 月曜日

2018年12月 人生は自分で切り拓くものではなかった!?

 特に「50歳の誕生日」というものを気にしていたわけではないと思うのですが、去る10月に50歳になってから強く意識しだした「考え」があります。それは「自分の人生は自分で切り拓くものではない」というものです。

 実は、初めてこういう考えが頭の中に出てきたのは30代半ばの頃です。ですが、その頃はあまり深く考えずに過ごしていました。しかしこの思いは次第に強くなり、数年前からは「人は自分の力、とりわけ努力することにより厳しい社会に立ち向かっていかなければならない」という考えは間違いとは言えないにしても、正確ではないのでは、と思うようになってきていました。

 以前の私は、とにかく「社会は厳しくて誰に対しても冷たい。他人に頼ってはいけない。ひたすら努力して強く生きていかなければならない」というような考えをもっていました。これはもう物心がついてからと言っても過言ではなく、できないことがあればそれは努力が足りないからだ、と自分に言い聞かせてきました。そしてそう信じることで自分を奮い立たせることができていたのも、それなりに努力ができていたのも事実です。

 私のこれまでの文章や拙書を読まれた方はご存知だと思いますが、高校時代には行ける大学はないと言われたものの、どうしても行きたかった関西学院大学理学部に2カ月間だけですが猛勉強で合格しました。しかし入学後、これが自分の進む道ではないと気付き、「前例がないから無理だ」と言われながらも社会学部に編入しました。就職するときには「大企業の名刺を持ちたくない、自分の力で勝負できるところに行くんだ」と言って中小企業に就職し、ある程度好きなことをさせてもらいました。医学部受験は誰ひとり賛成してくれず孤立無援で挑みました。当初志望していた研究者への道は断念しましたが、臨床医としての道を見つけ、タイ渡航時にHIVの現実を知りNPO法人を立ち上げ、さらに総合診療のクリニックが日本にも必要と考え太融寺町谷口医院をつくりました。

 このように私はこれまでの人生で「やりたいこと」が見つかれば、他人の忠告には耳を貸さず、ひたすら努力し自分の力と「運」を味方に自分の道を進んできました。

 では、私はこれからも自分で決めた道を進み続けるのか、と考えたときに、それはどうも違うのではないかという感覚がいつの頃からか芽生え、それが次第に大きくなってきているのです。

 まず私の人生はこれまで何度も「運」に助けられてきています。努力が実ったというよりは、幸運に支えられてきたおかげで今の自分があります。ほとんどの場面で他人の忠告に耳を貸さなかったのは事実ですが、私に社会学のおもしろさを教えてくれたのも、「大企業で歯車になるな、己の身体で勝負せよ」という人生のルールを示してくれたのも私の先輩ですし(そういった先輩たちには今もお世話になっています)、医学部に入ってから、あるいは医師になってから素晴らしい先輩医師の指導を受けることができたからこそ現在患者さんに貢献できているわけです。私が幸運なのは論を待ちません。

 ならば、私はこれからもこの「幸運」に期待していいのでしょうか。いいかもしれませんが、私がすべきことはこれまで通り自身のミッション・ステイトメントに従い(参考:マンスリーレポート2016年1月「苦悩の人生とミッション・ステイトメント」)、やるべきことをやるだけです。そして、重要なのは幸運に感謝すること、そしてもうひとつ。「〇〇」に恥ずかしくないよう生きることだと思っています。

 「〇〇」とは何なのか。これが自分でもよく分からないのですが、宗教を持っている人なら「神」と呼ぶものかもしれません。最近になってよく思うのは、私はもしかすると「生きている」のではなく「〇〇」により「生かされている」のではないか、ということなのです。

 つまり私が自分の努力で自分の道を切り拓いてきたと思っていたのは自分の「実力」ではなく、「〇〇」に支えられてのことだったのではないか、その「〇〇」が私に「運」を運んでくれているのではないかと思わずにはいられないのです。さらに、私の行動や思考すべてが「〇〇」に監視されているのではないかとも思えます。監視という言葉は通常は否定的な意味で使われますが、私にとって「〇〇」による監視は不快なものではなく、むしろ「〇〇」に見られているから頑張らなくては、と思える、いわば私を応援してくれている存在なのです。

