マンスリーレポート

2016年5月10日 火曜日

2016年5月 恥ずべき日本人~海外でやってはいけないこと~

 過去3回にわたり、我々日本人が外国人、特にアジア人と上手くやっていくにはどのようにすべきかということを、私の実体験をまじえながらお話してきました。最大のポイントは「どこの国にも良い人もいれば悪い人もいる」ことを認識し、「〇〇人は・・・」といった先入観を持たないようにすること、です。

 外国人シリーズはこの3回で終了にしようと当初考えていたのですが、3月にタイからとんでもないニュースが入ってきました。これは大変大きな問題であり、国をあげて・・・、とまではいかなくても日本人全体できちんと議論すべきだと私は考えているのですが、日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。そこで、今回はこの事件をおさらいして日本人の海外でのあるべき姿について考えてみたいと思います。我々日本人はよく、中国人は・・・、韓国人は・・・、といったことを言いますが、外国人も「日本人は・・・」という会話をしています。そして、それが否定的なことも、特に最近は少なくないのです。

 2016年3月5日、タイのホアヒンのビーチで約30人の若い男性が全裸で円陣を組み大声を出し、公然わいせつの現行犯で逮捕されました。タイ警察は全員をブラックリストに載せました。

 ホアヒンというのはタイ中部に位置するプラチュワップキーリーカン県にある海岸沿いの郡です。なぜこのようなあまり有名でない県にあるひとつの郡が有名かというと、ホアヒンは王室の保養地だからです。プーケットやサムイ島などと比べると、ビーチはそれほどきれいとはいえないものの、静かで落ち着ける、まさに「保養地」といった感じです。

 王室の保養地だけあって安くはありませんが、ビーチの前に建てられたホテルは人気があり国内外から大勢の観光客がやってきます。そんな人気のホテルのひとつが「インペリアル・ホアヒン・ビーチリゾート」。ホテル内のレストランで夜の海や砂浜を眺めながらディナーを楽しむことができます。

 少し話しはそれますが、ここで私の個人的な経験を述べておきます。私は過去に一度だけホアヒンに行ったことがあります。タイでは計画どおりに事が運ばないことが多く、たしか2006年に1週間ほどタイに滞在していたとき、丸1日時間があきました。そこで、バンコクの宿をチェックアウトしてバスターミナルを目指し、一度訪れてみたかったホアヒン行きのバスに飛び乗ったのです。

 バスは3時間程度で到着し、まず宿を探しました。安いゲストハウスのようなところはあまりなく、また、せっかくホアヒンという土地に来ているのだから少しくらい贅沢しようと考え、ホテルの予算を1,500バーツ(約4,500円)まであげました。たしか「インペリアル・ホアヒン・ビーチリゾート」も見に行った記憶があるのですが予算オーバーで断念。サムロー(三輪タクシー、トゥクトゥクの自転車版)の運転手に相談すると、いいところがあると言われ少し離れたホテルに連れて行かれました。

 そのホテルは市街地からは少し遠いのですが、ほとんど誰もいないビーチの前にあり、なかなかきれいなところで価格も予算内。ここに決まりです。

 その日の私の時間は夢のような世界でした。夕方は静かなビーチでのんびり過ごし、夜には街の方に行ってみました。すると、たまたま地元のお祭りの最中で、バンコクやチェンマイとは異なる賑わいを体験できました。夜店のひとつに軍が運営している射撃場があり、夜店でありながらなんと本物の拳銃を撃たせてくれるのです。しかも50バーツ(約150円)という安さ。バンコクでも射撃場はありますが価格は1万円以上と聞きます。射撃と買い物と食事を楽しみ、その後は部屋から夜の海の眺めを満喫しました。翌朝、早起きし静かなビーチに行くと貝を捕っているお婆さんがひとりだけ。そのお婆さんに笑顔で話しかけられ、言葉はよく聞き取れなかったのですが、ひとつの貝殻をもらいました。その貝殻のおかげでその後の人生が好転・・・、といったうまい話はありませんでしたが、その後私はしばらくその貝殻をかばんに入れていました。

 話を戻しましょう。

 2016年3月5日の夜、インペリアル・ホアヒン・ビーチリゾート内のレストランで食事をしていたタイ人女性はビーチの異様な光景を目にしました。砂浜で全裸になった約30人の男性が円陣をくみ大声を出しています。このような非常識な行動をとるのは中国人に違いないと考えたそのタイ人は写真を撮り「中国人の醜態」としてツイッターに投稿しました(注1)。2日で1万回以上リツイートされたこの写真はタイ全土で大きな問題となり、ただでさえ評判のよくない中国人の信用を地に落としました。

 しかし、彼らは中国人ではなく日本人であったことが判明しました。このため件のタイ人女性は中国人への謝罪文を投稿したそうです。写真をみると、裸の若い男性達が肩を組んでいます。3月という季節を考えると大学生の卒業旅行かと思いきや、なんと社員旅行とのこと。まともな会社なら、30人のうち誰かひとりくらい、「これは非常識じゃないのか」という疑問を持ってもよさそうなものですが、これが日本人の実態なのです。

 外国にきて、しかも王室の保養地で全裸で騒ぐ・・・。これがどれだけ失礼なことか。もしも伊勢神宮の境内で外国人が同じことをすれば我々日本人はどう感じるでしょう。それと同じ罪をこの日本人達は犯したわけです。

 私はいわゆる「左翼思想」を持っているわけではありませんし「自虐史観」もありません。しかし、日本人の海外での振る舞いに辟易とさせられることは少なくなく、年々増えているような気がします。10年くらい前までは、タイの、特に地方に行けば「コボリ、コボリ」と呼ばれ(注2)、日本人というだけで無条件の歓迎を受けることもありましたが、最近はそのような話もほとんど聞きません。それどころか、私自身がタイにいる日本人に嫌悪感を持つことも増えています。下記はすべて私自身が見た例です。

・バンコクのある銀行。Tシャツ、短パン、ビーチサンダルでガムを咬みながら二人の日本人中年男性が入ってきて(ビジネス街のため他の客はすべてスーツ姿)、大声でタイ人の悪口を言い、受付の女性に横柄な態度。パスポート提示を求められると投げるように渡した。

・BTS(モノレール)内。30代の日本人男性3人が「昨日のオンナは2千バーツで最高・・・」など明らかな買春自慢。こういう人たちは、周囲に日本人もしくは日本語のわかる外国人がいるとは考えないのか。

・チェンマイのある食堂。日本人のおそらくロングステイヤーと思われる高齢男性二人が大声でののしり合う。周りのタイ人から奇異な目で見られていてもおかまいなし・・・。その男性達がそれぞれ連れている自分の孫ほどの年齢の若い女性も完全にひいているのに気づかないのか。ちなみに女性と高齢男性のカップルは双方ともコミュニケーションがほとんど成立していない。男性たちは日本語しかできず明らかにカネのみの関係(注3)。

・バンコク、スクンビット通りのある交差点。日本人の泥酔した集団が万歳三唱と一本締め。これ、外国人からはかなりの顰蹙なのにそれに気づかないのか。

 これ以外にもタイではいろいろとありますし、タイ以外の国でも恥ずかしいと感じることがあります。つまらない正論は言いたくありませんが、海外に行けば「その国に滞在させてもらっている」という謙虚な気持ちを持つことが必要です。これは、もしも日本にやって来た外国人が、母国の慣習や文化を押しつけようとすれば我々がどのような気持ちになるかを考えれば分かることです。

 日本人であるというだけで海外で歓迎されればこれはとてもありがたいことです。タイではその信用が失われつつあります。東日本大震災のとき、そして今回の熊本の地震のときも、多くの外国人は日本を応援してくれていますし、争いもなく協力して助け合っている我々の姿に対し賞賛と感動の眼差しを送ってくれています。その眼差しを裏切らないためにも我々は海外での自分たちの行動を反省すべきではないでしょうか。

注1(2021年7月3日修正):日本人が集団逮捕されブラックリストに掲載されたという新聞記事(タイ語)があり、ツイッターに投稿された写真も載せられていました。また、英語での報道記事もありましたが、現在はいずれもURLが削除されています。

注2:最も有名な日本人として今も「コボリ」を挙げるタイ人は少なくありません。タイでは何度も映画化されている『クー・カム』(日本語は『メナムの残照』)という小説の主人公の日本人男性が「コボリ」だからです。

