マンスリーレポート

2015年4月10日 金曜日

2015年4月号 「医療否定本」はなぜ問題か(前編)

  ここ数年でいわゆる「医療否定本」という言葉を頻繁に聞くようになってきました。現代医療を否定する本は以前からありますが、一昔前までは、宗教者が書いたものであったり、自社製品を売りたいがために健康食品の会社が出版したものであったりと、そういうものが大半だったのですが、ここ数年は医師による医療否定本がブームになっています。

 なかでも、元・慶應義塾大学医学部講師の近藤誠先生の『医者に殺されない47の心得』という本が飛び抜けて売れているそうです。最近、患者さんからも「どう思いますか」と聞かれることが増えてきたこともあり私も読んでみました。

 近藤先生に批判的な意見が多いのは以前から知っていましたが、私自身は近藤先生の書籍は医学部の学生の頃に何冊か読んでおり、先生の残された功績は素晴らしいものと考えています。最も尊敬に値するのは、今では標準的治療とも呼べる乳癌に対する「乳房温存術」を日本で広められたことです。それまでは、ハルステッド法といって乳房のみならず大胸筋までごっそりと取ってしまう手術が主流だったのです。乳房温存術では可能な限り取り除く部位を最小限にするために、術後、胸のかたちに悩まされることがなくなるのです。

 また、異論はあるものの近藤先生の「がんもどき」という考え方は興味深いものです。これは、ガンには2種類あり、ひとつは「本物のガン」、もうひとつがにせもののガン、つまり「がんもどき」という考えです。本物のガンは検診では発見することができず発見されたときには助かる術がない。だから何もすべきでない。一方、「がんもどき」は悪化しないからもともと何もする必要がない、とするものです。ここからガン検診は不要でありすべてのガンは「放置」すべき、という理論に発展します。

 すべてのガンは検診すべきでなく見つかっても放置すべき、などという理論に賛成するわけにはいきませんし、すべて「放置」するなら、以前は近藤先生自身が推奨されていた乳ガンに対する「乳房温存術」すらすべきでない、ということになり自身の主張が矛盾することになります。

 ただ「がんもどき」という考えがまったく間違いかというとそうではなく、ひとつ例をあげれば、私は甲状腺ガンの大半が「がんもどき」ではないかと思っています。甲状腺ガンの発症世界一は韓国で、1999年には年間2,866人しか診断されなかった甲状腺ガンが2013年にはなんと53,737人に診断がついています。この間でおよそ19倍も増加しているのです。現在韓国では人口10万人あたり97人が甲状腺癌の診断を受けていることになり、これはダントツで世界一位、世界平均の10倍以上になります。では、韓国で甲状腺ガンによる死亡数が減っているのかというと、これがまったく減っていないのです。

 なぜ韓国でこれだけ甲状腺ガンがみつかるかというと、超音波検査を健康診断でほぼ全員に実施するようになったからです。余計な検査をしたせいで「がんもどき」が見つかり、見つかれば手術で甲状腺を摘出することになります。おまけに手術をするとその後は一生涯甲状腺ホルモンを飲み続けなければなりません。患者さんの負担は相当なものになりますし、医療費を圧迫することにもなります。

 しかし、甲状腺ガンによる死亡数が減っていないということは、助からないガンは助からないわけで、検診にも意味がないということになります。このことだけを取り上げると近藤先生の「がんもどき」理論は正しいように思えます。

 では他のガンはどうなのでしょうか。近藤先生は「がんもどき」理論をすべてのガンに広げ「ガン検診は一切不要」と主張します。しかしこれはあまりにも極論です。ひとつ例をあげると子宮頚ガンは定期的に検診をおこなうとほぼ100%早期発見が可能です。もしも「放置」をすると早期発見の機会が失われ助かる命が助からなくなります。

 子宮頚ガンは比較的多いガンで有名人が罹患したことがしばしば報道されます。最近ではシーナ&ロケッツのシーナさんが、発見が遅れたために61歳で死亡されました。ZARDのヴォーカリストであった坂井泉水さんは、直接の死因は階段からの転落死ですが、子宮頚ガンの発見が遅れ肺に転移も認められていたことが報道されています。ガンの肺転移が見つかっていたということは、この不幸な転落事故がなかったとしても命は長くなかったことが予想されます。

 我々医療者がこのような報道を聞くと、「有名人でなかなか検診を受ける機会がなかったのだろうが、検査を受けてさえいれば・・・」という気持ちを拭えません。しかし近藤先生は「二人の子宮頚ガンはがんもどきでなく本物のガンだったのだから検診を受けていても無駄だった」と言われるのでしょうか・・・。

 子宮頚ガンは早期で発見できれば、円錐切除術といってごく一部を取り除く手術、もしくは放射線療法でも完全治癒が期待できます。(他にも治療方法がありますがここでの言及は避けます) しかしある程度発見が遅れると子宮をすべて摘出する必要があります。このタイミングを逃すと(坂井泉水さんのように)肺など他臓器に転移し助からなくなります。

 ガンの発見が遅れたものの、子宮全摘をすることによって命が助かり現在も活躍されている有名人に森昌子さんがいます。現在は政治家の三原じゅん子さんも子宮頚ガンで子宮全摘をされています。近藤先生はこの二人に対しても「今生きているということはがんもどきだったのだから子宮を取るべきではなかった」と言われるのでしょうか・・・。

 私が医学部の学生の頃に読んでいた近藤先生の著作はガンに関するものばかりだったのですが、『医者に殺されない47の心得』には他の疾患についても意見を述べられており、これらには同意できるものもあるのですが、問題だと言わざるを得ないものも目立ちます。

 例えば同書のなかで「インフルエンザワクチンを打ってはいけない」と断言されています。結論から言えばこれは間違いでインフルエンザのワクチンは有用です。ただ、ワクチンに対していろんな意見があってもいいとは思いますし、それを自身の本で主張することは「表現の自由」だと思います。(私自身も子宮頚ガンのワクチンを定期化して中学1年生の女子全員に接種するという考えには反対です) ただし、近藤先生が言っているその理屈が卑怯であり、故意に読者をミスリードしようとする意図が感じられます。

 インフルエンザワクチンを打ってはいけないその理由として、近藤先生は「WHO(世界保健機関)も厚生労働省も、ホームページ上で、インフルエンザワクチンで、感染を抑える働きは保証されていない、と表明しています」と書いています。これだけを読めば、WHOも厚労省も「推薦していない」ワクチンをすすめる医療機関は悪徳商法ではないのか!と読者をミスリードすることになりかねません。

 この書き方が卑怯なのは、あたかもWHOや厚労省がインフルエンザワクチンをすすめていないような表現をとっていることです。実際は、もちろんWHOも厚労省もインフルエンザワクチンが重要であることを訴えています。感染抑制効果については年により異なり、たしかに2014年終わりから2015年の初めにかけて流行したインフルエンザにはワクチンの発症抑制効果は期待はずれでした。これはWHOがこのシーズンに流行ると予想していた型と別の型のウイルスが流行したためです。しかし、この場合でも重症化を防ぐことができ、他人への感染リスクを下げることができます。

 仮に、重症化を防ぐことや他人への感染リスクを減少させる効果も期待していたほどではなかった、という新しい事実が将来判明したとしましょう。それでも、現在WHOも厚労省もインフルエンザワクチンを推薦しているのは事実であり、あたかもこの事実がないような誘導をするのは問題です。

 もうひとつ例を挙げましょう。同書のなかで近藤先生は「ERCPで急性膵炎が生じることは決して少なくなく、本当に死亡する場合もあるのでおすすめできません」と書いています。ERCPというのは内視鏡的逆行性胆道膵管造影のことで、十二指腸まで内視鏡を入れて胆道と膵管の造影剤を注入する検査です。ERCPは急性膵炎が生じることがあり、死亡例があるのも事実です。ここまでは間違ったことは言っていません。しかし、この箇所を素直に読むと「胆管と膵臓の検査自体が無用だから受けるべきではなかった」と解釈できます。

 現在は胆管や膵臓の検査にはERCPではなくMRCPを用います。MRCPであれば急性膵炎が起こらずに安全に検査ができるからです。MRCPをあえて避けてERCPを実施することなどほとんどないはずです。そして近藤先生はそれを知らないはずがありません。MRCPの存在を知っていてERCPの危険性だけを主張するのは悪意あるミスリードではないでしょうか。

 医師が書く「医療否定本」で最も問題だと思うことを今回述べる予定でしたが、近藤誠先生の『医者に殺されない47の心得』の批判で予定の文字数を越えてしまいました。次回はその「最も問題なこと」について述べたいと思います。

参考:
『患者よ、がんと闘うな』文春文庫
『医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法』アスコム
『「治るがん」と「治らないがん」 医者が隠している「がん治療」の現実』講談社+α文庫
『よくない治療、ダメな医者から逃れるヒント』講談社+α文庫

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2015年3月10日 火曜日

2015年3月号 競争しない、という生き方

 日頃温厚な人が突然怒り出すと驚かされますし、自分が何か悪いことをしたのだろうか・・・、と反省させられます。そしてこのような経験をすると記憶からなかなか消えないものです・・・。

 私は大学(医学部ではなく関西学院大学社会学部)を卒業した後、大阪に本社がある中堅の商社に就職しました。1991年4月25日(だったと思います)は、私が生まれて初めて給料をもらった日です。学生の頃にアルバイトはしていましたが、それほど稼いでいたわけではなく初めて「大金」を手にした日です。もちろん「大金」といっても20万円ほどですが、それでもまとめてこのようなお金を手に入れたことはありませんでしたから嬉しいものです。

 初めての給料日には同期で飲みにいきました。そこで給与明細の見せ合いをしたときに、その席にいた同期の二人よりも私の基本給が低いことがわかりました。たしか2千円くらいの差で、私はそれほど気にならなかったのですが、この出来事を翌日の昼休みに上司に話すと、普段は温厚なその上司が突然怒り出したのです。そして、「総務部に抗議しにいってくる!」と言って部屋を飛び出しました。

 基本給の差の原因は年齢にありました。給与明細を比べた二人は一浪で大学に入っていたために、私よりも実年齢が1つ上だったのです。その会社ではキャリアよりも年齢をベースに給与を算出していたのです。総務部でこの説明を聞き、その上司も納得して戻ってきました。私自身は、まだ仕事らしい仕事が何一つできていない自分が給料をもらうこと自体に後ろめたさも感じていましたから、同期より低くても全然問題はなかったのですが、その上司の行動には驚かされました。

