マンスリーレポート

2016年2月11日 木曜日

2016年2月 外国を嫌いにならない方法~韓国人との思い出~

 前々回(2015年12月)の「マンスリー・レポート」でイスラムの問題を取り上げたところ、予想以上に多くのコメントをいただきました。ほとんどは「自分もそのように感じていた」と私の考えに同意してくれるものであり、こういう問題を取り上げてよかったと安心しました。もっとも、これまでも、医学以外のことを取り上げたときの方が寄せられる感想が多く、意外なのですが・・・。

 そのような経緯もあって、今回も「国際関係」についてです。国際関係と言っても何もむつかしい話をするのではなく、外国を嫌いにならずに外国人と上手につきあう方法の紹介をしたいと思います。

 ネット右翼(ネトウヨ)という言葉が一般化して随分時間がたちます。ここで私は思想に立ち入るつもりはなく、彼(女)らの主張の善し悪しを検討したいとは思いません。ここでは、海外(特に近隣諸国)を敵対視している日本人が(本当にインターネットばかりしている人たちなのかどうか分かりませんが)存在している、という事実を確認しておきたいと思います。

 ここからは私個人の思い出を語ってみたいと思います。

 私が韓国人と初めてじっくりと話をしたのは1991年の秋、大阪の中堅商社の新入社員だった頃です。日本にやって来たのは取引先の韓国企業の女性社員。ソウルの一流大学を卒業しており、英語も日本語も堪能でまだ入社数年だというのに重要な仕事を任せられているキャリアウーマンです。新入社員の私に重要な商談などできるはずがありません。私に当てられた任務は、半日間で大阪を案内(アテンド)せよ、というものでした。

 高いヒールと高級ブランドのスーツに身をまとい、オフィス街を颯爽(さっそう)と歩いているようなタイプの女性を想像していた私は随分と緊張していたのですが、現れた女性はこちらが拍子抜けするほど大人しい感じの「少女」と形容した方がいいような女性(ここからは「Kさん」とします)でした。日本語が驚くほど上手で、当時英語にまったく自信がなかった私はほっと胸を撫で下ろしました。

 25年前の記憶で、Kさんをどこに案内したのかは覚えていないのですが、私は彼女の怯えたような表情、振る舞い、そして話してくれた言葉を今も鮮明に覚えています。少しはにかんだような笑顔は見せてくれるものの、まるで誰かから追われているかのようにビクビクしています。会社で少し話をし、地下鉄に乗り、ランチをする頃になり、ようやく緊張がほぐれてきました。

 Kさんは、私を「安全な」男と認めてくれたのか、次第に饒舌になってきました。私は事前に上司から「韓国の若い女性が日本にひとりで出張に来るというのはめったにないこと」と聞いていましたから、Kさんはエリート中のエリートで、日本出張は”名誉”なことだと思い込んでいました。しかしKさんは、日本出張を命じられて何度も断った、と言います。日本に行け!だなんてひどい会社だ、と感じ、こんな会社でやってられない、と退職まで考えたそうです。

 私は混乱しました。この話の前に、Kさんは日本文化に興味があり、大学では日本語を学び、日本語の書籍を必死で求めていたという話を聞いていたからです。当時、韓国では日本の書籍は販売禁止でした。日本文化に触れることが禁じられていたのです。もっとも、Kさんのように一部の大学では日本語を学ぶことができていたわけですから、このあたりはダブルスタンダードになっていたのでしょう。

 しかし日本語堪能なKさんも、日本文化を知るための情報源は図書館に置かれている一部の書籍に限られます。テレビで日本の番組を見ることはできませんし、日本映画や日本の歌謡曲は禁止されています。もちろん1991年当時はインターネットもありません。それに日本がいかに凶悪な国かというのを子供の頃からさんざん聞かされているのです。Kさんが言うには、大阪や東京というのは、ヤクザが跋扈(ばっこ)した街で、若い女性は決してひとりで歩いてはいけない、男性から声をかけられるようなことがあれば直ちに逃げないといけない、と聞いていたというのです。たしかに、それならば、日本出張を命じる会社が理解できない、と感じる気持ちが分からなくもありません・・・。

 Kさんは私と一緒に地下鉄に乗ったとき「大(だい)の大人が漫画を読んでいることに衝撃を受けた」と話しました。そして「本当に驚いた・・」と何度も繰り返していたことを覚えています。”暴力的な”日本人が漫画を読むなどということをKさんはそれまで考えたことすらなかったそうです。しかも、地下鉄の中の男性は緊張感がまるでない・・・。「韓国の男性の方がずっと男らしい・・・」、Kさんはそう話していました。

 観光案内も終盤を迎えた頃、私は思いきってKさんに尋ねてみました。Kさんは日本が好きなのか、日本人をどう思っているのか、そして韓国人は全員が日本を嫌っているのか・・・。実は、私はKさんに会う前に、できればこのようなことを聞いてみたいと思っていたのです。韓国人に直接聞くのは「タブー」だとは思っていたのですが、あわゆくば聞いてみたい・・、という好奇心を抑えられなくなってきたのです。

 Kさんの答えは少し複雑なものでした。日本の文化にはとても興味があり、可能なら日本の漫画も読んでみたいと話しました。日本人が怖いというイメージはなくなったと言います。しかし、日本で短期間働くことはあったとしても、日本に住み着くとか、日本で家庭を持つとかいったことは考えられない。そして何よりも、韓国で「日本が好き」などとは絶対に言えない、と小さいながらもしっかりとした口調で話してくれました・・。

 7年後の1998年。韓国で日本文化が解放され、日本の映画や歌謡曲、漫画などに触れることができるようになりました。この頃私はすでにその会社を退職し、医学部の学生になっており、会社員時代の記憶は次第に薄れてきていました。しかしこのニュースを聞いたとき、Kさんのことを思い出しました。仕事は好きだけど近いうちに結婚して家庭を持ちたいと言っていたKさんはおそらくすでに子供の世話に追われる毎日を過ごしていることでしょう。忙しい家事のなか、ちょっとした休憩時間に日本の漫画を手にしているKさんの姿が私の脳裏に浮かびました。

 ちょうどこの頃、医学部生の私が借りていたアパートに韓国人の男子留学生も住んでいて、ときどきコインランドリーで会いました。彼は日本語を一生懸命に話そうとするのですが、ハングル(韓国語)にない音が上手く言えません。初対面のとき、彼は私に「ミジュ、ミジュ、ナイ」と訴えてきたのですが、それが「水が出ない」ということが分かるまでに随分と時間がかかりました。ハングルには「ズ」という音がなく、よほど訓練しないと「ジュ」となってしまうことをその後知りました。

 日韓共同開催ワールドカップの2002年、大阪ミナミのオープンカフェで知人と話しているとき、ふたりの好青年が「相席してもいいか」ときれいない英語で話しかけてきました。「もちろん」と答えた我々は彼らとしばらくサッカーの話で盛り上がりました。彼らは韓国の大学生で、休暇を利用して日本に観光に来ているとのことでした。二人とも英語が(私とは比較にならないくらい)流暢で、話題も豊富。韓国経済の未来について熱く語っていたのが印象に残っています。

 さて、このような私の経験があれば、韓国という国そのものはさておき、韓国人、少なくとも日本文化に関心があり来日している韓国人に対する否定的な感情は沸いてこないのではないでしょうか。もちろん、どこの国にもおかしな人はいますし、個人の相性もあります。このコラムでは追って「外国を嫌いにならない方法」を述べていくつもりですが、今回は「私の知り合った韓国人」について思い出を語ってみました。次回は中国人の話をしたいと思います。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2016年1月12日 火曜日

2016年1月 苦悩の人生とミッション・ステイトメント

 昨年(2015年)の7月から毎日新聞ウェブサイト版の「医療プレミア」というサイトに連載コラムを持たせてもらっています。年始には特別企画ということで、年末に編集長が私におこなったインタビューが掲載されました。

 インタビューでは、私が個人的におこなっている健康の秘訣のほかに、なぜ医師になったのか、どのような医師を目指しているのか、といったことなども聞かれました。事前にインタビューを受けることを聞いていましたし、あらかじめ内容も教えてもらっていたのでこのインタビューを私は気軽に考えていました。

 ところが、インタビューは2時間以上に及び、随分と掘り下げたところまで尋ねられた、というか、結果として私が自分自身を日頃おこなわないレベルで省みることになりました。

 さすがは毎日新聞の編集長、楽しい時間をつくりながら巧みに質問を重ねてきます。自身の失敗談なども交えながら私からホンネを引きだそうとしているのかもしれません。インタビュー自体はとても楽しい時間であったのですが、私の回答は事前に”キレイに”まとめたものでは対処できませんでした。

 そのときは、過去のなつかしい思い出などを語ることになり心地よかったのですが、その夜から自分自身をじっくりと省みることとなりました。

 これまでどのような人生を歩んできたのか、というのが質問の骨子でした。私は社会人の経験もありますし、『偏差値40からの医学部再受験』という本を上梓していますから、そのあたりを詳しく尋ねられたのです。

 これまでの人生をざっとまとめると、高校時代に勉強ができず偏差値40程度であったが2ヶ月間の猛勉強で関西学院大学理学部現役合格。しかし大学の勉強に馴染めずに退学を考える。ところが同じ大学の社会学部の先輩の一言がきっかけで社会学部に編入を決意、編入学に成功。卒業後社会人になるが、社会学の勉強を本格的におこないたくて大学院進学を考える。ところが、社会学の勉強を続けるうちに生命科学に興味がでてきて医学部受験に方向転換。1年間の猛勉強で入学。医学部入学当初は医師ではなく医学者になることを考えていたが能力の限界を感じ臨床医に転換。どのような医師になるか決めかねていたところ、タイのエイズホスピスで出会った総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後に大学の総合診療部の門を叩く。その後複数の医療機関で研修を受け、クリニックをオープンさせる。

 と、このような感じです。一見サクセスストーリーに見えなくはありませんから、私はこれまでの自分史を事前に”キレイに”まとめていたのです。しかし、実際のところ、私の人生はスムーズに進んだわけではありません・・・。

