マンスリーレポート

2014年11月10日 月曜日

2014年11月号 「総合」なるものの魅力(前編)

  「専門は何ですか」というのはプロフェッショナルの領域ではよくある質問であり、医師の世界でも同様です。医師にこの質問をすると、例えば「脳外科です」とか「循環器内科です」という答えが返ってきます。もう少し踏み込んで聞いた場合は「てんかんの外科を専門としています」「心臓のカテーテルアブレーション専門です」といった回答になります。

 では私の場合はどうかというと、医療者から聞かれたときは「大阪市立大学の総合診療部に所属していて、日本プライマリ・ケア連合学会の認定医と指導医をもっています」となります。もう少し具体的なことを聞かれた場合は、「日頃は大阪の都心部にあるプライマリ・ケアのクリニックで働いており、働く若い世代を中心に診ています」となります。

  一般の人や患者さんから聞かれた場合は、最近は随分「プライマリ・ケア」という言葉が浸透してきましたが、まだまだ周知度は低いために「総合診療をおこなっています」と答えています。「総合診療」という言葉もまだ充分に認知されているとは言えないかもしれませんが「プライマリ・ケア」という言葉に比べると、まだなんとなく理解してもらいやすいかな、という気がします。

 私が「総合診療」を医師としての専門にしたいと本格的に思ったのは、医師になりたての研修医1年目の夏休みでした。大学病院から1週間の夏休みをもらった私は、かねてから訪れたかったタイのロッブリー県にある世界最大のエイズ・ホスピスであるパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)を訪問しました。わずか1週間という短い期間でしたから、ボランティアをするつもりで訪れたものの、患者さんの役に立つことはほとんどできませんでした。

 何もできなくて患者さんや施設のスタッフには迷惑をかけただけでしたが、私にとっては、人生の中でこれほど重要な1週間もなかったといっても過言ではないと思います。まずエイズという病の凄絶さを目の当たりにしました。当時のタイではまだ抗HIV薬がなくその施設では毎日数人が死亡していました。当時のタイではHIV陽性者は生きる場所がなく、職を失い、道を歩けば石を投げられ、バスに乗ろうとすると引きずり下ろされ、病院では診察を拒否され、家を追い出され、行く場がなかったのです。それでも前を向いて生きていこうとしている患者さんがその施設にいて私は胸を打たれました・・・。この話をしだすと止まらなくなりますので話を元に戻します。

 その施設に訪問して私はエイズという病に本格的に取り組みたいと思ったわけですが、もうひとつ、私の人生に大きなインパクトを与えた出来事がありました。それは、当時その施設でボランティアとして活躍していたベルギー人の男性医師です。この医師はエイズ専門医ではありません。いわゆるGPと呼ばれる医師だったのです。

 GPとはgeneral practitionerまたはgeneral physicianの略で、日本語にすると「一般医」または「総合診療医」となります。ベルギーを含むヨーロッパ諸国の多くは、日本のようにどこの医療機関でも受診できるわけではなく、まずGPを受診します。そして必要あればGPの紹介状を持って「脳外科」「循環器内科」などの専門医や大きな病院を受診するシステムになっています。

 GPのそのベルギー人医師はエイズ専門医ではなく抗HIV薬を処方しているわけではありません。GP(総合診療医)として、HIVに伴う諸症状、というよりはHIVが原因かどうかに関係なく、患者さんの悩みをすべて聞いていました。間違っても(日本の医師がよく言う)「それは自分の専門外だから分からない」とは言わないのです。

  もちろんこの医師にできないこともありますが(というより、充分な薬剤や検査装置のないこのホスピスでできることは限られていました)、少なくとも「なぜそのような症状が出現していて、どのような経過をたどることが予想されるか、その症状を取り除くのに今できることにはどのようなものがあるか、そしてどの程度その症状が改善することが見込めるか」といった説明をするのです。「できることは限られているが、それでもあなたにできる最大限の医療をします」というメッセージがそばで診ている私にもビシビシと伝わってくるのです。

 ここで言葉を整理したいと思います。欧米諸国では「GP」という言葉が一般的ですが、医療者でない日本人にGPという言葉はほとんど普及していません。そもそも日本では少し前まで医学部を卒業すれば、整形外科とか産婦人科といった何らかの臓器を専門とする医局に入るのが普通であり、欧米諸国のようにGPという制度が存在しませんでした。

 しかし日本でも、今から10年くらい前から、臓器だけをみるのではなくすべてを診ることのできる医師が必要だという声が大きくなり、「プライマリ・ケア」「総合診療医」「家庭医」などという言葉が注目されるようになりました。学会としては日本プライマリ・ケア学会、日本総合診療医学会、日本家庭医療学会があり、これらは独自で活動していたのですが、目指すところは共通している部分も多く、紆余曲折があったものの、2010年に「日本プライマリ・ケア連合学会」として統一されました。

 したがって、現在の日本では医療者の間では「プライマリ・ケア」という言葉が最も浸透していると思われます。GPという言葉は日本では医療者の間でもあまり使用しません。一般の人たちの間ではプライマリ・ケアという言葉はまだそれほど浸透していないでしょうから、私自身が、専門は?と聞かれれば、プライマリ・ケアというよりも「総合診療」という言葉を用いるようにしているのです。(GP、プライマリ・ケア医、家庭医、総合診療医と多くの言葉を使うとややこしくなりますので、ここからは「総合診療医」で統一します)

 話を戻します。研修医時代に夏休みを利用してタイのエイズ施設を訪問し、そこで私はベルギー人の医師から総合診療の魅力を感じとりました。帰国後、残りの研修医の期間は、将来総合診療が担えるようにできるだけ多くの科でトレーニングを積み、毎日のように救急外来を手伝わせてもらい、可能であれば手術見学もさせてもらっていました。

 研修期間が終了しても私の実力などまだまだです。しかし、2年前に訪れたタイのエイズ・ホスピスにもう一度訪れたいと考えた私は再びタイに渡航しました。元々の予定では最低でも半年はボランティアを行う予定でしたが、諸事情から急きょ帰国しなければならなくなり、いったん1ヶ月ほどでボランティアを打ち切りました。

  しかし、この1ヶ月間で私が学んだことは非常に実りのあるものでした。このときは2年前にいたベルギー人の医師はいませんでしたが、アメリカ人の総合診療医(GP)が長期間のボランティアに来ていたのです。私はこの医師からも日本では学べないような多くのことを学ぶことができ、大変貴重な経験となりました。

 帰国後、いくつかの事情からタイに長期間滞在することができなくなり、日本で総合診療を学びたいと考えた私は、母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩きました。当時は、日本で、しかも大学病院で総合診療を本格的に学ぶのは困難であることは分かっていましたが、それでも大学に所属しておくことで勉強がしやすくなるのではないかと考えたのです。

 大学病院にも総合診療科の外来がありますが、やはり大学病院を受診する患者さんには偏りがあります。そこで私は、大学での自分の外来は水曜日だけにさせてもらい、金曜日には他の先生の診察(主に婦人科)を見学させてもらうことにし、月、火、木は別の医療機関(内科、整形外科、皮膚科、アレルギー科など)に研修に行かせてもらうことにしました。(今考えればよくこんなわがままを聞いてもらえたものだと思います。自分の厚かましさに辟易とします・・・) 

  見学や研修ではお金はもらえませんから、平日の昼間はほとんど無収入でした。そこで土日や平日の夜中にいくつかの救急外来でアルバイトをして生活を凌ぎ、そして次回のタイのエイズ・ホスピス訪問にかかる費用を捻出していました・・・。

 今回のコラムでお伝えしたかったのは「総合診療」がなぜ興味深いのかということであり、さらに「総合」というものの魅力について話したかったのですが、自分の医師としての経歴の振り返りで文字がオーバーしてしまいました。

 実は、私のこれまでの人生で「総合」というものの魅力にとらわれたのは、総合診療というものを知った今回述べたタイでの出来事が初めてではありません。つまり過去にも何度か「総合」というものに魅せられたことがあるのです。次回はそのあたりについても述べていきたいと思います。

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2014年10月10日 金曜日

2014年10月号 「社会人ナース」という選択

 医学部受験を考えているんですけど・・・、という相談が私のもとにしばしば寄せられます。これは私自身が一般の大学を卒業し一般のサラリーマン生活を経た後に医学部に入学していること、そして医学部受験の本を上梓したことがあるからです。

 私のように別の大学を卒業してから医学部を受験することは一般に「再受験」と呼ばれています。私が最初に上肢した本のタイトルは『偏差値40からの医学部再受験』です。実は、出版社と本のタイトルを決めるときに当初私はこのタイトルに反対でした。その理由は、「再受験」という言葉に違和感があったことと、私自身は『あなたも医学部を目指しませんか』というタイトルにしたかったからです。しかし編集者の意見は『あなたも・・・』ではインパクトが弱すぎるし、「再受験」という言葉は充分に認知されている、というものでした。

 結局、編集者の意見に従うことにして自分の本に「再受験」という言葉を入れたのですが、私は今でもこの言葉に馴染めません。それに、私は「再受験」を考えている人だけを応援したいのではなく、現役生で勉強のスランプに陥っている人も、社会人の経験はなく医学部を何度も受験している人も、高卒で働いていて医学部受験を考えている人も、同じように応援したい、と考えています。

 いったん大学を卒業してから、あるいはいったん会社員の経験をしてから医学の道を志すのは医師だけではなく、看護師を目指す人たちも少なくありません。しかし、別の大学を卒業しているとか、社会人の経験があるとかいった人が看護学校を受験するときにはなぜか「再受験」という言葉はあまり使いません。その代わりに、このような経験がある看護師のことを「社会人ナース」と呼ぶそうです。例えば、『日経メディカル』オンライン版では2014年9月に「社会人ナース」という言葉を使って特集記事を載せています。

 一般の会社員の経験のある医師を「社会人医師」とは呼びませんし、そもそもナース(看護師)も社会人ですから「社会人ナース」などという言葉に私は違和感があるのですが、この言葉もすでに確立されているなら従うしかありません。

 もっとも、私は言葉の定義にこだわっているわけではなく、今回のコラムの主題はここからです。社会人ナースが増加しており、看護学校のなかには社会人枠を設けているところも増えてきているようで、先に挙げた『日経メディカル』によれば、なんと定員の50%が社会人枠の看護学校もあるそうです。

 私が日頃診ている患者さんのなかにも、「先生、あたし、看護学校を受験することにしました」と報告してくれる人がいます。私が再受験で医学部に入学したことを元々知っていて、元々看護師になることに興味があって、ついに決心したから報告に来た、という人もいれば、太融寺町谷口医院の看護師の仕事ぶりをみていて看護師という仕事に興味がでてきた、という人もいます。すでに看護学校を卒業して看護師として第一線でがんばっている太融寺町谷口医院の(元)患者さんも増えてきています。