 なんだか宗教的な話になってしまいましたが、私は特定の宗教を持っていません。ですが、今改めて思えば、こういう考えをもつきっかけになったのはタイのエイズ施設「パバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)」を訪問しだしてからです。ただ、寺そのものや仏教と私の考えにつながりがあるわけではありません。おそらく、私がこの施設で死が直前に迫った若い人達と濃厚な日々を過ごしたことが原因です。

 親に売り飛ばされ春を鬻ぎHIVに感染し死を直前にした若い女性。ストリートチルドレンとしてしか生きる術がなくそのうちに違法薬物に手を出してエイズを発症した若い男性。母子感染したHIV陽性の子供たち。こういった人たちの存在を想像したとき、多くの人が感じるのはおそらく「かわいそう。気の毒」ということだと思います。私も最初はそうでした。実際にそういった人たちと会うまでは。

 ところが、実際に患者さんと会って治療をおこなうようになると「かわいそう」などという気持ちを持っていては何もできません。というより、そのような気持ちを持つこと自体が失礼になります。患者さんを「かわいそう」などと上からの視線でみてはいけないのです。患者さんの年齢にかかわらず、たとえ子供であっても一人の人間として尊厳を尊重すべきであり、先進国から来た医師が偉いわけでも何でもないのです。

 これは当たり前のことなのですが、この当たり前のことをきちんと理解できたとき、それまでの私はこんなに重要なことをなおざりにしていたんだ、と反省せねばなりませんでした。よく考えると日本で診るすべての患者さんに対しても、その人がどれだけ不幸な生い立ちであったとしても、不治の病に罹患していたとしても、「かわいそうだ。気の毒だ」などと思ってはいけないのです。一人の患者さんを前にしたとき、こういった感情を持つことは診察に悪影響を与えるだけではなく、大変失礼なことなのです。

 こう考えると、私がこれまで努力して自分の道を切り開いてきたという考えも正確ではなく、私自身がそういう「役割」を与えられているのではないか、と思えてきます。私のことを昔からよく知る友人や知人からは「医学部受験もGINAもクリニックもよくやったな」と言われますが、私は担った役割を単に実演しているだけではないのか、と考えるようになってきたのです。つまり、私が「不治の病を負った患者」ではなく「患者を治療する医師」なのは、私の努力によるものではなく、そういう役割を与えられているからではないかと思えてくるのです。

 若い頃と比べると、何をするときも、それは大きな決断だけでなく日常生活の些細なことも含めて、選択に悩むことがかなり少なくなりました。その理由として、まず私は自分のミッション・ステイトメントを持っていることが挙げられます。しかし、そのミッション・ステイトメントに忠実に生きるように「〇〇」が私を監視しているようにも思えるのです。

 「〇〇」とは神のような仰々しいものではなく、単に私の中にある「良心」と呼ぶべきものかもしれませんし、もっと世俗的な単なる「大人の分別」に過ぎないのかもしれません。しかしその一方で、例えば私がお世話になった故人の「霊」かもしれないし、宇宙を支配する「原理」であるような気もします。

 いずれにせよ、これからの私の人生は「〇〇」を裏切らないように、与えられた役割を実演していくのみです。

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2018年11月15日 木曜日

2018年11月 サプリメントや健康食品はなぜ跋扈するのか

 健診での肝機能障害や腎機能障害の原因がサプリメントだった…、最近、動悸や嘔気などが気になると思っていたらその原因が健康食品だった…、息切れの原因が通販で購入した漢方薬だった…、などといったことはまったく珍しいことではなく、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんのなかにもこういった被害に合う人がいます。

 サプリメントや健康食品というのは、あらためて言うまでもなく効果のエビデンス(科学的確証)に乏しいものであり、一方で副作用の被害はそれなりに多いものですから、きちんと考えれば手を出すべきではありません。私は医学生の頃から、なんでこんなものに大金を払うのだろう、と患者さんから話を聞く度に疑問に思っていました。

 たいていの患者さんは、(医療者でない)知人から聞いた、テレビのパーソナリティが言っていた、ネットに書いてあった、などと言います。「エビデンスはあるのですか」などと意地の悪い聞き方はしませんが、有効性はどれくらいあるかご存知ですか?と尋ねてもきちんと答えた人はいまだに一人もいません。興味深いことに、知的レベルの高い、というか理系の大学を卒業しているような人でさえ、きちんとした理論を持たずに服用しているのです。