 平成不況が深刻化した1997年から1999年にかけて、私と同年代のサラリーマンは自主退職もしくはリストラの危機にさらされるようになりました。1968年生まれの私と同世代の大卒は「バブル組」と呼ばれ、希望すればどこにでも就職できた恵まれた世代です。しかし平成不況が長引くと、自社にとどまるのがむつかしく退職すれば仕事がない、という悪夢のような時代へと移っていきました。

 その後、いったん持ち直したかのようにみえた日本経済はリーマンショックで再び奈落の底へ落ちていきました。大卒でも就職できない若者がクローズアップされたためにあまり目立ちませんでしたが「バブル組」たちのリストラは一層過酷なものとなっていました。

 私と同世代のある男性は「次は自分かもしれないと思うと、同僚がみんなライバルにみえて本音で話せない」と言っていました。また、別の男性は「人事部の自分は、これまで仲良くやってきた同期の人間も解雇しないといけなくて辛い・・・」と話していました。結局この男性は良心の呵責に耐えきれずに自ら辞表を提出したそうです。「今になって思えば、自分から退職を申し出ることを会社は予測していたに違いない」と言っていました。

 資本主義は競争社会と言われることがあります。ライバルの同僚が会社に残れば自分はクビになる・・・。他人を蹴落とさなければ出世できない・・・。会社に残るためには勝ち続けなければならない・・・。これらはたしかに見方によっては「事実」かもしれません。けれど、こんなことばかり考えていればて生きていくのがイヤになってこないでしょうか。

 いっそのこと競争社会からおりてみればどうでしょう。あるいは、初めから競争社会に入らない、という選択肢はどうでしょう。

 実は私自身は、それを初めから意識していたわけではないのですが、競争とは縁のない人生を送っています。先に述べた新卒で入社した会社は、当時全従業員が800人程度の会社で決して大企業ではありませんでした。希望すればほとんどの大企業に内定がもらえたあの時代に私はあえて大企業を避けました。その理由はいくつかありますが、「大企業の中での競争がしんどそう」というものと「全体を見渡せるようになりたい」というのが大きなものです。

 大きくない企業なら会社全体を把握しやすく、いろんな勉強ができると考えたのです。また、大きくない企業なら同じ部署内での競争もあまりないだろうと考えました。私は海外事業部に配属されましたが、同期は女性一人のみ。その女性は外国語大学出身で入社時からすでに英語を話せていましたから、まったく英語のできない私は競争相手にすらならなかったのです。

 結局、勉強させてもらうだけさせてもらい、会社にほとんど貢献することなく退職することになった私は、その会社や当時の先輩社員には今も頭が上がりません。いろんな意味で私を成長させてくれたその会社は、今も安定した実績を維持しており平成不況のなかでもリストラをしなかったと聞いています。

 私が就職活動をしているとき、同級生のなかに、「電通と伊藤忠と住友銀行とNTTを受ける」と言っていた者がいましたが、私にはいったい何をやりたいのかが分からないこういう考えが理解できません。とはいえ、当時はこのような「ブランド志向」の若者が大勢いましたし、おそらく今もこのような者はいるでしょう。

 会社を辞めた私は医学部受験に専念することになります。医学部受験も競争、という意見があるでしょう。しかし、私が言っている「競争社会からおりる」とは意味が全然違います。私は、努力を放棄せよ、と言っているわけでは決してありません。むしろその反対で、人間は生涯に渡り努力をし続けなければならない、という考えをもっています。私が避けるべきと考えている「競争」とは、「身近な人との競争」です。

 医学部受験では自分が合格すれば誰かが不合格になります。しかし合格した者はその不合格の者の顔を知りませんし、不合格の者も合格した者の顔が分かるわけではありません。同じクラス全員が同じ医学部受験をすればそういうことが起こるでしょうが、もしもこのようなことがあるとすれば、むしろ一致団結し、顔の見えない他校の生徒に勝つことを考えるはずです。

 TOEICを私が初めて受けたのは会社に入って間もない頃ですが、このときの点数は500点に満たないものでした。それから、努力を開始し、もちろん身近な人に勝つためではなく自分の英語力を高めるためですが、毎回受ける度にちょうど50点ずつくらい面白いように上がっていきました。会社を辞める直前に受けたときの点数が、たしか896点で、これが私の生涯の最高得点です。それからは医学部時代に一度だけ受けましたがこのスコアを超えませんでした。今も受けたいのですが、試験を受ける時間がないという言い訳をしてさぼっています。次回は医師をリタイヤしてから受けるつもりです。

 社員全員がTOEIC受験を義務づけられ下位10%がリストラの対象になる、とされればどうなるでしょう。もしもこのようなことが起こると職場はギスギスしたものになり、例えば過去問が手に入ったとしても、同僚に秘密にするかもしれません。つまり、このような社内での競争はすべきでないのです。

 もしも会社が社員の英語力を上げたければ、部署ごとの平均点を出して、前年よりも平均点が高くなればプレゼントを贈る、というような方式にすべきです。こうすれば全員が努力するようになりますし、英語の得意な者は苦手な者に率先して教えることをするはずです。コミュニケーションが潤滑になり団結力が向上します。

 私のもうひとつの母校である大阪市立大学医学部にはキャンパス内に「グループ学習室」という素晴らしい部屋があります。この部屋に気の合ったグループが集まり、分からない問題を提示してグループ全員で考えたり、当番の者が事前に勉強してきたことを披露したりするのです。もちろんグループ学習をしようと思えば、自分ひとりだけ分からない、ということがあれば進行の妨げになりますから、グループ学習に備えて独りで勉強する時間も確保します。

 医師の世界を競争社会と思っている人もいるようですが、実際はそうではありません。教授選のときはそうなんじゃないの?という人もいますが、そもそも医学部の教授を目指す人自体があまりいませんし、多くの医師は「ポスト」というものを重視しません。役職がつけばかえって余計な仕事が増えますから出世を嫌う医師も少なくないのです。私自身もそうです。純粋に医療をおこなうのが医師の醍醐味なのです。

 私自身は現在クリニックの院長という立場ですが、医療機関どうしの競争というものも存在しません。これが例えばコンビニなら、1位はどこで利益が前年比いくらアップで・・・、という話になりますが、医療機関はそもそも営利団体ではありませんし、患者数が多すぎるのも困りますし、目の前の患者さんの健康に貢献できればそれでOKなのです。

 身近な人と競争しなければならない・・・。これほどしんどいこともないのではないでしょうか。たしかにこのような境遇に身を置かねばならない人もいます。代表はスポーツ選手や芸能人でしょうが、政治家、官僚なども該当するでしょう。大企業の社員もそうなのかもしれません。競争大好き!という人はそれでもいいでしょうが、私のようにそういうのをストレスと感じる人も少なくないはずです。

 勉強でも仕事でも努力を怠らない。身近な人とは競争するのではなく協力してグループ全員が能力を高める。こうすれば努力が苦痛でなくなります。

 冒頭で述べた初任給の出来事について、私はそのとき口には出しませんでしたが上司に対して内心このように思っていました。「僕のために行動してくれたことは感謝します。しかし今自分には給与をもらう価値はありません。これから努力を重ね給与を上回る仕事をします。そのときには給与が少なければ自分自身で総務部に抗議にいきます。ただし、同期と比べてではなく、そのときの自分の能力と比べてです・・・」

 結局、能力はさほど上がらずに、先に述べたようにほとんど何も貢献できないまま退職してしまいましたが・・・。

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2015年2月10日 火曜日

2015年2月号 神戸の貴婦人と小さな幸せ

 たしか阪神大震災から半年くらい過ぎた頃だと思うので1995年の夏頃でしょうか。新聞か雑誌のコラムで被災したひとりの女性のことが取り上げられていました。

 その女性は、たしか40代か50代で、裕福な家庭に育ったものの身内の不幸が相次ぎ独りで暮らしていたそうです。そこに震災が起こり自宅まで失ってしまいます。その女性をひとりの記者が取材をしてコラムを書いていたのです。

 その記者によると、震災前に家族をなくし震災で家までなくしたその女性は、悲しい顔を一切見せず、それどころか澄んだ瞳で「家は全壊したけれどあたしはこのとおり元気よ。神様に感謝しなくちゃ」とこのようなことを言ったそうなのです。そして始終笑顔で被災者の人たちのケアをしているというのです。被災者の人たちに何ができるだろうか、と考えて被災地に乗り込んだこのジャーナリストが被災者であるこの女性に逆に元気づけられた、といったようなことが書かれていました。

 私はこの記事を読んだとき、それなりには感動したと思うのですが、何度も反芻したわけではなく、しばらくするとすっかり忘れ去っていました。

 2005年のある秋の日、ある病院の当直室。時間は深夜0時頃のことです。その頃私は極度の疲労感を引きずっていました。当時の私は、タイのエイズ施設に関わっており、数ヶ月に一度はタイに渡航しボランティア活動をおこなっていました。一方、日本では大学の総合診療部の医局に所属し、文字通り休日ゼロで仕事をしていました。「仕事」といっても当時の私はまだまだ勉強しなければならないことが多く、複数の医療機関で無給の修行をさせてもらっていた、というのが実情です。

 しかし、完全に「無給・無休」では生活ができませんし、タイの施設に支援もできません。そこで、週に何日かは短時間の外来のアルバイトや病院の当直のアルバイトをおこなっていました。その秋の日は、午前中は大学病院で自分の外来をおこない、午後は他の先生の外来を見学させてもらい夕方は会議に出席していました。その後、大阪の郊外のある病院で当直のアルバイトをおこなっていたのです。

 アルバイトとはいえ、その日のその病院の当直医は私ひとりです。夜間の救急外来にやってくる患者さんはすべてひとりで診なければなりませんし、入院中の患者さんが急変したときにもひとりで対処しなければなりません。結果として軽症であったとしても何かあれば患者さんは看護師経由で医師を呼びますから当直室でゆっくりすることはできません。

 その日の私は疲労がピークに達していました。夜間に外来にやってきた捻挫の患者さんに対する処置を終え当直室に戻ると、何もする気が起こらず床にしゃがみこんでしまいました。元気のある時なら、かばんの中に入っている医学の教科書を取り出すのですが、どうしてもそのような気にはなれません。

 ふと棚に目をやると昔なつかしい紅茶のパックが置かれていることに気付きました。その横にはお湯の沸いたポットがあります。私は紅茶よりもコーヒーが好きなので、この病院でポットを利用するのはインスタントコーヒーを飲むときとカップラーメンをつくるときだけです。紅茶のパックは私がいつも飲んでいるインスタントコーヒーのすぐ横に置かれていたのですが、このときまで存在に気付いていませんでした。