 看護学校受験を考えているんですけど・・・、という相談をメールで受けることもときどきあります。彼女らの最大の悩みは、年齢がハンディキャップにならないか、ということです。そしてこの「年齢のハンディキャップ」の悩みを細かく分類すると、①入学後の勉強についていけるか、②高卒で入ってくる若い子たちと良好な人間関係がつくれるか、③実際に仕事に出たときに年下の先輩と上手くやっていけるか、④患者さんから受け入れられるか、くらいになります。

 年齢以外の悩みで多いのが、看護学校に合格できる学力がない、周囲の理解が得られない、不器用だけど大丈夫か、血をみることに抵抗がある、入学までにどれくらい貯金が必要か、などです。これらはいずれも本人にとっては深刻な悩みだとは思いますが、今回は「年齢のハンディキャップ」に絞って述べていきたいと思います。

 まず上記④の、患者さんから受け入れられるか、という点についてはまったく問題ありません。私は医師になってから社会人の経験があるということで随分と”得”をしました。まず単純に年をとっていますから(私が研修医1年目のとき33歳でした)、医師としての貫禄があるわけではありませんが、患者さんからも他の医療スタッフからも、それなりの「社会人」とみなされました。

 一方、24~25歳の若い研修医だとなめられたりすることもあるわけです。もちろん私も患者さんに挨拶するときは「研修医です」と話していましたが、たいがいは話の流れから「医学部に入る前は社会人をしていました」という会話になります。私の経験上、このことを否定的にとらえる患者さんは皆無でした。むしろ、現役や一浪で医学部に入学した研修医よりもアドバンテージがあったといっても過言ではないと思います。

 次に、①の、勉強についていけるか、ですが、これも問題ありません。ただし、看護学校に入学すれば、おそらくこれまでに体験したことのないくらいの勉強を強いられます。睡眠時間も短くなるでしょうし、アルバイトが必要な人は自由時間がほとんどなくなるかもしれません。子育てをしている人はさらに大変です。しかし、です。”たかが”学校の勉強です。社会人の経験のある人、主婦の経験がある人、子育ての経験のある人からすれば、学校の勉強よりも遙かに大変なことをこれまでさんざん経験しているはずです。その苦労を考えればたかが学校の勉強など取るに足りません。少なくとも高卒後すぐに入学した若い人たちにできることができないはずがないのです。

 ②の、若い同級生との関係、については、勉強にも実習にも、そして生きるということにも熱心な元社会人の看護学生は同級生から尊敬の眼差しを受けることになります。私の知る範囲でいえば、元社会人の看護学生は講義では前の方の席に座り、講師への質問も積極的におこない、実習ではリーダーシップを発揮します。そのような学生は他の(若い)学生から尊敬されることはあっても嫌われることはありません。たとえ何らかの理由で一時的に嫌われるようなことがあったとしても、「人」として、そして「社会人」として正しいことをしていればそのうち再び周囲に人が集まってきます。

 ③の、職場での人間関係、特に年下の先輩との関係はどうでしょうか。医師の世界ではこれらは問題にならないのですが(私にも年下の先輩医師は大勢いますが、人間関係で悩んだことはほとんどありません)、看護師の世界は少し複雑であるという話をときどき聞きます。

 先に紹介した『日経メディカル』の記事にもそれについて触れられており、せっかく社会人を経て看護師になったというのに、彼女らの「早期離職」が問題になっているそうです。ある病院の看護教育担当者によれば、「価値観が違う」「合わない」などの理由で辞めていく社会人ナースが少なくないそうです。私の経験でいえば、「価値観が違う」などの理由で辞めていくのは高卒で看護学校に入った若い看護師にむしろ多いのですが、大病院の教育担当者がコメントするくらいですから社会人ナースのなかにも少なくないのでしょう。

 しかしながら、「価値観が違う」などの理由で辞めてしまった社会人ナースも、これから社会人ナースを目指そうとしている人もまったく心配することはありません。看護師を含む医療者の醍醐味は「求められている場所はいくらでもある」ということ、そして「自分の信念を曲げることなくミッションに従事できる」ということです。

「求められている場所はいくらでもある」というのは、単に日本の看護師は慢性的な人手不足である、ということだけではありません。世界に目を向けるとまともな医療を受けることのできない人たちが大勢います。そのようなところで働いても給料はもらえませんが、看護師の知識と技術、経験があれば、生涯にわたり他人に貢献することができるのです。このことだけでも看護師がどれだけ素敵な職業かということが分かるでしょう。

「自分の信念を曲げることなくミッションに従事できる」というのは、看護師のミッションが明確であるということです。患者さんの命を救い健康に貢献する、というのが世界共通の看護師のミッションです。例えば、もしもあなたがA社に勤務しておりXという製品を担当していたとしましょう。それを顧客に販売するときに、どうしてもXを売らなければならない理由はあるでしょうか。その顧客にとってはB社製のYの方がいいかもしれないですし、そもそもXもYも必要ないものかもしれません。一方、医療者が患者さんの命を救い健康に貢献すべきというのは自明なわけです。

 文化や宗教が異なっても、命を救い健康に貢献する、という医療者のミッションは変わりません。もしもあなたの勤務先が不幸なことに金儲け主義の病院であったとすれば(実際にはマスコミなどが言うような金儲けを考えている医療機関はめったにありませんが)、さっさとそこを退職してまともな医療機関に転職すればいいだけの話です。あるいはどうしても人間関係に馴染めなければ、運が悪く縁がなかった、と考えて次を探せばいいのです。

 私が医師になってから、医療の世界と一般の会社とは違う、と感じることのひとつに「職員が退職するときの寂しさがあまりない」というものがあります。同じ医療機関で働く医師や看護師が退職するとき、もうしばらく会えない、あるいは一生会えないかもしれない、と思うと寂しい気持ちがないわけではありませんが、「同じミッションを持つ有志だからいずれどこかでまた一緒に社会貢献ができるかもしれない」という感覚があるのです。

 これは私が院長をつとめる太融寺町谷口医院でも同じです。一抹の寂しさがないわけではありませんが、長く働いた看護師が念願のやりたい仕事やボランティア、NGO活動などに専念するために退職するとき、院長の私の立場からすると「卒業生を送り出す」ような感覚になります。一般の企業であれば退職は「裏切り」と見なされることもあるでしょうが、医療機関では裏切りではなく「卒業」になるのです。

 年齢のハンディキャップなどほとんどなく、たとえ多少のハンディがあったとしても看護師の仕事の醍醐味を考えれば取るに足らないものである、ということを社会人ナースを目指している人に知ってもらいたいと思います。

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2014年9月12日 金曜日

2014年9月号 私のリハビリ体験記~させない傘とウォーキング~

  交差点まであと20メートル・・・。もう少し・・・。しかし私の左腕はいうことを聞いてくれず傘が左横にずり落ちていきます。右腕は雨に濡れだした状態をとっくに超えて半袖のTシャツの右腕の部分はもはや絞れば水がしたたりおちるほどびしょびしょになっています。ついに私は左手で傘をさすことを断念し右手に持ち替えました・・・。

 前回の『マンスリーレポート』では、手術は成功したものの左腕の筋力低下はほとんど改善していない、ということをお伝えしました。『メディカル・エッセイ』では、「難病を患うということ」というタイトルで、症状が改善しないことから治らないと思い込み、私の精神状態が悪化していったこと、過去に診させてもらった脊髄損傷の患者さんやタイで出会ったすでに他界しているエイズの患者さんのことなどを思い出し頑張るしかないと認識したこと、などについて述べました。

 最近はコラムの内容が自分のことばかりになり恐縮ですが、今回もその後の経過のことについて述べてみたいと思います。

 冒頭で紹介したのは、8月下旬のある日、夕立のような大粒の雨が降るなか、クリニックからの帰宅途中の私の体験です。筋力低下が進行した2014年4月中旬から左手で傘を保持するのが困難になっていたのですが、手術を受けた後ですからリハビリのひとつとして左手でさしてみることにしたのです。50メートルくらい進んだところで左腕に力が入りにくくなり、それは加速度的に悪化していきました。

 傘がさせない悔しさ、というのは体験してみないと分りにくいと思います。機能障害を伴う他の疾患もそうだと思いますが、今まで何の問題もなくできていたことが突然できなくなる、というのは、たとえそれが些細なことであったとしても本人からすると辛いものです。左がダメなら右で持てばいいんじゃないの?という意見もあるでしょうし、私自身もそのように考えるように努力していますが、「そっか、自分にはまだ右手が残っているんだ」、と瞬時に発想を切り替えられるような人はそれほど多くないでしょう。

 しかし、時間がかかったとしても、結局のところはそのように発想を切り替えて、今ある機能を大切にし、障害がでた部分については可能であればリハビリで回復を期待するのが現実的な対策ということになります。

 私の場合は、大変幸いなことに、リハビリに積極的にむかえるモチベーションがあります。退院して診療の現場に復帰すると、大勢の患者さんから励ましの声をかけていただきました。20代から70代まで、男性の患者さんも女性の患者さんも私の身体を心配してくれて、「退院できてよかったですね」とか「思っていたより元気そうで何よりです」とかいった嬉しい言葉をかけてくれるのです。(よく考えてみると、これらの言葉は本来医者が患者さんにかける言葉です・・・)

 なかでも意外だったのは複数の患者さんからいただいた「おかえりなさい」という言葉です。「おかえりなさいって・・・。これが医師が患者さんからもらう言葉か・・・」と、後になってこの言葉を何度も噛みしめて嬉しさに浸ることも何度かありました。

 こういった言葉を繰り返し聞いていると、頑張らなければ・・・、という思いが強くなりリハビリに励むことができます。入院中から執刀医の先生に歩くことをすすめられていて、手術の翌々日からは毎日病院の外でウォーキングをしていましたから、私は可能な限り退院後もウォーキングを続けています。

 入院するまでの私は、毎朝5時に起きて、少し長めに入浴を楽しんで、それから新聞を読んで、その後メールのチェックと返信をして、6時すぎにクリニックに到着、という生活スタイルでしたが、これを少し変更して、5時起床、ウォーキング、入浴ではなく短時間のシャワー、新聞、メールは読むだけで返信はクリニックに到着してから、というかたちにかえました。クリニック到着は6時半を回ることになり、それからメールの返信をしますから時間に追われることになりますが、なんとか続けていけそうです。