注3:北タイの恥ずべきロングステイヤーについて、過去にコラムを書いたことがあります。下記も参照ください。

GINAと共に第75回(2012年9月)「恥ずべき北タイのロングステイヤー達」

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2016年4月11日 月曜日

2016年4月 インド人の詐欺と外国人との話のタブー

 私はこれまでの人生で「詐欺」の被害に遭ったことが3回あります。そのうち2回は日本人から、もう1回は外国人からです。このコラムで前々回から外国人とのつきあい方を紹介し、過去2回は私の「良き思い出」を語りました。今回は否定的な思い出、外国人の詐欺についての話です。

 あれはたしか2005年だったと記憶しています。タイのエイズ患者・孤児を支援するためのNPO法人GINA設立に向けて準備をしており、その頃の私は定期的にタイを訪問していました。ある日バンコクで知人に会う約束をしていた私は、1時間ほど時間が空いたために、大通りに面したオープンカフェに入りました。

 テーブルにノートパソコンを広げた私は、午前中に面会した人と話したことをまとめていました。すると頭にターバンを巻いた大柄な、いかにもインド人というような中年男性がやってきて、相席してもいいか、と尋ねてきました。満席に近い状態だったので、私は彼に同席を勧め、軽く挨拶をしました。やはりインド出身で現在タイに出張に来ているとのことでした。

 私の経験上、インド人というのは話好きで、プライバシーという言葉を知らないのかと思うくらいどんどん踏み込んだ質問をしてきます。親は元気かとか兄弟は何をしているのかとか、これくらいならいいかもしれませんが、いとこはもう結婚しているのか、とかそんなこと聞いてどうするの、と言いたくなるようなことまで聞いてきます。以前タイで知り合った別のインド人からも質問攻めにあって辟易とした経験を思い出した私は、相席したそのインド人からの質問を手短に終わらせてノートパソコンに専念しようとしていました。

 しかし、インド人は会話を続けようとします。そして「お前の一番好きな花を私は知っている。それを当ててみせよう」という怪しげなことを言ってきました。この後どのような会話があったか、そのインド人が何をしたかをはっきり覚えていないのですが、たしか自分が今握った紙にその花の名前が書いてある、という話だったように記憶しています。それまでの会話で私が花が好きだなどとは言っていませんでしたから、私はその挑戦を受けて立つことにしました。それから、数分間会話をした後、インド人は「お前が好きな花がこの紙に書いてあるから開けてみろ」と言います。

 それを開けたとき、私の息は止まりました。なんと、私が考えていた花の名前が本当に書かれていたのです! 驚いてインド人の顔を見上げたとき私の心臓は凍り付きました。さっきまでそこにいたインド人とは同じ人間と思えないほど表情が変わり、冷酷な視線が私の顔面に突き刺さります。あれから10年以上たちますが、私はあの目が今も忘れられません。そして、「約束通り100ドル払え」と小さいながらも低く太い声で脅してきます。「100ドルなんてそんな話、聞いていないぞ」などと言っても通用しないでしょう。

 これは危ない、と感じた私は、冷静さを装うようにし、目をそらさないようにしながら、手探りでパソコンをたたみかばんに入れ、財布を取り出しました。一瞬心臓が凍り付きそうになりましたが、まだ日は暮れておらず周囲には大勢の人がいます。私は財布から20バーツ紙幣(約60円)を取り出して机に置いて立ち上がったと同時に、「おっちゃん、悪いけどおっちゃんの英語、よう聞きとらんわ~。悪いなあ~。少ないけどこれもらっといてや~」と、半径5メートル以内にいる人たち全員が振り向くくらいの大声で大阪弁を叫び、ゆっくりと後ずさりし、その後ダッシュで大通りを駆け抜けました。

 今となっては、20バーツでおもしろい体験ができた、といいように解釈していますが、あの視線は今思い出しても恐怖が蘇ります。しかし、それにしてもなぜ私の好きな花が当てられたのか、これは今でも解決していません。その後、海外詐欺事情に詳しそうなバックパッカー歴が長い日本人数人に聞いてみたところ、その詐欺はよくあるものでトリックは簡単だと言います。「たいていの日本人は好きな花としてバラかサクラを挙げるからそのどちらかを用意しておけば50%の確率であたる。お前もどちらかを思い浮かべたんだろう」と言われたのですが、私が思い浮かべた花はバラでもサクラでもなく少しマイナーなものです。今思えば、そのときインド人に「驚いた。100ドルあげるからトリックを教えて」と言えばよかったと少し後悔しています。いや、やっぱり100ドルは高すぎるか・・・。

 この体験をしてから、この手の話には乗らないよう自制しています。先にも述べたように、私の経験からいえば、インド人というのはよく言えば話し好きでフレンドリー、悪く言えば空気が読めずずうずうしい人が多いのですが、もちろんそんな人ばかりではありません。

 バンコクでは日本では考えられないくらいの低価格でオーダーメイドのスーツが買えます。そしてそういう仕立屋はたいていインド人が経営しています。一度ふらっと入った仕立屋でインド人のオーナーにとても誠実に対応してもらった私はその後も何度かその店に足を運びました。勤勉で誠実な彼は古き良き時代の日本人のようです。

 私は外国人の友人や知人が特別多いというわけではありませんし、外国人と恋人の関係など特別な仲になったことはありません。しかし、これまでの経験から、外国人との会話にはいくつかのタブーがあることが分かるようになってきました。誰でも思いつくのが相手の宗教や支持政党に触れることですが、これは日本人相手でも同じでしょう。私が外国人との会話で最も注意すべきタブーと考えているのは「領土」です。例をあげましょう。

 タイ人の私の友人(女性)の話です。彼女(Wさんとします)の出身はシーサケート県というカンボジアに接する県です。シーサケート県は特に産業もなく貧しい県ですが、彼女は努力を重ねタイのなかでも有名な大学に合格、さらに大学院に進学しました。国際学会に参加するために来日したこともあります。今でこそインバウンド誘致政策に力を入れている日本も、彼女が来日した2008年はタイ人が日本に入国するのは容易ではなく、ビザを申請するために私が保証人になりました。きれいな英語を話すその彼女は話題が豊富です。

 あれはたしか2005年頃、私がタイに滞在中にWさんと話す機会があり、話題がプレアヴィヒア寺院になりました。この寺院は、Wさんの出身県であるシーサケート県とカンボジアとの国境に位置しており、後に(2008年7月)、世界文化遺産に登録されることになる歴史的価値の高い寺院です。

 プレアヴィヒア寺院がタイ、カンボジアのどちらに帰属するかという問題は、太平洋戦争にも関連しフランスや日本も絡んでいて非常に複雑なのですが、ごく簡単にまとめておくと、太平洋戦争終結後しばらくタイが実効支配していたものの、カンボジアが国際司法裁判所に提訴し、同裁判所はカンボジアに領有権があることを認めました。しかしその後も対立が続き現在も解決しているとは言いがたい状況です。

 私はあるとき、何気なく、話題を広げるだけの目的でWさんにプレアヴィヒア寺院について触れてみました。すると、それまで穏やかだったWさんが豹変したのです!「あの寺院はタイのものです!あなたがカンボジアのものというならあなたとは絶好です!!」という勢いでまくしたてるのです。これには驚きました。その直前まで、この地方のタイ人とカンボジア人は顔も似ていて区別がつきにくい、といったカンボジアに好意的な発言をしていただけに私は何と答えていいのか分かりませんでした。なにしろ私は「プレアヴィヒア寺院」という単語を出しただけで、帰属権の話を持ち出したわけではなかったのです。

 もうひとつ例を挙げましょう。こちらは私のこの体験よりも深刻なもので2003年頃の知人の話です。私の知人の日本人男性(Y氏)には、交際に発展しそうな韓国人女性がいました。その女性は留学生として来日し、卒業後も帰国せずアルバイトながら日本の出版社で働いていました。狭いワンルームマンションの壁はジャニーズのポスターだらけ。日本文化が大好きで、もちろん日本語もかなり上手です。ある日のこと、Y氏とこの女性の間で竹島の話題が浮上しました。すると、竹島という呼び方自体が気に入らなかったのか、ふだんは冷静沈着なこの女性が激情しだしたそうです。この事件以来、Y氏は領土問題を「地雷」と命名し二度と触れなかったそうです。この事件が原因かどうかは分かりませんが、結局二人の関係はその後しばらくして終焉したようです。