 まず高校時代に相当悩みました。何に悩んでいたのかと問われれば、それさえも答えられないような悩みで、他人には分かってもらえないようなものかもしれません。当時の私は何が楽しいのかが分かっていませんでした。勉強、スポーツ、音楽活動(少しだけバンドというものをかじったことがあります)、遊び、恋愛、どれも中途半端、というか、何をしてもそれなりには楽しいものの、心のどこかで「何か違う・・・」という違和感を拭えなかったのです。

 何のために生きているのだろう、本当に大切なことは何なのだろう・・・、そんなことばかり考えて空虚な日々を過ごしていました。何もしなくても卒業する日は確実にやってきます。このままいれば高校卒業後は、町工場にでも勤めて、20歳前後で結婚して、その後子供ができて、趣味は車いじりとパチンコと週末のスナック通い・・・。そしてこの空虚感からは永遠に逃れられない・・・。そんなことを考えると、たとえようのない閉塞感に襲われ、息をするのも苦しくなったことがあります。

 当時の私の唯一の希望は「都会への憧れ」でした。いくつもの大学を見に行って関西学院大学を訪れたときに”身体に電流が流れるような衝撃”を受けた私はその後関西学院大学を目指すことだけを「生きる糧」にしました。

 そして合格。しかし今度は、自分が考えていた理想と現実のギャップに悩むことになります。大学進学の目的は都会への憧れ、ただそれだけでしたから、大学生が勉強しなければならないなどとはまったく思っていなかったのです。退学を決意し両親に相談するも却下(当たり前ですが)・・・。そんなとき先輩の一言で社会学部の編入学を考えることになりました(注1)。

 しかし事務局では「理学部から社会学部の編入は前例がないから無理」と却下されてしまいます。「前例は自分でつくるもの!」と考えて猛勉強の末に合格、と言えば聞こえはいいですが、そう簡単に気持ちを切り替えられたわけではありません。最終的には「背水の陣」を敷いて編入学試験に臨みましたが、合格する自信があったわけではありません。何しろ申し込みの時点で「無理」と言われていたのですから。

 編入学試験に合格しその後大学を卒業するまでは夢のような生活でした。時はバブル経済真っ只中、といってもお金はありませんでしたが、それでも毎日が楽しくて仕方がありませんでした。まさに私にとっての「酒と薔薇の日々」です。

 卒業後、私が就職したのは大阪にある商社です。このときは英語で苦労したものの、仕事自体は苦痛ではなくむしろ楽しい思い出の方がずっと多いといえます。

 しかし、楽しいはずの社会生活で再び苦痛に襲われます。このまま今の仕事を続けるべきなのだろうか・・・。これが自分が本当にやりたいことなのだろうか・・・。そのようなことが頭をよぎりだすと、ちょうど高校時代に感じたような閉塞感が再び私を襲ってきたのです。そんなとき、私の出した結論が社会学部の大学院進学。そして独学で社会学の勉強を続けるうちに興味が生命科学に向かうようになり、ついに医学部受験を決意するに至ります。

 そして受験勉強に専念するために退職するわけですが、医学部受験といった突拍子もないことを言い出した私を応援してくれる人などほぼ皆無です。予備校に行くお金などありませんから、独学でひたすら毎日勉強しました。そして1年後に合格を果たすことになります。

 医学部入学後は、再び大学で勉強できることが幸せだったのですが、学年が上がり勉強を重ねるにつれ、次第に「能力の限界」を感じるようになりました。そして、当初考えていたような医学者になることを諦めます。代わりに臨床医を目指すことになるのですが、このときには自分の将来の像が見えていたわけではありません。

 研修医を終えてから訪れたタイのエイズ施設で私の人生がほぼ決まることになります。社会から疎外されている患者さんをみてエイズという病に関わりたいと感じたと同時に、その施設にボランティアに来ていた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)をみて私が進む道が決まりました。帰国後私は大学の総合診療部の門を叩くことになります。

 その後は複数の医療機関、複数の診療科で研修を受け、大学に籍を置きながら大阪市北区に自分自身のクリニックをオープンすることになります。クリニックオープン後もいくつもの苦痛に見舞われましたが、最も辛かったのは、自身の「変形性頸椎症」に対する手術を受けたときです。手術は成功したものの芳しくない術後の経過が私を苦しめました。このときには、過去に診てきた患者さんのことが頭に浮かんだことなどがきっかけとなり、比較的早い段階で苦しみから抜け出すことができました。

 さて、改めて自分の人生を振り返ってみると「転機」が訪れたのは1997年、医学部1年生の終わり頃、28歳のときです。何か特別な事件があったわけではありません。生まれて初めて自分自身のミッション・ステイトメントをつくったのです(注2)。私はそれ以来、精神的な”ぶれ”がかなりなくなったように感じています。高校時代や会社員時代に私を襲った「何のために生きているのだろう・・・」という疑問に苦しめられることがなくなりましたし、将来の方向がはっきりしていなくても自分のミッションを持っていれば悩まなくてもいいことを理解するようになりました。手術を受けた直後には、一瞬それを見失いそうになりましたが、脳裏に現れた過去の患者さんに助けられたことがきっかけで、ミッション・ステイトメントを振り返ることになり自分自身を取り戻すことができました。

 これからも私はいろんな苦痛を感じることになるでしょう。また、文章にはできませんが、これまでの人生で人間関係や恋愛関係で傷つけたり傷つけられたりといったことは多々ありますし、これからもあるでしょう。人間関係からくる苦痛というのは、ときに生きる気力を奪うほど大きなものです・・・。

 私はここ数年、毎年1月1日にミッション・ステイトメントの全面的な見直しをおこなっています。この時間は私にとってとても大切な時間です。今年は、直前に毎日新聞の奥野編集長から鋭い質問を受けたおかげで、例年よりも心の奥深くにまで問いかけ、ミッションの見直しをおこなうことができました。そして、傷つけた人、傷つけられた人たちも含めてこれまで私と関わってきた人たちのことを考えていると、感謝の気持ちが沸き上がり身体の奥底からパワーがみなぎってくるような感覚に包まれました。

 そして、私の2016年がスタートしました。

注1:このあたりのことは過去にも書いたことがあります。興味のある方がおられれば下記を参照ください。

マンスリーレポート
2013年10月号「安易に理系を選択することなかれ(前編)」
2013年11月号「安易に理系を選択することなかれ(後編)」

注2:ミッションステイトメントについては下記も参照ください。

マンスリーレポート
2009年1月号「ミッション・ステイトメントをつくってみませんか」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年12月11日 金曜日

2015年12月 私が狂っているのか、それとも社会がおかしいのか

 先日、近くの食堂で遅い夕食をとっているとき、テレビで今年(2015年)の流行語大賞の発表がおこなわれていました。日頃ほとんどテレビを観ず、流行にかなり疎い私はノミネートされていた流行語をほとんど知りませんでした。それはいいのですが、そのテレビを観ていて、虫唾が走るような不快感を覚えました・・・。

 2015年8月16日午前7時頃、バンコクのラーチャダムリ通りを北向きにジョギングしていた私は右手にエラワン廟を見ながら交差点を右折しプルンチット通りに入りました。その36時間後に死者20人の被害をもたらした爆弾テロ事件がこの場所で起こるとは想像だにできませんでした。

 2015年11月12日、レバノンの首都ベイルートで2件の自爆テロ事件がおこり43人が死亡しました。(なぜかマスコミはこの事件をあまり取り上げませんでした・・・) その翌日、パリで連続自爆テロ事件が起こり127人以上が死亡しました。この事件はコンサート会場やレストランで事件が起こり世界中を恐怖におののかせました。

 2015年の私の印象は、これほどイスラム教関連の忘れ難い出来事が起こった年はないのでは?、というものです。日本人を助けるためにシリアに入国しISILというテロ組織(マスコミではこのテロ組織を「イスラム国」と呼んでいますがこれは国ではありません)に捕らえられ、2015年1月に惨殺されたジャーナリストの後藤健二氏のことを世間はもう忘れたのでしょうか。

 また、同じ月(2015年1月)に、イスラムを風刺したパリの週刊誌の編集長や執筆者ら合計12人が殺害されたシャルリー・エブド襲撃事件(この事件とISILとの関係は不明)はもう忘れ去られたのでしょうか。

 忘れ去られたわけではないけれども、流行語大賞にノミネートされた言葉の方がインパクトが強くより流行した、ということなのでしょうか。ISIL(イスラム国)、自爆テロ、後藤健二、シャルリー・エブド、こういった言葉は流行語にはならないのでしょうか。「流行語」はどこか軽薄なイメージが伴うため、あえてこういった単語はノミネートから外しているのでしょうか・・・。

 私が言っていることは「中年オヤジの戯言(たわごと)」に過ぎないのかもしれません。それにテレビのことなど放っておけばいいのだとは思いますが、イスラム関連の事件が取り上げられていないのはやはりおかしいと思うのです。

 イスラム関連以外のことで言えば、2015年は二人の日本人がノーベル賞を受賞しています。ノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章博士はニュートリノが質量を持つことを発見しました。ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智先生はイベルメクチンという寄生虫の薬で何億人もの人を救っています。ならば「ニュートリノ」や「イベルメクチン」が流行語になってもよさそうなものだと思うのですが、このように感じるのは私だけなのでしょうか・・・。

 話をイスラムに戻したいと思います。私はこれから世界が最悪の事態になるのではないかという危機感を拭えません。私は政治に詳しいわけではなく、ずぶの素人ですが、次のように考えています。

 2015年9月30日、ロシアはシリアの反政府組織を空爆しました。シリア政府(アサド政権)をロシアは支持しています。結果として、これが引き金となり次々と悲劇が起こっているのではないかと思うのです。1ヶ月後の10月30日、エジプト上空でISILがロシア機を爆撃し、乗客乗員224人全員が死亡しました。ISILはジハードの名の下に自爆テロを繰り返し、11月12日にはベイルートで、13日にはパリで大規模な自爆テロを起こしました。

 私が懸念していることは2つあります。1つは、純粋なイスラム教徒に対する偏見です。イスラムを名乗るテロ組織が世界中で次々と自爆テロを起こすようになれば、キリスト教徒や仏教徒、多くの日本人のような無宗教の人々は、イスラム教徒に対する偏見を持つことにつながります。そして彼(女)らは社会から疎外されることになりかねません。すると、そういった者のいくらかは社会への怨恨が生じ、ISILに加わるかもしれません。そして、まさにこれこそがISILの考えていることです。つまり、非イスラム教徒がイスラムへの偏見を強めることになればなるほど、ISILの「思う壺」というわけです。