 ウォーキングを始めてみて意外だったのは、ウォーキングは思っていたような退屈なものではない、ということです。私は左腕の障害がでるまでは、クリニックが休診の木曜と日曜の早朝に(元気があれば)ジョギングをしていたのですが、ジョギング中にウォーキングをしている人をみると、「歩いているだけで楽しいのかな、まだ若いんだから走ればいいのに・・」などと(大変失礼なことを)感じていたのですが、ウォーキングで充分、というかむしろウォーキングの方が楽しく続けられることに気付きました。

 もっとも、以前私がジョギングをしていたのは、走っているときが楽しいからではありませんでした。私にはいまだに「ランナーズ・ハイ」が訪れたことがありません。ジョガーやランナーのなかには、ランナーズ・ハイの快感がたまらず、いくらでも走り続けていたくなる、という人がいますが、私にはこの感覚はなく、走っているときに考えることは「いつ走ることをやめてこの苦しさから解放されるか」だけです。

 では何のために私は走っていたのかというと、ジョギングの後のシャワー、ジュース、食事、この3つが最高に楽しめるからです。特にジョギングの後の炭酸ドリンクは私にとって至福の時間であり、生きていることを実感できるひとときなのです。(減量目的や糖尿病の治療目的でジョギングをしている人、つまり炭酸ジュースNGの人には大変失礼なコメントですが・・・)

 ウォーキングではジョギングほどカロリーを消費しませんし発汗量も少ないですから、私の3つの楽しみのシャワー、ジュース、食事はそれほど楽しめません。しかし、ウォーキングの長所もあります。

 一番の長所は「開始時のハードルが高くない」ということです。ジョギングの場合、やはりしんどいことですから、とっかかりにそれなりの”勇気”が必要です。実際、早朝に目覚めたのはいいものの、ジョギングがイヤになり何とか走らなくてもいい言い訳はないかと考えてしまうことがしばしばありました。激しい雨が降っていると「ラッキー、これで走らなくてもいい理由ができた!」などと考えてしまうこともありました。これでは強制されているわけでもないジョギングを何のためにしているのか分りません。

 その点、ウォーキングはハードルが低く、もう少し寝ていたいな、という気持ちはありますが、とりあえず外に出て数歩も歩けば、「よし、今日もいつものコースを歩こう」、という気持ちに切り替わります。雨の日でも傘を(右手で)させばウォーキングはできますから、雨だから中止という言い訳はできません。実際、退院してから3回ほど雨が降った日がありましたが(コースは少し短くしていますが)降っていない日に比べてそれほど辛いというわけではありません。退院後に私がウォーキングを休んだのは2日だけで、その2日とは東京で開催されたアレルギー専門医セミナーに参加するため6時前に家を出た日と、やはり東京での渡航医学会の研修に参加するのに深夜特急(サンライズ瀬戸)に乗るために深夜に家を出た日です。

 二番目の長所は、これは今の私にしか当てはまらないことですが、左腕をどこまで振り続けることができるか、を評価できるということです。腕をおろし普通に歩く分には困りませんが、走るときのように、あるいは競歩の選手のように腕を振って歩くと、私の左腕は冒頭で述べた傘をさしたときのように次第に力が入らなくなりだらりと垂れ下がってしまいます。退院直後のウォーキングでは、せいぜい数百メートルくらいしか腕を振り続けられなかったのですが、少しずつその距離が伸びてきています。今日は昨日より20メートル進んだけど翌日には30メートル後退して・・・、というような感じで毎日確実に伸びているわけではないのですが、長いスパンでみてみると確実に距離が伸びているのは間違いなさそうです。このように距離が伸びていることを実感できるのはリハビリの大きな励みになります。

 ウォーキングの三番目の長所は、総運動量はジョギングに勝る、ということです。これも「私の場合」ということになりますが、ジョギングは毎日続けるのは困難です。左腕の障害がでる前の私は月に80~100キロメートルを走ることを目標としていましたが、実際に走れていたのはせいぜい50~60キロ程度でした。ウォーキングに切り替えてから毎日の距離は約4.8キロ(GPSの測定による)なのですが月あたりで換算すると140キロを超えます。

 毎日運動することのメリットをこのサイトではさんざん紹介していますし患者さんにも薦めていますが、改めて考えてみると私自身がそれほど運動していたとは言えません。しかし、左腕が言うことを聞かなくなり手術を受けたことの”おかげで”ようやく実践できるようになりました。運動には生活習慣病の予防だけではなく精神状態にもいいということを伝えたこともありますが、実際、ウォーキングをしてから仕事に取りかかると精神的に調子がいいような感じがします。

 左腕がダメでもまだ右腕があるさ・・・、とすぐに発想を切り替えられるほどには楽観的でない私も、左腕に力が入らなくなったおかげで患者さんから嬉しい言葉をかけてもらうことができてウォーキングの楽しさを発見できた、というふうに前向きに考えることができています。

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2014年8月18日 月曜日

2014年8月号 手術は成功。だけれども・・・

 前回(2014年7月号)のコラムでお伝えしましたように、「変形性頸椎症」という疾患に対する手術を受けるためにクリニックを長期間休診させていただくことになりました。前回のコラムでは、症状発症の契機、その後の症状の移り変わりと医療機関受診、検査から診断に至る過程などについてお話しました。今回はその後の経過についてまずお話しておきます。

 私の症状で最も辛かったのが左上肢の筋力低下です。4月中旬頃から増悪し、一時は聴診器を持てないほどにまで進行していました。しかし、6月上旬あたりからわずかですが回復し、聴診器も長時間の把持は困難ですが、通常の聴診はできるようになりましたし、覚束ないものの茶碗を持つことも軽いものなら可能になりました。

 ただ、左上肢(前腕と上腕)の見た目の筋肉量の低下は進行し、筋萎縮は進行しているように見えます。7月に入ってからは何人かの患者さんに「痩せましたね」と言われたのですが、これは全身が痩せたのではなく、左上肢の筋肉が減ったためにそう見えたのだと思われます。

 さて、筋力がわずかに回復したとは言え、日常生活がなんとかできる程度ですし、これ以上頚椎の変形が進行し、脊髄を圧迫するようなことがあれば社会復帰ができなくなるかもしれません。私に残された選択肢は手術以外にありません。

 2014年8月4日、予定通り手術がおこなわれました。手術の名称を正確に言えば「全身麻酔下観血的後方除圧及び椎弓形成術」になります。簡単にいえば、頚椎が変形して後ろにせりだしてきたせいで狭くなってしまった脊柱管を広げる手術、となりますが、これでは分かりにくいのでもう少し詳しく説明したいと思います。

 脳から続いている脊髄は脊柱管という骨で囲まれた管を通って腰の方まで伸びています。その管の前の部分を構成しているのが脊椎で、後ろの部分が椎弓と呼ばれる骨と考えて差し支えありません。私の場合、前部を構成している頚椎(脊椎の首の部分)が変形して管の内腔にせり出してきたために脊髄がつぶれてしまっています。もしも頚椎がせり出してきて脊髄が後ろにおされても、その後ろにスペースがあれば問題ないわけですが、後部は後部で椎弓という骨がありますから脊髄は、変形した頚椎と後部の椎弓にはさまれて圧迫されているというわけです。

 筋力低下も筋萎縮も、痛みもしびれもすべて脊髄(もしくは脊髄から別れて出ている神経根)が圧迫されていることが原因です。ならば、唯一の解決法は狭くなった脊柱管を広げることです。もっとも、軽傷であれば自然に軽快することはよくありますが、私のように症状が増悪し、すでに1kgのダンベルも持てないような状態であれば外科的に治療するしかないというわけです。

 慢性で難治性の疾患というのは得てして民間療法も盛んです。ご多分に漏れず、この疾患、変形性頸椎症にも多くの民間療法があるようです。さすがに漢方薬やサプリメントで治る、としているものは見当たりませんが、枕とか、マッサージとか、あるいは電磁波をあてるようなものもあるようです。しかし、そのような民間療法を全面的に否定するわけではありませんが、私のように筋力低下がある程度まで進行してしまったような状態では可及的速やかに手術をすることが必要になります。これ以上の進行はなんとしても防がなければならないからです。

 話を手術の内容の説明に戻します。手術の目的は「脊柱管を広げること」ですが、そのためには脊柱管の後ろの部分、すなわち椎弓と呼ばれる骨を切らなければなりません。切っただけであれば不安定ですから、(切っただけでそのまま置いておくという術式もありますが)そのなかに「詰め物」をすれば安定が得られます。

 これではわかりにくいと思うので手の指を使ってイメージしてみてください。まず、手の親指と人差し指でわっか(輪っか)をつくってみてください。そして親指の先端と人差し指の先端を1cmほどあけてみてください。それからその2本の指でサイコロをはさむところを想像してみてください。指先どうしをくっつけていたときと比べるとわっかの面積が広がったことがわかると思います。実際の手術ではもっとこみいったことをおこなうのですが、イメージとしてはこのような感じです。

 次に「詰め物」について説明します。従来「詰め物」として使われていたのは、患者自身の骨が多かったはずです。私が麻酔科の研修を受けていた頃は、患者自身の腸骨が使われていた症例が多かったことを記憶しています。つまり、首を切開する前に、腸骨(骨盤の一部)の骨を切り取り、それを適切なサイズと形態に加工しておきます。椎弓を切除して(親指と人差し指の間をあけて)その間にこの腸骨を「詰め物」として使うのです。

 少し想像してもらえればわかると思いますが、骨盤の一部の骨を切除するというのも大変な手術になります。それが終わって今度は首の後ろからメスを入れて、骨を切って広げるわけですから、この手術は大変長時間を要します。私が麻酔科の研修を受けていた頃、他の研修医がこのような長時間の手術を希望しないこともあり、私は積極的にこの手術を見学していたのですが(麻酔科医の仕事はいったん麻酔がかかると余裕ができるので手術の見学が可能になるのです)、大変高度な技術が必要であり、長時間に渡る集中力と体力を要する極めて難易度の高い手術であるという印象がありました。

 もちろん大変なのは執刀医だけではありません。患者さんの術後の苦しみは相当なものです。長期間動けませんし、痛みは並大抵ではありません。否、それだけではありません。首の筋肉を大きく切りますから回復したとしても、後頭部から後頸部の動きが元通りにならないことも珍しくないのです。

 私が研修医として麻酔科でトレーニングをつんでいたのは2002年です。それから12年が経過したわけですが新しい手術法はないのでしょうか。それがあるのです! まず、「詰め物」についてです。ここからは「詰め物」ではなく「スペーサー」と呼ぶことにしましょう。自分の骨を用いるのではなくセラミック製の人工骨が少しずつ普及してきています。セラミックはここ20年くらいの間に、人工骨や人工関節、あるいは歯科のインプラントなどで用いられるようになってきているのですが、首の骨(椎弓)を切除した後にはめこむスペーサーとしても普及しだしているのです。