 たまには気分をかえて紅茶を飲んでみよう。そう思った私は紅茶のパックをカップに入れお湯を注ぎ、スティックの砂糖を入れてかきまぜました。このとき私の鼻腔にふわっと広がった温かく清涼感にあふれた香り・・・。がむしゃらに走り続けようとする私はこの香りに呼び止められたような気がしました。そして、冒頭で述べた被災地の女性のことをなぜか思い出したのです。

 たった一杯の紅茶、それも高級品ではなく、私が小学生の頃に自宅にあったのと同じ紅茶です。子どもの頃何気なく飲んでいた紅茶がこんなにも心を落ち着かせてくれるとは・・・。一杯の紅茶を味わって飲むと、現在の私自身が非常に恵まれていることに気付きます。まず健康であり、日々勉強することができて、患者さんから感謝の言葉をもらい、そしてタイにいるエイズに苦しむ人たちにほんの少しではありますが貢献しています。貯金はほぼゼロで、それどころか奨学金の返済も随分と残っていましたが、若いうちはお金などなくてもなんとでもなります。

 きっと、あの被災地の女性も同じようなことを思ったのではないだろうか・・・。そのとき私はそう感じたのです。家族を亡くし、自宅が全壊し、着るものもなくなった。けど自分は生きている、身体も動く、自分より困っている人に少しとはいえケアをすることさえできる。だから自分は幸せなんだ・・・。その女性はそう感じたのではないかと思えてきたのです。

 それ以降私はこの女性のことを「神戸の貴婦人」と勝手に名付けています。いくら私の記憶がいい加減でも、この記事自体のことを私の脳が作り上げたとは思えませんから、ジャーナリストがこの記事を書き、取材をうけたこの女性が実在したのは間違いないと思います。阪神大震災から今年(2015年)で20年が経過しますから「神戸の貴婦人」は今60~70代くらいでしょうか。

 病院の当直室での一杯の紅茶のこの出来事があってから、私は辛いことがあると「神戸の貴婦人」を思い出すようにしています。そして辛いことがあると、一杯の紅茶のような「小さな幸せ」を探すようにしています。

 私が日々診ている患者さんのなかには「生きていても何もいいことがない・・・」と言う人がいます。うつ病がある程度進行している人の場合は、まず休養をとり、場合によっては抗うつ薬や専門のカウンセリングが必要になりますが、軽症の人であれば、「日々の生活のなかで少しでも幸せなものを見つけてみませんか」とアドバイスすることがあります。

 ある患者さんは、いつも行くコンビニで店員さんにこちらから「おはようございます」と声をかけると笑顔で「おはようございます」と返してくれたんです、と言って喜んでいました。ある患者さんは、朝の散歩できれいな朝日をみてその日一日気分が良かったと話していました。

 反論もあるでしょうが、私自身は「人生は辛いことが大半であり、幸せなことはわずかしかない」と考えています。こんな私は悲観論者になるのかもしれませんが、それが故に「小さな幸せ」が心を落ち着かせてくれることを知っているのです。

 私は2014年1月から左腕が不自由になり、2014年8月に手術を受けました。現在は少しずつ回復していて、手術直後は茶碗を持つことすら覚束なかったのが、現在は手は震えるものの「吉野家」の牛丼並盛りの丼が持てるようになってきました。少しの時間でも左手で丼を持てることがどれだけ嬉しいことか・・・。これも「小さな幸せ」です。

 私がよく利用する吉野家では2014年11月から3ヶ月間、カードにスタンプを貯めれば吉野家特製の茶碗がもらえるというキャンペーンがおこなわれていました。なんとしてもスタンプを貯めて茶碗をもらいたい、と考えた私は11月からちょこちょこと吉野家を利用するようにして、ついに1月末に7つのスタンプが貯まり念願の特製茶碗を手に入れました。ただ、私は牛丼を頼んだときに出てくる丼鉢そのものがもらえると勘違いしていて、実際にもらったのはミニサイズの茶碗でした。しかしそれでもあの模様が入った茶碗を手に入れた幸せ感はもしかすると「小さな幸せ」以上のものかもしれません。

 なんだか最後は自慢話みたいになってしまいました・・・。一杯の紅茶で小さな幸せを見つけたことから、昔新聞か雑誌で読んだ「神戸の貴婦人」のことを思い出し、その後は辛くなると「小さな幸せ」を探すようにしている、ということが今回言いたかったことです。

 日常を振り返ってみると「小さな幸せ」はいろんなところに転がっています。普段はなかなか気付きませんし気付いたとしても照れくさくて口には出せませんが、家族がいる人は家族の笑顔を見ることも幸せなことです。日頃、家族と離れて暮らしている人や家族がいない人でも、何気ない日常を見渡してみると意外なところに「小さな幸せ」がきっと埋もれているはずです・・・。

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2015年1月13日 火曜日

2015年1月号 「総合」なるものの魅力(後編)

  1987年の夏。それは私が関西学院大学理学部に入学できたものの、勉強に興味が持てなくて、というより授業についていけなくて、退学することを考えていた頃です。以前別のところで述べましたが、同じ大学の社会学部の先輩に、ひょんなことから集団力学というものについて話を聞いたことがきっかけで、私は社会学という学問に興味を持つことになりました。

 その後社会学部への編入を考え、そして実行することになるのですが、編入学試験を受けるために社会学の勉強を独学で開始しました。集団力学というのは、集団における人間の行動を研究する学問ですが、私にとっては人間そのものを研究対象にするというのが斬新でした。私が在籍していた理学部では、わけのわからない実験をやらされたり、意味不明な数式を解かされたりしていたわけで、いったい何の役に立つものかがわかりません。人間そのものを研究する学問がとても魅力的にうつったのです。

 社会学の勉強を開始しだしてまず驚いたのは、学問の対象としている領域があまりにも広いということです。社会学で取り上げているのは、法律、経済、宗教、政治、心理、家族、歴史、マスコミ、福祉、・・・、などなんでもかんでも研究対象にしています。これらは法社会学、経済社会学、宗教社会学、家族社会学、などと〇〇社会学と命名された比較的大きなサブグループがあり、また、社会心理学、社会人類学、・・、など社会〇〇学と命名されたものもあります。また、このようなサブグループとしては確立していないものの、社会学が取り上げる領域は、差別、同性愛、賭博、祝祭、犯罪・・・、など人間に関することならなんでもあり、という感じです。

 これは面白い!、と直感した私は社会学に関する本をどんどんと読んでいきました。そして、社会学関連の本を読み進むにつれて、ものごとを多角的に考えるようなクセがついていきました。例えば経済を考えるときには、経済学の教科書には載っていないこと、例えば、人間の欲望や嫉妬心といった心理的な要因、あるいは宗教や政治といった社会的な要因も考察に加えるのです。関西学院大学の経済学部の知人たちは、卒論に、例えばケインズだけを深くとりあげた研究とか、ミクロ経済のある特定の領域を取り上げた研究などをしていましたが、社会学から経済をみると、視点はより幅広いものになるのです。

 前回のコラムで、「総合診療医」は専門医か専門医の対極なのかという議論になるとき、私はある<懐かしい記憶>を思い出した、ということを述べましたが、この<懐かしい記憶>とは、私が社会学部に編入学を考えていたときの記憶なのです。私が考える「総合診療」とは、臓器を診るのではなく、その人のすべてを診て、必要あれば心理・社会背景にまで踏み込み、さらに場合によっては職場や家族での人間関係も考慮する医療のことをいいます。こういうと、それは「全人医療」ですか、と聞かれることがあるのですが、「全人医療」という言葉は手垢がついているというか、これまで様々な場面で使われてきた言葉なので私自身はあまり使っていません。まあ、言葉というのは定義によりますからあまりこだわらない方がいいのかもしれませんが。

 また、「総合診療医」は専門医か専門医の対極なのかという議論になるとき、専門医は「理系」的であり、総合診療医は「文系」的である、という人がいます。後で述べるように、今はこの考え方に同意していますが、理系・文系という分類については、もともと私自身はあまり好きではなく、安易にそのような分類をすべきではない、と思っています。

 ところで、なぜ人は学問に魅せられるのでしょうか・・・。勉強なんかに魅せられるわけがない!と感じる人がいるかもしれませんが、それは学問の面白くないところばかりを強要されるからであって、本来学問とは人間にとって大変魅力的なものです。なぜなら、学問とは「真実」を知るための手段だからです。多くの高校生からみたときには(私の高校時代を含めて)、教科書に書いてあることなんてムダなことばかり、と感じますが、これはつまらないことばかりが書かれているからです。

 しかし、もしも高校時代に先生からこのように言われればどうでしょう。「人間とはいったい何なのでしょう。人はどこから来てどこへ向かおうとしているのでしょうか。いったい世の中の何が正しくて何が間違っているのでしょうか。真実とは何なのでしょうか。それを知るために学問があるのですよ。もちろん教科書に書いていないことで正しいこともたくさんあります。しかし、教科書に書かれていない正しいことを理解するためにも、まずは目の前のある学問に取り組みませんか・・・」

 人生経験のない高校生のこのようなことを話しても理解されることはないかもしれません。私自身も自分が高校生のときにこのようなことを聞いても分からなかったと思います。しかし今なら分かります。そしてこれは私だけではないはずです。「歴史に学ぶ」ことの重要性に気付いて中高年になってから歴史の教科書を読み直す人や、高校時代に挫折した物理の入門書を読み出す人は少なくありません。

 で、私が何を言いたかったのかというと、「真実を知る」ための手段が学問であり、初めから文系と理系を区別するのはナンセンスである、ということです。

 しかし、最近ある新聞のコラムをみて、頑なに「文系・理系を区別すべきでない」とする私の考えも柔軟性を持たせなくてはいけないのかな、と考えるようになりました。

 そのコラムとは、池上彰氏が日経新聞の月曜日に連載されているもので2014年12月8日の内容です。池上氏は東京工業大学の講義で、国内総生産(GDP)の2014年7~9月期の速報値が悪かったことを取り上げ、その原因として民間企業の在庫が減ったことを挙げ、GDPの数字は悪化したが、在庫減少はひょっとすると景気回復のサインかもしれない、という話をされたそうです。すると、学生から「在庫減少がGDPにどのように反映するか、その計算式を教えてください」という質問を受けたそうです。池上氏は「そこが気になったのか!」と、びっくりしたと書かれています。