 おそらく世界にはこのようなエピソードが無数にあると思います。私はアルゼンチン人の友人はいませんが、もしも、たとえばどこかのバーでアルゼンチン人に知り合ったとして、話題につまったとしても、フォークランド諸島の話には触れないのが無難です。まず間違いなくフォークランド諸島を英国のものと思っているアルゼンチン人は皆無です。そして韓国では竹島が「独島」と呼ばれるように、アルゼンチンではフォークランド諸島でなく別の呼び方がきっとあるはずです。

 さて、結論として、外国人と上手くつきあうための2つのコツを述べたいと思います。外国人と話をするとき、「〇〇人は~」という話題はとても楽しめます。これは日本人のことでも、その外国人の国民のことでも、別の国のことでもです。ちょうど日本人どうしの会話で「〇〇県民は~」という話題になるのと同じです。私自身も外国人との会話で話題を探すときに「△△国は行ったことがあるか。□□人に友達がいるか」といったことを質問し、「〇〇人の特徴は~」という話をすることはよくあり、これはとても盛り上がります。

 しかし、それはステレオタイプの特徴を話のネタとして披露しているだけであり、どこの国にも善人もいれば悪人もいます。私はこの手の話が過熱しすぎたときは、この言葉で閉めるようにしています。外国人と上手くつきあうための1つめのコツがこの「どこの国にも良い人もいれば悪い人もいる」という事実を認識するということです。そして、もうひとつが「領土問題には触れない」ということです。

 よく「価値観が違うからあの人とはつきあえない」と言って、自ら交友関係を狭める人がいますが、私に言わせればもったいない話です。「価値観が違うからこそ」話していて楽しいのです。そして、日本人どうしの「価値観の違い」などたかがしれています。外国人と話してみると、思いもしなかった驚きと興奮が次々に訪れるのです。

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2016年3月11日 金曜日

2016年3月 外国を嫌いにならない方法~中国人との思い出~

 私が中国人と初めて本格的にコミュニケーションをとったのは1991年、前回紹介した韓国人女性の話と同じで、やはり商社勤務時代の新入社員の頃です。韓国人のときのように若い女性ではなく、今度は50代の男性です。

 事前に上司から聞いていた情報では、「来日するのは経済省の役人。日本語はできないだろうが、国の任務で来日するのだから英語は堪能なはず」、とのことでした。その役人の任務というのは、私が勤務していた商社の取引先である工場の見学です。日本の技術を学ぶために国の任務として来日する、というわけです。当時の私は英語がダメですし、工場の説明など日本語であったとしてもできません。しかし、工場に行けば、英語のできるスタッフがいるので問題ないとのことでした。その工場には外国人がしばしば見学に来るそうです。

 ということは、私の任務としては、朝ホテルにその中国人を迎えに行き、一緒に電車に乗ってその工場を訪れることと、見学が終われば再び電車に乗ってホテルまで送っていくことだけです。昼食時にはいくらかの雑談も必要になるでしょうが、上司によれば、昼食は工場の応接室でいただくことになるので、英語のできるスタッフも一緒だとのこと。「昼食時くらいは下手くそな英語ででもお前がもてなせ」と上司には言われましたが、当時の私に昼食をとりながら気の利いた話を英語ですることなどできるわけがありません。工場に着いてから出るまではすべて工場のスタッフに任せよう、私はそのように考えました。

 その中国人(ここからはTさんとします)が泊まっていたのは大阪の繁華街の小さなホテルでした。国の役人なんだからもう少し高級なところに泊まればいいのに・・、とおせっかいなことを考えましたが、当時の日中の経済格差を考えれば妥当なのかもしれません。しかし、小さなホテルであったおかげで私はTさんをすぐに見つけることができました。ロビーというよりは歯医者の待合室くらいの空間にいたのはTさんだけだったからです。

 Tさんは私を見かけるとにっこりと微笑んでくれました。よく、中国人は無愛想でウェイトレスもにこりともしない、と言われますが、中国人全員がそういうわけでもなさそうです。初対面の挨拶が大切だ、と考えた私は満面の笑顔をつくり、「グッドモーニング」と言いました。

 ところが、です。Tさんは、笑顔はつくりうなずいてはくれるものの何の返答もありません。年下の者が先に自己紹介すべきだと考え、私は自分の会社名と名前を名乗り、今日は一日お供します、ということを下手くそながら暗記してきた通りに英語で話しました。しかし、依然としてTさんは一言も話してくれません・・・。

 ようやく私は気づきました。そうなのです。Tさんは英語がまったくできないのです。私は焦りました。聞いていた話と違う・・・。しかし、そんなこと言っても何も解決しません。おそらく身振り手振りで工場まで連れて行くことは可能でしょう。しかし、工場に着いてからはどうすべきなのでしょう。英語が堪能な工場のスタッフも中国語はできません。これは困ったと思いましたがとりあえず工場に行くしかありません。私はノートを取り出し「熱烈歓迎」と書いてみました。するとTさんはニッコリ微笑んで初めて何かを話してくれました。しかし中国語など私に分かるわけがありません。この先工場ではどうすればいいのでしょう・・・。

 その日の私は幸運でした。工場で担当者に事情を話すと「何とかなるかもしれない」とのこと。しばらくしてその担当者が連れてきたのはなんと中国人の研修生。今でこそ日本で働く中国人は珍しくありませんが1991年当時、このような中国人研修生は非常に珍しく、実際この工場でも受け入れたのはその研修生が初めてであり、しかも翌日には帰国する予定とのことです。これで私の肩の荷は一気におりました。その研修生は「国の偉い人を日本で案内することになるとは思わなかったが重要な任務を任せられて嬉しく思う」と日本語で話してくれました。工場を出るまで私の役割はまったくなく、タダで昼食をいただいたことを申し訳なく思ったことを覚えています。

 Tさんを無事にホテルまで送りとどけ、私が帰ろうとするとTさんは私の腕をとって引き留めます。どうやら「部屋に来い」とのことです。私は商社勤務時代にいろんな国の人をホテルまで迎えにいったり送ったりしていましたが、後にも先にも「部屋に来い」と言われたのはその一度限りです。

 そのまま帰るわけにはいかないような雰囲気になり、私はTさんと一緒にホテルの部屋に入りました。狭い部屋はベッドが占領し、立っているスペースもないほどです。Tさんは私にベッドに座れ、とジェスチャーで指示します。私より身体の大きい若い男性なら恐怖を覚えたかもしれませんが、Tさんは小柄な初老という感じです。

 大きなかばんの中から小さな箱を取り出したTさんはそれを私に手渡します。それがプレゼントだと気づいた私は、シェイシェイと言いながら箱を開けると、そこにはきれいなデザインでいかにも高級そうなネクタイが入っていました。私が嬉しそうな顔をするとTさんは本日一番の笑顔になりました。シェイシェイと何度も言い私はTさんの部屋を去りました。

 後日、私の発音ではシェイシェイが通じないと中国語に詳しい上司に教えてもらいましたが、このときは通じたのではないかと思っています。話す言葉のコミュニケーションがまるでなかったとはいえ、筆談で3割くらいは通じましたし、丸一日一緒に過ごしたおかげでそれなりの意思表示ができるようになっていたからです。ちなみに、それから25年たった今も私はそのネクタイを使っています。

 この出来事があって数ヶ月後、会社に香港人の若い女性が入職してきました。当時香港はイギリス領でしたから香港人と中国人はライフスタイルが大きく異なっていたはずです。実際、この女性(Cさんとします)もオーストラリアの大学を卒業してから来日しています。英語は堪能で発音は恐ろしいほどきれいです。おまけに日本語も上手とは言えないまでも、それなりに会話はできます。しかも日に日に上達していくのが分かります。英語と中国語を話す外国人が、日本語を、間違えながらも一生懸命に話そうとする姿は大変微笑ましいものです。これは日本語を外国人に教えた経験がある人ならよく分かると思います。
 
 英語が堪能なことをひけらかすこともなく、謙虚な態度で日本語を使って仕事を覚えようとするCさんに否定的な気持ちを持つ社員など誰もいません。それどころか社員全員がCさんをフォローしようという気持ちになっていました。結局Cさんはたしか1年ほどで香港に帰っていきましたがその間Cさんの悪口を言う者は皆無でした。

 筆談で会話をした役人のTさんとオーストラリアの大学を卒業している香港人のCさん。私が初めてコミュニケーションをとった中国人がこの二人だったおかげで、私は中国という国に対して好印象をもっています。もちろんすべての中国人と上手くやっていけるとはまったく思っていませんが。