 また、首の皮膚を切開し、骨まで到達する方法も随分進化していることが分かりました。従来は首の皮膚を大きく切開した後、首の後ろの筋肉を大きく切らなければならなかったわけですが、筋肉を切るのではなく「はがす」ような感じでほとんど筋肉に傷をつけることなくおこなえる手術があるのです。筋肉を傷つけなければ出血量もごくわずかで済みます。もちろん、このような手術がおこなえるのは相当熟練した医師のみです。私の場合、大変幸運なことに、頚椎を専門とする熟練した専門の先生に執刀してもらうことができました。

 そして手術は成功しました。実際術後のCTを撮影してもらうと脊柱管が大きく広がっていました。これで脊髄の圧迫症状からは開放されたはずです。ところがです・・・。私の左上肢の筋力低下は変わっていません。手術をしても痛みやしびれはすぐになくなることが期待できるが筋力低下は回復するまでに長期間かかる、という説明は聞いていたのですが、それでも、私の心のどこかに「長時間の正座から開放された直後は動かせなかった足がしばらくすると元に戻るように、私の左上肢も手術が終われば元に戻るのではないか・・・」と期待してしまっていたのです。

 しかし現実はそう甘くはありません。相変わらず私の左腕は1kgのダンベルをあげるのも四苦八苦しています。ただ、術前よりも悪くなっているわけではなく、食事は摂れますし、歩くことも可能ですし、500mLのペットボトルを持った上腕のトレーニングならできます。

 退院はもう少し先になりそうですが、入院している病院から太融寺町谷口医院に通勤するというかたちで当初の予定どおり本日(8月18日)から診療を再開したいと思います。術後の痛みはゼロにはなっていないために(骨まで切っているのですから当然といえば当然です)、首のカラーもまだ外せないために、しばらくの間は診療に時間がかかるかもしれませんが、これまでと同じように診療をおこないますので困ったことがあればどうぞお気軽にいらしてください(注1)。

注1:しばらくの間、再診の方(当院に一度でも受診したことがある方)のみとさせていただきます。初診の方の診察再開についてはトップページで案内いたします。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2014年7月11日 金曜日

2014年7月号 手術を受けることになりました

  すでにウェブサイトのトップページでお知らせしていますが、2014年8月1日から17日まで(医)太融寺町谷口医院は休診とさせていただきます。これは院長の私自身がある疾患で手術を受けることになったからです。

 何人かの患者さんからは、「2週間以上も入院しなければならないということは、かなり大きな手術ですよね。ということは大変な病気なんですか・・・」、と聞かれました。医師が自分の疾患を公表するべきではないかと当初は考えていたのですが、多くの患者さんから質問される、というよりも、心からご心配いただいていることがひしひしと伝わってくることも少なくないために、きちんと説明すべきと考えるようになりました。

 私の病歴は以下のようになります。

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 2014年1月4日。とあるフィットネスクラブにて。懸垂をしようと思い、鉄棒にとびついたときに左後頚部に鈍い痛みを感じました。両手で鉄棒を把持しているものの、いつもと感覚が違います。左上肢に力が入らず懸垂ができなくなっていることに気付きました。

 鉄棒から降りてじっとしていると、強くはないものの鈍い痛みが左後頚部から背部に広がっています。また、左手の親指側に、強くはありませんがしびれがあります。しかし握力はそれほど落ちていないようです。実際、懸垂はできなくなっていましたが、鉄棒にぶらさがっていることには問題ありませんでした。ただし、筋力低下は明らかにあります。どの筋肉に力が入らないのかを調べるためにいくつかの筋トレをおこなってみました。ベンチプレスはまずまず可能です。しかし、ダンベルを持って肘を曲げる筋トレができません。普段は12~14kgのダンベルを持つのですが5kgのダンベルでも上がらないのです。

 これらから私がつけた自己診断は「頸椎椎間板ヘルニア」です。おそらく鉄棒に飛びついたときの勢いで椎間板が後ろに飛び出たのだろう、そのように考えました。というのも、このような頸椎の形態異常に起因する疾患はいくつもありますが、症状出現のきっかけがはっきりしている場合はヘルニアである場合が最も多いからです。例えば後縦靱帯骨化症や脊椎管狭窄症ではじわじわと症状が出現しだし、患者さんに「いつからですか」と尋ねても、2~3年前くらいから・・、といった曖昧な答えが返ってくるのが普通です。一方、椎間板ヘルニアの場合は、患者さんが「〇月△日に★★をしていたときからです」、と答えることがしばしばあるのです。

 腰椎の場合もそうですが、頸椎の場合も、椎間板ヘルニアはしばらくすると自然に症状が取れることもよくあります。椎間板は骨ではなく比較的柔らかい組織ですから、マクロファージなど貪食機能のある細胞が、後ろに出てしまった椎間板を少しずつ小さくしてくれることが期待できるのです。実際、頸椎ヘルニアの患者さん(太融寺町谷口医院では月に1~3人程度みつかります)に対して、私は専門医に紹介することはありますが、手術を強く薦めることはほとんどありません。そして専門医を受診してもらっても、その専門医から手術を薦められることもあまりありません。

 頸椎の椎間板ヘルニアで手術が積極的に薦められない理由は、何もしなくても症状が軽快することが多い、ということだけではありません。腰椎に比べると手術が上手くいかないケースが多いということの方が大きな理由でしょう。「上手くいかない」というのは、手術をした後もしびれなどの症状が残る、ということだけではありません。手術の合併症に苦しめられる、はっきり言えば、手術が失敗して余計にひどくなる、最悪の場合は寝たきりになるというリスクもあるのです。そこまでのリスクを背負ってまで手術する必要があるケースというのはそう多くはないというわけです。

 この時点で私は手術などまったく考えなかったばかりではなく、医療機関を受診するつもりもありませんでした。とりあえずは3ヶ月ほど様子をみよう、そのときに症状が悪化していればそのときに考えようと楽観的な気持ちでいました。そう思えた最大の理由は、日常生活にはほとんど問題がなかったからです。懸垂をしたり5kgのダンベルをもったりしなくても生活はできますし、医師としての仕事にも影響はほとんどありません。

 しかし私の希望的観測は裏切られることになります。3ヶ月と少したった4月のある日の午後の診察室。くしくもその患者さんは右腕のしびれと右肩の痛みを訴えました。ヘルニアかどうかは別にして、私と同じ頸椎からきている状態だなと考えた私は、診察するために、患者さんの腕をもったり首を後ろに傾けてもらったりしていました。

 そのときです。患者さんの後ろにまわり患者さんの両腕を持ち上げたときに、私の左腕に力が入らないことに気付いたのです。患者さんにはそれを悟られないようにしたつもりですが、私の筋力低下が一気に進行したのは明らかでした。しかもごく軽いものが持てなくなるほどの筋力低下です・・・。その次に診察した患者さんは長引く咳が訴えでした。私は聴診器で患者さんの肺の音を聞いていたのですが、左手が震えて聴診器を胸にあてておくことができないではないですか・・・。

 これはまずい・・・。その日の夜、いくつかの実験をしてみました。まず茶碗を上げて維持することができません。歯磨きもできません。(私は左利きで歯ブラシは左で持ちます) 携帯電話も20秒もすると腕を維持してられずに会話が続けられなくなります。このままでは日常生活も医師としての診察もままなりません。現在太融寺町谷口医院では以前のような手術はしていませんし、左腕の強い力が必要な処置などもほとんどありません。しかし聴診器が使えなくなれば診察が成り立ちません。

 手術の心構えはできていませんが、とりあえずMRIで頸椎の評価をしてみようと考えた私は5月のある日、ある医療機関を受診してMRIを撮影してもらいました。MRIのフィルムを見せてもらったとき、すぐに決心がつきました。というより決心せざるをえませんでした。これは手術しかないと・・・。

 頸椎の一部が見事に変形しており、変形した骨(頸椎)が脊柱管を圧迫していたのです。私の「椎間板ヘルニア」という自己診断は”誤診”であり、「変形性脊椎症(頚椎症)」が正確な病名です。つまり椎間板ではなく骨そのものが変形しており、変形した骨が脊髄を圧迫していたのです。実は私は12年前の2002年に交通事故で頸椎のMRIを撮影しています。そのときは右上肢に痛みが生じたのですが、MRIではほとんど異常を認めませんでした。頸椎の変形もほぼありませんでした。頸椎の変形というのは加齢と共に生じますが、33歳の時点では正常であったわけですから、この12年間で加齢が進行したということになります。鉄棒に飛びついたときに初めて症状がでたのは、おそらく症状が出る前から骨が脊髄を圧迫する寸前であり、鉄棒に飛びついたときに骨がごくわずかに動き、そのために症状が突然出たのでしょう。

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 というわけで、私は手術を受けることになりました。先にも述べたように頸椎の手術は簡単ではなく術後の後遺症の問題もあります。頸椎の手術を受けたという患者さんをこれまでたくさんみてきましたが、手術が成功したという症例でも何らかの後遺症が残ることが少なくありません。

 一般に、頸椎の手術というのは、脊髄損傷のリスクもあり、術後車椅子の生活を余儀なくされる、あるいは寝たきりの状態になる可能性もなくはありません。このため、頸椎の手術がすすめられるのは、脊髄の症状が強くなり、例えば下肢にまでしびれや疼痛が出ている場合や、膀胱直腸障害といって排尿や排便が困難になった場合、あるいは上肢が動かなくなった場合など、重症化した場合に限られます。

 私の場合は、持った茶碗を維持することはできませんし、両手を使って頭を洗えないなどといった不便さはありますが、最低限の日常生活はできないことはありません。しかし、聴診器を自由に使えない、患者さんの腕や足を持ち上げられない、といった医師生命に関わる不自由さがでてきたために手術を受けるべきと判断しました。(術式については、大きく分けて前方固定術と後方除圧術があります。私が手術をお願いすることになった先生は、低侵襲の手術をされる大変ご高名な先生ですが、これ以上の説明はここでは省略します)

 8月18日からは仕事に復帰するつもりでいます。しかし、比較的大きな手術ですし、術後しばらくの間は安静を余儀なくされます。冒頭で紹介した患者さんは、私が大変な病気に罹患したから長期間入院することになったと考えられたわけですが、疾患自体は悪性のものではありませんし、寿命が短くなるものではありません。しかし術後の安静が強いられるために長期間休まなければならないのです。

 術後の経過、そして予定通り8月18日から診療を再開できるか、などについては、ホームページでお伝えしていく予定です。しばらくの間ご迷惑をおかけしますことをお許しください。