 私なら、そして多くの”文系”の人たちは、「GDPの悪化が景気悪化を意味するのか、あるいは回復の可能性があるのかを知るために、まずは他のファクターを取り入れて考えてみよう。そして、政治家、経済人、学者、外国のマスコミなど様々な視点からの意見を聞いてみよう」といった発想になると思います。しかし、「理系」である東工大の学生はまずは「在庫とGDPの計算式」なのです。

 池上氏のこのコラムをみて、私が以前から主張している「文系・理系を区別すべきでない」という考えを変えるまでには至りませんが、「理系的な発想」が存在するのは認めざるを得ない、と思うようになりました。

 そして、この「理系的な発想」がまさに、前回のコラムで紹介した「何でも診るということは結局何も診ないことと同じ」と主張する専門医の考え方だと思うのです。専門医というのは特定の臓器の、さらに特定の領域だけを診ます。多くの領域で治療が複雑化していますからこのように一つの小さな領域に特化した医師というのは絶対に必要ではあります。しかし、このような専門医だけでは医療が回りません。

 最近私が経験した患者さんを紹介したいと思います。この患者さんは数年前から風邪、胃腸炎、湿疹、など様々なことで受診されていました。先日、ある2つの皮膚症状を話され、どちらも場合によっては入院しての高度な治療が必要と判断した私は、ある病院の皮膚科に紹介状を書きました。すると、返ってきた返事が「それら2つの皮膚症状は別々のものだから同じ医師が診ることはできない。別々に紹介状を書いてくれ」というものだったのです。患者さんからすれば、同じ皮膚なのになんで分けて受診しなければならないの?となるわけですが、一方医師から診たときには「専門医は専門分野しか診ない」というのも理解できることです。

 文系・理系を区別すべきでない、という考えは変わりませんが、総合診療に取り組んでいる私は「文系的な発想」をしていることになるのかもしれません。そして、これからもこのように多角的な観点から物事を考えるクセは変わらないと思います。私は医学部に入学したときは、研究者として分子生物学を極めて真実にたどり着きたい、と考えていましたが、それを諦めた理由の一つが、分子レベルのミクロの世界の研究よりも人間全体を多角的な観点からみるのが好きということに気付いた(あるいは、思い出した)、というものです。そういう意味で、社会学に魅せられて編入学したことと、医学部でミクロの研究を断念し総合診療を志すようになったことは共通しているのではないかと考えています。

 

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2014年12月12日 金曜日

2014年12月号 「総合」なるものの魅力(中編)

  前回は、私が研修医1年目のときに訪れたタイのエイズホスピスで、ボランティアに来ていたGP(総合診療医)のベルギー人医師から「総合診療」の魅力を感じ取ったこと、研修期間を終えてから再びエイズホスピスに訪問し、そのときにボランティアをしていたアメリカ人のGP(総合診療医)からも多くのことを学んだこと、帰国後に大学の総合診療科の門を叩き、複数の医療機関の複数の科で勉強させてもらうようになったこと、などを述べました。

 その後自分はどのような道を歩むべきなのかについては随分と悩みました。流れに身をまかせるなら、そのまま大学病院に勤務するという道になりますが、この選択肢は比較的早い段階で消しました。

 というのは、大学の総合診療科の外来には、たしかに「どこの科に行っていいか分からない・・・」とか「これまでいくつもの病院を受診したけど診断がつかなくて・・・」といった患者さんも来られ、このような患者さんの診察に私はやりがいを感じますが、多くは診断がつけばそれで終わりになり「この次からは近くの診療所を受診してください」となります。これが大学病院のあるべき姿ですから仕方がないのですが、私としては「気になることがあればまたいつでも相談してくださいね」という医師でありたいのです。

 再びタイに渡航してタイのエイズホスピスでボランティアを続ける、という選択肢も現実的でないという気持ちが強くなってきました。ボランティアを続けるにはどこかでお金を稼がなければなりません。例えば、日本の病院で何ヶ月か働いて、お金が貯まれば再びタイに、という方法はできなくはありませんが、こういう働き方であれば深夜や土日の救急外来のアルバイトや健康診断のアルバイトで稼ぐことになり、このようなことだけをやっていると自分の勉強にはあまりならずに医師として成長できません。医師としてまだまだ勉強しなければならないことがあるのに、このような働き方をしてしまうと結果として患者さんに貢献できなくなります。

 そこで私が最終的に下した結論は、大学に籍を置きながら自分自身のクリニックを開設する、という方法です。この方法なら継続して患者さんを診ることができて「気になることがあればいつでも相談してくださいね」という医療を実践することができます。国内(外)の学会や研究会に参加することもできますし、大学での仕事も続けられますし、研修医や学生をクリニックに招いて研修を受けてもらうこともできます。タイのエイズ患者さんの支援については、年に1回はタイに渡航し、患者さんの直接支援は困難になりますが、エイズ孤児やHIV陽性の人たちをケアしている組織や施設、地域社会を支援することならできます。

 今の私の生活は丸1日休める日は年に10日程度しかありませんし、朝7時前にはクリニックで仕事を開始し、クリニックを出ることができるのは午後9時前後、遅ければ10時を回ります。昼休みもカルテ記載などで休憩時間は食事の時間を入れて20分程度しかありません。労働時間だけをみると明らかに「過重労働」で、身体的にも精神的にもストレスを感じているのは事実ですが、それでも「やりがい」を感じることができています。医学生や研修医から「プライマリ・ケア(総合診療)の醍醐味は何ですか?」と聞かれると、「患者さんからどんなことでも相談を受ける、患者さんから最も近い医者であること」と答えています。

 総合診療が好きでないという医師からよく聞くセリフに「何でも診るということは結局何も診ないことと同じ」というものがあります。たしかに総合診療医は、大きな手術はしませんし、心臓カテーテル検査もおこないません。分娩をおこなうこともありませんし、虫歯の治療もしなければコンタクトレンズの処方もしません。

 では「何も診ていない」のかと言えばもちろんそんなわけはなくて、受診された患者さんの95%くらいは治療をおこなうことができます。この数字は世界どこでも共通しているようで、現在太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)を受診する患者さんに対して、専門病院を受診するよう助言し紹介状を作成するのは全体の5%未満です。しかも紹介状を書けばそれで終わり、というわけではなく専門的な検査や治療が終われば大半の患者さんは再び戻ってこられます。

 ただし、コモンディジーズ(よくある病気)については、可能な限り自分が診るべきだ、という考えはありますから、谷口医院(当時は「すてらめいとクリニック」)を開院した当時は、簡単な皮膚の手術はしていましたし、時間をとったカウンセリングもおこなっていました。また、結局実施することはありませんでしたが、関節疾患に対する関節内注射や骨折に対するギプス固定、小児のアレルギー検査などもおこなう予定をしていました。(さすがに分娩や中絶手術は初めから考えていませんでした。しかし、離島や僻地などでは総合診療医がこれらもおこなっています)

 ところが、実際にクリニックを始めてみて「現実」を思い知ることになります。最も問題となったのは「時間」です。ギプス固定や手術、カウンセリングなどはそれなりに時間がかかり、また看護師や他のスタッフの人手も必要になります。結局、医師ひとりのクリニックでできることは限られているという現実を思い知らされ、次第に診療内容を狭めていくことになりました。

 ただ、よく考えてみると、普段当院を受診している人が明らかな骨折をすればまず当院を受診するよりも初めから救急対応をしてくれる医療機関を受診した方が早いですし、谷口医院のように都心部に位置したクリニックであれば周囲に専門機関がありますから、例えばカウンセリングが必要な症例はそちらにお願いするのが現実的です。手術については、皮膚のできものを取る程度のものや巻き爪の手術は開院当初は実施していましたが、そのうちにすべての手術症例を近くの外科対応してくれる病院にお願いするようになりました。

 現在の谷口医院は「どんなことでも相談してください」というスタンスは崩していませんが、受診される患者さんの層にはいくらかの特徴があります。大半の患者さんは働く若い世代であり、小児や高齢者はあまり多くありません。総合診療医の多くは在宅医療や看取りまでしていますが、谷口医院ではこれらに対応していません。

 谷口医院で多い疾患は、まず風邪や胃腸炎、膀胱炎などの急性感染症、ついで喘息やアトピー性皮膚炎、花粉症などのアレルギー疾患、その次が生活習慣病になるでしょうか。ただし、「高血圧などの生活習慣病があって、それに花粉症もあって、そられは落ち着いているけど今日は風邪で受診」といった人が多く、むしろ何かひとつの疾患単独で受診している人の方が少ないと言えます。長引く倦怠感、原因不明の熱、不眠や不安、抑うつ状態といったことで受診される患者さんは開院以来常に多く、HIVを含む性感染症の治療や感染したかもしれないので相談に来た、という人も少なくありません。

 総合診療医の対局にあるのが「専門医」であり、現在の医療はより専門的な知識や技術が要求されますから専門医は絶対に必要です。例えば、私はこの夏(2014年8月)に自身の変形性頚椎症に対して手術(全身麻酔下観血的後方除圧及び椎弓形成術)を受けましたが、これは極めて高度な手術であり、執刀してくれた先生はこの道一筋の名医です。椎弓形成に必要な人工骨を自ら開発されているような先生ですから専門医のなかの専門医です。

 総合診療医と専門医は対極の関係にあるということができます。しかし、総合診療医は総合診療の「専門医」という考え方もあり、この考え方も間違ってはいないと思います。実際、2017年から始まる新しい専門医制度では「総合診療専門医」というものをつくることが決まっています。

 この話を聞いたとき、つまり、総合診療医は専門医か専門医の対極なのかという議論になるとき、私はある<懐かしい記憶>を思い出しました。そしてもうひとつ。総合診療医のように「どんなことも診るべき」と考える医師と、「専門分野だけを診たい」と考える医師がいるのがなぜなのかについて、私は最近新聞に掲載されたあるコラムをみて、なるほど、と思いました。次回はそのあたりについてお話いたします。(<懐かしい記憶>については今回述べる予定でしたが、字数がオーバーしてしまいましたので次回に回すことにしました)

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2014年11月10日 月曜日

2014年11月号 「総合」なるものの魅力(前編)

  「専門は何ですか」というのはプロフェッショナルの領域ではよくある質問であり、医師の世界でも同様です。医師にこの質問をすると、例えば「脳外科です」とか「循環器内科です」という答えが返ってきます。もう少し踏み込んで聞いた場合は「てんかんの外科を専門としています」「心臓のカテーテルアブレーション専門です」といった回答になります。