 香港は私が最も好きな国(地域)のひとつですが、初めて訪れたとき、英語があまりにも通じないことに驚きました。Cさんのような海外の大学を出ている人はごくわずかで、大半の人は英語とは縁の無い生活をしています(注1)。タクシードライバーもほとんど英語ができず香港でタクシーに乗るのは一苦労です。

 私は中国本土に行ったことがないのですが、中国が好きで何度も訪れている人に聞いても、最近は少しましになったとはいえ、日本人との違いに辟易とすると言います。店員はどこも無愛想で、ゲストハウスは明らかに空室があるのに「メイヨー」(無い)と言われるし、列をつくらない中国人に紛れて駅で切符を買うのは本当に苦労する、といった話は何度も聞きました。

 太融寺町谷口医院にも中国人の患者さんは少なくありませんが、「値引きしろ」、とか、「保険証がないから知人の保険証で診てくれ」、などと平気で言う人がいます。なかには、「薬は不要です。安心してください」と伝えると「それなら今日は無料だネ」と言って診察代を払わない人や、(客観的には改善しているのに)「治るのに時間がかかりすぎるから今日はお金を払わない」と言ってクリニックを飛び出していくような人もいます。このような人ばかりをみていると、「中国人は~」と言いたくなることもあります・・・。しかし、もちろんこのような人たちばかりではありません。

 次回は、私が海外で被害に遭った「詐欺」について、そして外国人との話の「タブー」について話したいと思います。
 

注1:世界で最も信頼できるといわれている「英語能力指数(EF EPI 2015)」によりますと、英語を母国語としない国のなかで英語能力のランキングは、香港は33位で日本は30位です。やはり私の実感としてだけでなく香港人は英語があまりできないようです。ちなみに他のアジア諸国をみてみると、韓国27位、台湾31位、タイは62位です。


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2016年2月11日 木曜日

2016年2月 外国を嫌いにならない方法~韓国人との思い出~

 前々回(2015年12月)の「マンスリー・レポート」でイスラムの問題を取り上げたところ、予想以上に多くのコメントをいただきました。ほとんどは「自分もそのように感じていた」と私の考えに同意してくれるものであり、こういう問題を取り上げてよかったと安心しました。もっとも、これまでも、医学以外のことを取り上げたときの方が寄せられる感想が多く、意外なのですが・・・。

 そのような経緯もあって、今回も「国際関係」についてです。国際関係と言っても何もむつかしい話をするのではなく、外国を嫌いにならずに外国人と上手につきあう方法の紹介をしたいと思います。

 ネット右翼(ネトウヨ)という言葉が一般化して随分時間がたちます。ここで私は思想に立ち入るつもりはなく、彼(女)らの主張の善し悪しを検討したいとは思いません。ここでは、海外(特に近隣諸国)を敵対視している日本人が(本当にインターネットばかりしている人たちなのかどうか分かりませんが)存在している、という事実を確認しておきたいと思います。

 ここからは私個人の思い出を語ってみたいと思います。

 私が韓国人と初めてじっくりと話をしたのは1991年の秋、大阪の中堅商社の新入社員だった頃です。日本にやって来たのは取引先の韓国企業の女性社員。ソウルの一流大学を卒業しており、英語も日本語も堪能でまだ入社数年だというのに重要な仕事を任せられているキャリアウーマンです。新入社員の私に重要な商談などできるはずがありません。私に当てられた任務は、半日間で大阪を案内(アテンド)せよ、というものでした。

 高いヒールと高級ブランドのスーツに身をまとい、オフィス街を颯爽(さっそう)と歩いているようなタイプの女性を想像していた私は随分と緊張していたのですが、現れた女性はこちらが拍子抜けするほど大人しい感じの「少女」と形容した方がいいような女性(ここからは「Kさん」とします)でした。日本語が驚くほど上手で、当時英語にまったく自信がなかった私はほっと胸を撫で下ろしました。

 25年前の記憶で、Kさんをどこに案内したのかは覚えていないのですが、私は彼女の怯えたような表情、振る舞い、そして話してくれた言葉を今も鮮明に覚えています。少しはにかんだような笑顔は見せてくれるものの、まるで誰かから追われているかのようにビクビクしています。会社で少し話をし、地下鉄に乗り、ランチをする頃になり、ようやく緊張がほぐれてきました。

 Kさんは、私を「安全な」男と認めてくれたのか、次第に饒舌になってきました。私は事前に上司から「韓国の若い女性が日本にひとりで出張に来るというのはめったにないこと」と聞いていましたから、Kさんはエリート中のエリートで、日本出張は”名誉”なことだと思い込んでいました。しかしKさんは、日本出張を命じられて何度も断った、と言います。日本に行け!だなんてひどい会社だ、と感じ、こんな会社でやってられない、と退職まで考えたそうです。

 私は混乱しました。この話の前に、Kさんは日本文化に興味があり、大学では日本語を学び、日本語の書籍を必死で求めていたという話を聞いていたからです。当時、韓国では日本の書籍は販売禁止でした。日本文化に触れることが禁じられていたのです。もっとも、Kさんのように一部の大学では日本語を学ぶことができていたわけですから、このあたりはダブルスタンダードになっていたのでしょう。

 しかし日本語堪能なKさんも、日本文化を知るための情報源は図書館に置かれている一部の書籍に限られます。テレビで日本の番組を見ることはできませんし、日本映画や日本の歌謡曲は禁止されています。もちろん1991年当時はインターネットもありません。それに日本がいかに凶悪な国かというのを子供の頃からさんざん聞かされているのです。Kさんが言うには、大阪や東京というのは、ヤクザが跋扈(ばっこ)した街で、若い女性は決してひとりで歩いてはいけない、男性から声をかけられるようなことがあれば直ちに逃げないといけない、と聞いていたというのです。たしかに、それならば、日本出張を命じる会社が理解できない、と感じる気持ちが分からなくもありません・・・。

 Kさんは私と一緒に地下鉄に乗ったとき「大(だい)の大人が漫画を読んでいることに衝撃を受けた」と話しました。そして「本当に驚いた・・」と何度も繰り返していたことを覚えています。”暴力的な”日本人が漫画を読むなどということをKさんはそれまで考えたことすらなかったそうです。しかも、地下鉄の中の男性は緊張感がまるでない・・・。「韓国の男性の方がずっと男らしい・・・」、Kさんはそう話していました。

 観光案内も終盤を迎えた頃、私は思いきってKさんに尋ねてみました。Kさんは日本が好きなのか、日本人をどう思っているのか、そして韓国人は全員が日本を嫌っているのか・・・。実は、私はKさんに会う前に、できればこのようなことを聞いてみたいと思っていたのです。韓国人に直接聞くのは「タブー」だとは思っていたのですが、あわゆくば聞いてみたい・・、という好奇心を抑えられなくなってきたのです。

 Kさんの答えは少し複雑なものでした。日本の文化にはとても興味があり、可能なら日本の漫画も読んでみたいと話しました。日本人が怖いというイメージはなくなったと言います。しかし、日本で短期間働くことはあったとしても、日本に住み着くとか、日本で家庭を持つとかいったことは考えられない。そして何よりも、韓国で「日本が好き」などとは絶対に言えない、と小さいながらもしっかりとした口調で話してくれました・・。

 7年後の1998年。韓国で日本文化が解放され、日本の映画や歌謡曲、漫画などに触れることができるようになりました。この頃私はすでにその会社を退職し、医学部の学生になっており、会社員時代の記憶は次第に薄れてきていました。しかしこのニュースを聞いたとき、Kさんのことを思い出しました。仕事は好きだけど近いうちに結婚して家庭を持ちたいと言っていたKさんはおそらくすでに子供の世話に追われる毎日を過ごしていることでしょう。忙しい家事のなか、ちょっとした休憩時間に日本の漫画を手にしているKさんの姿が私の脳裏に浮かびました。

 ちょうどこの頃、医学部生の私が借りていたアパートに韓国人の男子留学生も住んでいて、ときどきコインランドリーで会いました。彼は日本語を一生懸命に話そうとするのですが、ハングル(韓国語)にない音が上手く言えません。初対面のとき、彼は私に「ミジュ、ミジュ、ナイ」と訴えてきたのですが、それが「水が出ない」ということが分かるまでに随分と時間がかかりました。ハングルには「ズ」という音がなく、よほど訓練しないと「ジュ」となってしまうことをその後知りました。