 なかには、薬が売れなくなると医療者や製薬会社が困るから医者はサプリメントを勧めない、などという「陰謀論」のようなことを言い出す人もいて驚かされます。今回は、「なぜサプリメントや健康食品に手を出すべきではないのか」についてまとめてみたいと思います。

 まず、第一にサプリメントは危険すぎます。実際のデータもそれを裏付けています。東京都福祉保健局が公表している平成26年度「都民の健康と医療に関する実態と意識」(第2部第2章103ページ)によれば、健康食品を使用して体の不調を感じたことがある人は全体の4.2%にもなります。ここで注目したいのはこの4.2%は自覚症状に限ってということです。自覚症状がないまま生じている肝機能障害や腎機能障害は含まれていません。ですが、自覚症状の4.2%だけでも驚くべき数字ではないでしょうか。処方薬でも、もちろん例外は多数ありますが、4.2%もの自覚できる副作用が生じる薬というのはそう多くありません。

 谷口医院で実際に生じた例を紹介しましょう。興味深いことに、サプリメントの被害には男女の特徴があります。これはおそらく谷口医院の患者層が比較的若いからだと思います。

 男性の場合、圧倒的に多いのがプロテインによる腎機能障害です。プロテインを摂取している理由は筋肉増強のためで、多くの人が、実際に筋肉量が増えることを実感しています。害がなければ摂取してもかまわないのですが、けっこうな割合で腎機能が悪化している人がいます。この場合自覚症状はまったくなく、職場の健診や谷口医院での採血で発覚します。

 腎機能障害がまだ起こっていなくても血中タンパク質の濃度が異常高値を示していることがあります。これは筋肉を増やす目的でプロテインを摂取しているものの、肝心のトレーニングが不充分でせっかく摂ったプロテインが筋肉に変わることなく血中に漂っていることを示しています。

 筋トレをしている人の場合、クレアチンを摂取していることがしばしばあり、これも危険です。高いエビデンスはないもののプロテインと同様、クレアチンも筋肉量を増やすには有効だと言われています。しかし、腎臓に負担がかかるようで腎機能が悪化する人がいます。しかもクレアチンの場合、プロテインよりも一気に悪化することがあります(これを科学的に検証した論文を探してみたのですが見つかりませんでした)。

 一方、女性で多いのがダイエット用のサプリメントで、たいていは海外製のものです。以前タイ製の「ホスピタルダイエット」「MDクリニックダイエット」などが危険であることをこのサイトで指摘しました。これらには、日本未承認のやせ薬シブトラミンや甲状腺ホルモンが含まれていましたから、動悸や嘔気が生じるのは当然です。最近はこれらの製品名は効かなくなりましたが、海外製のダイエット効果があるとされているサプリメントには似たような成分が入っている可能性が高いと言えるでしょう。

 ビタミン剤なら大丈夫と思っている人がいますが、これも大きな誤解です。水溶性のビタミンはOKと言う人もいますがそうではありません(参照:医療ニュース2014年3月31日「ビタミンCやEの摂りすぎで膝を悪くする」。ビタミンでここ数年よく聞かれるのが「ビタミンDのサプリメントは積極的に摂らなければならないって聞いたんですが…」というものです。興味深いことに、この質問はなぜか高学歴の人から多く寄せられます。また、「冬は紫外線の量が少ないから冬だけ摂るべきですよね」と言われることもあります。結論を言えば通常の食事をしていれば必要ありません(注)。紫外線を100%カットしていてもバランスのとれた食生活をしている限りサプリメントは不要、というより危険性の方が大きいと考えるべきです。ただし、ビーガンと呼ばれる極端な菜食主義の人はこの限りではなく、ときにサプリメントの摂取を例外的に勧めることがあります。
 
 ミネラルはビタミンよりも遥かに難しいと考えねばなりません。セレンやクロムなどの微量元素は通常の食生活から摂れない、と主張する人がいますが、たいていの日本人はこれらを調べても不足していません。にもかかわらずサプリメントとして摂取すれば過剰摂取につながるおそれがあります。男性の場合、特に注意が必要なのが「鉄」です。マルチミネラルには鉄が含まれているものが多くありますが、通常の食事をしている限り日本人の男性で鉄が不足することはまずありません。そして、鉄を過剰に摂取すると余った鉄が肝臓に沈着する可能性があります。女性の場合も、閉経後に鉄が含まれたサプリメントを摂るのはやめた方がいいでしょう。一方、閉経前の女性であれば、むしろ積極的に鉄のサプリメント(ただしマルチミネラルではなく鉄単独のもの)を推奨することがあります。医薬品の鉄剤は嘔気の副作用が起こりやすくサプリメントの方が使いやすい場合もあるのです。