 先に述べたバンコクの爆破事件はウイグル族のイスラム教徒の犯行と言われています。中国政府(漢民族)は以前からウイグル族を弾圧していることが問題になっていました。イスラムへの風当たりが強くなっているこの時期に一気に圧力をかけてくるかもしれません。するとウイグル族の若者がISILに加わるという可能性もでてきます。

 さらに、です。日本では地下鉄サリン事件という世界中を驚かせたテロ事件が起こった歴史があります。オウム真理教に共感し入信した若者の何割かは社会に対するルサンチマンを持っていて、それがテロという反社会的な行動につながったのではないでしょうか。だとすると、現在の日本社会に不満を持つ若者がISILに勧誘され、日本国内でのテロが起こらないとも限りません。実際、パリでも、海外からやってきた者ではなく、自国の国籍をもつ者たちによって悲劇が繰り広げられたわけです。

 もうひとつの私の懸念は、大国どうしの複雑な関係です。私は以前、旅先で知り合ったトルコ人に「日本人はスンニ派とかシーア派とかにこだわりすぎる。自分たちはそんなこと普段意識しない」と言われたことがあるのですが、やはり国家の関係を考えるときにはこれらを考えるのがわかりやすいと思います。(ただし私の知識はいい加減で正確ではない可能性があります)

 スンニ派とシーア派ではスンニ派の方が多く、スンニ派の方が一般に規律が厳しい。代表国がトルコとサウジアラビア。シーア派の大国はシリア、イラン、イラク(ただしフセイン元大統領はスンニ派)、それにレバノンです。ISILはシリア内で反政府組織として発生していますから一応はスンニ派です。

 問題はここからです。ロシアは昔からシリアと仲がよくトルコと仲が悪いわけですから、シーア派支持となります。しかし、シーア派のアサド大統領はここ数年間民主化運動をおこなう市民を大量に虐殺しており、西欧諸国はそろって反アサドです。となると、ロシアと西ヨーロッパが対立することとなり、アメリカも西ヨーロッパと同じ立場になります。ということはロシア対西ヨーロッパ・アメリカとなり、こうなると「冷戦の再燃」です。

 さらに複雑なことに、11月にトルコがロシアの戦闘機を撃墜したことで二国間関係が険悪になっています。もう一度同じようなことがあると一気に大戦に突入となるのでは・・・と危惧します。

 ここで私の個人的な話をしたいと思います。NPO法人GINAの関連の仕事で南タイを訪れたときの話です。南タイはイスラム教徒が多数派を占め、独立運動が盛んで、ISILとは(今のところ)無関係ですが、死傷者を伴うテロがときどき起こります。私が訪問したときも戒厳令が敷かれており夜間外出は禁じられていました。海岸近くに投宿していた私は夕方に海岸通りの屋台で食事を買おうと思いビーチに出ました。

 すると、ヒジャブ(女性のイスラム教徒が頭に巻いている布)をまとった20人くらいの小学生くらいの女の子たちが砂浜でバレーボールをしていました。バンコクには中東出身者が集まるエリアがあり、そこにも多くのイスラム教徒の男女がいるのですが、そこでは女性の笑顔を見た記憶がありません。しかし、南タイの砂浜では無邪気な少女たちが、何がそんなにおかしいの、と言いたくなるほど笑い合って戯れていました・・・。ほのぼのとしたその雰囲気に癒やされた私は、なんだかとても平和的な気持ちになり、しばらくその場を離れたくなくなりました。

 中東では男女の会話も禁じられているそうですが、タイでは(マレーシアやインドネシアでも)屋台で焼き鳥を焼いているヒジャブを巻いた女性が、笑顔で日本人男性の私にも焼き鳥を売ってくれておまけをしてくれることもあります。

 私のイスラム教に対する印象は「平和で明るく無邪気」です。これは現在のイスラム教の世間のイメージと正反対だと思います。しかし、2014年にノーベル平和賞を受賞したパキスタンのマララ氏(と呼べばいいのでしょうか。マララさん?マララちゃんは失礼?)を思い出して下さい。日本での報道は一瞬で終わってしまいましたが、それでも彼女の勇気ある行動に胸を打たれた日本人も多かったはずです。

 2015年を振り返ってイスラム教徒のことが真っ先に出てくる私はおかしいのでしょうか。家族や従業員からは、遠い国のことを考える前に自分たちのことを考えろ、と言われそうですし、患者さんからは、もっと身近に困っている人がいることを忘れるな、と叱られそうです。それはたしかにその通りなのですが、1人でも多くの人にイスラムのことを考えてほしい。そしてイスラムでまずイメージするのはISILではなくマララ氏であってほしい。そう願っています・・・。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年11月10日 火曜日

2015年11月 熊本の変容と他者への貢献

 私が熊本を初めて訪れたのは社会人をしていた20代前半の頃で、仕事での出張が目的でした。「飲み屋が多い街」というのが私の第一印象で、同じ九州でも博多とは異なり、小さな飲み屋がたくさん密集していることや、大都市とは違う独特の情緒ある雰囲気がなぜかとても魅力的に感じられました。その飲み屋街は白川という大きな川の西に位置しています。この川を東から西に渡ると、空気が一変し別世界に来たような感じがして、なんだかとても不思議な気持ちになったことを覚えています。

 その後私は会社を辞め、仕事で熊本に行くことはなくなりましたが、機会があれば訪れるようにしていました。私が最も好きな地方都市のひとつです。熊本訪問時にはいつも白川より西のエリアに宿を取るようにしています。東側の整然とした「官」の雰囲気のあるエリアよりも、少し猥雑とした24時間眠らない非日常的な西側の時空間が私はたまらなく好きなのです。

 2015年10月上旬のある日、9年ぶりに熊本の地を踏みました。ある学会に参加するのが目的です。空港からバスに乗り換え白川を西に渡るとき、街の雰囲気がこれまで私が知っていた熊本と少し異なることに気づきました。なぜか街がとても明るく感じられます。ライトの数を増やしたのだろうか、もしかするとLEDをたくさん使っているのだろうか・・・、それにしてもこの人の多さは何なんだ、それに外国人もこんなに多いとは・・・。

 投宿し、そのあたりを散策しに出かけた私は、私が知っている過去の熊本と違っていることをさらに強く感じました。過去の雰囲気も魅力的でしたが、現在の熊本はかつてなかったようなエキサイティングでわくわくするような活気があります。この原因はいったい何なのでしょうか・・・。

 その理由が分かったのは、意外にも翌日に参加した医学会でした。

 受付会場で最も目立ったのは、「くまもんが来ます」というポスターでした。これを見た段階ではまだピンと来なかったのですが、受付で手続きを済ませると「くまもんバッジ」を渡され、ここで私は気づきました。そして前日に見た数々の光景がよみがえってきました。商店街に掲げてあるくまもんの巨大なポスター、いたるところに置かれた大小のぬいぐるみ、くまもんのシールが貼ってある食料品やペットボトル、くまもんの絵が大きく描かれたタクシーまで・・・。

 そうなのです。この街はくまもんのおかげで明るく元気になっているのです。それにしても医学会でもくまもんバッジが配られて、本物のくまもんがやって来るとは驚きです。

 医学会というのはその学会にもよりますが、医師でないゲストの特別講演が企画されていることがあります。私はこういった講演を聴くのが学会参加の楽しみのひとつであり、参加する前には誰がそのような講演をおこなうかを確認しています。これまでに私が聴いた講演で印象に残っているのは、故・渡辺淳一氏、スキージャンプの葛西紀明氏、車いすランナーでパラリンピックメダリストの伊藤智也氏などです。

 今回熊本で開催された学会の特別講演は熊本県知事の蒲島郁夫氏。しかし、私は(失礼ながら)蒲島氏のことをほとんど知りませんでした。ですから(これまた失礼ですが)講演にはそれほど期待していなかったのです。

 ところがところが、蒲島知事の話は最初から最後まで刺激的で、息つく暇もないほど夢中にさせられました。幼少時に苦労をして成功した人の話はたくさんあり、どれも興味深いもので、偉人の伝記や自叙伝などを読むのは私の趣味のひとつです。しかし蒲島知事ほどインプレッシブな人生を歩んでいる人はそういないのではないでしょうか。

 1947年熊本で9人兄弟の7番目に生まれた蒲島知事。幼少時は貧困に喘ぎ、白い米を食べられるのは正月のみ。小学2年生から高校3年生までの11年間、1日も休まずに新聞配達をして家計を助ける。当然勉強はできず高校時代には220人中200番台の成績。そのうち高校に行かなくなり丘の上の一本松の下で景色を眺め本を読む生活。出席日数ギリギリで卒業させてもらい就職もできたがわずか1週間で退職。その後農協に勤めるが2年で退職し、農業研修生とし渡米。ここで人生が開けるかと思いきや「研修生」とは名ばかりで実際は過酷な条件でのいわば強制労働。しかしプログラムにネブラスカ大学での3ヶ月の研修があり知事はここで勉学に目覚めます。いったん帰国した後、ネブラスカ大学に入学するために猛勉強。そして再び渡米し試験を受けるも結果は不合格・・・。しかし大学の講師の計らいで「仮入学」という形で大学で学べることに。高い成績を取らなければ半年で退学という条件のなか、日々猛勉強に明け暮れ一学期の成績はなんとオールA。その後4年でネブラスカ大学農学部を卒業。

 これだけでも充分なサクセスストーリーですが、ここからが蒲島知事のおもしろいところです。大学院は農学部ではなく、なんとハーバード大学の政治学部。ここでも猛勉強を継続し、通常は卒業までに5年はかかる大学院を3年9ヶ月でクリア。その後帰国し筑波大学の教授。その後東大教授に。高卒で東大教授という経歴は蒲島知事の他にはいないそうです。しかし熊本知事に立候補するため東大教授を退職。そして当選。2012年にも再選を果たし現在2期目です。