 日韓共同開催ワールドカップの2002年、大阪ミナミのオープンカフェで知人と話しているとき、ふたりの好青年が「相席してもいいか」ときれいない英語で話しかけてきました。「もちろん」と答えた我々は彼らとしばらくサッカーの話で盛り上がりました。彼らは韓国の大学生で、休暇を利用して日本に観光に来ているとのことでした。二人とも英語が(私とは比較にならないくらい)流暢で、話題も豊富。韓国経済の未来について熱く語っていたのが印象に残っています。

 さて、このような私の経験があれば、韓国という国そのものはさておき、韓国人、少なくとも日本文化に関心があり来日している韓国人に対する否定的な感情は沸いてこないのではないでしょうか。もちろん、どこの国にもおかしな人はいますし、個人の相性もあります。このコラムでは追って「外国を嫌いにならない方法」を述べていくつもりですが、今回は「私の知り合った韓国人」について思い出を語ってみました。次回は中国人の話をしたいと思います。

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2016年1月12日 火曜日

2016年1月 苦悩の人生とミッション・ステイトメント

 昨年(2015年)の7月から毎日新聞ウェブサイト版の「医療プレミア」というサイトに連載コラムを持たせてもらっています。年始には特別企画ということで、年末に編集長が私におこなったインタビューが掲載されました。

 インタビューでは、私が個人的におこなっている健康の秘訣のほかに、なぜ医師になったのか、どのような医師を目指しているのか、といったことなども聞かれました。事前にインタビューを受けることを聞いていましたし、あらかじめ内容も教えてもらっていたのでこのインタビューを私は気軽に考えていました。

 ところが、インタビューは2時間以上に及び、随分と掘り下げたところまで尋ねられた、というか、結果として私が自分自身を日頃おこなわないレベルで省みることになりました。

 さすがは毎日新聞の編集長、楽しい時間をつくりながら巧みに質問を重ねてきます。自身の失敗談なども交えながら私からホンネを引きだそうとしているのかもしれません。インタビュー自体はとても楽しい時間であったのですが、私の回答は事前に”キレイに”まとめたものでは対処できませんでした。

 そのときは、過去のなつかしい思い出などを語ることになり心地よかったのですが、その夜から自分自身をじっくりと省みることとなりました。

 これまでどのような人生を歩んできたのか、というのが質問の骨子でした。私は社会人の経験もありますし、『偏差値40からの医学部再受験』という本を上梓していますから、そのあたりを詳しく尋ねられたのです。

 これまでの人生をざっとまとめると、高校時代に勉強ができず偏差値40程度であったが2ヶ月間の猛勉強で関西学院大学理学部現役合格。しかし大学の勉強に馴染めずに退学を考える。ところが同じ大学の社会学部の先輩の一言がきっかけで社会学部に編入を決意、編入学に成功。卒業後社会人になるが、社会学の勉強を本格的におこないたくて大学院進学を考える。ところが、社会学の勉強を続けるうちに生命科学に興味がでてきて医学部受験に方向転換。1年間の猛勉強で入学。医学部入学当初は医師ではなく医学者になることを考えていたが能力の限界を感じ臨床医に転換。どのような医師になるか決めかねていたところ、タイのエイズホスピスで出会った総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後に大学の総合診療部の門を叩く。その後複数の医療機関で研修を受け、クリニックをオープンさせる。

 と、このような感じです。一見サクセスストーリーに見えなくはありませんから、私はこれまでの自分史を事前に”キレイに”まとめていたのです。しかし、実際のところ、私の人生はスムーズに進んだわけではありません・・・。

 まず高校時代に相当悩みました。何に悩んでいたのかと問われれば、それさえも答えられないような悩みで、他人には分かってもらえないようなものかもしれません。当時の私は何が楽しいのかが分かっていませんでした。勉強、スポーツ、音楽活動(少しだけバンドというものをかじったことがあります)、遊び、恋愛、どれも中途半端、というか、何をしてもそれなりには楽しいものの、心のどこかで「何か違う・・・」という違和感を拭えなかったのです。

 何のために生きているのだろう、本当に大切なことは何なのだろう・・・、そんなことばかり考えて空虚な日々を過ごしていました。何もしなくても卒業する日は確実にやってきます。このままいれば高校卒業後は、町工場にでも勤めて、20歳前後で結婚して、その後子供ができて、趣味は車いじりとパチンコと週末のスナック通い・・・。そしてこの空虚感からは永遠に逃れられない・・・。そんなことを考えると、たとえようのない閉塞感に襲われ、息をするのも苦しくなったことがあります。

 当時の私の唯一の希望は「都会への憧れ」でした。いくつもの大学を見に行って関西学院大学を訪れたときに”身体に電流が流れるような衝撃”を受けた私はその後関西学院大学を目指すことだけを「生きる糧」にしました。

 そして合格。しかし今度は、自分が考えていた理想と現実のギャップに悩むことになります。大学進学の目的は都会への憧れ、ただそれだけでしたから、大学生が勉強しなければならないなどとはまったく思っていなかったのです。退学を決意し両親に相談するも却下(当たり前ですが)・・・。そんなとき先輩の一言で社会学部の編入学を考えることになりました(注1)。

 しかし事務局では「理学部から社会学部の編入は前例がないから無理」と却下されてしまいます。「前例は自分でつくるもの!」と考えて猛勉強の末に合格、と言えば聞こえはいいですが、そう簡単に気持ちを切り替えられたわけではありません。最終的には「背水の陣」を敷いて編入学試験に臨みましたが、合格する自信があったわけではありません。何しろ申し込みの時点で「無理」と言われていたのですから。

 編入学試験に合格しその後大学を卒業するまでは夢のような生活でした。時はバブル経済真っ只中、といってもお金はありませんでしたが、それでも毎日が楽しくて仕方がありませんでした。まさに私にとっての「酒と薔薇の日々」です。

 卒業後、私が就職したのは大阪にある商社です。このときは英語で苦労したものの、仕事自体は苦痛ではなくむしろ楽しい思い出の方がずっと多いといえます。

 しかし、楽しいはずの社会生活で再び苦痛に襲われます。このまま今の仕事を続けるべきなのだろうか・・・。これが自分が本当にやりたいことなのだろうか・・・。そのようなことが頭をよぎりだすと、ちょうど高校時代に感じたような閉塞感が再び私を襲ってきたのです。そんなとき、私の出した結論が社会学部の大学院進学。そして独学で社会学の勉強を続けるうちに興味が生命科学に向かうようになり、ついに医学部受験を決意するに至ります。

 そして受験勉強に専念するために退職するわけですが、医学部受験といった突拍子もないことを言い出した私を応援してくれる人などほぼ皆無です。予備校に行くお金などありませんから、独学でひたすら毎日勉強しました。そして1年後に合格を果たすことになります。

 医学部入学後は、再び大学で勉強できることが幸せだったのですが、学年が上がり勉強を重ねるにつれ、次第に「能力の限界」を感じるようになりました。そして、当初考えていたような医学者になることを諦めます。代わりに臨床医を目指すことになるのですが、このときには自分の将来の像が見えていたわけではありません。

 研修医を終えてから訪れたタイのエイズ施設で私の人生がほぼ決まることになります。社会から疎外されている患者さんをみてエイズという病に関わりたいと感じたと同時に、その施設にボランティアに来ていた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)をみて私が進む道が決まりました。帰国後私は大学の総合診療部の門を叩くことになります。

 その後は複数の医療機関、複数の診療科で研修を受け、大学に籍を置きながら大阪市北区に自分自身のクリニックをオープンすることになります。クリニックオープン後もいくつもの苦痛に見舞われましたが、最も辛かったのは、自身の「変形性頸椎症」に対する手術を受けたときです。手術は成功したものの芳しくない術後の経過が私を苦しめました。このときには、過去に診てきた患者さんのことが頭に浮かんだことなどがきっかけとなり、比較的早い段階で苦しみから抜け出すことができました。

 さて、改めて自分の人生を振り返ってみると「転機」が訪れたのは1997年、医学部1年生の終わり頃、28歳のときです。何か特別な事件があったわけではありません。生まれて初めて自分自身のミッション・ステイトメントをつくったのです(注2)。私はそれ以来、精神的な”ぶれ”がかなりなくなったように感じています。高校時代や会社員時代に私を襲った「何のために生きているのだろう・・・」という疑問に苦しめられることがなくなりましたし、将来の方向がはっきりしていなくても自分のミッションを持っていれば悩まなくてもいいことを理解するようになりました。手術を受けた直後には、一瞬それを見失いそうになりましたが、脳裏に現れた過去の患者さんに助けられたことがきっかけで、ミッション・ステイトメントを振り返ることになり自分自身を取り戻すことができました。