 では私の場合はどうかというと、医療者から聞かれたときは「大阪市立大学の総合診療部に所属していて、日本プライマリ・ケア連合学会の認定医と指導医をもっています」となります。もう少し具体的なことを聞かれた場合は、「日頃は大阪の都心部にあるプライマリ・ケアのクリニックで働いており、働く若い世代を中心に診ています」となります。

  一般の人や患者さんから聞かれた場合は、最近は随分「プライマリ・ケア」という言葉が浸透してきましたが、まだまだ周知度は低いために「総合診療をおこなっています」と答えています。「総合診療」という言葉もまだ充分に認知されているとは言えないかもしれませんが「プライマリ・ケア」という言葉に比べると、まだなんとなく理解してもらいやすいかな、という気がします。

 私が「総合診療」を医師としての専門にしたいと本格的に思ったのは、医師になりたての研修医1年目の夏休みでした。大学病院から1週間の夏休みをもらった私は、かねてから訪れたかったタイのロッブリー県にある世界最大のエイズ・ホスピスであるパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)を訪問しました。わずか1週間という短い期間でしたから、ボランティアをするつもりで訪れたものの、患者さんの役に立つことはほとんどできませんでした。

 何もできなくて患者さんや施設のスタッフには迷惑をかけただけでしたが、私にとっては、人生の中でこれほど重要な1週間もなかったといっても過言ではないと思います。まずエイズという病の凄絶さを目の当たりにしました。当時のタイではまだ抗HIV薬がなくその施設では毎日数人が死亡していました。当時のタイではHIV陽性者は生きる場所がなく、職を失い、道を歩けば石を投げられ、バスに乗ろうとすると引きずり下ろされ、病院では診察を拒否され、家を追い出され、行く場がなかったのです。それでも前を向いて生きていこうとしている患者さんがその施設にいて私は胸を打たれました・・・。この話をしだすと止まらなくなりますので話を元に戻します。

 その施設に訪問して私はエイズという病に本格的に取り組みたいと思ったわけですが、もうひとつ、私の人生に大きなインパクトを与えた出来事がありました。それは、当時その施設でボランティアとして活躍していたベルギー人の男性医師です。この医師はエイズ専門医ではありません。いわゆるGPと呼ばれる医師だったのです。

 GPとはgeneral practitionerまたはgeneral physicianの略で、日本語にすると「一般医」または「総合診療医」となります。ベルギーを含むヨーロッパ諸国の多くは、日本のようにどこの医療機関でも受診できるわけではなく、まずGPを受診します。そして必要あればGPの紹介状を持って「脳外科」「循環器内科」などの専門医や大きな病院を受診するシステムになっています。

 GPのそのベルギー人医師はエイズ専門医ではなく抗HIV薬を処方しているわけではありません。GP(総合診療医)として、HIVに伴う諸症状、というよりはHIVが原因かどうかに関係なく、患者さんの悩みをすべて聞いていました。間違っても(日本の医師がよく言う)「それは自分の専門外だから分からない」とは言わないのです。

  もちろんこの医師にできないこともありますが(というより、充分な薬剤や検査装置のないこのホスピスでできることは限られていました)、少なくとも「なぜそのような症状が出現していて、どのような経過をたどることが予想されるか、その症状を取り除くのに今できることにはどのようなものがあるか、そしてどの程度その症状が改善することが見込めるか」といった説明をするのです。「できることは限られているが、それでもあなたにできる最大限の医療をします」というメッセージがそばで診ている私にもビシビシと伝わってくるのです。

 ここで言葉を整理したいと思います。欧米諸国では「GP」という言葉が一般的ですが、医療者でない日本人にGPという言葉はほとんど普及していません。そもそも日本では少し前まで医学部を卒業すれば、整形外科とか産婦人科といった何らかの臓器を専門とする医局に入るのが普通であり、欧米諸国のようにGPという制度が存在しませんでした。

 しかし日本でも、今から10年くらい前から、臓器だけをみるのではなくすべてを診ることのできる医師が必要だという声が大きくなり、「プライマリ・ケア」「総合診療医」「家庭医」などという言葉が注目されるようになりました。学会としては日本プライマリ・ケア学会、日本総合診療医学会、日本家庭医療学会があり、これらは独自で活動していたのですが、目指すところは共通している部分も多く、紆余曲折があったものの、2010年に「日本プライマリ・ケア連合学会」として統一されました。

 したがって、現在の日本では医療者の間では「プライマリ・ケア」という言葉が最も浸透していると思われます。GPという言葉は日本では医療者の間でもあまり使用しません。一般の人たちの間ではプライマリ・ケアという言葉はまだそれほど浸透していないでしょうから、私自身が、専門は?と聞かれれば、プライマリ・ケアというよりも「総合診療」という言葉を用いるようにしているのです。(GP、プライマリ・ケア医、家庭医、総合診療医と多くの言葉を使うとややこしくなりますので、ここからは「総合診療医」で統一します)

 話を戻します。研修医時代に夏休みを利用してタイのエイズ施設を訪問し、そこで私はベルギー人の医師から総合診療の魅力を感じとりました。帰国後、残りの研修医の期間は、将来総合診療が担えるようにできるだけ多くの科でトレーニングを積み、毎日のように救急外来を手伝わせてもらい、可能であれば手術見学もさせてもらっていました。

 研修期間が終了しても私の実力などまだまだです。しかし、2年前に訪れたタイのエイズ・ホスピスにもう一度訪れたいと考えた私は再びタイに渡航しました。元々の予定では最低でも半年はボランティアを行う予定でしたが、諸事情から急きょ帰国しなければならなくなり、いったん1ヶ月ほどでボランティアを打ち切りました。

  しかし、この1ヶ月間で私が学んだことは非常に実りのあるものでした。このときは2年前にいたベルギー人の医師はいませんでしたが、アメリカ人の総合診療医(GP)が長期間のボランティアに来ていたのです。私はこの医師からも日本では学べないような多くのことを学ぶことができ、大変貴重な経験となりました。

 帰国後、いくつかの事情からタイに長期間滞在することができなくなり、日本で総合診療を学びたいと考えた私は、母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩きました。当時は、日本で、しかも大学病院で総合診療を本格的に学ぶのは困難であることは分かっていましたが、それでも大学に所属しておくことで勉強がしやすくなるのではないかと考えたのです。

 大学病院にも総合診療科の外来がありますが、やはり大学病院を受診する患者さんには偏りがあります。そこで私は、大学での自分の外来は水曜日だけにさせてもらい、金曜日には他の先生の診察(主に婦人科)を見学させてもらうことにし、月、火、木は別の医療機関(内科、整形外科、皮膚科、アレルギー科など)に研修に行かせてもらうことにしました。(今考えればよくこんなわがままを聞いてもらえたものだと思います。自分の厚かましさに辟易とします・・・) 

  見学や研修ではお金はもらえませんから、平日の昼間はほとんど無収入でした。そこで土日や平日の夜中にいくつかの救急外来でアルバイトをして生活を凌ぎ、そして次回のタイのエイズ・ホスピス訪問にかかる費用を捻出していました・・・。

 今回のコラムでお伝えしたかったのは「総合診療」がなぜ興味深いのかということであり、さらに「総合」というものの魅力について話したかったのですが、自分の医師としての経歴の振り返りで文字がオーバーしてしまいました。

 実は、私のこれまでの人生で「総合」というものの魅力にとらわれたのは、総合診療というものを知った今回述べたタイでの出来事が初めてではありません。つまり過去にも何度か「総合」というものに魅せられたことがあるのです。次回はそのあたりについても述べていきたいと思います。

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2014年10月10日 金曜日

2014年10月号 「社会人ナース」という選択

 医学部受験を考えているんですけど・・・、という相談が私のもとにしばしば寄せられます。これは私自身が一般の大学を卒業し一般のサラリーマン生活を経た後に医学部に入学していること、そして医学部受験の本を上梓したことがあるからです。

 私のように別の大学を卒業してから医学部を受験することは一般に「再受験」と呼ばれています。私が最初に上肢した本のタイトルは『偏差値40からの医学部再受験』です。実は、出版社と本のタイトルを決めるときに当初私はこのタイトルに反対でした。その理由は、「再受験」という言葉に違和感があったことと、私自身は『あなたも医学部を目指しませんか』というタイトルにしたかったからです。しかし編集者の意見は『あなたも・・・』ではインパクトが弱すぎるし、「再受験」という言葉は充分に認知されている、というものでした。

 結局、編集者の意見に従うことにして自分の本に「再受験」という言葉を入れたのですが、私は今でもこの言葉に馴染めません。それに、私は「再受験」を考えている人だけを応援したいのではなく、現役生で勉強のスランプに陥っている人も、社会人の経験はなく医学部を何度も受験している人も、高卒で働いていて医学部受験を考えている人も、同じように応援したい、と考えています。

 いったん大学を卒業してから、あるいはいったん会社員の経験をしてから医学の道を志すのは医師だけではなく、看護師を目指す人たちも少なくありません。しかし、別の大学を卒業しているとか、社会人の経験があるとかいった人が看護学校を受験するときにはなぜか「再受験」という言葉はあまり使いません。その代わりに、このような経験がある看護師のことを「社会人ナース」と呼ぶそうです。例えば、『日経メディカル』オンライン版では2014年9月に「社会人ナース」という言葉を使って特集記事を載せています。

 一般の会社員の経験のある医師を「社会人医師」とは呼びませんし、そもそもナース(看護師)も社会人ですから「社会人ナース」などという言葉に私は違和感があるのですが、この言葉もすでに確立されているなら従うしかありません。

 もっとも、私は言葉の定義にこだわっているわけではなく、今回のコラムの主題はここからです。社会人ナースが増加しており、看護学校のなかには社会人枠を設けているところも増えてきているようで、先に挙げた『日経メディカル』によれば、なんと定員の50%が社会人枠の看護学校もあるそうです。

 私が日頃診ている患者さんのなかにも、「先生、あたし、看護学校を受験することにしました」と報告してくれる人がいます。私が再受験で医学部に入学したことを元々知っていて、元々看護師になることに興味があって、ついに決心したから報告に来た、という人もいれば、太融寺町谷口医院の看護師の仕事ぶりをみていて看護師という仕事に興味がでてきた、という人もいます。すでに看護学校を卒業して看護師として第一線でがんばっている太融寺町谷口医院の(元)患者さんも増えてきています。