 ただし、サプリメントには有効成分のばらつきが多いことが指摘されています。この問題を回避するためには「GMP認定」された製品を選択するという方法があり(参照:日本健康食品規格協会(JIHFS)のウェブサイト)このマークが入っている製品を購入するのがいいでしょう。ですが、我々医療者はこの時点で疑問です。なぜなら「製品にばらつきがないのは当たり前じゃないの??」と感じるからです。当然のことですが、医薬品ならばらつきがある時点で承認されませんし、発売後にばらつきが発覚すれば直ちに販売中止になります。

 ところで、なぜ昔は有用とされていたビタミンやミネラルのサプリメントが無効なのでしょう。ビタミンやミネラルが身体に必要なのは間違いありません。またバランスよく食事を摂取しなければこれらの要素が不足する恐れがあることも事実です。ですが、だからといって野菜や果物などからこれらの栄養素を取り出してカプセルに詰め込んで摂取しても効果がないどころか、有害になる場合もあるのです。有名なのは、βカロテン(カロチン)摂取で肺がんのリスク上昇(参考:医療ニュース2014年1月28日「やはりビタミン・ミネラルのサプリメントは利益なく有害」)やビタミンEの前立腺がんリスク(参考:医療ニュース2011年11月14日(月)「ビタミンEの発ガンリスク」)ですが、他にも多数あります。ビタミンやミネラルは食事から摂取して初めて有効だと考えるべきなのです。

 ビタミンやミネラルのサプリメントに効果がないことはいくつものデータが示しています。詳しく知りたい方は国立研究開発法人「医薬基盤・健康・栄養研究所」の「「健康食品」の安全性・有効性情報」を参照するのがいいでしょう。少し専門的で難しい部分もありますが、副作用が出てからでは手遅れとなる可能性もありますからまずは知識の習得に努めるべきです。

 もうひとつ、健康食品やサプリメントに手を出すべきでない理由を述べておきます。それは、医薬品との、あるいは他のサプリメントとの相互作用が未知だということです。薬と薬の相互作用(飲み合わせ)は患者さんが思っているよりも遥かに複雑ですが、ある程度のデータがありますから科学的な観点から検討することができます。一方、多くのサプリメントや健康食品にはそれらを検証したデータがなく未知の部分が多すぎるのです。サプリメントなどを複数(なかには10種以上も!)飲んでいる人がたまにいますが、相互作用について考えているとは到底思えません。

 サプリメントや健康食品に有益性が”仮に”あったとしても、危険性を考慮するととても手を出せるものではありません。私なら、そのようなものを買うお金があるなら、新鮮な野菜や果物を中心とした食事に使います。

注:ただし、その後ビタミンDの基準摂取量が変更されたことにより多くに日本人が「ビタミンD不足」に陥りました。2005年では成人が1日に必要な基準量が5ug/日でしたが、2010年に5.5ug/日に変更され、さらに2020年には一気に8.5ug/日にまで引き上げられたのです。公益財団法人長寿科学振興財団によると、ビタミンDが不足している日本人は過半数を超えます。ちなみに、この変更を機に谷口医院内でスタッフの採血をしてみるとほぼ全員が基準値を下回っていました。以前は「ビタミンDは食事(と日光)からの摂取で充分」とされていましたが、現在は「多くの日本人はサプリメントからの摂取が必要」と考えなければなりません。

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2018年10月13日 土曜日

2018年10月 やっぱりおかしい「新潮45」の休刊

 日ごろから、LGBT(個人的にはこの「LGBT」という表現に違和感を覚えていますが、すでに人口に膾炙してしまっているのでここでもLGBTで通します)を”擁護”するようなことをいろんなところで言っている私は、世間から「リベラル」とみられているようです。

 実際には、例えば診察の現場では「LGBTへの(差別でなく)『逆差別』をしない」ことを心がけていますし、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)にはLGBTの人たちからのクレーム(注1)もまあまあありますから、特に偏った行動をとっているわけではないのですが、それでも、当事者の人たちから「これまでどれだけひどいことを医療者から言われてきたか……」といった話をされると、ついつい感情移入をしそうになることがあるのも事実です。そもそも逆差別をしないことを心がけている時点で、どこかで自分がLGBTの人たちの力になりたい、と考えてしまっているのかもしれません。