 私は新聞には毎日目を通しているつもりですが「くまもん」についてはその名前くらいしか知りませんでした。多くの実績のある蒲島知事の活躍のなかでも「営業部長にくまもんを抜擢」はその最たるものです。それにしても知事の(知事だけでなく熊本県の職員もですが)くまもんの戦略には驚かされます。知事はくまもんの知名度を上げるためにまず大阪をターゲットにしたそうです。しかも、大阪のテレビで取り上げてもらう、といった単純なことではなく言わば”ゲリラ的”な戦略を展開されました。

「くまもんを探しています。目撃された方は情報をお寄せください」といった内容の記者会見をネット上でおこない、大阪の各地に瞬間的に神出鬼没するくまもんの目撃情報を募集したそうです。またあるときには営業部長の任務としてくまもんに1万枚の名刺を道行く人に配らせていたそうです。これ、むちゃくちゃ面白い企画ではないですか。私はくまもんと熊本県がこのような斬新的なパフォーマンスをしていたことを後から知って少し後悔しました。太融寺町谷口医院は大阪市北区の繁華街の近くにありますから、きっとこの近くにもくまもんが来ていたはずです。そう思うと残念でなりません。

 学会での蒲島知事の講演では後半にくまもんが壇上に登場しました。われんばかりの拍手と止むことのないフラッシュのなか、くまもんは特に緊張した様子もなく知事をフォローしていました。講演終了後は、くまもんがロビーにやってきて撮影会が始まりました。驚いたことに、多くの医師たちが、日頃は笑顔を見せないようなタイプの医師たちも含めて(失礼!)、くまもんとのツーショット写真は相当嬉しいようで、順番の奪い合いをし、ようやく写真撮影となると満面の笑みを浮かべているのです。(ちなみに、私はそういった医師たちに圧倒され、ツーショット写真に並ぶ気力が起こりませんでした・・・・)

 さて、今回のコラムで私が最も言いたかったのは蒲島知事の努力のストーリーでもなく、くまもんの大阪でのエピソードでもありません。それは、現在の蒲島知事の「公僕としての精神」です。講演のなかで、知事が直接このような言葉を使われたわけではありません。しかし、就任1年間月給を百万円カットしたといったエピソードなどを持ち出すまでもなく、言葉の節々や話し方、表情などから、知事がいかに熊本に貢献したいかという思いがビシビシと伝わってきました。そして、このことが私がもっと蒲島知事のことを知りたい、これから応援していきたいと感じた理由です。

 私は人間の欲求のなかで「他人や社会に貢献する」ということが最も安定した欲求になるのではないかと考えています。機会があれば詳しく述べたいと思いますが、他者(他人や社会)への貢献の欲求は、一時的なものではなく永続し、飽きることがなく、迷うこともなく、また他人から共感を得られるものです。

 蒲島知事の講演を聴いた私は、自分は医師として他者(患者さんや社会)に貢献し続けたい・・・、そのような思いが次第に強くなっていきました。そして受付でもらったくまもんバッジを手に取り、カバンに取り付けました・・・。

参考:
『私がくまモンの上司です――ゆるキャラを営業部長に抜擢した「皿を割れ」精神』
蒲島 郁夫 祥伝社
『逆境の中にこそ夢がある』蒲島 郁夫 講談社

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年10月9日 金曜日

2015年10月 英語の使用に反対する人たち

 楽天が英語を社内の公用語にしたのは2010年頃だったでしょうか。当初は「現実的でない」「大事なことが伝わらない」など批判的な声の方が大きかったようですが、最近は英語公用化を評価する意見も増えてきていると聞きます。

 その後、ユニクロのファーストリテイリングも英語を社内公用化したと報道されました。そして、2015年6月にはホンダが2020年を目標に社内公用語を英語にすることを発表し話題を呼びました。

 私はホンダが英語の社内公用化に踏み切ったことが、日本のビジネス英語普及のターニングポイントになるかもしれないと考えています。楽天やファーストリテイリングというのは若い社員が多く、特に楽天はもともとITレベルの高い社員が集まっているでしょうから英語へのハードルはそれほど高くないでしょう。

 しかしホンダはこれら新興企業とは異なります。日本を代表する自動車老舗メーカーのホンダはグループ会社も加えると従業員は20万人を超えます。20万人以上の従業員全員が、TOEICでハイスコアを取るようになり、会議はもちろん、もしも社内食堂での雑談まで英語を使うとなると、これは革命的なことになると思います。

 日本で働きたいという外国人は少なくありませんが、ホンダはそのような外国人にとって超人気企業となるはずです。そして優秀な人材が集まるでしょう。海外での営業は英語力に秀でた日本人または外国人がおこないますから、他の日本の自動車メーカーよりもアドバンテージがでてきます。従業員全員が英語をスムーズに使えるとなれば社内伝達も早くなりますから、極めて効率よく世界をターゲットにした戦略がおこなえます。

 しかしながら、楽天のときもホンダのときも社内公用語計画が発表されたときには、反対意見が目立ちました。不思議なことに、英語のできない人だけではなく、英語が堪能な知識人のなかにも「欧米の戦略にやられてしまう」とか「日本人が愚民化する」などということを言う人がいます。

 はたして英語公用化が日本の経済界に普及したとき、反対派の人たちが言うような日本人にとって不利益なことが起こるのでしょうか。

 ここで医療界の話にうつりたいと思います。

 2015年8月、医師のコミュニティサイト「m3.com」で「英語で教授回診、カンファレンスを開始した理由」というタイトルで、大阪市立大学附属病院の一部の科では英語で会議がおこなわれていることが報告されました。

 大阪市立大学医学部は私の母校であり、実は私が学生の頃からすでに一部の科では会議時に英語が使われており、医学生が会議で発表をおこなうときも英語が義務づけられていました。医学部の学生は、使用している一部の教科書や講師が配布するプリントには英語のものも少なくありませんから、少なくとも英語を読むということについては(苦手意識があるとしても)できないことはありません。というより英語がある程度できなければ医学部の勉強は続けられません。

 けれども、会議時に英語で発表となると「自信があります」といえる学生はほとんどおらず最初は抵抗を示します。しかしこれは必ずやらなければならないことで「拒否する」という選択肢はありません・・・。この話の続きは後でおこなうこととして、英語公用化の反対意見についてみていきましょう。

 大阪市立大学の報告をした「m3.com」は医師のコミュニティサイトであり、この記事を読んだ医師が自由に意見を書き込んでいます。それらを読んでみると、意外なことに英語での会議に反対する意見が少なくありません。反対するその理由をみてみると「英語ばかりに注意がいくようになり肝心の医学的内容がおろそかになる」「医学の質が英語よりも大事」などと述べられています。

 大変興味深いことに、こういった反対意見は楽天やホンダの英語公用化が発表されたときにでてきた意見とそっくりです。楽天やホンダを含めて一般の企業に就職した人のなかには、それまでの人生で英語に接する機会がほとんどなかったという人もいるでしょう。しかし、医師の場合は、医師国家試験は日本語で出題されますが、6年間の勉強を英語の知識が低いまま続けることなど絶対にできません。その医師たちが一般企業の英語反対派の人たちと同じような理由で反対することが私には意外でした。

 一般企業の英語公用化に私自身は賛成ですが、反対派の人たちの考えが分からないわけではありません。というのは、英語はまったくできないけれども、仕事がよくできて人望も厚い、人間的に大変尊敬できる人がどこの企業にもいるからです。その逆に、ネイティブスピーカー並みの流暢な英語を話すものの、中身が無くて、仕事ができない、人間的にも問題のある、いわば「英語はできるが日本語ができない」社員というのもおそらく多くの企業でみられます。

 仕事ができて英語ができない派からすれば、英語社内公用化のせいで英語ができないと低い評価となるシステムになれば、英語ができて仕事ができない人たちを非難したくなる気持ちは充分に理解できます。

 しかし、です。これは私の個人的意見に過ぎないかもしれませんが、英語が現時点でできない人はこれまで英語に接する機会がなかっただけです。もしくは接する機会があったけれどもそれをチャンスと見なすことができなかった、だけです。たとえていえば、生涯を共にすべきパートナーとの出会いのチャンスがあったのに、なぜかそのときは血迷ってしまい別のパートナーを選んでしまって後から後悔するようなものです。

 考えてみてください。仕事ができて厚い人望があり人間的に尊敬できる人は努力を惜しみません。そのような人が英語の勉強を真剣にやってできないはずがないのです。逆に流暢な英語は話すものの中身がない人は、初対面の印象こそ悪くないかもしれませんが、その後は相手にされなくなるはずです。

 というわけで、私はすべての人に英語の勉強をすすめたいと考えています。さて、一部の人が言うように英語を公用化すれば日本人は愚民化するのでしょうか。ここで再び大阪市立大学医学部の学生の英語での発表についての話に戻します。

 私自身は英語は得意ではありませんが、医学部入学前は商社に勤めていて外国人を交えた会議などでは英語を使用しなければなりませんでした。ですから英語での発表と言われてもそれほど抵抗はなく、そのため何人かの同級生は私に助言を求めてきました。そこで私は、彼(女)らにまず発表する内容をすべて英語でつくるように助言し、それを添削しました。そしてできるだけシンプルな英文にして、それを暗唱するように言いました。

 私自身も彼(女)らに言われて「なるほど」と思ったことがあります。それは英語で文章をつくる方が論理的に考えることができて、それまであいまいだったことがクリアになったというのです。日本語だけで言葉をつないでいくと曖昧な表現がいくらか含まれます。その曖昧さが日本語の美しさという考えもあるでしょうが、仕事で使う言葉では曖昧さを取り除かなければなりません。

 医学の会議や学会では、最近はそれほど大きなものでなくても外国人が発表したり、海外からの留学生が参加したりすることもよくあります。一般企業でも、国内外にかかわらず会議に外国人が参加していることがすでに珍しいことではなくなっているでしょうし、今後も増えていくでしょう。

 つまり、すでに世界共通語が英語になってしまっていると認識すべきです。これは医療界のみならず一般企業、一般社会においてもです。日本にやってくる外国人を意味する「インバウンド」という言葉は数年前までまったく聞かれないものでしたが、今や毎日のように新聞紙上で見かけます。そして、今後インバウンドはますます増えていきます。