 看護学校受験を考えているんですけど・・・、という相談をメールで受けることもときどきあります。彼女らの最大の悩みは、年齢がハンディキャップにならないか、ということです。そしてこの「年齢のハンディキャップ」の悩みを細かく分類すると、①入学後の勉強についていけるか、②高卒で入ってくる若い子たちと良好な人間関係がつくれるか、③実際に仕事に出たときに年下の先輩と上手くやっていけるか、④患者さんから受け入れられるか、くらいになります。

 年齢以外の悩みで多いのが、看護学校に合格できる学力がない、周囲の理解が得られない、不器用だけど大丈夫か、血をみることに抵抗がある、入学までにどれくらい貯金が必要か、などです。これらはいずれも本人にとっては深刻な悩みだとは思いますが、今回は「年齢のハンディキャップ」に絞って述べていきたいと思います。

 まず上記④の、患者さんから受け入れられるか、という点についてはまったく問題ありません。私は医師になってから社会人の経験があるということで随分と”得”をしました。まず単純に年をとっていますから(私が研修医1年目のとき33歳でした)、医師としての貫禄があるわけではありませんが、患者さんからも他の医療スタッフからも、それなりの「社会人」とみなされました。

 一方、24~25歳の若い研修医だとなめられたりすることもあるわけです。もちろん私も患者さんに挨拶するときは「研修医です」と話していましたが、たいがいは話の流れから「医学部に入る前は社会人をしていました」という会話になります。私の経験上、このことを否定的にとらえる患者さんは皆無でした。むしろ、現役や一浪で医学部に入学した研修医よりもアドバンテージがあったといっても過言ではないと思います。

 次に、①の、勉強についていけるか、ですが、これも問題ありません。ただし、看護学校に入学すれば、おそらくこれまでに体験したことのないくらいの勉強を強いられます。睡眠時間も短くなるでしょうし、アルバイトが必要な人は自由時間がほとんどなくなるかもしれません。子育てをしている人はさらに大変です。しかし、です。”たかが”学校の勉強です。社会人の経験のある人、主婦の経験がある人、子育ての経験のある人からすれば、学校の勉強よりも遙かに大変なことをこれまでさんざん経験しているはずです。その苦労を考えればたかが学校の勉強など取るに足りません。少なくとも高卒後すぐに入学した若い人たちにできることができないはずがないのです。

 ②の、若い同級生との関係、については、勉強にも実習にも、そして生きるということにも熱心な元社会人の看護学生は同級生から尊敬の眼差しを受けることになります。私の知る範囲でいえば、元社会人の看護学生は講義では前の方の席に座り、講師への質問も積極的におこない、実習ではリーダーシップを発揮します。そのような学生は他の(若い)学生から尊敬されることはあっても嫌われることはありません。たとえ何らかの理由で一時的に嫌われるようなことがあったとしても、「人」として、そして「社会人」として正しいことをしていればそのうち再び周囲に人が集まってきます。

 ③の、職場での人間関係、特に年下の先輩との関係はどうでしょうか。医師の世界ではこれらは問題にならないのですが(私にも年下の先輩医師は大勢いますが、人間関係で悩んだことはほとんどありません)、看護師の世界は少し複雑であるという話をときどき聞きます。

 先に紹介した『日経メディカル』の記事にもそれについて触れられており、せっかく社会人を経て看護師になったというのに、彼女らの「早期離職」が問題になっているそうです。ある病院の看護教育担当者によれば、「価値観が違う」「合わない」などの理由で辞めていく社会人ナースが少なくないそうです。私の経験でいえば、「価値観が違う」などの理由で辞めていくのは高卒で看護学校に入った若い看護師にむしろ多いのですが、大病院の教育担当者がコメントするくらいですから社会人ナースのなかにも少なくないのでしょう。

 しかしながら、「価値観が違う」などの理由で辞めてしまった社会人ナースも、これから社会人ナースを目指そうとしている人もまったく心配することはありません。看護師を含む医療者の醍醐味は「求められている場所はいくらでもある」ということ、そして「自分の信念を曲げることなくミッションに従事できる」ということです。

「求められている場所はいくらでもある」というのは、単に日本の看護師は慢性的な人手不足である、ということだけではありません。世界に目を向けるとまともな医療を受けることのできない人たちが大勢います。そのようなところで働いても給料はもらえませんが、看護師の知識と技術、経験があれば、生涯にわたり他人に貢献することができるのです。このことだけでも看護師がどれだけ素敵な職業かということが分かるでしょう。

「自分の信念を曲げることなくミッションに従事できる」というのは、看護師のミッションが明確であるということです。患者さんの命を救い健康に貢献する、というのが世界共通の看護師のミッションです。例えば、もしもあなたがA社に勤務しておりXという製品を担当していたとしましょう。それを顧客に販売するときに、どうしてもXを売らなければならない理由はあるでしょうか。その顧客にとってはB社製のYの方がいいかもしれないですし、そもそもXもYも必要ないものかもしれません。一方、医療者が患者さんの命を救い健康に貢献すべきというのは自明なわけです。

 文化や宗教が異なっても、命を救い健康に貢献する、という医療者のミッションは変わりません。もしもあなたの勤務先が不幸なことに金儲け主義の病院であったとすれば(実際にはマスコミなどが言うような金儲けを考えている医療機関はめったにありませんが)、さっさとそこを退職してまともな医療機関に転職すればいいだけの話です。あるいはどうしても人間関係に馴染めなければ、運が悪く縁がなかった、と考えて次を探せばいいのです。

 私が医師になってから、医療の世界と一般の会社とは違う、と感じることのひとつに「職員が退職するときの寂しさがあまりない」というものがあります。同じ医療機関で働く医師や看護師が退職するとき、もうしばらく会えない、あるいは一生会えないかもしれない、と思うと寂しい気持ちがないわけではありませんが、「同じミッションを持つ有志だからいずれどこかでまた一緒に社会貢献ができるかもしれない」という感覚があるのです。

 これは私が院長をつとめる太融寺町谷口医院でも同じです。一抹の寂しさがないわけではありませんが、長く働いた看護師が念願のやりたい仕事やボランティア、NGO活動などに専念するために退職するとき、院長の私の立場からすると「卒業生を送り出す」ような感覚になります。一般の企業であれば退職は「裏切り」と見なされることもあるでしょうが、医療機関では裏切りではなく「卒業」になるのです。

 年齢のハンディキャップなどほとんどなく、たとえ多少のハンディがあったとしても看護師の仕事の醍醐味を考えれば取るに足らないものである、ということを社会人ナースを目指している人に知ってもらいたいと思います。

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2014年9月12日 金曜日

2014年9月号 私のリハビリ体験記~させない傘とウォーキング~

  交差点まであと20メートル・・・。もう少し・・・。しかし私の左腕はいうことを聞いてくれず傘が左横にずり落ちていきます。右腕は雨に濡れだした状態をとっくに超えて半袖のTシャツの右腕の部分はもはや絞れば水がしたたりおちるほどびしょびしょになっています。ついに私は左手で傘をさすことを断念し右手に持ち替えました・・・。

 前回の『マンスリーレポート』では、手術は成功したものの左腕の筋力低下はほとんど改善していない、ということをお伝えしました。『メディカル・エッセイ』では、「難病を患うということ」というタイトルで、症状が改善しないことから治らないと思い込み、私の精神状態が悪化していったこと、過去に診させてもらった脊髄損傷の患者さんやタイで出会ったすでに他界しているエイズの患者さんのことなどを思い出し頑張るしかないと認識したこと、などについて述べました。

 最近はコラムの内容が自分のことばかりになり恐縮ですが、今回もその後の経過のことについて述べてみたいと思います。

 冒頭で紹介したのは、8月下旬のある日、夕立のような大粒の雨が降るなか、クリニックからの帰宅途中の私の体験です。筋力低下が進行した2014年4月中旬から左手で傘を保持するのが困難になっていたのですが、手術を受けた後ですからリハビリのひとつとして左手でさしてみることにしたのです。50メートルくらい進んだところで左腕に力が入りにくくなり、それは加速度的に悪化していきました。

 傘がさせない悔しさ、というのは体験してみないと分りにくいと思います。機能障害を伴う他の疾患もそうだと思いますが、今まで何の問題もなくできていたことが突然できなくなる、というのは、たとえそれが些細なことであったとしても本人からすると辛いものです。左がダメなら右で持てばいいんじゃないの?という意見もあるでしょうし、私自身もそのように考えるように努力していますが、「そっか、自分にはまだ右手が残っているんだ」、と瞬時に発想を切り替えられるような人はそれほど多くないでしょう。

 しかし、時間がかかったとしても、結局のところはそのように発想を切り替えて、今ある機能を大切にし、障害がでた部分については可能であればリハビリで回復を期待するのが現実的な対策ということになります。

 私の場合は、大変幸いなことに、リハビリに積極的にむかえるモチベーションがあります。退院して診療の現場に復帰すると、大勢の患者さんから励ましの声をかけていただきました。20代から70代まで、男性の患者さんも女性の患者さんも私の身体を心配してくれて、「退院できてよかったですね」とか「思っていたより元気そうで何よりです」とかいった嬉しい言葉をかけてくれるのです。(よく考えてみると、これらの言葉は本来医者が患者さんにかける言葉です・・・)

 なかでも意外だったのは複数の患者さんからいただいた「おかえりなさい」という言葉です。「おかえりなさいって・・・。これが医師が患者さんからもらう言葉か・・・」と、後になってこの言葉を何度も噛みしめて嬉しさに浸ることも何度かありました。

 こういった言葉を繰り返し聞いていると、頑張らなければ・・・、という思いが強くなりリハビリに励むことができます。入院中から執刀医の先生に歩くことをすすめられていて、手術の翌々日からは毎日病院の外でウォーキングをしていましたから、私は可能な限り退院後もウォーキングを続けています。

 入院するまでの私は、毎朝5時に起きて、少し長めに入浴を楽しんで、それから新聞を読んで、その後メールのチェックと返信をして、6時すぎにクリニックに到着、という生活スタイルでしたが、これを少し変更して、5時起床、ウォーキング、入浴ではなく短時間のシャワー、新聞、メールは読むだけで返信はクリニックに到着してから、というかたちにかえました。クリニック到着は6時半を回ることになり、それからメールの返信をしますから時間に追われることになりますが、なんとか続けていけそうです。

 ウォーキングを始めてみて意外だったのは、ウォーキングは思っていたような退屈なものではない、ということです。私は左腕の障害がでるまでは、クリニックが休診の木曜と日曜の早朝に(元気があれば)ジョギングをしていたのですが、ジョギング中にウォーキングをしている人をみると、「歩いているだけで楽しいのかな、まだ若いんだから走ればいいのに・・」などと(大変失礼なことを)感じていたのですが、ウォーキングで充分、というかむしろウォーキングの方が楽しく続けられることに気付きました。