 そんな私が「新潮45」8月号の杉田水脈氏の記事を読んだときどう思ったかというと、「これはバッシングされるだろう」とは感じましたが、腸(はらわた)が煮えくり返るほどの怒りは感じませんでした。杉田氏のような意見は私にとっては不快ではありましたがこのようなことを表現できる「場」はあってもいいと思ったからです。議論になった「生産性」という言葉も、杉田氏は「生殖性」の意味で使っているのであり、言葉尻を捕らえて、「『生殖性』という言葉を知らないのか」、という意見もあったようですが、これは誰かがどこかで反論していたように、社会学や経済学では医療者の用いる「生殖性」を「生産性」と表現することがあります。そもそも、米国ではLGBTの方がストレートの人たちよりも年収が高いことを示したデータもありますし(注2)、アップル社のCEO(最高経営責任者)のティム・クック氏がゲイをカムアウトしていることからも、杉田氏が「(経済指標としての)生産性がLGBTにはない」と言っていないのは自明です。

 では、日ごろからLGBTに肩入れしたくなる私が「新潮45」10月号の「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を読んでどう思ったかというと、確かに小川氏の「痴漢とLGBTを同列で論じた主張」は、瞬間的に反論したくなりましたが、最後まで読めないというものではありませんでした。「そういう意見を堂々と主張する人もいるんだ…」と(決して馬鹿にした意味ではなく)思い、これを掲載した「新潮45」の勇気はすごいことかもしれない、と感じました。

 痴漢と性志向を同列で論じてはいけませんが、痴漢もしたくてしているわけではなく、例えば買い物依存やギャンブル依存と同じような心理メカニズムが働いているという考えもあります。また、性志向も、自ら選択したわけではなく、生まれたときから決定づけられている場合もよくあります。ストレートの人たちも「性志向が異性」ということを自らの意思で”選択”したわけではなく、気づいたら異性を求めたくなった、というのが事実でしょう。そういう意味で、(依存症としての)痴漢も性志向も「理性や教育で変わる(治る)ものではない」という共通点があります。

 10月号を読んだときの私の率直な感想は、「これは興味深い展開になってきた。次はLGBTの当事者と杉田氏、小川氏を交えた討論会が見たい!!」でした。ところが、世間からのバッシングを受けて取った編集長の決断が「休刊」だとは…。私は大きなショックを受けました。また、知識人のコメントも残念なものが多数ありました。新潮社に原稿を書かないと断言した作家もいるようですが、ここでは林真理子氏を取り上げます。

 私は「週刊文春」の林氏のコラムを楽しみにしています。たいていは、氏のユニークな視点に「なるほど…」と感銘を受けるのですが(最近は「金持ち自慢・セレブ自慢」のようなちょっとイヤミなときもありますが…)、今回(2018年10月11日号)は非常に残念というか、あの林真理子さんがこんなこと言うの?!、と驚きました。「当初は品のいいオピニオン雑誌であった「新潮45」であるが、…」と酷評しているのです。「当初は品のいい」は、裏返せば「現在は品がよくない」と言っているわけです。まだあります。一部を抜粋してみましょう。

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しかも、「新潮45」は、いつからこんなB級の執筆者ばかりになたのかとがっかりである。あの特集で知っていたのは八幡和郎さんぐらい。(中略)あの特集は、慣れないことをして急いで寄せ集めの仕事をしたという感がある。
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 いくら林真理子氏だからといって「こんなB級の執筆者」という表現は許されるのでしょうか。表現の自由はありますが、林氏クラスになればもっと粋な表現をすべきではないでしょうか。それに「(八幡和郎さん以外は)知らない」と断言されていることにも驚きました。この特集は藤岡信勝氏も寄稿されています。林氏は本当に藤岡氏の名前を知らないのでしょうか。右寄りの思想に縁がない私でさえ氏が「新しい歴史教科書をつくる会」の理事であることは知っています。また、やはりこの特集でコラムを書いたKAZUYA氏についても林氏は知らないのでしょうか。KAZUYA氏はいまや週刊新潮に連載をもつ著名なユーチューバーです。もしもこういった人たちのことを知らなかったとしても、日ごろ接している編集の人に聞けばどのような人達なのかをすぐに教えてもらえるはずです。本当に知らなかったとしても「知らない」と堂々と宣言することに私は違和感を覚えます。