 携帯電話やインターネットがない時代に戻れないのと同様、英語を使うということからもほとんどの人が逃れられないというのが私の考えです(注1)。

************

注1:今回のコラムでは英語の勉強法について述べていません。私が最も言いたいことは、上達度に差はあるものの英語は勉強すれば誰でも必ず上達する、ということです。効果的な勉強法については過去にコラムを書きましたので、興味のある方は下記を参照ください。

マンスリーレポート
2011年10月号「私の英語勉強法 その1」
2011年11月号「私の英語勉強法 その2」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年9月11日 金曜日

2015年9月 お金に困らない生き方~4つの秘訣~(後編)

 今回は「お金に困らない生き方」の最終回として3つめと4つめの秘訣を述べたいと思います。前々回、前回に引き続き、今回も私がタイで見聞きしたエピソードが中心となります。「もうタイの話は聞き飽きた」という人も今しばらくおつきあいください。

 3つめの秘訣は「情けは人の為ならず」です。このことわざ、以前私はあまり好きでなかったのですが、最近はどうもこれは世の中の”真実”であるのではないかという気持ちになってきています。
 
 説明していきたいと思いますが、その前にこのことわざの意味をはき違えている人が少なくないという新聞記事を以前読んだことがあるので、念のため正しい意味の確認からしていきたいと思います。その記事によると「情けは人の為ならず」を「他人に情をかけることはその人の為にならない。だから他人に同情するな!」という意味と思っている人が少なくないそうです。

 もちろん正しくはまったく逆で「誰にでも親切にしなさい。そうすると、いずれ自分が困ったときに助けてくれるものですよ。だから情をかけるのは<他人>のためでなく<自分>のためなんですよ」という意味です。(「国語学者」からみると幾分ずれているかもしれませんが、私の解釈で大意は合っているはずです)

 では本題に入ります。以前私がなぜこのことわざを好きでなかったかというと、なんとなくエゴイスティックなイメージがあったからです。あとで見返りを期待して他人に親切にすると言っているように聞こえて、「あ~、なんか打算的でイヤな考え」と思っていたのです。

 しかし「情けは人の為ならず」を社会の構成員全員が実践していたとすればどうでしょう。そして、それがタイなのです。誤解のないように言っておくと、私はタイがパラダイスと言っているわけでは決してありません。タイ人と仕事をしたことがある人には同意してもらえると思いますが、あの「いい加減さ」についていける日本人はあまりいません。これからタイ人の優しさについて述べていきますが、一方で平気で仲間を裏切るタイ人は少なくありませんし(裏切られた方もいつのまにか許しているのがタイ人の魅力のひとつかもしれませんが)、彼(女)らは借りたものは返しませんし、嘘をよくつきますし、義理・人情というものがあるのかないのかよく分かりません。

 タイ人は男性でも女性でも、仲良くなるとすぐに「家に遊びに来い」とか「親戚が来るから一緒にご飯を食べよう」とかいいます。そして一緒に食事をすると、だいたい日本人が全額払わされることになります。経済格差がありますから、これは当然と言えば当然かもしれません。我々日本人が理解しがたいのは、彼(女)らがお礼を言わないことです。(このような機会でお礼を言われたとすれば、そのタイ人は日本文化を知っていると考えるべきです)

 タイ人の感覚は「お金は持っている者が払うもの」というものです。では、私に(日本人に)おごってもらう人たちはいつも他人の善意に頼っているのかというとそうではありません。彼(女)からみて困っている人に対しては手を差し伸べるのです。

 深夜、バンコクの繁華街では、男性なら薬物のディーラーかジャンキー、女性ならセックスワークをしているだろうと思われる不良タイ人にイヤでも遭遇します。そんな彼(女)らが悪人かといえばそうは思えません。彼(女)らがホームレスに果物やご飯を恵んでいる光景をしばしば目にするからです。

「タイでホームレスや障害者からお金を求められても無視するように」と言う日本人がいます。しかし、実際にホームレスや障害者をしばらく観察していると、タイ人、それもスーツを着た富裕層ではなく、低い層と思われる男女がそのような社会的弱者にお金をあげているシーンを目にします。

 では、ホームレスや障害者の人たちは恵んでもらうだけかというと、そうではないのです。彼(女)らは野良犬にご飯をあげています。つまり、タイでは社会を構成するすべての階層のひとたちが、困っている人(犬)たちに何らかの手を差し伸べているのです。

 そして、以前は自分よりお金を持っていた人が何らかの理由で転落したときには、今度はその人を助けようとします。これは、私の印象でいえば、日本人が感じる「恩返し」とは少し異なります。「恩を返す」あるいは「借りを返す」というものではなく、あたかもそれが「当然」という感じなのです。

 東日本大震災が起こったとき、バンコクではBTS(モノレール)の主要な駅周辺に募金箱が置かれました。BTSの料金は冷房なしのバスの何倍もしますからある程度の富裕層しか使わない乗り物です。このとき、庶民的なタイ人たちはBTSを利用するわけでもないのに駅まで来て募金をしてくれたのです。「困っている人は放っておけない」という感覚が自然に身についているのかもしれません。

 タイは特に地方に行けば日本よりもはるかに貧しく、また格差はすさまじいものがあり日本の比ではありません。生活保護などの公的扶助は日本とは比較にならないほど貧弱です(ただし医療費は無料です)。しかし、自殺する人は非常に少ないですし、最近よく聞く「孤独死」もおそらくほぼ皆無でしょう。

「情けは人の為ならず」をただひとり実践したとしても社会は変わらないかもしれません。しかし、良貨は悪貨を駆逐します。(これは私があえて「誤用」している言葉で、正しいことわざは「悪貨は良貨を駆逐する」です。念のため) 私はタイの文化をみて「情けは人の為ならず」が「非現実的な理想」ではなく「真実」であると考えています。真実であるならば、少しずつ草の根レベルで他人に広めていけばいいのです。つまり「情けは人の為ならず」を実践し続けることでそれが真実であることに気づく人が増え、結果として「お金に困らない」=「お金がないときも他人に頼れる」社会になると思うのです。

「お金に困らない」4つめの秘訣は「健康」です。健康を損なえばお金に困ることがあります。またまたタイの話で恐縮ですが、北タイ在住のある日本人男性の話をしたいと思います。この男性に私は会ったことはありませんが、チェンマイでは有名のようで、作家の下川裕治氏はこの男性を実名をだして著書で紹介しています(注1)。沖縄出身で東京で飲み屋をやっていたこの男性はチェンマイが気に入り移住したそうです。しかし持病の腎臓病が悪化し人工透析が必要になってしまいました。

 人工透析はかなりの高額が必要になり、日本で治療を受けた場合、実際は保険や公的扶助で自己負担はあまりありませんが、透析の費用だけで月あたり40~50万円程度かかります。タイで透析を受けるとなると自費診療となりますから10万円以上は必要になります。このような高額な費用を払い続けることはできません。下川氏によると、この男性は月額7万円の年金で楽しく暮らしていたそうです。前回も述べたように月7万円もあれば贅沢しなければ北タイでは充分に暮らしていけます。しかし透析代が必要となるとすぐに破産してしまいます。下川氏は「乞食をやってもチェンマイにいる」とこの男性に言われ、言葉をなくしたそうです。

 タイを含むアジア諸国で老後をまったり過ごす予定だったけれども、現地で病気を患って帰国せざるを得なくなった。あるいは、海外に旅立つ前に持病が悪化し夢を諦めなければならなくなった、という話はそう珍しくありません。

 比較的よくある疾患が、生活習慣病(特に糖尿病)や悪性腫瘍です。HIV感染も珍しくありません。ちなみに抗HIV薬はタイでは日本よりも格段に安く入手できますが、それでも(円安の影響もあり)月に1万円以上はします。しかも、この安い薬剤が副作用で使えなくなったり、他の病気を併発したりすると、日本に帰国せざるをえなくなってきます。

 さて、3回にわたり、私が思う「お金に困らない秘訣」を述べてきました。「年金」「倹約」「情けは人の為ならず」「健康」がその4つです。振り返ってまとめてみると、「日頃から健康に気をつけ、倹約に努め、年金は遅滞なく支払い、困っている人がいれば手を差し伸べる」となります。

 どこかで聞いたことがあるようなないような・・・。もしかすると小学校の道徳の時間に習ったようなことかもしれません。つまり、「道徳的に生きること」が結局のところ「お金に困らない生き方」につながる。それが私の考えです。

***********

注1:私の記憶はいい加減ではありますが、下川裕治氏は確実にこの男性を著作で紹介しています。けれども、私はこのコラムを書くにあたり、本棚をひっくり返し下川氏の10冊以上の本を手にとってみたのですが結局見つかりませんでした・・・。どこか海外のホテルにでも忘れてきたのでしょうか・・・。ただ、この日本人のことを自身のブログで書かれていました。下記URLを参照ください。

http://odyssey.namjai.cc/e25942.html

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年8月7日 金曜日

2015年8月 お金に困らない生き方~4つの秘訣~(中編)

 お金に困らない生き方として、前回は「タイで幸せをつかんだ日本人の高齢者」の話をしました。この男性は、年金の受取ができるようになり、ホームレス同然の生活から一気にお金持ちになったのです。しかし一方で、前回も述べたように、月額12万円の年金を受給していた東京都の男性は新幹線の中で焼身自殺を図っています。タイで幸せになった男性の年金額は分かりませんが、定年前にタイに渡航しているようですから受給額は東京都の男性とそう変わらないと思われます。

 同じような受給額でこれほどの差が出るのは興味深いといえます。新幹線で自殺した男性は12万円を生活できないレベルと考え、タイで幸せになった男性はリッチな生活をしているのです。(ただし、前回述べたように若い女性と結婚して家を建てたというのは未確認情報で私の「推測」にすぎませんが・・)

 ここで疑問が出てくると思います。「月収12万円でタイに渡ったとして誰もが幸せになれるわけじゃないのでは?」というものです。もちろん、持病を抱えていたり介護しなければならない家族がいたり、といった理由で海外に出ることができない人も大勢いるでしょう。しかし、報道によればこの男性は身寄りもなく一人で生きていたようですし、海外渡航が制限されるような持病を持っていたわけでもないようです。

 では、健康で日本に居続けなければならない理由が特にない場合、誰もがタイで生きていくことができるのでしょうか。私はこの問いに対して条件付きで「イエス」と答えたいと思います。