 これからも私はいろんな苦痛を感じることになるでしょう。また、文章にはできませんが、これまでの人生で人間関係や恋愛関係で傷つけたり傷つけられたりといったことは多々ありますし、これからもあるでしょう。人間関係からくる苦痛というのは、ときに生きる気力を奪うほど大きなものです・・・。

 私はここ数年、毎年1月1日にミッション・ステイトメントの全面的な見直しをおこなっています。この時間は私にとってとても大切な時間です。今年は、直前に毎日新聞の奥野編集長から鋭い質問を受けたおかげで、例年よりも心の奥深くにまで問いかけ、ミッションの見直しをおこなうことができました。そして、傷つけた人、傷つけられた人たちも含めてこれまで私と関わってきた人たちのことを考えていると、感謝の気持ちが沸き上がり身体の奥底からパワーがみなぎってくるような感覚に包まれました。

 そして、私の2016年がスタートしました。

注1:このあたりのことは過去にも書いたことがあります。興味のある方がおられれば下記を参照ください。

マンスリーレポート
2013年10月号「安易に理系を選択することなかれ(前編)」
2013年11月号「安易に理系を選択することなかれ(後編)」

注2:ミッションステイトメントについては下記も参照ください。

マンスリーレポート
2009年1月号「ミッション・ステイトメントをつくってみませんか」

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2015年12月11日 金曜日

2015年12月 私が狂っているのか、それとも社会がおかしいのか

 先日、近くの食堂で遅い夕食をとっているとき、テレビで今年(2015年)の流行語大賞の発表がおこなわれていました。日頃ほとんどテレビを観ず、流行にかなり疎い私はノミネートされていた流行語をほとんど知りませんでした。それはいいのですが、そのテレビを観ていて、虫唾が走るような不快感を覚えました・・・。

 2015年8月16日午前7時頃、バンコクのラーチャダムリ通りを北向きにジョギングしていた私は右手にエラワン廟を見ながら交差点を右折しプルンチット通りに入りました。その36時間後に死者20人の被害をもたらした爆弾テロ事件がこの場所で起こるとは想像だにできませんでした。

 2015年11月12日、レバノンの首都ベイルートで2件の自爆テロ事件がおこり43人が死亡しました。(なぜかマスコミはこの事件をあまり取り上げませんでした・・・) その翌日、パリで連続自爆テロ事件が起こり127人以上が死亡しました。この事件はコンサート会場やレストランで事件が起こり世界中を恐怖におののかせました。

 2015年の私の印象は、これほどイスラム教関連の忘れ難い出来事が起こった年はないのでは?、というものです。日本人を助けるためにシリアに入国しISILというテロ組織(マスコミではこのテロ組織を「イスラム国」と呼んでいますがこれは国ではありません)に捕らえられ、2015年1月に惨殺されたジャーナリストの後藤健二氏のことを世間はもう忘れたのでしょうか。

 また、同じ月(2015年1月)に、イスラムを風刺したパリの週刊誌の編集長や執筆者ら合計12人が殺害されたシャルリー・エブド襲撃事件(この事件とISILとの関係は不明)はもう忘れ去られたのでしょうか。

 忘れ去られたわけではないけれども、流行語大賞にノミネートされた言葉の方がインパクトが強くより流行した、ということなのでしょうか。ISIL(イスラム国)、自爆テロ、後藤健二、シャルリー・エブド、こういった言葉は流行語にはならないのでしょうか。「流行語」はどこか軽薄なイメージが伴うため、あえてこういった単語はノミネートから外しているのでしょうか・・・。

 私が言っていることは「中年オヤジの戯言(たわごと)」に過ぎないのかもしれません。それにテレビのことなど放っておけばいいのだとは思いますが、イスラム関連の事件が取り上げられていないのはやはりおかしいと思うのです。

 イスラム関連以外のことで言えば、2015年は二人の日本人がノーベル賞を受賞しています。ノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章博士はニュートリノが質量を持つことを発見しました。ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智先生はイベルメクチンという寄生虫の薬で何億人もの人を救っています。ならば「ニュートリノ」や「イベルメクチン」が流行語になってもよさそうなものだと思うのですが、このように感じるのは私だけなのでしょうか・・・。

 話をイスラムに戻したいと思います。私はこれから世界が最悪の事態になるのではないかという危機感を拭えません。私は政治に詳しいわけではなく、ずぶの素人ですが、次のように考えています。

 2015年9月30日、ロシアはシリアの反政府組織を空爆しました。シリア政府(アサド政権)をロシアは支持しています。結果として、これが引き金となり次々と悲劇が起こっているのではないかと思うのです。1ヶ月後の10月30日、エジプト上空でISILがロシア機を爆撃し、乗客乗員224人全員が死亡しました。ISILはジハードの名の下に自爆テロを繰り返し、11月12日にはベイルートで、13日にはパリで大規模な自爆テロを起こしました。

 私が懸念していることは2つあります。1つは、純粋なイスラム教徒に対する偏見です。イスラムを名乗るテロ組織が世界中で次々と自爆テロを起こすようになれば、キリスト教徒や仏教徒、多くの日本人のような無宗教の人々は、イスラム教徒に対する偏見を持つことにつながります。そして彼(女)らは社会から疎外されることになりかねません。すると、そういった者のいくらかは社会への怨恨が生じ、ISILに加わるかもしれません。そして、まさにこれこそがISILの考えていることです。つまり、非イスラム教徒がイスラムへの偏見を強めることになればなるほど、ISILの「思う壺」というわけです。

 先に述べたバンコクの爆破事件はウイグル族のイスラム教徒の犯行と言われています。中国政府(漢民族)は以前からウイグル族を弾圧していることが問題になっていました。イスラムへの風当たりが強くなっているこの時期に一気に圧力をかけてくるかもしれません。するとウイグル族の若者がISILに加わるという可能性もでてきます。

 さらに、です。日本では地下鉄サリン事件という世界中を驚かせたテロ事件が起こった歴史があります。オウム真理教に共感し入信した若者の何割かは社会に対するルサンチマンを持っていて、それがテロという反社会的な行動につながったのではないでしょうか。だとすると、現在の日本社会に不満を持つ若者がISILに勧誘され、日本国内でのテロが起こらないとも限りません。実際、パリでも、海外からやってきた者ではなく、自国の国籍をもつ者たちによって悲劇が繰り広げられたわけです。

 もうひとつの私の懸念は、大国どうしの複雑な関係です。私は以前、旅先で知り合ったトルコ人に「日本人はスンニ派とかシーア派とかにこだわりすぎる。自分たちはそんなこと普段意識しない」と言われたことがあるのですが、やはり国家の関係を考えるときにはこれらを考えるのがわかりやすいと思います。(ただし私の知識はいい加減で正確ではない可能性があります)

 スンニ派とシーア派ではスンニ派の方が多く、スンニ派の方が一般に規律が厳しい。代表国がトルコとサウジアラビア。シーア派の大国はシリア、イラン、イラク(ただしフセイン元大統領はスンニ派)、それにレバノンです。ISILはシリア内で反政府組織として発生していますから一応はスンニ派です。

 問題はここからです。ロシアは昔からシリアと仲がよくトルコと仲が悪いわけですから、シーア派支持となります。しかし、シーア派のアサド大統領はここ数年間民主化運動をおこなう市民を大量に虐殺しており、西欧諸国はそろって反アサドです。となると、ロシアと西ヨーロッパが対立することとなり、アメリカも西ヨーロッパと同じ立場になります。ということはロシア対西ヨーロッパ・アメリカとなり、こうなると「冷戦の再燃」です。

 さらに複雑なことに、11月にトルコがロシアの戦闘機を撃墜したことで二国間関係が険悪になっています。もう一度同じようなことがあると一気に大戦に突入となるのでは・・・と危惧します。

 ここで私の個人的な話をしたいと思います。NPO法人GINAの関連の仕事で南タイを訪れたときの話です。南タイはイスラム教徒が多数派を占め、独立運動が盛んで、ISILとは(今のところ)無関係ですが、死傷者を伴うテロがときどき起こります。私が訪問したときも戒厳令が敷かれており夜間外出は禁じられていました。海岸近くに投宿していた私は夕方に海岸通りの屋台で食事を買おうと思いビーチに出ました。