 ちなみに「新潮45」のこの特集(「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」)に寄稿された文章で私が最も興味深く読んだのは、「かずと」というLGBT当事者の人が書いた「騒動の火付け役『尾辻かな子』の欺瞞」です。この人のことは失礼ながら私も知らなかったのですが、当事者であることもあり、他の執筆者より群を抜いて説得力がありました。林氏にとっては「知らないで当然のB級の執筆者」なのでしょうが、それほど有名でない人の文章を掲載することの何が問題なのでしょう。

 改めて言うべきことでもありませんが「新潮45」は右寄りの思想を持った人だけが読む雑誌ではありません。確かに特集記事が右寄りのことが多いのは事実ですが、全体ではとても興味深く優れた文章がいくつも掲載されています。例を挙げるときりがありませんが、ここ数年では、石井光太氏、水谷竹秀氏の取材記事は私にとって抜群に面白かったですし、医師の里見清一氏の連載コラム、被差別部落出身をカムアウトした上原善広氏がその被差別部落のことを書いた小説など読み応えのあるものが多数ありました。

 休刊になるということは現在連載中のコラムも読めなくなってしまいます。古市憲寿氏の「ニッポン全史」は面白くて何度も読み返してしまいますし、伝説の麻薬Gメンこと瀬戸晴海氏の「マトリ」は毎回ハラハラしながら没頭してしまいます。適菜収氏、福田和也氏の連載も私にとっては月に一度の楽しみです。それにこれからますます面白くなるだろうと思われた鹿島茂氏の「日本史・家族人類学的ニホン考」は10月号が新連載だったのです。今月(11月号)からこれらが一切読めなくなるわけで、この点について新潮社はどのように考えているのでしょう。

 今回の件でコメントを出した知識人のなかで私が最も共感できたのは中村うさぎ氏です。中村氏は自身の夫がゲイですから、ある意味では当事者と言えなくもありません(参考:マンスリーレポート2014年5月号「「真実の愛」が生まれるとき」)。氏は自身のメルマガで次のように述べています。

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たしかにあの原稿は批判を浴びて当然だと思ったが、そういう意見の持ち主もこの世に確実に存在するのだということを世間に知らしめ、議論を喚起するのも、ジャーナリズムのひとつの使命ではないかと私は思う。こういう言論を片っ端から封じていったら、この世にLGBTに偏見を持つ人はいないのだ、という錯覚を生んでしまい、それはLGBT当事者のためにもならん、という気がする。(中略)しかるに、今回のように掲載誌まで休刊に追い込むのは、「差別をなくす」という観点から見るとまったく逆効果な気がするのである。(中略)(「新潮45は」)物議をかもすのを承知で掲載したのなら、謝罪や休刊なんて処置ではなく、そのスタンスを堂々と表明すべきではなかったか。それがジャーナリズムの誇りというものではないのか。

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 中村うさぎ氏のこの見解に私は全面的に同意します。ポリティカルコネクトネスがはびこり表現の自由が追いやられれば、みんなが無難なことしか言わなくなり、その結果、誰も非難されなくなるかもしれませんが、とても息苦しい社会となり、真の意味で差別は解決しません。LGBTの問題は無知が大きくしていることがよくあります。立場の異なる者がきちんと顔を見合わせ話をし、互いを理解するよう努めれば解決することもあるのです。

 「新潮45」の復活を望みます。復活後第一弾記念企画として「杉田議員を囲むLGBT座談会」はどうでしょう。

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注1:例えば、「自分はゲイだから順番を飛ばされた」(決してそんなことはなく待ち時間も事前に知らせているのに…)と受付に怒りにきたり、「看護師に好奇の目で見られた」というメールを送ってきたり(決してそんなことはないのですが…)、電話予約をしてきた人に「ご本人ですよね」と言うと「トランスジェンダーの何が悪い!」と怒り出したり(そういう意味で言ってるわけではないのですが…)、といったクレームが当院では1~2年に一度あります。

注2:例えば下記の記事を参照ください。

Gay Couples More Educated, Higher-Income Than Heterosexual Couples

Here are some of the demographic and economic characteristics of America’s gay couples

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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