 もっとも、以前私がジョギングをしていたのは、走っているときが楽しいからではありませんでした。私にはいまだに「ランナーズ・ハイ」が訪れたことがありません。ジョガーやランナーのなかには、ランナーズ・ハイの快感がたまらず、いくらでも走り続けていたくなる、という人がいますが、私にはこの感覚はなく、走っているときに考えることは「いつ走ることをやめてこの苦しさから解放されるか」だけです。

 では何のために私は走っていたのかというと、ジョギングの後のシャワー、ジュース、食事、この3つが最高に楽しめるからです。特にジョギングの後の炭酸ドリンクは私にとって至福の時間であり、生きていることを実感できるひとときなのです。(減量目的や糖尿病の治療目的でジョギングをしている人、つまり炭酸ジュースNGの人には大変失礼なコメントですが・・・)

 ウォーキングではジョギングほどカロリーを消費しませんし発汗量も少ないですから、私の3つの楽しみのシャワー、ジュース、食事はそれほど楽しめません。しかし、ウォーキングの長所もあります。

 一番の長所は「開始時のハードルが高くない」ということです。ジョギングの場合、やはりしんどいことですから、とっかかりにそれなりの”勇気”が必要です。実際、早朝に目覚めたのはいいものの、ジョギングがイヤになり何とか走らなくてもいい言い訳はないかと考えてしまうことがしばしばありました。激しい雨が降っていると「ラッキー、これで走らなくてもいい理由ができた!」などと考えてしまうこともありました。これでは強制されているわけでもないジョギングを何のためにしているのか分りません。

 その点、ウォーキングはハードルが低く、もう少し寝ていたいな、という気持ちはありますが、とりあえず外に出て数歩も歩けば、「よし、今日もいつものコースを歩こう」、という気持ちに切り替わります。雨の日でも傘を(右手で)させばウォーキングはできますから、雨だから中止という言い訳はできません。実際、退院してから3回ほど雨が降った日がありましたが(コースは少し短くしていますが)降っていない日に比べてそれほど辛いというわけではありません。退院後に私がウォーキングを休んだのは2日だけで、その2日とは東京で開催されたアレルギー専門医セミナーに参加するため6時前に家を出た日と、やはり東京での渡航医学会の研修に参加するのに深夜特急(サンライズ瀬戸)に乗るために深夜に家を出た日です。

 二番目の長所は、これは今の私にしか当てはまらないことですが、左腕をどこまで振り続けることができるか、を評価できるということです。腕をおろし普通に歩く分には困りませんが、走るときのように、あるいは競歩の選手のように腕を振って歩くと、私の左腕は冒頭で述べた傘をさしたときのように次第に力が入らなくなりだらりと垂れ下がってしまいます。退院直後のウォーキングでは、せいぜい数百メートルくらいしか腕を振り続けられなかったのですが、少しずつその距離が伸びてきています。今日は昨日より20メートル進んだけど翌日には30メートル後退して・・・、というような感じで毎日確実に伸びているわけではないのですが、長いスパンでみてみると確実に距離が伸びているのは間違いなさそうです。このように距離が伸びていることを実感できるのはリハビリの大きな励みになります。

 ウォーキングの三番目の長所は、総運動量はジョギングに勝る、ということです。これも「私の場合」ということになりますが、ジョギングは毎日続けるのは困難です。左腕の障害がでる前の私は月に80~100キロメートルを走ることを目標としていましたが、実際に走れていたのはせいぜい50~60キロ程度でした。ウォーキングに切り替えてから毎日の距離は約4.8キロ(GPSの測定による)なのですが月あたりで換算すると140キロを超えます。

 毎日運動することのメリットをこのサイトではさんざん紹介していますし患者さんにも薦めていますが、改めて考えてみると私自身がそれほど運動していたとは言えません。しかし、左腕が言うことを聞かなくなり手術を受けたことの”おかげで”ようやく実践できるようになりました。運動には生活習慣病の予防だけではなく精神状態にもいいということを伝えたこともありますが、実際、ウォーキングをしてから仕事に取りかかると精神的に調子がいいような感じがします。

 左腕がダメでもまだ右腕があるさ・・・、とすぐに発想を切り替えられるほどには楽観的でない私も、左腕に力が入らなくなったおかげで患者さんから嬉しい言葉をかけてもらうことができてウォーキングの楽しさを発見できた、というふうに前向きに考えることができています。

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2014年8月18日 月曜日

2014年8月号 手術は成功。だけれども・・・

 前回(2014年7月号)のコラムでお伝えしましたように、「変形性頸椎症」という疾患に対する手術を受けるためにクリニックを長期間休診させていただくことになりました。前回のコラムでは、症状発症の契機、その後の症状の移り変わりと医療機関受診、検査から診断に至る過程などについてお話しました。今回はその後の経過についてまずお話しておきます。

 私の症状で最も辛かったのが左上肢の筋力低下です。4月中旬頃から増悪し、一時は聴診器を持てないほどにまで進行していました。しかし、6月上旬あたりからわずかですが回復し、聴診器も長時間の把持は困難ですが、通常の聴診はできるようになりましたし、覚束ないものの茶碗を持つことも軽いものなら可能になりました。

 ただ、左上肢(前腕と上腕)の見た目の筋肉量の低下は進行し、筋萎縮は進行しているように見えます。7月に入ってからは何人かの患者さんに「痩せましたね」と言われたのですが、これは全身が痩せたのではなく、左上肢の筋肉が減ったためにそう見えたのだと思われます。

 さて、筋力がわずかに回復したとは言え、日常生活がなんとかできる程度ですし、これ以上頚椎の変形が進行し、脊髄を圧迫するようなことがあれば社会復帰ができなくなるかもしれません。私に残された選択肢は手術以外にありません。

 2014年8月4日、予定通り手術がおこなわれました。手術の名称を正確に言えば「全身麻酔下観血的後方除圧及び椎弓形成術」になります。簡単にいえば、頚椎が変形して後ろにせりだしてきたせいで狭くなってしまった脊柱管を広げる手術、となりますが、これでは分かりにくいのでもう少し詳しく説明したいと思います。

 脳から続いている脊髄は脊柱管という骨で囲まれた管を通って腰の方まで伸びています。その管の前の部分を構成しているのが脊椎で、後ろの部分が椎弓と呼ばれる骨と考えて差し支えありません。私の場合、前部を構成している頚椎(脊椎の首の部分)が変形して管の内腔にせり出してきたために脊髄がつぶれてしまっています。もしも頚椎がせり出してきて脊髄が後ろにおされても、その後ろにスペースがあれば問題ないわけですが、後部は後部で椎弓という骨がありますから脊髄は、変形した頚椎と後部の椎弓にはさまれて圧迫されているというわけです。

 筋力低下も筋萎縮も、痛みもしびれもすべて脊髄(もしくは脊髄から別れて出ている神経根)が圧迫されていることが原因です。ならば、唯一の解決法は狭くなった脊柱管を広げることです。もっとも、軽傷であれば自然に軽快することはよくありますが、私のように症状が増悪し、すでに1kgのダンベルも持てないような状態であれば外科的に治療するしかないというわけです。

 慢性で難治性の疾患というのは得てして民間療法も盛んです。ご多分に漏れず、この疾患、変形性頸椎症にも多くの民間療法があるようです。さすがに漢方薬やサプリメントで治る、としているものは見当たりませんが、枕とか、マッサージとか、あるいは電磁波をあてるようなものもあるようです。しかし、そのような民間療法を全面的に否定するわけではありませんが、私のように筋力低下がある程度まで進行してしまったような状態では可及的速やかに手術をすることが必要になります。これ以上の進行はなんとしても防がなければならないからです。

 話を手術の内容の説明に戻します。手術の目的は「脊柱管を広げること」ですが、そのためには脊柱管の後ろの部分、すなわち椎弓と呼ばれる骨を切らなければなりません。切っただけであれば不安定ですから、(切っただけでそのまま置いておくという術式もありますが)そのなかに「詰め物」をすれば安定が得られます。

 これではわかりにくいと思うので手の指を使ってイメージしてみてください。まず、手の親指と人差し指でわっか(輪っか)をつくってみてください。そして親指の先端と人差し指の先端を1cmほどあけてみてください。それからその2本の指でサイコロをはさむところを想像してみてください。指先どうしをくっつけていたときと比べるとわっかの面積が広がったことがわかると思います。実際の手術ではもっとこみいったことをおこなうのですが、イメージとしてはこのような感じです。

 次に「詰め物」について説明します。従来「詰め物」として使われていたのは、患者自身の骨が多かったはずです。私が麻酔科の研修を受けていた頃は、患者自身の腸骨が使われていた症例が多かったことを記憶しています。つまり、首を切開する前に、腸骨(骨盤の一部)の骨を切り取り、それを適切なサイズと形態に加工しておきます。椎弓を切除して(親指と人差し指の間をあけて)その間にこの腸骨を「詰め物」として使うのです。

 少し想像してもらえればわかると思いますが、骨盤の一部の骨を切除するというのも大変な手術になります。それが終わって今度は首の後ろからメスを入れて、骨を切って広げるわけですから、この手術は大変長時間を要します。私が麻酔科の研修を受けていた頃、他の研修医がこのような長時間の手術を希望しないこともあり、私は積極的にこの手術を見学していたのですが(麻酔科医の仕事はいったん麻酔がかかると余裕ができるので手術の見学が可能になるのです)、大変高度な技術が必要であり、長時間に渡る集中力と体力を要する極めて難易度の高い手術であるという印象がありました。

 もちろん大変なのは執刀医だけではありません。患者さんの術後の苦しみは相当なものです。長期間動けませんし、痛みは並大抵ではありません。否、それだけではありません。首の筋肉を大きく切りますから回復したとしても、後頭部から後頸部の動きが元通りにならないことも珍しくないのです。

 私が研修医として麻酔科でトレーニングをつんでいたのは2002年です。それから12年が経過したわけですが新しい手術法はないのでしょうか。それがあるのです! まず、「詰め物」についてです。ここからは「詰め物」ではなく「スペーサー」と呼ぶことにしましょう。自分の骨を用いるのではなくセラミック製の人工骨が少しずつ普及してきています。セラミックはここ20年くらいの間に、人工骨や人工関節、あるいは歯科のインプラントなどで用いられるようになってきているのですが、首の骨(椎弓)を切除した後にはめこむスペーサーとしても普及しだしているのです。