 すると、ヒジャブ(女性のイスラム教徒が頭に巻いている布)をまとった20人くらいの小学生くらいの女の子たちが砂浜でバレーボールをしていました。バンコクには中東出身者が集まるエリアがあり、そこにも多くのイスラム教徒の男女がいるのですが、そこでは女性の笑顔を見た記憶がありません。しかし、南タイの砂浜では無邪気な少女たちが、何がそんなにおかしいの、と言いたくなるほど笑い合って戯れていました・・・。ほのぼのとしたその雰囲気に癒やされた私は、なんだかとても平和的な気持ちになり、しばらくその場を離れたくなくなりました。

 中東では男女の会話も禁じられているそうですが、タイでは(マレーシアやインドネシアでも)屋台で焼き鳥を焼いているヒジャブを巻いた女性が、笑顔で日本人男性の私にも焼き鳥を売ってくれておまけをしてくれることもあります。

 私のイスラム教に対する印象は「平和で明るく無邪気」です。これは現在のイスラム教の世間のイメージと正反対だと思います。しかし、2014年にノーベル平和賞を受賞したパキスタンのマララ氏(と呼べばいいのでしょうか。マララさん?マララちゃんは失礼?)を思い出して下さい。日本での報道は一瞬で終わってしまいましたが、それでも彼女の勇気ある行動に胸を打たれた日本人も多かったはずです。

 2015年を振り返ってイスラム教徒のことが真っ先に出てくる私はおかしいのでしょうか。家族や従業員からは、遠い国のことを考える前に自分たちのことを考えろ、と言われそうですし、患者さんからは、もっと身近に困っている人がいることを忘れるな、と叱られそうです。それはたしかにその通りなのですが、1人でも多くの人にイスラムのことを考えてほしい。そしてイスラムでまずイメージするのはISILではなくマララ氏であってほしい。そう願っています・・・。

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2015年11月10日 火曜日

2015年11月 熊本の変容と他者への貢献

 私が熊本を初めて訪れたのは社会人をしていた20代前半の頃で、仕事での出張が目的でした。「飲み屋が多い街」というのが私の第一印象で、同じ九州でも博多とは異なり、小さな飲み屋がたくさん密集していることや、大都市とは違う独特の情緒ある雰囲気がなぜかとても魅力的に感じられました。その飲み屋街は白川という大きな川の西に位置しています。この川を東から西に渡ると、空気が一変し別世界に来たような感じがして、なんだかとても不思議な気持ちになったことを覚えています。

 その後私は会社を辞め、仕事で熊本に行くことはなくなりましたが、機会があれば訪れるようにしていました。私が最も好きな地方都市のひとつです。熊本訪問時にはいつも白川より西のエリアに宿を取るようにしています。東側の整然とした「官」の雰囲気のあるエリアよりも、少し猥雑とした24時間眠らない非日常的な西側の時空間が私はたまらなく好きなのです。

 2015年10月上旬のある日、9年ぶりに熊本の地を踏みました。ある学会に参加するのが目的です。空港からバスに乗り換え白川を西に渡るとき、街の雰囲気がこれまで私が知っていた熊本と少し異なることに気づきました。なぜか街がとても明るく感じられます。ライトの数を増やしたのだろうか、もしかするとLEDをたくさん使っているのだろうか・・・、それにしてもこの人の多さは何なんだ、それに外国人もこんなに多いとは・・・。

 投宿し、そのあたりを散策しに出かけた私は、私が知っている過去の熊本と違っていることをさらに強く感じました。過去の雰囲気も魅力的でしたが、現在の熊本はかつてなかったようなエキサイティングでわくわくするような活気があります。この原因はいったい何なのでしょうか・・・。

 その理由が分かったのは、意外にも翌日に参加した医学会でした。

 受付会場で最も目立ったのは、「くまもんが来ます」というポスターでした。これを見た段階ではまだピンと来なかったのですが、受付で手続きを済ませると「くまもんバッジ」を渡され、ここで私は気づきました。そして前日に見た数々の光景がよみがえってきました。商店街に掲げてあるくまもんの巨大なポスター、いたるところに置かれた大小のぬいぐるみ、くまもんのシールが貼ってある食料品やペットボトル、くまもんの絵が大きく描かれたタクシーまで・・・。

 そうなのです。この街はくまもんのおかげで明るく元気になっているのです。それにしても医学会でもくまもんバッジが配られて、本物のくまもんがやって来るとは驚きです。

 医学会というのはその学会にもよりますが、医師でないゲストの特別講演が企画されていることがあります。私はこういった講演を聴くのが学会参加の楽しみのひとつであり、参加する前には誰がそのような講演をおこなうかを確認しています。これまでに私が聴いた講演で印象に残っているのは、故・渡辺淳一氏、スキージャンプの葛西紀明氏、車いすランナーでパラリンピックメダリストの伊藤智也氏などです。

 今回熊本で開催された学会の特別講演は熊本県知事の蒲島郁夫氏。しかし、私は(失礼ながら)蒲島氏のことをほとんど知りませんでした。ですから(これまた失礼ですが)講演にはそれほど期待していなかったのです。

 ところがところが、蒲島知事の話は最初から最後まで刺激的で、息つく暇もないほど夢中にさせられました。幼少時に苦労をして成功した人の話はたくさんあり、どれも興味深いもので、偉人の伝記や自叙伝などを読むのは私の趣味のひとつです。しかし蒲島知事ほどインプレッシブな人生を歩んでいる人はそういないのではないでしょうか。

 1947年熊本で9人兄弟の7番目に生まれた蒲島知事。幼少時は貧困に喘ぎ、白い米を食べられるのは正月のみ。小学2年生から高校3年生までの11年間、1日も休まずに新聞配達をして家計を助ける。当然勉強はできず高校時代には220人中200番台の成績。そのうち高校に行かなくなり丘の上の一本松の下で景色を眺め本を読む生活。出席日数ギリギリで卒業させてもらい就職もできたがわずか1週間で退職。その後農協に勤めるが2年で退職し、農業研修生とし渡米。ここで人生が開けるかと思いきや「研修生」とは名ばかりで実際は過酷な条件でのいわば強制労働。しかしプログラムにネブラスカ大学での3ヶ月の研修があり知事はここで勉学に目覚めます。いったん帰国した後、ネブラスカ大学に入学するために猛勉強。そして再び渡米し試験を受けるも結果は不合格・・・。しかし大学の講師の計らいで「仮入学」という形で大学で学べることに。高い成績を取らなければ半年で退学という条件のなか、日々猛勉強に明け暮れ一学期の成績はなんとオールA。その後4年でネブラスカ大学農学部を卒業。

 これだけでも充分なサクセスストーリーですが、ここからが蒲島知事のおもしろいところです。大学院は農学部ではなく、なんとハーバード大学の政治学部。ここでも猛勉強を継続し、通常は卒業までに5年はかかる大学院を3年9ヶ月でクリア。その後帰国し筑波大学の教授。その後東大教授に。高卒で東大教授という経歴は蒲島知事の他にはいないそうです。しかし熊本知事に立候補するため東大教授を退職。そして当選。2012年にも再選を果たし現在2期目です。

 私は新聞には毎日目を通しているつもりですが「くまもん」についてはその名前くらいしか知りませんでした。多くの実績のある蒲島知事の活躍のなかでも「営業部長にくまもんを抜擢」はその最たるものです。それにしても知事の(知事だけでなく熊本県の職員もですが)くまもんの戦略には驚かされます。知事はくまもんの知名度を上げるためにまず大阪をターゲットにしたそうです。しかも、大阪のテレビで取り上げてもらう、といった単純なことではなく言わば”ゲリラ的”な戦略を展開されました。

「くまもんを探しています。目撃された方は情報をお寄せください」といった内容の記者会見をネット上でおこない、大阪の各地に瞬間的に神出鬼没するくまもんの目撃情報を募集したそうです。またあるときには営業部長の任務としてくまもんに1万枚の名刺を道行く人に配らせていたそうです。これ、むちゃくちゃ面白い企画ではないですか。私はくまもんと熊本県がこのような斬新的なパフォーマンスをしていたことを後から知って少し後悔しました。太融寺町谷口医院は大阪市北区の繁華街の近くにありますから、きっとこの近くにもくまもんが来ていたはずです。そう思うと残念でなりません。