 条件付きというのは、ぜいたくしなければ、つまり「倹約」すれば、というものです。タイだけではありませんが日本よりも物価が安い国にせっかく旅行しているのに、外国人が泊まるホテルを利用し、外国人用のレストランばかりに行く人が少なくなく、これは短期旅行であればいいでしょうが、長期で過ごすにはもったいないと言わざるを得ません。つまり、現地の人たちと同じような生活をすれば滞在費は半分どころではなく、5分の1から10分の1くらいに減らすことができます。

 この私の考えには反対意見が多いでしょう。ロングステイを考えている人が読む雑誌やウェブサイトには、長期滞在するにはある程度のお金が必要(つまり貧乏人はロングステイできない)といったことが書かれています。海外移住に詳しいある作家によれば、「日本人が現地の料理で生活することは絶対にできない」そうです。

 太融寺町谷口医院では、海外渡航する人、あるいは海外から帰国した人の健康の悩みをしばしば聞きます。ときどき驚かされるのが、例えばジャカルタやバンコクに数年間駐在していたという人が一度も屋台でご飯を食べたことがない、ということです。なかには会社から「現地滞在中は現地人が行くような食堂には行かないこと」と言われているという人もいます。

 たしかに現地の人が利用する食堂や屋台では食中毒のリスクがありますから、会社としては大切な社員をそのようなリスクに晒すわけにはいかないのでしょう(注1)。これは各企業の考え方ですから私がどうのこうの文句を言う立場にはありません。

 しかし、生活費を低く抑えたいという観点からみれば、現地の人たちと同じご飯を食べればいいのです。タイでは最近少し物価が上がり、また円安の影響で以前ほど安くなくなりましたが、それでも一食あたり100円程度で外食(といっても屋台ですが)ができます。しかも、そういうところの料理の方が美味しいこともよくあるのです。ちなみに私がタイに渡航するときは、だいたい現地の人と行動を共にしているという理由もありますが、外国人が利用するようなレストランにはめったに行きません。
 
 食事だけではありません。我々日本人が当たり前と思っているホットシャワーもアジアの田舎に行けば贅沢品です。というより、シャワー自体が高級品です。おけに貯めた雨水を洗面器を使って頭と身体を洗うのがタイの田舎では一般的です。トイレで用を足すときはもちろん紙など使わずお尻は手で拭きます。石鹸は贅沢品で日常的には使いません。衣服など局所を隠せればそれでいいと考えればほとんどお金がかかりません。ただし、誤解のないように言っておくと、アジアでは貧しい地域に行ってもそれなりの美学があり、特に女性はお金はさほどかけていないもののファッショナブルな衣服に身をまとっています。

 ここで私が以前北タイで知り合った日本人男性を紹介したいと思います。その男性は30代前半に日本での仕事をやめいくらかの貯金を持ってタイに渡航、貯金が尽きかけた頃に現地の女性と恋に落ち結婚することになりました。奥さんの紹介で小さな旅行会社に仕事を見つけることができたそうです。しかし月給は1万バーツ、日本円で3万円ほどです。ただし、タイでは大卒の初任給がそれくらいですらタイ人の感覚からいえば悪い給料ではありません(注2)。

 この男性は、生活はもちろんラクではないし、日本人の観光客が行くようなレストランには到底行けないと言いますが、さほど苦痛ではないと言います。その男性と一緒に食べた屋台のパッカパオ・ムー(豚挽肉の野菜炒めをご飯にかけて食べるタイ料理)がすごく美味しくて私はそれ以来この料理の虜になっています。ちなみに値段は50円程度でした。

 タイでは屋台で料理を注文してもこのような値段ですし、市場で野菜や果物を買うとあまりにも安い値段に驚かされます。市場の値段はバンコクでもさほど変わりません。日本でマンゴーは高級品ですが、タイでは子供が気軽に食べているおやつです。

 スイーツはどうでしょう。私はバンコクを訪問したとき、時間があれば立ち寄るケーキ屋があり、そこでバタークリームのケーキを買います。これは理解されない人の方が多いと思いますが、現在の私は生クリームよりもバタークリームの方が好きなのです。私が小学生の頃はケーキといえばバタークリームが普通でした。私が生まれて初めて生クリームのケーキを食べたのは小学校6年生のとき、お金持ちの友達の誕生日パーティに行ったときです。生クリームを初めて口にしたあの衝撃・・・。あまりの美味しさに言葉をなくした程です。それ以来私の舌はバタークリームを拒絶するようになりました。

 しかし不思議なものでそれから20年以上たってから妙にバタークリームが恋しくなりだしたのです。けれども、現代の日本にバタークリームのケーキなどすでに存在しません。諦めかけていたそんなときにふと立ち寄ったのがバンコク郊外のケーキ屋だったのです。けばけばしい色をしたバタークリームのケーキが1つなんと7バーツ(20~30円程度)です。およそ四半世紀ぶりに口にしたバタークリームは、美味い!というよりは懐かしい!でした。今も私は生クリームも好きですが、好んで食べたいのはバタークリームです。

 話を戻します。北タイで私が知り合った日本人男性は月給3万円(1万バーツ)で幸せな生活をしていました。年金で幸せになった高齢男性と比べて収入は4分の1程度でしょう。タイ人と比較するとこの年金男性は大卒の初任給の4倍もの月収があるのです。

 貧乏人は海外にロングステイできないという人たちに私は堂々と反論したいと思います。海外滞在に向いているのは、高い円を持って行って贅沢をしたいと考えている金持ちだけではないのです。倹約の精神をもってすれば衣・食・住に必要なお金は随分と少なくて済むのです。

 ただし、私は日本でも倹約の精神を遵守すれば月12万円もあれば生活できると思うのですが、これは甘い考えでしょうか。タイのように新鮮な野菜や果物を安く入手することはできないでしょうが、12万円もあれば風呂なしの安いアパートを利用すれば食べていけると思うのですがどうなのでしょう。少なくとも私が大学生の頃は、これよりも少ない収入でやりくりしていましたが(というかやりくりするしかなかったのですが)、自殺した男性はどのように考えていたのでしょうか。

 お金に困らない秘訣の1つめは前回述べたように「年金」で、引退後働かなくても生涯にわたり受け取ることのできる年金というものは大変貴重です。ちなみに私は医学生時代に貧困からどうしても年金を払えなかった期間があり、そのため将来の受給額が少なくなってしまいました。今思えば借金をしてでも払っておけばよかったと後悔しています。

 そして秘訣の2つめが今回述べた「倹約」です。倹約はお金持ちの家庭に育った人にはむつかしいかもしれません。おそらく、先に紹介した私が小学6年生のときの金持ちの友達は今もケーキは生クリームしか食べられないでしょう。そういう意味では、私のように貧しい家庭で育った者の方が倹約するには有利であり、これは”自慢話”になるのかもしれません。

 次回はお金に困らない生き方の秘訣の3つめと4つめについて述べたいと思います。

注1:たとえばA型肝炎はアジアでは多くの人が幼少児に感染しすでに抗体を持っているために屋台のものを食べても平気です。一方、日本人はワクチンを接種していなければ抗体を持っている人はほとんどいません。ただし、日本でもまだ衛生的でなかった時代に子供時代を過ごした世代、具体的には現在60代以上の人であれば抗体を持っている人も大勢います。

注2:タイでは物価上昇の影響で現在の大卒の初任給は12,000バーツといわれています。円安もあるために日本円でいえば42,000円程度になり、本文で述べた時代と比べると少し生活しにくいといえるかもしれません。しかし、初任給が42,000円の社会で年金受給額が12万円あればやっていけないはずがありません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年7月10日 金曜日

2015年7月 お金に困らない生き方~4つの秘訣~(前編)

 以前このサイトの「医療ニュース」で、最大のストレスは「お金がないこと」とする米国心理学会(American Psychological Association, APA)の研究結果を紹介したことがあります(注1)。

 3千人以上の米国人を調査した結果、ストレス源の第1位が「金銭上の悩み」であったというのがその研究の最大のポイントです。私はその「医療ニュース」で、以前タイで知り合った日本人男性のことを述べました。

 その日本人男性は私が知り合った当時は40代半ばで、リストラで職を失い、就職活動がうまくいかないことから不眠と抑うつ感が強くなり、知人のすすめで精神科を受診したそうです。いくつもの薬を試したけれど不眠が多少改善されるだけで抑うつ感や不安感は払拭できなかった、とその男性は話していました。

 住み込みで働けるタイのあるエイズ施設にやってきて、抑うつ感はかなり解消されたけれど将来のことを考えると絶望的な不安感を感じる・・・、と話していました。この男性の言った次の言葉を私は忘れることができません。

「一生食べていける大金をもらえるか、安定した仕事に就けるなら、僕のうつ病はすぐに治ります。世の中のうつ病の大半は単にお金がないことが原因なんですよ・・・」

 うつ病の原因は医学的にもよく分かっていないところもありますが、様々な要因があり、これは極端な考えです。しかし、私はこの男性のこのコメントに反論できませんでした。日頃みているうつ病を発症した患者さんのことを思い出してみると、職場のストレスがきっかけ(この男性と異なり昇進したことがきっかけでうつ病を発症する人も少なくありません)、離婚がきっかけ、病気(特に悪性腫瘍)がきっかけ、ペットの他界がきっかけ、というケースもありますし、まったく要因が分からないということも少なくありません。

 しかし、どのような境遇のうつ状態であれ、どのようなことがきっかけであれ、もしも一生食べていけるだけの大金が与えられればうつ状態が改善する人は多いかもしれない、と私はこの男性の言葉を聞いて感じたのです。

 現在の私はタイに渡航できるのはせいぜい年に一度で、それほどタイに詳しいわけではありません。しかし、いろんな方面から情報が入ってきて、日本ではあまりお目にかかれないような変わったタイ在住の日本人の話をしばしば聞きます。

 今からお話するのは、60歳前後の落ちぶれた日本人男性の話です。私はこの男性の名前や出身地、日本で過去に何をしていたかなどの正確な情報を持っていません。この男性についての情報は多数あり、バンコクの食堂の屋根裏に住まわせてもらっていた、とか、イサーン地方(東北地方)で野宿をして暮らしていた、とか、そういう話がいくつかあり、つくり話なのかもしれませんし、あるいは同じような境遇の人が複数いるのかもしれません。