 また、首の皮膚を切開し、骨まで到達する方法も随分進化していることが分かりました。従来は首の皮膚を大きく切開した後、首の後ろの筋肉を大きく切らなければならなかったわけですが、筋肉を切るのではなく「はがす」ような感じでほとんど筋肉に傷をつけることなくおこなえる手術があるのです。筋肉を傷つけなければ出血量もごくわずかで済みます。もちろん、このような手術がおこなえるのは相当熟練した医師のみです。私の場合、大変幸運なことに、頚椎を専門とする熟練した専門の先生に執刀してもらうことができました。

 そして手術は成功しました。実際術後のCTを撮影してもらうと脊柱管が大きく広がっていました。これで脊髄の圧迫症状からは開放されたはずです。ところがです・・・。私の左上肢の筋力低下は変わっていません。手術をしても痛みやしびれはすぐになくなることが期待できるが筋力低下は回復するまでに長期間かかる、という説明は聞いていたのですが、それでも、私の心のどこかに「長時間の正座から開放された直後は動かせなかった足がしばらくすると元に戻るように、私の左上肢も手術が終われば元に戻るのではないか・・・」と期待してしまっていたのです。

 しかし現実はそう甘くはありません。相変わらず私の左腕は1kgのダンベルをあげるのも四苦八苦しています。ただ、術前よりも悪くなっているわけではなく、食事は摂れますし、歩くことも可能ですし、500mLのペットボトルを持った上腕のトレーニングならできます。

 退院はもう少し先になりそうですが、入院している病院から太融寺町谷口医院に通勤するというかたちで当初の予定どおり本日(8月18日)から診療を再開したいと思います。術後の痛みはゼロにはなっていないために(骨まで切っているのですから当然といえば当然です)、首のカラーもまだ外せないために、しばらくの間は診療に時間がかかるかもしれませんが、これまでと同じように診療をおこないますので困ったことがあればどうぞお気軽にいらしてください(注1)。

注1:しばらくの間、再診の方(当院に一度でも受診したことがある方)のみとさせていただきます。初診の方の診察再開についてはトップページで案内いたします。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2014年7月11日 金曜日

2014年7月号 手術を受けることになりました

  すでにウェブサイトのトップページでお知らせしていますが、2014年8月1日から17日まで(医)太融寺町谷口医院は休診とさせていただきます。これは院長の私自身がある疾患で手術を受けることになったからです。

 何人かの患者さんからは、「2週間以上も入院しなければならないということは、かなり大きな手術ですよね。ということは大変な病気なんですか・・・」、と聞かれました。医師が自分の疾患を公表するべきではないかと当初は考えていたのですが、多くの患者さんから質問される、というよりも、心からご心配いただいていることがひしひしと伝わってくることも少なくないために、きちんと説明すべきと考えるようになりました。

 私の病歴は以下のようになります。

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 2014年1月4日。とあるフィットネスクラブにて。懸垂をしようと思い、鉄棒にとびついたときに左後頚部に鈍い痛みを感じました。両手で鉄棒を把持しているものの、いつもと感覚が違います。左上肢に力が入らず懸垂ができなくなっていることに気付きました。

 鉄棒から降りてじっとしていると、強くはないものの鈍い痛みが左後頚部から背部に広がっています。また、左手の親指側に、強くはありませんがしびれがあります。しかし握力はそれほど落ちていないようです。実際、懸垂はできなくなっていましたが、鉄棒にぶらさがっていることには問題ありませんでした。ただし、筋力低下は明らかにあります。どの筋肉に力が入らないのかを調べるためにいくつかの筋トレをおこなってみました。ベンチプレスはまずまず可能です。しかし、ダンベルを持って肘を曲げる筋トレができません。普段は12~14kgのダンベルを持つのですが5kgのダンベルでも上がらないのです。

 これらから私がつけた自己診断は「頸椎椎間板ヘルニア」です。おそらく鉄棒に飛びついたときの勢いで椎間板が後ろに飛び出たのだろう、そのように考えました。というのも、このような頸椎の形態異常に起因する疾患はいくつもありますが、症状出現のきっかけがはっきりしている場合はヘルニアである場合が最も多いからです。例えば後縦靱帯骨化症や脊椎管狭窄症ではじわじわと症状が出現しだし、患者さんに「いつからですか」と尋ねても、2~3年前くらいから・・、といった曖昧な答えが返ってくるのが普通です。一方、椎間板ヘルニアの場合は、患者さんが「〇月△日に★★をしていたときからです」、と答えることがしばしばあるのです。

 腰椎の場合もそうですが、頸椎の場合も、椎間板ヘルニアはしばらくすると自然に症状が取れることもよくあります。椎間板は骨ではなく比較的柔らかい組織ですから、マクロファージなど貪食機能のある細胞が、後ろに出てしまった椎間板を少しずつ小さくしてくれることが期待できるのです。実際、頸椎ヘルニアの患者さん(太融寺町谷口医院では月に1~3人程度みつかります)に対して、私は専門医に紹介することはありますが、手術を強く薦めることはほとんどありません。そして専門医を受診してもらっても、その専門医から手術を薦められることもあまりありません。

 頸椎の椎間板ヘルニアで手術が積極的に薦められない理由は、何もしなくても症状が軽快することが多い、ということだけではありません。腰椎に比べると手術が上手くいかないケースが多いということの方が大きな理由でしょう。「上手くいかない」というのは、手術をした後もしびれなどの症状が残る、ということだけではありません。手術の合併症に苦しめられる、はっきり言えば、手術が失敗して余計にひどくなる、最悪の場合は寝たきりになるというリスクもあるのです。そこまでのリスクを背負ってまで手術する必要があるケースというのはそう多くはないというわけです。

 この時点で私は手術などまったく考えなかったばかりではなく、医療機関を受診するつもりもありませんでした。とりあえずは3ヶ月ほど様子をみよう、そのときに症状が悪化していればそのときに考えようと楽観的な気持ちでいました。そう思えた最大の理由は、日常生活にはほとんど問題がなかったからです。懸垂をしたり5kgのダンベルをもったりしなくても生活はできますし、医師としての仕事にも影響はほとんどありません。

 しかし私の希望的観測は裏切られることになります。3ヶ月と少したった4月のある日の午後の診察室。くしくもその患者さんは右腕のしびれと右肩の痛みを訴えました。ヘルニアかどうかは別にして、私と同じ頸椎からきている状態だなと考えた私は、診察するために、患者さんの腕をもったり首を後ろに傾けてもらったりしていました。

 そのときです。患者さんの後ろにまわり患者さんの両腕を持ち上げたときに、私の左腕に力が入らないことに気付いたのです。患者さんにはそれを悟られないようにしたつもりですが、私の筋力低下が一気に進行したのは明らかでした。しかもごく軽いものが持てなくなるほどの筋力低下です・・・。その次に診察した患者さんは長引く咳が訴えでした。私は聴診器で患者さんの肺の音を聞いていたのですが、左手が震えて聴診器を胸にあてておくことができないではないですか・・・。

 これはまずい・・・。その日の夜、いくつかの実験をしてみました。まず茶碗を上げて維持することができません。歯磨きもできません。(私は左利きで歯ブラシは左で持ちます) 携帯電話も20秒もすると腕を維持してられずに会話が続けられなくなります。このままでは日常生活も医師としての診察もままなりません。現在太融寺町谷口医院では以前のような手術はしていませんし、左腕の強い力が必要な処置などもほとんどありません。しかし聴診器が使えなくなれば診察が成り立ちません。

 手術の心構えはできていませんが、とりあえずMRIで頸椎の評価をしてみようと考えた私は5月のある日、ある医療機関を受診してMRIを撮影してもらいました。MRIのフィルムを見せてもらったとき、すぐに決心がつきました。というより決心せざるをえませんでした。これは手術しかないと・・・。

 頸椎の一部が見事に変形しており、変形した骨(頸椎)が脊柱管を圧迫していたのです。私の「椎間板ヘルニア」という自己診断は”誤診”であり、「変形性脊椎症(頚椎症)」が正確な病名です。つまり椎間板ではなく骨そのものが変形しており、変形した骨が脊髄を圧迫していたのです。実は私は12年前の2002年に交通事故で頸椎のMRIを撮影しています。そのときは右上肢に痛みが生じたのですが、MRIではほとんど異常を認めませんでした。頸椎の変形もほぼありませんでした。頸椎の変形というのは加齢と共に生じますが、33歳の時点では正常であったわけですから、この12年間で加齢が進行したということになります。鉄棒に飛びついたときに初めて症状がでたのは、おそらく症状が出る前から骨が脊髄を圧迫する寸前であり、鉄棒に飛びついたときに骨がごくわずかに動き、そのために症状が突然出たのでしょう。

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 というわけで、私は手術を受けることになりました。先にも述べたように頸椎の手術は簡単ではなく術後の後遺症の問題もあります。頸椎の手術を受けたという患者さんをこれまでたくさんみてきましたが、手術が成功したという症例でも何らかの後遺症が残ることが少なくありません。

 一般に、頸椎の手術というのは、脊髄損傷のリスクもあり、術後車椅子の生活を余儀なくされる、あるいは寝たきりの状態になる可能性もなくはありません。このため、頸椎の手術がすすめられるのは、脊髄の症状が強くなり、例えば下肢にまでしびれや疼痛が出ている場合や、膀胱直腸障害といって排尿や排便が困難になった場合、あるいは上肢が動かなくなった場合など、重症化した場合に限られます。

 私の場合は、持った茶碗を維持することはできませんし、両手を使って頭を洗えないなどといった不便さはありますが、最低限の日常生活はできないことはありません。しかし、聴診器を自由に使えない、患者さんの腕や足を持ち上げられない、といった医師生命に関わる不自由さがでてきたために手術を受けるべきと判断しました。(術式については、大きく分けて前方固定術と後方除圧術があります。私が手術をお願いすることになった先生は、低侵襲の手術をされる大変ご高名な先生ですが、これ以上の説明はここでは省略します)

 8月18日からは仕事に復帰するつもりでいます。しかし、比較的大きな手術ですし、術後しばらくの間は安静を余儀なくされます。冒頭で紹介した患者さんは、私が大変な病気に罹患したから長期間入院することになったと考えられたわけですが、疾患自体は悪性のものではありませんし、寿命が短くなるものではありません。しかし術後の安静が強いられるために長期間休まなければならないのです。

 術後の経過、そして予定通り8月18日から診療を再開できるか、などについては、ホームページでお伝えしていく予定です。しばらくの間ご迷惑をおかけしますことをお許しください。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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