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2014年6月10日 火曜日

2014年6月号 渡辺淳一氏の2つの名作

 2014年4月30日、作家の渡辺淳一氏が享年80歳で他界されました。

 昨年(2013年)に山崎豊子さんが他界されたときもあまりにも突然のことで驚きましたが、渡辺淳一氏も、つい最近まで週刊誌に連載を持ち、高齢者のED(勃起不全)についての連載小説が新聞で掲載中止にされたことなどが話題になっていましたし、私個人としても氏の作品を楽しみにしていましたから、驚くと同時に生のはかなさを感じずにはいられませんでした。

 渡辺淳一氏は直木賞も受賞されていますから、著名な作家が他界された、ということで各マスコミも大きく取り上げました。ただ、その紹介の仕方がどれも同じようなもので、偏っていると言わざるをえず、私は氏に対する報道を目にする度に辟易としました。少し例をあげてみたいと思います。(下記はすべてオンライン版です)

 中高年の性愛を大胆に描いた「失楽園」などで知られる作家の・・・(日経新聞)
 男女の愛と性を赤裸々に描いた「失楽園」「愛の流刑地」などのベストセラーで知られる作家・・・(朝日新聞)
 「失楽園」「ひとひらの雪」など男女の関係を突き詰めた恋愛小説などで知られる作家の・・・(読売新聞)
 「ひとひらの雪」「失楽園」などで男女の愛と性を描いた人気作家・・・(毎日新聞)

 どれも似たり寄ったりです。読んでいて辟易とするのは、どの報道も「愛」や「性」のことにしか触れていないからです。

 たしかに、中高年の恋愛に関する小説を語るなら渡辺淳一氏の右に出る作家はいないでしょう。先に述べた、高齢男性のEDをテーマにして、そしてインポテンツがあったとしても、さらにインポテンツがあるからこそ恋愛ができるんだ、ということを小説にした作家は私の知る限り他にはいません。

 しかしながら、渡辺淳一氏の作品の魅力を「愛」や「性」に限局してしまうのは、ある意味公平性にかけるというか、率直にいえば”もったいない”のです。渡辺氏の卓越した著作は恋愛ものだけでは決してありません。私としては、特に医学関連の小説のことをマスコミはもっと取り上げてもらいたい、そして多くの人に読んでもらいたいと感じています。

 医師である渡辺淳一氏が本格的に小説家を志したきっかけは、1968年に札幌医科大学の和田寿郎教授がおこなった世界初の心臓移植に関連する不正を暴いた小説を発表したこと、と言われています。この小説は『白い宴』というタイトルで今も読むことができますので、例えば医師を目指しているという人には是非読んでもらいたいのですが、今回は医師だけでなく多くの人に読んでもらいたい渡辺氏のふたつの名作について述べてみたいと思います。

 ひとつは野口英世の生涯について記した『遠き落日』です。この小説は吉川英治文学賞を受賞していますから、すでに読んだという人も多いと思うのですが、この本ほど、読んでいるうちに何度も頭を殴られたような衝撃を感じた本を私は他に知りません。

 野口英世と聞いて多くの人は、日本を代表する偉人、幼少時に負った大やけどを克服して医師になった努力家、ノーベル賞は受賞できなかったけれど何度も候補に挙がった偉大な研究者、自ら研究していた黄熱に罹患し殉職した天才、などといったイメージを持っているのではないでしょうか。

 私自身もそのような像を漠然と描いていました。医学部の3回生の時に「細菌学」の教科書を目にするまでは・・・。

 野口英世は著名な細菌学者のはずです。しかしその細菌学の教科書に野口英世の名前が見当たらないのです。そして、索引にも野口英世という名前はありません。つまり細菌の研究でノーベル賞候補にまでなったはずの野口英世は細菌学の教科書に名前すらないのです。

 実は野口英世の業績というのは現在ではほとんど評価されていません。黄熱の病原体を顕微鏡でみつけたと発表しましたが、これが後に誤りであることが判りました。狂犬病や小児麻痺の病原体も見つけたと発表していますが、これも誤りであることが判っています。梅毒が脳をも侵す病原体であることをつきとめたことは正しいとされていますが、野口英世は梅毒の病原体の培養に成功したと発表しています。しかし、それから100年以上たった現在でも誰もこの培養の追試に成功していないのです。まるで、その後誰もつくることができていないSTAP細胞のようです。

 渡辺淳一氏の『遠き落日』では、そのあたりのことにも触れられていたはずですが、私がこの本を読んで頭を殴られたような衝撃を受けたのは、研究に価値がなかったことよりもむしろ、金と性にとことんだらしないその性格と行動です。返すつもりもないのに多額の借金を繰り返し、その金で遊郭での豪遊、つまり買春を繰り返し、婚約者に対してはひどい行動をとるのです。この本では、そのあたりについての描写がとても興味深いと言えます。

 現在の千円札は野口英世ですが、このお札が登場したとき、私は千円札の野口英世の顔を眺める度に複雑な思いに駆られ苦笑いを噛み殺していました・・・。

 もうひとつ、多くの人に紹介したい渡辺氏の作品があります。それは『花埋み』(「はなうずみ」と読みます)というタイトルで、国家試験制度ができてから日本で初めて女医になった荻野吟子の生涯を描いた物語です。

 日本で初の女医ですからもっと偉人として取り上げられてもいいと思うのですが、一般的には荻野吟子の名前はあまり知られていないのではないでしょうか。その最大の理由は、荻野吟子は、開業医となり多くの患者さんから慕われていた数年間を除けば、生涯を通して成功したとはとても言えない不運な人生を送ったからではないかと思われます。

 良家に生まれた荻野吟子は、名主の長男稲村貫一郎と結婚します。稲村貫一郎は後に足利銀行初代頭取になったとされています。ここだけ聞けば不自由ない結婚生活を想像してしまいますが、実際は「最悪」だったようです。何が「最悪」かというと、夫が買春して娼婦から淋病をうつされ、それを荻野吟子にうつしたのです。

 淋病など今では抗菌薬を数日間内服するか点滴をするかですぐに治る何でもない病気ですが(ごく稀に重症例もありますが)、当時はまだペニシリンがなかった時代です。結局荻野吟子の淋病は治らずに生涯苦しめられることになります。断続的に高熱にうなされ、起き上がるのも困難なこともあったようです。しかし夫から淋病をうつされたことをきっかけに荻野吟子は医師になることを決意します。

 荻野吟子は40歳のとき、周囲の反対を押し切り13歳年下の若い男性と再婚します。恋愛には様々なものがあり他人がとやかく言うものではないと思いますが、このふたりの結婚後の生活を聞いて幸せと感じる人はほとんどいないでしょう。この若い男性は、キリスト教を信仰し北海道に新天地を求めて山奥の開拓をおこないます。そして、荻野吟子は、患者さんに惜しまれながら東京の診療所を閉院して夫についていくのです。開拓が失敗に終わった後、北海道で診療所の開設を試みますがうまくいかなかったようです・・・。

『遠き落日』と『花埋み』。共に医師の生涯を綴ったこれらふたつの作品を、私は渡辺淳一氏の名作中の名作と考えています。愛や性をとことんまで追求した『失楽園』や『ひとひらの雪』なども歴史に残るすぐれた作品であることに同意しますが、ここに紹介したふたつの名作がそういった恋愛小説の影に隠れてしまっているならば、それはとてももったいないことだと思うのです。

 しかし、改めてこれらふたつの名作を通して二人の偉人を振り返ってみると、返すあてもないのに他人から借金を繰り返し買春に溺れ、その一方で梅毒の研究に寝食を惜しまなかった野口英世。一人目の夫が娼婦から感染した淋病をうつされ、その後数十年に渡りその淋病で苦しむことになり二人目の夫との結婚も幸せとは言いがたかった荻野吟子・・・。

 このように考えてみると、視点は異なるものの、私自身もマスコミの記者たちと同じように、渡辺淳一氏の愛や性の表現に惹かれているのかもしれません・・・。

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2014年5月9日 金曜日

2014年5月号 「真実の愛」が生まれるとき

 真実の愛、などというと、何を歯の浮いたことを・・・、と嫌われそうですが、医療の現場にいるとしばしば「これが真実の愛ではないのか・・・」と感じることがあります。愛には家族愛や隣人愛といったものもあるかと思いますが、ここで私が言っているのは「恋愛」です。

 なぜ医療の現場で「真実の愛」を知ることができるかというと、例えば、長年寄り添った高齢の夫婦のどちらかが死に近づいているときに見つめ合っている姿とか、若いカップルのどちらかが難病に罹患しパートナーが必死に支えている姿とか、パートナーがHIVに感染していたことが判った患者さんがこれまで以上の愛を実感している姿などを目にする機会があるからです。

 このような愛の姿をみて感銘を受けると、それを文章にして多くの人に知ってもらいたい、と思うこともありますが、すばらしさを伝えるにはある程度話が具体的になってしまうことになり、そうすると個人が特定されることになりかねませんから守秘義務の観点上文章にすることは困難です。

 それに、このような話はよほど上手に書かない限りは陳腐な三流ロマンス小説のようになってしまい、私の文章力ではすばらしさが伝わりませんから、書きたくても書けない、ということもあります。

 けれども「真実の愛」ほど素晴らしいものはなく、他のどんな欲求が満たされたとしても「真実の愛」にかなうものはない、というのが私の考えです。そして、その「真実の愛」を日頃から垣間見ることのできる医療者の多くは私と同じように(たぶん)感じていると思うのです。
 
 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたいのは、何かと世間を騒がせることの多い作家、中村うさぎ氏についてです。

 中村うさぎ氏は、自らが買い物依存やホストクラブに浪費していたことをカムアウトし、美容整形を繰り返し豊胸手術もおこない、さらに風俗店での勤務をおこない、その逆に男性を買ったこともあり、そしてこれらを文章にしてきた人気作家です。こういったエピソードを聞かされると、個人的にはいくらかの嫌悪感を抱かずにはいられませんし、病院の悪口を書いた氏に反論する内容のコラム(注1)を私はこのサイトで書いたこともあります。しかし、それでも氏の文章力は見事であり、特に女性心理の真髄に迫るような描写が大変魅力的で、実はけっこう私は氏の著作を読んでいます。

 たしか1年くらい前だったと思いますが、「欲望」に関する大変鋭い指摘を『週間文春』の連載コラムでされていました。内容を抜粋すると次のようになります。(このコラムは単行本『死からの生還』で読むことができます)