 まったくの一文無しだとビザが更新できないという問題もありますから、この話は架空の「都市伝説」みたいなものかと考えたこともあるのですが、タイ在住の日本人が読む新聞や雑誌にも、「タイ人に食事を恵んでもらい生き延びる哀れな日本人」のような感じでこの男性のことが取り上げられたことがあるという情報もあり、結論を言えば、私はこの話は実話だと思っています。

 それはこの話の結末が、さもありなん、と思えるものだからです。この男性の転帰はとてもドラマティックで、一文無しから一気に金持ちになります。この理由が分かるでしょうか。宝くじに当たったわけでもありませんし、金持ちの奥さんを見つけたわけでもありません。もったいぶらずにその理由をお伝えしましょう。

 それは「年金が支給されだした」というものです。この男性はタイで放浪する前には日本でまともな暮らしをしており年金を払っていたのです。年金が支給されだしてからは金回りがよくなり、イサーン地方で家を建てた、という情報もあります。

 いくら何でも年金だけで家が立つはずがない、と感じる人もいるでしょうが、私はまんざら嘘でもないのでは、と思っています。バンコクでは到底無理ですが、以前私の知人のタイ人がイサーン地方のある県で、1ライ(ライとはタイの土地の単位で1ライで40メートル四方です)を5万バーツ(約15万円)で買って家を建てると言っていました。

 家屋を建てるのにお金がいるのでは?と尋ねると、1万バーツ(約3万円)で建てられると言っていました。村の若者がみんなで手伝ってくれるので、タイルや木材、セメントなどの材料費と彼らにふるまう料理と酒代だけで済むというのです。

 タイでは日本人を含めて外国人は土地を買うことはできません。しかし土地を買って家を建てる方法がないわけではありません。どうするかというと、タイ人と結婚するのです。「少し前までホームレスだった60代の日本人男性と誰が結婚してくれるの?」と思う人もいるでしょうが、60代であろうが70代であろうが日本人の高齢の男性がタイ人の若い女性と結婚したという話はいくらでもあります。

 そのなかの多くは、若い女性がお金目的であることに気付かず、いつのまにか全財産をタイ人の若い奥さんと親戚にむしり取られて一文無しとなり日本に帰国せざるをえない、という人たちです。しかし「真実の愛」を育み仲睦まじく過ごしているカップルがいるのも事実です。この男性が今も幸せに暮らしていることを祈りたいと思います。(土地を買ったというのも噂の域を超えませんし、タイ人の奥さんがいるというのは私の勝手な憶測に過ぎませんが・・・)

 話を戻しましょう。実は私はこの「タイで突然金持ちになった日本人男性」の話を最近日本で起こったある事件を聞いて思い出しました。

 2015年6月30日、東京都杉並区在住の71歳の男性が新幹線の中で焼身自殺を図りました。他人も死に至らしめたこの事件を許すわけにはいきませんが、私が一連の報道をみていて最も気になったのが、7月1日の日経新聞夕刊で報じられた「35年間払っているのに(年金を)24万円しかもらえない。税金や光熱費を引くとほとんど残らない」という容疑者が話していたという言葉です。年金は2ヶ月毎に支払われますから1月あたり12万円ということになります。

 おそらくタイで突然金持ちになった日本人男性も月あたりの収入は同じくらいだったと思われます。同程度の年金による収入だったのにもかかわらず、ひとりは悲観して新幹線で焼身自殺、ひとりは若い奥さん(私の想像ですが)と一戸建てのマイホーム暮らし(これも勝手な想像ですが)ではあまりにも違いすぎます。

 紙面が尽きてきたので、そろそろ今回のまとめに入ります。お金がないことが大きなストレスになることはほぼ間違いなく、抑うつ状態の人の何割かはもしも大金が手元にあれば苦しみから解放される可能性があります。

 人生の価値はお金で決まらない、は真実ですが、お金がないと精神衛生上よくなくて抑うつ状態、さらには自殺につながることもある、というのも事実です。

 ではお金に困らないように生きるにはどうすればいいのでしょうか。私はこのコラムで4つの秘訣を提案したいと思います。その1つは、タイで突然金持ちになった日本人のエピソードからわかるように「年金」です。

 しかし、同じように年金をもらっていた杉並区の男性は自殺を選んでいます。この差はどこにあるのでしょうか。次回はそこから述べていきます。

注1:下記を参照ください。
医療ニュース2015年3月13日「最大のストレスは「お金がないこと」」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年6月10日 水曜日

2015年6月号 医療機関での暴言と暴力~2つの重要なこと~

「ハード・クレーマー」という言葉が一般化したのはいつからでしょうか。レストランやショップなどで客が店員に理不尽な要求をしたり、些細なことで土下座まで要求したり、といったことがときどき報道されていますが、このようなことが頻繁に起こりだしたのは2000年代に入ってからでしょう。ちなみに「ハード・クレーマー」という表現は完全に和製英語で日本人にしか通用しません。

「モンスター・ペアレント」という言葉も和製英語で、私自身はこの表現に抵抗がありますが、おそらく理不尽な要求を学校に突きつける親が急増したのは2000年代になってからではないでしょうか。

「モンスター・ペイシェント」という言葉が生まれたのは、おそらく「モンスター・ペアレント」という表現が一般化してからでしょう。もちろん、これも和製英語で私自身は好まない表現なのですが、医療現場ではすでに一般化しており、医療者どうしの日常の会話でもしばしば登場します。

 些細なことでクレームをつける輩が昔に比べて増えているということは多くの人が感じているに違いありません。また、その逆にレストランやショップ側は丁寧すぎる応対をしていると感じているのも私だけではないでしょう。「おもてなし」もけっこうですが、あまりにも丁寧な対応はこちらが”ひいて”しまいます。

 すべての顧客に対し、まず目を見て両肘を少し外に突き出すかたちで両手をおなかの前で合わせ「かしこまりました」と丁寧にお辞儀をする店員が増えましたが、このような対応は五つ星クラスのホテルではさまになるでしょうが、コンビニやチェーン店のコーヒーショップの店員にされてもかえって不自然で気持ち悪い、と感じます。

 先日タクシーに乗ったとき、ドライバーが「最近横柄な態度の客が増えて困っているんですよ」と言っていましたが、私に言わせれば、丁寧すぎる対応をするドライバーにも原因があります。いちいちタクシーを降りて乗客のために後部座席のドアを開けるサービスなどやめてしまえばいいと思うのは私だけでしょうか。私に言わせれば、自動でドアが開くサービス自体がすでに過剰なものであり、タクシーのドアは乗客が開けるようにすべきだと思います。

 話をすすめましょう。今回お話したいのは医療機関での患者の暴言・暴力についてです。先日「m3.com」という医療系のポータルサイトに「8割が患者・家族から暴力や暴言」というタイトルの記事が掲載されました。同サイトの調査によると、患者から「暴言のみを受けたことがある」医師が61.3%、「暴力のみ受けたことがある」0.6%、「暴言と暴力の両方を受けたことがある」16.6%で、合計78.59%の医師が患者から暴言・暴力を受けたことがあると答えていることになります。

 こう聞かされると、これから医師を目指している人は、常に暴言や暴力に怯えながら仕事をしなくてはいけないのか・・・、と医師になるのを躊躇してしまうかもしれないので、私の経験を通して実態を説明したいと思います。

 まず、この数字、つまり約8割が患者からの暴言・暴力の経験があるということについて補足しておくと、どこからが「暴言」で「暴力」かという定義にもよりますが、何らかの暴言・暴力を受けたことがある医師は、例えば大阪の夜間救急外来をしている病院での勤務経験があればほぼ100%になります。

 大阪人が暴力的だとは言いませんが、おとなしい人ばかりでは決してありません。私はこれまでに10以上の大阪の医療機関で夜間の救急外来での勤務経験がありますが、どんな症例でも積極的に受け入れる病院では、急性アルコール中毒、けんかでの外傷、自殺未遂などが次々とやってきます。

「わしは酔ってないんや!」と叫びながら救急車で搬送されてくる酩酊した中年男性、外傷を負ったためにやむなく病院に来たけれどもけんかの怒りがおさまらない若い男性、睡眠薬を多量に飲んだ後リストカットをおこない家族に救急車を呼ばれ目が覚めると「なんで助けたんや!」と泣きわめく若い女性・・・。日によってはこのような症例のオンパレードになることもあり、救急治療室の中では老若男女の罵詈雑言が飛び交い、スタッフに暴力をふるおうとする患者は人手を使っておさえこまなければなりません。ときには警察を呼ぶこともあります。

 ただ、このようなケースの多くはあらかじめ暴言・暴力を前提として我々は対処しますし、翌日になれば自分が暴言・暴力をはたらいたことをまったく覚えておらず、シュンとして深々と頭を下げて帰って行く患者さんも少なくありません。こういうケースではさほどストレスになりません。

 一方、日頃の外来や病棟での暴言・暴力は、それなりに対策を講じる必要があります。よくあるのが、治療が上手くいかなかったときです。医療機関にかかればすべての病気が治るわけではありません。しかし、一部の患者は「医療機関では100%治せて当たり前」と思っています。例えば、手術をしたが機能が回復しなかったとき、検査入院をおこなったが診断がつかなかったとき、などに小さなクレームが暴言に移行することがあります。いつのまにか「親戚」を名乗る反社会性を帯びたような人たちがやってきて「胸ぐらをつかむ」くらいの脅しが始まることもあります。「訴える!」とすごむ人もいれば、「ここまで来たタクシー代を出せ」、「仕事を休んで来たのだから給料保証をしろ」、とかそういう無茶なことを言う人もなかにはいます。

 いつも患者さんの立場に立ち誠実な対応をしているつもりでも、運が悪ければこのように患者からの暴言・暴力に悩まされることもあります。こういったときどうしていいか分からない・・・、という若い医師から相談を受けたときに私が伝えていることは次の2つです。

 ひとつは「最優先事項は自分の身を守ること」ということです。暴力に屈してはいけませんが暴力の犠牲になるのはもっといけません。身の危険を感じれば、逃げる、大声を出すなどを躊躇なくすべきです。そして、他のスタッフや上司に直ちに報告しなければなりません。もしも暴力を受けたなら警察を呼んだり、法的手段に訴えたりするということを患者か家族に宣言してもいいと思います。