人間が社会を形成したのも、資本主義を産み出したのも、この「何かが欠落している」という意識ゆえではないか。社会があるから欲望が生まれたのではない。欲望が先にあって、そこから社会という共同幻想が作られたのだ。(中略) まだまだ足りない、満たされない、この欠落感を埋める何かが欲しいと激しく渇望する、その意識こそが人間という生き物の本質なのではないか。人間とは、欲望のフリークスなのである。永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体なのである。(中略) 人間の本質は欲望そのものなのであり、この大いなる欠落感こそが「私」という主体なのである。

 完全に同意できるわけではありませんが、私はこの文章を読んで今後の中村うさぎ氏の発言に注目していました。ところが悲劇が起こりました。氏は突然原因不明の疾患(注2)に罹患し、心肺停止にまで至ったのです。

 その後、中村氏は回復しますが、退院後も車椅子の生活を余儀なくされステロイド内服を続けなければならない状態のようです。しかし夫の献身的な介護のおかげで”幸せ”であることを自覚していると言います。『週刊文春』のコラムも再開されましたが、氏は次のような発言をします。

それでもう充分。欲しいものなんか何もないよ。(中略) 幸せになった途端に、書くことがなくなってしまったからである。

 同誌の連載は2014年4月で終了したのですが、氏によるとこれは同誌をクビになったそうで、その原因がこの「書くことがなくなってしまった」という発言だったことを編集者から指摘されたそうです。これに対し、氏は猛然と抗議しており、その抗議文をコラムにも載せているのですが、私は連載終了にされたのは中村氏にも原因があると思っています。「書くことがなくなってしまった」というコメントは『週刊文春』の編集者を落胆させたわけですが、落胆したのは編集者だけでなく私のような氏のコラムを楽しみにしている読者も、です(注3)。
 
 「書くことがなくなった」と公言する作家のコラムなど読みたくありません。しかし、さすがは中村うさぎ氏、これまでとは一線を画した内容のコラムを執筆し、言葉が読者の胸をうちます。氏は、献身的な介護をおこなう夫との間に「絆」を自覚しそれを文章にしています。

 中村うさぎ氏の夫は芸能人や文化人ではないと思うのですが、氏のコラムにときおり登場しますからそれなりに有名なようです。氏の夫は香港出身のゲイです。ストレートの女性である中村うさぎ氏がゲイの男性と結婚したことで随分話題になったようです。「何のために結婚するのか」という疑問が世間から出るのも当然でしょう。氏の夫に対するコメントを『新潮45』(2014年5月号)より少し抜粋してみます。

うちの夫には私よりも深刻な持病がある。車椅子ではないが、私より先に死んでもおかしくない病気だし、私も夫も結婚した当初からそれを覚悟している。(中略) 病気のせいもあり薬の副作用もあって、彼が外に働きに出ることは不可能だと思われたからだ。今はいい薬も開発されて夫はその後十数年も生き延びて来れたけど、まだまだ予断を許さない状態だ。

 ゲイである中村うさぎ氏の夫もまた難治性の病を抱えているのです。その病は、病名は伏せられていますが、相当深刻な疾患のようです。いい薬が開発されたおかげで十数年生き延びられたけれども副作用にも苦しめられ今後の予断が許されない、そのような疾患なのです。

 そんな疾患を抱えながらも、中村うさぎ氏の夫は必死に氏を支えます。『新潮45』には具体的なエピソードも紹介されており、読んでいるうちに目頭が熱くなってくるほどです。

 氏は夫との「絆」について次のように記しています。

(前略) 私は夫との「絆」について堂々と書く。何を恥じる必要があろうか、私にとって夫がなくてはならない存在であることを。(中略) 私は自分が死んでしまう時に、ぜひとも彼に傍にいて欲しいと願っている。大阪の両親でもなく、医師や看護師たちでもなく、彼ひとりだけが私を見守って、手を握ってくれていれば、それでいい。(中略) 私は絶望などしないだろう。夫がいてくれれば。夫さえ傍にいてくれれば。彼は私の愚かしくも空疎な人生において獲得した最高の宝物だから。

「永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体」であったはずの中村うさぎ氏は今、「夫だけが私を見守って手を握ってくれていれば絶望などしない」と感じているのです。

「真実の愛」が生まれるとき・・・。自分自身が、あるいはパートナーが深刻な病を患ったときに真実が見えるようになり愛の尊さに気付く・・・。これは素晴らしいことでありますが、そのような病気に罹患しなくても、「最高の宝物」がすぐそばにいるのだけれど気付いていない、という人も少なくないのではないでしょうか・・・。

注1:中村うさぎ氏のコラムに反論した私のコラムは下記です。
メディカルエッセイ第102回(2011年7月)「招かれざる患者と共感できない医師」

注2:中村うさぎ氏が現在罹患されている疾患について詳しいことは分かりません。氏のコラムには、神経内科の主治医がいること、比較的多量のステロイドを毎日飲まなければならないこと、心肺停止が今後も起こりうること、などが述べられており、病名ははっきりとしていない、といった記載があります。ウィキペディアには「スティッフパーソン症候群と診断されている」と書かれていますが、私の知る限り中村氏が直接書いた文章にこの病名はありません。

注3:『週刊文春』の連載コラムは2014年4月で終了となりましたが、この続きのコラムはメルマガで読むことができます。興味のある方は中村うさぎ氏の公式ホームページを閲覧するか、「まぐまぐ」から検索してみてください。

参考:
『死からの生還』中村うさぎ 文藝春秋
『新潮45』2014年5月号新潮社「夫との絆 心肺停止になって考えたこと2/中村うさぎ」

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2014年4月11日 金曜日

2014年4月号 医療費を安くする方法~後編~

  前回は「初診」と「再診」の区別が大変複雑であり、医療機関によって解釈が変わる可能性があることを延べました。保険点数の改定で2014年4月から初診代が40円、再診代が10円値上がりしましたから(いずれも3割負担の場合)、診察代が「初診」になるか「再診」になるかは3月までよりも重要になったと言えるかもしれません。

 診察代が複雑なのは初診と再診の区別が複雑だから、だけではなく、他にもいくつか複雑なルールがあるということもあります。例を挙げて紹介したいと思います。

 Xクリニックに通院しているA氏とB氏。同じ会社に勤めていて同い年の45歳です。2人とも1年ほど前からXクリニックにいろんなことで通院しています。A氏には「高脂血症」、B氏には「高尿酸血症」がありますが、2人ともまだ薬をどうしても飲まなければならないレベルではなく、Xクリニックで生活指導を受けています。2人が勤める会社では毎年4月に健康診断があり、今日はその健診の結果を持って相談に行く日です。2人は仕事が終わってからXクリニックを受診しました。健診結果を医師に見せて日頃の生活について相談をしアドバイスをもらいました。2人とも診察時間はほぼ同じで、この日は検査も投薬もありませんでした。当然診察代は同じかと思われましたが、A氏は1,050円、B氏は380円で、その差が670円もあります。自分だけ料金が高かったA氏は納得がいきません。2週間前に、共に風邪の症状で受診したときには薬の内容も料金もまったく同じだったのです。

 診察代には、疾患の種類によっては「特定疾患療養管理料」というものが加算されます。これはいくつかの決められた疾患について食事(栄養)や運動などの生活指導に対して算定されるものです。そしてA氏の高脂血症はこの管理料の対象疾患に該当することが決められていて、B氏の高尿酸血症は該当しないのです。しかし実際には、高脂血症も高尿酸血症も生活習慣病の一種であり、医師や看護師による生活指導も似たようなものになります。

 算定される疾患とされない疾患がある以上はどうしても不平等感が出てきます。他に例を挙げれば、ウイルス性肝炎は状態が安定していたとしても算定される一方で、脂肪肝による肝機能障害は算定されません。実際の生活指導は脂肪肝の方が時間のかかることが多いのに、です。もうひとつ例を挙げると、胃炎の場合は算定されますが、逆流性食道炎の場合は算定されません。用いる薬は同じものである場合が多いですし、逆流性食道炎の方が生活指導に時間がかかることも多いのに、です。

 不平等感がぬぐえない例は他にもあります。「特定疾患治療研究事業対象疾患」(以下「難病」とします)に指定されている疾患が現在56あります(注1)。これら56の疾患に罹患していると認定されれば、特定の医療機関を受診した場合診察代がほとんどかかりません。3割の自己負担の分も公費で補われるからです。しかし実際には生活に支障がでるほどの”難病”なのだけれども56疾患に入れられていない疾患もいくつもあります。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の例でいえば、例えば「慢性疲労症候群」や「線維筋痛症」があります。膠原病では「全身性エリトマトーデス」や「強皮症」といったものは56疾患に含まれていますが、「シェーグレン症候群」や「強直性脊椎炎」、「関節リウマチ」などは除外されています(注2)。

 また、谷口医院でしばしば感じるのがHIVについてです。現在HIVは難病指定されていません。エイズを発症した後にHIV感染が発覚したような場合は、障がい者の1級に認定されることもありますが、症状がないけれども思い当たることがあり自らの意思で検査を受けて感染が発覚したようなときは障がい者認定を受けることができません。投薬が開始されるようになると、それなりに公的扶助が受けられるのですが、それでもすべての医療費が無料になるわけではありません。HIVに感染すると、エイズ関連疾患以外にも、例えば、風邪をひきやすくなったり、下痢が続いたり、湿疹に悩まされたり、ということがしばしばあります。また、職場ではたいていは感染の事実をカムアウトしておらずストレスにさらされていますから(職場で感染していることを伝えて結果的に退職においこまれたという例が谷口医院では多数あります)、不眠や抑うつ感といった精神症状がしばしば現れます。したがって医療機関を受診する機会が多く医療費がかさむのです。

 この疾患は管理料が算定され、こちらの疾患は(なぜか)されない、という例や、この疾患は難病指定されているけれども(同じような苦しみの伴う)別の疾患はされない、という例は他にもいくつもあります。つまり、診察料のアップにつながる管理料がかかってくる疾患で受診すればそうでない疾患で受診する人に比べて料金が高くなりますし、その逆に難病指定されている疾患でかかると公費が適用され安くなるというわけです。診察代にはこれら以外にも複雑な規定がいくつもあるのですが、これ以上の具体的な例を挙げることはやめにして、そろそろ「医療費を安くする方法」のまとめをおこないたいと思います。

 これまで述べてきたことを確認すると、検査や投薬は最小限にして、なおかつ安い検査・薬を選ぶ、ということが重要です。次に、診察代は可能なら「初診」ではなく「再診」にしてもらうという方法があるかもしれませんが、これは医療機関が決めるものなのでどうしようもありません。(しかし「再診」と思っていたのに「初診」とされた場合は納得いくまで説明を聞くべきです) また、管理料がかかるものとかからないものがあり、難病指定されるものとされないものがあることについてもどうしようもありません。(患者会をつくってロビイスト活動をおこなうという方法はあるかもしれませんが・・・)

 そこで提案としては、一番いいのは「何でも相談できるかかりつけ医をもつ」ということです。薬局なら、相談するだけなら無料ですが、医療機関の場合は診察代がその都度かかります。医療機関を変更すればそれだけで新たに「初診代」がかかります。ときどき、「今日は薬も検査もないからタダですよね」と言う患者さんがいますが、医療機関とはそういうところではありません。そもそも医療機関の使命というのは、いかに検査や薬を減らすか、ということでもあるのです。

 我々が最も「この患者さん、医療費がもったいないなぁ・・・」と感じるのが、ドクターショッピングをしている人たちです。つまり、受診した医療機関での診察に満足できずに次々と医療機関を替える人たちです。医療機関を何度も替えることほどムダな医療費の使い方もありません。たしかに、満足いく診察が受けられなかったので医療機関を替えたいということがあるのは分かります。しかし、ならば「ここで診てもらえないなら適切な医療機関を紹介してください」と言えばいいわけです。

 そんなことを言うと失礼じゃないの・・・。そのように感じる人もいるかもしれません。しかしそんなことはありません。我々医師は病気で苦しんでいる患者さんを放っておくことはできません。自分で診ることができないなら、その症状や疾患に適した医療機関を紹介するのは医師のミッションのひとつです。ですから、遠慮なく「では適切な医療機関を紹介してください」と言えばいいのです。

 ちなみに私が医学部の学生時代に(研究者でなく)医師になろうと考えたきっかけのひとつが、こういった患者さんの力になりたいと思ったということです。どこの医療機関を受診していいか分からず何軒も受診して(症状は取れないのに)診察カードばかりが増えました・・・。医学部の学生の頃にこのような訴えを何度か聞く機会があったのです。研修医を終えてから、私はタイのエイズ施設にボランティアに行きましたが、そのとき欧米から来ていた医師たちはエイズ専門医ではなくプライマリ・ケア医(総合診療医・家庭医)でした。彼(女)らは、患者さんのあらゆる症状を聞いて治療にあたっていたのです。プライマリ・ケアが重要であることを改めて実感した私は、帰国後母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩き、本格的なプライマリ・ケアの修行にのぞむことになりました。

 話を戻しましょう。医療費を安くする最善の方法は、自分のかかりつけ医を持つことです。そして健康に関することならどんなことでも相談すればいいのです。より高度な医療が必要であれば、かかりつけ医は適切な医療機関に紹介状を書いてくれます。こんなこと相談していいのかな・・・、と感じる必要はありません。実際、谷口医院に長年通院している患者さんは実に何でも尋ねてきます。飼おうと思っているペットの相談、友達にすすめられたけど躊躇している健康食品について、筋トレやマラソン時の栄養補給について、といったこともよく質問されます。自分自身のことでなく家族やパートナー、知人のことでも相談を受けます。さすがに、最近飼い猫の元気がないんですが・・・、という相談には力になれませんが・・・。

 私からみれば、多くの人たちはかかりつけ医をもっと頼るべきだと思います。そうすれば、より早く病気が発見され早期治療ができますし、正しい予防の方法が学べます。また、高価なサプリメントや美容関連の出費で後悔することが防げるかもしれません。

 患者さんはかかりつけ医をもっと頼るべきと私は考えていますが、一方で、行政のかかりつけ医に対する期待は我々の想定以上のものです。厚労省保険局医療課長の宇都宮啓氏が、最近医療関連のウェブサイト「m3.com」のインタビューに答えています(注3)。宇都宮氏によれば、「患者さんに24時間対応する役割を果たすのが本来のかかりつけ医」だそうです。

 この言葉は行政の忠告として受け止めはしますが、現実的には24時間の対応は(私には)無理です。私は現在のクリニックを開業したとき最初の1年間はクリニックに寝泊まりしていたのですが、朝までぐっすり眠れることはほとんどありませんでした。ひっきりなしに患者さんから電話がかかってくるからです。それも直ちに医療を要するような例はほとんどなく「深夜の悩み相談室」になっていました。現在私が通常の診療以外にしていることはメールでの相談と午前7時から9時の電話応対です。これが現時点での限界であり、厚労省の役人が期待する「24時間対応」が理想であることは認めますが、実際にはできません。

 お役人からすると、こんな私は「かかりつけ医失格」となるのでしょうが、すべての人が24時間対応するかかりつけ医を持てるとは到底思えません。24時間対応のかかりつけ医を持っていない人は、とりあえず24時間”非対応”の(私のような)かかりつけ医を持つことから始めればどうでしょう。それが結局は医療費を最も安くする方法に他ならないのです。

注1:これら56の疾患については難病情報センターの下記のサイトを参照ください。
http://www.nanbyou.or.jp/entry/513

注2:強直性脊椎炎は国が指定する「特定疾患治療研究事業対象疾患」には含まれていませんが、東京都には助成制度があります。(しかし東京都だけです) 関節リウマチは「悪性関節リウマチ」であれば56疾患のひとつですが、動けないほどの重症であったとしても「悪性関節リウマチ」の条件を満たさなければ難病の認定はされません。

注3:このインタビューは「m3.com」のサイトで読めますが、会員登録が必要で、しかも会員には医師しかなれないかもしれません。一応URLを付記しておきます。
http://www.m3.com/iryoIshin/article/197571/?portalId=mailmag&mmp=RA140404&mc.l=37066120

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2014年3月10日 月曜日

2014年3月号 医療費を安くする方法~中編~

 医療費をできるだけ安くする方法として前回述べたのは、診察代は基本的に同じであるから、検査を必要最低限のもの減らして、薬を可能であれば後発品(ジェネリック薬品)にする、というものです。今回は診察代について掘り下げていきたいと思います。

 まず、前回私は「診察代は基本的に同じ」としましたが、正確に言うとその人の疾患によって異なってきます。前回は、紹介状なしで大きな病院に行くと、通常の初診代とは別に数千円から1万円くらいの別料金が徴収されることを述べました。

 大きな病院でない普通の診療所やクリニックであれば初診代は一定に決められており、3割負担で810円(平日の18時以降と土曜日の12時以降はプラス150円)です。これはどのような疾患で受診しようが、3分で診療が終わろうが30分以上かかろうが同じです。もっとも、初診で診察時間が3分などということはあり得ませんが。

 診察代が患者さんごとによって変わるのは「再診」のときです。まず「再診」の定義から考えていきましょう。例えば風邪で2013年3月に一度受診して1年後の2014年3月に再び受診したときには「再度診察を受けた」のは事実ですが「再診」とはみなされません。「再診」とは同じ疾患で継続して受診している場合を差します。

 では、数年前から年に1~2度じんましんが出るという人が、2013年3月にじんましんである医療機関を受診(初診)して1年後の2014年3月に再び受診したときはどうでしょう。この場合は同じ「じんましん」ですが、通常はこの場合も「初診」とみなされます。1年間は期間が長すぎるからです。つまりいったん治療を終了して1年後に改めて診察が始まったと考えられるというわけです。

 では、2013年3月にじんましんで受診して1ヶ月後の2013年4月に同じじんましんで受診したときはどうなるかというと、これは「再診」になると思われます。では、3ヶ月後ではどうか、6ヶ月後ではどうか・・・、という疑問が出てきます。これについては下記のような規定があります。(以下①②③などの番号はこのコラムを分かりやすくするために便宜上つけたものです)

①患者が任意に診療を中止し、1月以上経過した後、再び同一の保険医療機関において診療を受ける場合には、その診療が同一病名又は同一症状によるものであっても、その際の診療は、初診として取り扱う。(『保険診療の手引き』2012年4月版全国保険医団体連合会より)

 これをそのまま読めば、1ヶ月から1日でも過ぎれば新たに初診代がかかることになります。再診代は370円ですから(正確には狭い意味での再診代210円に「外来管理加算」と「明細書発行体制等加算」というのが加わり合計370円になります。平日18時以降と土曜日12時以降はプラス150円になります(注1))、初診代の半額以下になります。つまり「初診」と「再診」で440円もの差が生じるわけで、できることなら「再診」にしてもらいたいものです。

 ここで①の「患者が任意に診療を中止し」に注目してみましょう。「任意に診療を中止する」というのを素直に解釈すれば、「患者側の自己判断で治療を中止した」ということになります。しかし、先に例にあげたじんましんであれば、通常は「薬をしばらく飲んで症状が消失すれば再診されなくてかまいません。再発すれば受診してください」と言われることが多いわけです。例えば2ヶ月後に再発して受診したときに、これが「患者が任意に診療を中止した」とは言えないでしょう。私自身が患者ならそのように思います。

 もっと分かりやすい例を挙げましょう。高尿酸血症で尿酸値を下げる薬を飲んでいる患者さんがいたとしましょう。この患者さんは治療開始までは尿酸値が高値を示しており痛風発作を起こしたこともありましたが現在は安定しています。そこで2013年3月の受診時に2ヶ月分の薬が処方され次回は薬の切れる2ヶ月後に受診するように言われたとします。そして予定通り2ヶ月後に受診した場合「患者が任意に診療を中止した」わけでないのは自明です。
 
 実は①の規定には次のような続きがあります。

②(①にかかわらず)慢性疾患等明らかに同一の疾病または負傷であると推定される場合の診療は、初診として取り扱わない。(同書より)

 つまり、その病気が「慢性疾患」であれば期間があいても「再診」になるというわけです。では、この高尿酸血症の患者さんが薬を飲み忘れることが多く、2ヶ月分の薬を処方されたけれどなくなるまでに4ヶ月かかり4ヶ月後に再診されたとしましょう。この場合は「初診」「再診」のどちらでしょうか。

 規定には次のような補足があります。

③社会通念上治癒したと認められる状態(療養中止後自覚症状もなく相当期間継続して業務に服し日常生活に支障がない)の後に再発した場合は初診料は算定できる。(同書より)

 薬を飲み忘れて2ヶ月後の受診予定が4ヶ月後になったとき、規定の読み方によっては①の「患者が任意に診療を中止し」に該当すると解釈できなくはありません。また(元々高尿酸血症に自覚症状はありませんから)痛風発作などを起こしていなければ③の「日常生活に支障がない」に該当します。したがって、この場合は規則の解釈の仕方によっては「初診」とされるかもしれません。

 この解釈は医療機関によって変わってくる可能性があります。太融寺町谷口医院(以下、「谷口医院」)ではこのようなケースでは「再診」にしていますが「初診」とする医療機関もあるかもしれません。先にあげたじんましんのケースでも谷口医院では「再診」にしていますが「初診」としているところもあるかもしれません。