 実は、私は医師になりたての頃は、「どんなに怒り心頭の患者さんでも誠意を持って話しをすれば理解してもらえる」という考えを持っていました。しかし、なかには話の通じない人も少数ではありますが存在することを知るようになりました。世の中には、わずかではありますが、良心を持たない人が存在するのです。そのような人には何を言ってもムダです。
 
 もしも患者から暴言・暴力を受けるかもしれないという空気を察したときは「最優先事項は自分の身を守ること」というルールを思い出すのです。日頃から誠実に一生懸命やっていれば、職場のスタッフのみならず、社会全体があなたを応援してくれます。

 患者の暴言・暴力で忘れてはならないもうひとつは、「医師よりも看護師や他の医療スタッフの方が暴言の被害に合い、暴力の危険に晒されている」ということです。先に紹介した夜間の救急外来でわめく人たちは、誰が医師で誰が看護師で、ということを考えていませんが、日中に外来や病棟でクレームをつけてくる患者や家族は人物をみています。

 気の弱いクレーマーほど立場の弱い者をターゲットにします。医師には言えない文句を看護師に言い、看護師にも言えないことは受付にぶつけるのです。ですから、患者からの暴言や暴力のリスクに晒されているのは、医師よりも看護師、看護師よりも受付なのです。そして人の良い看護師や受付スタッフほど、多忙な医師を気遣ってそれを報告せずにいるのです。医師は患者さんの健康に貢献するために存在していますが、ある意味で患者さん以上に大切なのは共に働いている看護師や他のスタッフといった同僚です。

 ですから、もしもあなたが医師で、患者からの暴力・暴言の危険を感じたなら、一度他のスタッフにも相談してみるべきです。他のスタッフからの意見も聞いて上司にも相談し、みんなで対策を立てればいいのです。

 そして、もしもあなたが看護師や受付スタッフなどの医療従事者であれば、一番大切なのは「最優先事項は自分の身を守ること」であること、次に大事なのが「自分ひとりでかかえずに他のスタッフに相談すること」であることを覚えてもらいたいと思います。

 さらに、これからすべきこととして私が提案したいのは「過剰なおもてなし文化の見直し」です。今の日本は顧客へのおもてなしがいき過ぎており、その結果ハード・クレーマーが増えている、という私の仮説にあなたが同意されるなら、日常でできることを考えてみてください。

 タクシー乗車時にドライバーがわざわざ車から降りて後部座席のドアを開けようとしたとき、私はそれを制して「自分で開けます」と言っています。

 

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年5月11日 月曜日

2015年5月号 「医療否定本」はなぜ問題か(後編)

  前回紹介した近藤誠先生の『医者に殺されない47の心得』には到底及ばないものの、医師が書いたそれなりに売れている「医療否定本」が何冊かあるようです。そのうちの何冊かを実際に読んでみたのですが、私が最後まで読みすすめることができた本はほとんどありませんでした。

 こういった「医療否定本」のほとんどは、根拠がない、とまでは言えないにしても根拠が脆弱な理屈を持ち出して、現代の標準的な医療を否定しています。私が最後まで読むことができないのは、そのいい加減な理屈に辟易としてくるからです。

 ここに書くのも馬鹿らしい気がしますが、ひどいものになると、すべてのワクチンを否定しているものすらあります。この本を書いたのも医師ですから、現在もどこかで診療をしているのでしょう。医師であれば院内感染のリスクを知っているはずで、この医師も医学部の学生のときにB型肝炎ウイルスのワクチンを接種しているはずです。B型肝炎は針刺しで簡単に感染しますし、血液でなくとも、唾液、汗、尿などから感染することもあります。

  ワクチンを接種しているから安心して医療がおこなえているわけで、ワクチンに感謝しなければならないはずなのに、すべてのワクチンを否定しているというのは明らかな矛盾です。

 ワクチンでもうひとつ例をあげると、この医師が海外で犬に噛まれたときには狂犬病ワクチンを拒否するのでしょうか。狂犬病は犬に噛まれた後でも速やかにワクチン接種をすれば助かります。しかしワクチンをうたずに発症すれば100%死亡します。この医師も医師ですからそういった知識はあるはずです。それを知っていて、すべてのワクチンを接種するな、と読者に呼びかけるのは犯罪でさえあると私は思います。

 ここまでひどいのは極端だとしても、化学療法の一切を否定したり、生活習慣病の薬を使うな、と主張したりしているものもあります。すべてを否定とまでいかなくても、例えばある医師の文章には「降圧薬を3種以上出す医師はNG」といったことが書かれていました。

 この医師のこの主張に呆れるのは、どんな医師も薬を最小限にすることを考えている、という基本的な常識を無視しているからです。おそらく、この医師がみた患者さんで3種の降圧剤を服用している人がいて、自分ならもっと減らすのに、と考えたことが、こういった主張をするきっかけになっているのでしょう。

 しかしこれは完全な「思い上がり」です。この患者さんを以前に診ていた医師も薬を最小限にすることを考えていたはずです。それで試行錯誤を繰り返しながら3種でようやく血圧が安定したのでしょう。「降圧薬を3種以上出す医師はNG」などと叫んでいる医師は前医の処方のおかげで血圧が安定した患者さんをみて、このような馬鹿げた主張をしているにすぎません。

 医師や薬剤師の仕事というのは、いかに薬を減らすか、にあります。「ポリファーマシー」という言葉がありますが、これは「ひとりの患者がたくさんの薬を飲みすぎていること」で、できるだけ減らしていくことを考えなければなりません。最近私が参加したある研究会では、医師と薬剤師が合同でこの「ポリファーマシー」について検討しました。多くの実りのある意見がでましたが、医師も薬剤師もそれぞれの立場からいかに薬を減らしていくべきかという考えを披露し合いました。

 おそらく「降圧剤を3種以上出す医師は・・」などと頓珍漢なことを言う医師は、職場でも孤立しているのではないでしょうか。ほとんどの医師や薬剤師がいかに薬を減らすかに尽力していることを知らないから、ひとりよがりのこのようなことを言い出すのではないかと私は考えています。

 このように、ワクチン接種や薬剤処方を含む治療方針について他の医師の悪口を言うことも理解に苦しみますが、「医療否定本」にはこれ以上に看過できないことがあります。それは、他の医師の人格を否定するような表現があるということです。

 最も目立つのは、「〇〇をおこなうような医師は金儲けのためにやっている」といった内容です。実際にこの世界で働いてみれば分かりますが、医療行為を金儲けの手段と考えている医療者は”ほとんど”いません。

“ほとんど”という副詞をつけなければならないのは確かに一部に例外があるからです。例えば2009年に逮捕された奈良県大和郡山市のY病院のY医師は、生活保護受給者の診療報酬を不正受給し、必要のない手術をおこない患者を死に至らしめ(しかもY医師にこの手術の経験がほとんどなかった)、カルテを改ざんしていたことが報道され、我々医療者を驚かせました。

 一部のマスコミはこの事件を「氷山の一角」と捉えているようですが、私はこのような医師は例外中の例外であると考えています。他にも同じような医療機関がないと断言することまではできませんが、医療の常識からすると考えられないのです。

 先に私は「実際にこの世界で働いてみればわかりますが」という表現を使いましたが、このような理論の持っていき方は議論をおこなう上では卑怯であり、本当は使ってはいけない表現です。なぜなら、医師でない人が医師として働くことはできないからです。一般に「あんたは立場が違うから分からないだろうが・・・」という言い方はすべきではありません。

 しかしあえて私がこのような表現を用いたのには理由があります。それは実際に医師にならなくても、目の前に病気の苦痛を抱えた患者さんがあなた自身を頼って来たことを想像することは難くないからです。病気で苦悩を抱え、貧困にあえぎ、生活保護を受給しなければならない人を目の前にして、「この患者からいくらひっぱれるかな?」などと考えることのできる人間はほとんどいません。いるとすれば初めから精神が破綻している病人です。つまり、私は大和郡山市のこのY医師は「病気」であったとみています。

 このような現象はどの職業にもあると思います。例えば、幼女趣味の小学校の男性教師が生徒の着替えを盗撮して逮捕されるといった事件がときどき報道されます。この男性が教師を続けてはいけないのは自明ですが、同時にこの「病気」を治すことも考えなければなりません。(治るかどうかは別にして)

 話を戻しましょう。金儲けという点だけでなく、医師が他の医療者の人格を批判するなどということは、普通に研修を受けて医師として働き出せば到底考えられないことであり、実際にはその「逆」です。私が感じている医師という仕事の醍醐味のひとつとして、他の医師や医療者の献身的な態度に感銘を受ける、ということが挙げられます。優秀な医師であれば「目の前の患者さんのために自分は存在している」といった雰囲気がにじみ出ています。そしてこれはベテランの医師だけではなく、なかには研修医から感動させられることもあります。多くの医師は高い人格を持っているのです(注1)。

 医師だけではありません。看護師も薬剤師も理学療法士もその他の医療従事者も、目の前の患者さんに対して誠心誠意の貢献をおこなおうとします。私はこれまでアルバイトも含めれば20以上の会社やショップ、レストランなどでの仕事の経験がありますが、医療機関ほど日々感動させられる職場というのはありません。

 たしかに医師は他の職業に比べてうつ病罹患率や自殺率が高いことが指摘されますし、セクハラやパワハラは日常茶飯事だと言われます。しかしながら、そういった苦痛を差し引いたとしても、医療機関ほど他人に貢献できて、日々学ぶことのできる職場というのは私の知る限りありません。

 先輩医師のみならず、研修医からも他の医療従事者からも感動させられることに私は感謝の気持ちを持っています。非人間的なとんでもない医療者がいることは否定しませんが、自らの本のなかで「〇〇する医師はNG」などという表現を安易に用いる医師がいることが私には理解できません。こういった本を読んで適切な治療が受けられなくなった患者さんの責任はいったい誰がとるのでしょうか。

 非難されるべき医師は、「実際に診療の現場をみたわけでもないのに他の医師を非難する医師」、つまり「医療否定本を書く医師」だと私は考えています。

注1:下記コラムも参照ください。
メディカルエッセイ第134回(2014年3月)「医師に人格者が多い理由」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

月別アーカイブ