 では、例にあげたじんましんのケースでも高尿酸血症のケースでも、5ヶ月後、6ヶ月後ならどうでしょうか。このあたりの対応は医療機関により様々だと思われます。谷口医院では、だいたい6ヶ月を目処にしています。つまり慢性疾患であれば6ヶ月以内に受診されれば特別な理由がない限りは「再診」の扱いにしています。もっと長い場合もあります。例えば、膠原病で抗核抗体やいくつかの自己免疫系の抗体が陽性となっており定期的な経過観察は必要だけれども症状がないという場合、「症状がなければ1年後の採血で充分です」というようなときは1年後でも「再診」としています。

 今までみてきたのは「同じ疾患」の場合です。別の疾患で受診した場合はどうでしょうか。例えば2013年3月にインフルエンザで、2013年4月に水虫で受診した場合はどうなるでしょう。これには次の規定があります。

④第1病が治癒した後であれば第2病が短時日後の診療開始でも初診料は算定できる。(同書より)

 これを文字通りに解釈すれば、1ヶ月後でなくても、例えばインフルエンザで受診した2週間後に水虫で受診しても新たに「初診」とされてしまいます。しかし患者さんの心理として、わずか2週間後の受診で「初診」というのは納得しがたいのではないでしょうか。それに、通常は2回目の水虫の受診のときにも医師は「インフルエンザはその後どうでしたか」といった質問はするわけで、例えば患者さんが「熱は数日で下がりましたが咳はその後しばらく続いていました。今は元気です」と答えた場合、これはインフルエンザの再診に該当すると言えなくもありません。

 このあたりの解釈は医療機関によって異なると思います。谷口医院でもケースバイケースにしていますが、通常はまったく別の病気で受診されたとしても1ヶ月以内であれば「再診」としています。

 以上みてきたように「初診」「再診」というのは一見簡単そうで実は相当複雑です。「任意に診療を中止」「社会通念上」「相当期間」といった言葉は解釈に幅がありますし、①と②、あるいは②と③は互いに矛盾しているように見えなくもありません。これだけ複雑ですからまったく同じような状況であったとしても医療機関ごとに対応が異なるのはある程度はやむを得ないのです。

 そして、診察代には今回みてきた「初診」「再診」以外にも複雑なからくりがあります。次回はそれについて解説を加え、その上で診察代を安くする方法を検討していきたいと思います。

注1:外来管理加算は多くの場合で算定されますが、されない場合もあります。何らかの処置をおこなったときは算定されません。手術、熱傷や傷の処置、関節内穿刺、(イボなどに対する)液体窒素療法などが代表です。これらの場合、外来管理加算が算定されない代わりに処置料がかかります。家族の者が代理に受診した場合も外来管理加算は算定されません。原則として受診は本人がおこなわなければなりませんが、どうしても受診できない事情があり、様態が変わっておらず必要な薬が慢性疾患のものであれば、同居している家族が代わりに受診することができます。あとは、過去に「診察時間が概ね5分以下の場合は外来管理加算を算定しない」といったルールが決められたこともありましたが、現実的でないとの理由で現在は撤廃されています。

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2014年2月10日 月曜日

2014年2月号 医療費を安くする方法~前編~

  昨年(2013年)に太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)を受診された患者さんのなかで印象に残っているのは、やはり難治性の疾患の告知をしなければならなかったケースです。なかでもガンとHIVは、病名を告げたときに「まさか・・・」という顔をされる患者さんも少なくなく、病気を受け入れるのにそれなりの時間がかかります。

 こういった疾患の告知をした場面というのは私の心の中にも長く残ります。患者さんの言葉、例えば「数ヶ月前の健康診断では何も異常がないと言われていたのに、まさかガンだなんて・・・」とか、「思い当たることがないわけではないけれど、まさかあの程度のことでHIVに感染するなんて・・・」、といった言葉はふとしたときに私の頭をよぎります。

 昨年一年間に受診された患者さんのなかで、このような難治性の疾患を告知したわけではないのだけれど大変印象に残った患者さんが一人います。その患者さんは30代の女性で、自宅はそれほど近くないものの、何年も前から健康上のことで何かあったときに谷口医院に相談されているという人です。

 その患者さんはある慢性疾患を有しており、ときどき薬が必要になります。そのときは別のことで受診されていたのですが、その「ときどき必要になる薬」も処方してほしいと言われました。その薬は大変すぐれた薬なのですが、欠点は値段が高いことです。しかし、その薬の後発品(ジェネリック薬品)が近いうちに発売になる予定だったため、私は「次回からは安くなりそうですよ」と言いました。

 すると思いもよらぬ言葉が返ってきました。なんと、その患者さんは、「ならば今の症状は我慢してその後発品が発売になったときにまた受診します」と言ったのです。

 私はこの言葉に大変驚きました。後発品は先発品に比べて4割くらいは安くなりますが、改めて受診されるとなるとまた診察代も必要になります。それに、薬は1種類であろうが10種類であろうが、その都度「処方代」というものがかかりますから、複数の疾患や症状がある場合は、まとめて薬を処方する方が患者さんの負担は低くなるのです。

 私はそのことを伝えて、実際にいくら差が出るのか電子カルテを使ってその場で計算してみました。結果は550円の差でした。550円というのは昼食1回分以上に相当、と考えれば大きな金額かもしれませんが、その間にその症状が悪化するかもしれない、というリスクがあります。それにこの患者さんは自宅が谷口医院から近いわけではありません。谷口医院まで受診する時間と交通費を考えると、550円を節約する意義はほとんどないと私には思えました。

 しかしこの患者さんは私の説明にすぐには納得しません。しばらく考えた結果、「ではやっぱり今日処方してください」となり、この日はこれまで通り先発品を使うことになりました。

 この日の夜、診察が終わってからもう一度この患者さんのことを考え直してみました。この患者さんは数年前からときどき受診されています。最初の頃は、皮膚疾患を中心に、その後は風邪や禁煙治療、胃炎、膀胱炎、やけど痕の相談、などで度々受診されていました。いつも綺麗な格好でやって来られ、それほどお金に困っているようには見えませんでした。たしかに、保険証は国民健康保険ですから正社員ではないのでしょう。しかし、それにしても普通に日常生活を送っている30代の女性が550円を節約するために、症状を我慢して時間をかけて改めて受診することを検討する、というのは私には理解しづらいことでした。

 今、私はこう考えています。もちろん全員ではありませんが、医療費を数百円でも、いえ数十円でも節約したい、と考えている人はきっと大勢いるに違いない。新聞の報道では、景気が良くなり失業率も低下している、とされているが実態は必ずしもそうとは言えないのではないか。実際、谷口医院には依然として「仕事が見つからない」「お金がない」と言っている患者さんは少なくありません。

 それによく考えてみると、私自身も、貧困に悩んでいるわけではありませんが、例えば休日にスーパーに行くことがあれば、お総菜に「20円引き」のシールが貼られる夕方以降を狙って行きますし、本を読みたくなったときは、(最近私は読書をするときはできるだけiPADでkindleを利用しています)、無料の本を読むことが多いのは事実です。(話がそれますが、最近は著作権の切れた古い本がAmazon(kindle)で無料で読めます。私はこれはものすごく画期的なことだと思うのですが、なぜかマスコミなどではあまり取り上げられません。誰の利益にもならないからでしょうか・・・)

 話を戻しましょう。私がこの患者さんの考えていることが最初理解できなかったのは、今の症状を緩和するためにその薬は必要でありその薬の価値はその金額以上のものである、と無意識的に思い込んでいたからです。しかし、よく考えてみると、550円は550円であり、それがお総菜にあてられようが書籍代として消費されようが、薬代に費やされようが貨幣価値は同じです。

 私は勤務医の頃、薬の値段も検査の費用もほとんど知りませんでした。必要なものは必要でありお金の話をするのはおかしい、と思い込んでいたのです。そして今も多くの勤務医は以前の私と同じように費用のことをそれほど考えていないと思います。私は開業医となって初めて薬の料金がこれだけ違うことを知りました。例えば、勤務医の頃、同じように処方していた2種類の抗生物質が、一方は1錠10円、もう一方は1錠400円なんてこともあるのです。

 谷口医院を開業してからは医療にかかる費用についてかなり勉強したつもりでしたが、患者さんの本当の気持ちまでは理解できていなかったのではないかと、先に紹介した患者さんの言葉を聞いて思いました。

 ここからは医療費を安くする方法を提案していきたいと思います。

 まず押さえておきたい基本的なことは、診察代も薬代も検査代も、同じ内容であれば原則として日本全国どこの診療所・クリニックでも同じ、ということです。ときどきこの点を理解していなくて、「こちらのクリニックが安いって聞いたんですけど・・・」と言って受診される人がいますが、それは谷口医院が(おそらく)後発品中心の処方をしているからそのように思われただけであって、診察代を安くしているわけではありません。ただし(大きな)病院の場合は紹介状がなければ数千円から1万円程度の別料金が徴収されます。最初に受診するのは診療所・クリニックが適しているのはそういう理由もあります。

 診察代はどのような診察内容でも変わりませんから、節約を検討するなら薬代と検査代、ということになります。(手術については術式が同じで麻酔薬など手術時に使う薬が同じなら原則として同じ料金になります) 薬については「できるだけ安い薬にしてください」と診察室で医師に伝えればいいと思います。谷口医院にも「少々副作用の眠気が出てもいいから安い薬を処方してください」とか「きちんと薬を飲みますから1日1回型の高い薬よりも1日3回でも4回でもいいですから安い薬にしてください」とか話される患者さんがいます。ただし、症状や病気の種類によっては、高い薬しかない、もしくは安い薬だと治るのに時間がかかるかもしれない、といったことはありえます。そのあたりの説明は納得いくまで聞かれればいいと思います。

 検査については必要最低限のものに絞っていけばいいと思います。特にCTはお金がかかるだけでなく被爆の問題もあります。東日本大震災以降はこの点がクローズアップされているようで「レントゲンだけでなくCTを撮影してください」という患者さんが以前に比べると減っているような印象があります。

 医師の側からすると、「現段階ではこれ以上の検査は不要です」と言うと、「せっかく受診したんだから検査してください」と言われることがあり(私自身も数え切れないくらい言われています)、「お金を払うって言ってるでしょ!」と患者さんに怒られた経験もあるために(これも何度もあります)、「緊急性はありませんが検査しましょうか」と言うこともあります。(ただし、まったく不要と思われる検査はいくらお願いされてもできません) 医療費を節約したいと考えている場合は、医師から検査をすすめられたときに「どうしても今しなければならないですか」と尋ねてみるのがいいでしょう。

 次回に続きます・・・。

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