 学会での蒲島知事の講演では後半にくまもんが壇上に登場しました。われんばかりの拍手と止むことのないフラッシュのなか、くまもんは特に緊張した様子もなく知事をフォローしていました。講演終了後は、くまもんがロビーにやってきて撮影会が始まりました。驚いたことに、多くの医師たちが、日頃は笑顔を見せないようなタイプの医師たちも含めて(失礼!)、くまもんとのツーショット写真は相当嬉しいようで、順番の奪い合いをし、ようやく写真撮影となると満面の笑みを浮かべているのです。(ちなみに、私はそういった医師たちに圧倒され、ツーショット写真に並ぶ気力が起こりませんでした・・・・)

 さて、今回のコラムで私が最も言いたかったのは蒲島知事の努力のストーリーでもなく、くまもんの大阪でのエピソードでもありません。それは、現在の蒲島知事の「公僕としての精神」です。講演のなかで、知事が直接このような言葉を使われたわけではありません。しかし、就任1年間月給を百万円カットしたといったエピソードなどを持ち出すまでもなく、言葉の節々や話し方、表情などから、知事がいかに熊本に貢献したいかという思いがビシビシと伝わってきました。そして、このことが私がもっと蒲島知事のことを知りたい、これから応援していきたいと感じた理由です。

 私は人間の欲求のなかで「他人や社会に貢献する」ということが最も安定した欲求になるのではないかと考えています。機会があれば詳しく述べたいと思いますが、他者(他人や社会)への貢献の欲求は、一時的なものではなく永続し、飽きることがなく、迷うこともなく、また他人から共感を得られるものです。

 蒲島知事の講演を聴いた私は、自分は医師として他者(患者さんや社会)に貢献し続けたい・・・、そのような思いが次第に強くなっていきました。そして受付でもらったくまもんバッジを手に取り、カバンに取り付けました・・・。

参考:
『私がくまモンの上司です――ゆるキャラを営業部長に抜擢した「皿を割れ」精神』
蒲島 郁夫 祥伝社
『逆境の中にこそ夢がある』蒲島 郁夫 講談社

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2015年10月9日 金曜日

2015年10月 英語の使用に反対する人たち

 楽天が英語を社内の公用語にしたのは2010年頃だったでしょうか。当初は「現実的でない」「大事なことが伝わらない」など批判的な声の方が大きかったようですが、最近は英語公用化を評価する意見も増えてきていると聞きます。

 その後、ユニクロのファーストリテイリングも英語を社内公用化したと報道されました。そして、2015年6月にはホンダが2020年を目標に社内公用語を英語にすることを発表し話題を呼びました。

 私はホンダが英語の社内公用化に踏み切ったことが、日本のビジネス英語普及のターニングポイントになるかもしれないと考えています。楽天やファーストリテイリングというのは若い社員が多く、特に楽天はもともとITレベルの高い社員が集まっているでしょうから英語へのハードルはそれほど高くないでしょう。

 しかしホンダはこれら新興企業とは異なります。日本を代表する自動車老舗メーカーのホンダはグループ会社も加えると従業員は20万人を超えます。20万人以上の従業員全員が、TOEICでハイスコアを取るようになり、会議はもちろん、もしも社内食堂での雑談まで英語を使うとなると、これは革命的なことになると思います。

 日本で働きたいという外国人は少なくありませんが、ホンダはそのような外国人にとって超人気企業となるはずです。そして優秀な人材が集まるでしょう。海外での営業は英語力に秀でた日本人または外国人がおこないますから、他の日本の自動車メーカーよりもアドバンテージがでてきます。従業員全員が英語をスムーズに使えるとなれば社内伝達も早くなりますから、極めて効率よく世界をターゲットにした戦略がおこなえます。

 しかしながら、楽天のときもホンダのときも社内公用語計画が発表されたときには、反対意見が目立ちました。不思議なことに、英語のできない人だけではなく、英語が堪能な知識人のなかにも「欧米の戦略にやられてしまう」とか「日本人が愚民化する」などということを言う人がいます。

 はたして英語公用化が日本の経済界に普及したとき、反対派の人たちが言うような日本人にとって不利益なことが起こるのでしょうか。

 ここで医療界の話にうつりたいと思います。

 2015年8月、医師のコミュニティサイト「m3.com」で「英語で教授回診、カンファレンスを開始した理由」というタイトルで、大阪市立大学附属病院の一部の科では英語で会議がおこなわれていることが報告されました。

 大阪市立大学医学部は私の母校であり、実は私が学生の頃からすでに一部の科では会議時に英語が使われており、医学生が会議で発表をおこなうときも英語が義務づけられていました。医学部の学生は、使用している一部の教科書や講師が配布するプリントには英語のものも少なくありませんから、少なくとも英語を読むということについては(苦手意識があるとしても)できないことはありません。というより英語がある程度できなければ医学部の勉強は続けられません。

 けれども、会議時に英語で発表となると「自信があります」といえる学生はほとんどおらず最初は抵抗を示します。しかしこれは必ずやらなければならないことで「拒否する」という選択肢はありません・・・。この話の続きは後でおこなうこととして、英語公用化の反対意見についてみていきましょう。

 大阪市立大学の報告をした「m3.com」は医師のコミュニティサイトであり、この記事を読んだ医師が自由に意見を書き込んでいます。それらを読んでみると、意外なことに英語での会議に反対する意見が少なくありません。反対するその理由をみてみると「英語ばかりに注意がいくようになり肝心の医学的内容がおろそかになる」「医学の質が英語よりも大事」などと述べられています。

 大変興味深いことに、こういった反対意見は楽天やホンダの英語公用化が発表されたときにでてきた意見とそっくりです。楽天やホンダを含めて一般の企業に就職した人のなかには、それまでの人生で英語に接する機会がほとんどなかったという人もいるでしょう。しかし、医師の場合は、医師国家試験は日本語で出題されますが、6年間の勉強を英語の知識が低いまま続けることなど絶対にできません。その医師たちが一般企業の英語反対派の人たちと同じような理由で反対することが私には意外でした。

 一般企業の英語公用化に私自身は賛成ですが、反対派の人たちの考えが分からないわけではありません。というのは、英語はまったくできないけれども、仕事がよくできて人望も厚い、人間的に大変尊敬できる人がどこの企業にもいるからです。その逆に、ネイティブスピーカー並みの流暢な英語を話すものの、中身が無くて、仕事ができない、人間的にも問題のある、いわば「英語はできるが日本語ができない」社員というのもおそらく多くの企業でみられます。

 仕事ができて英語ができない派からすれば、英語社内公用化のせいで英語ができないと低い評価となるシステムになれば、英語ができて仕事ができない人たちを非難したくなる気持ちは充分に理解できます。

 しかし、です。これは私の個人的意見に過ぎないかもしれませんが、英語が現時点でできない人はこれまで英語に接する機会がなかっただけです。もしくは接する機会があったけれどもそれをチャンスと見なすことができなかった、だけです。たとえていえば、生涯を共にすべきパートナーとの出会いのチャンスがあったのに、なぜかそのときは血迷ってしまい別のパートナーを選んでしまって後から後悔するようなものです。

 考えてみてください。仕事ができて厚い人望があり人間的に尊敬できる人は努力を惜しみません。そのような人が英語の勉強を真剣にやってできないはずがないのです。逆に流暢な英語は話すものの中身がない人は、初対面の印象こそ悪くないかもしれませんが、その後は相手にされなくなるはずです。

 というわけで、私はすべての人に英語の勉強をすすめたいと考えています。さて、一部の人が言うように英語を公用化すれば日本人は愚民化するのでしょうか。ここで再び大阪市立大学医学部の学生の英語での発表についての話に戻します。

 私自身は英語は得意ではありませんが、医学部入学前は商社に勤めていて外国人を交えた会議などでは英語を使用しなければなりませんでした。ですから英語での発表と言われてもそれほど抵抗はなく、そのため何人かの同級生は私に助言を求めてきました。そこで私は、彼(女)らにまず発表する内容をすべて英語でつくるように助言し、それを添削しました。そしてできるだけシンプルな英文にして、それを暗唱するように言いました。

 私自身も彼(女)らに言われて「なるほど」と思ったことがあります。それは英語で文章をつくる方が論理的に考えることができて、それまであいまいだったことがクリアになったというのです。日本語だけで言葉をつないでいくと曖昧な表現がいくらか含まれます。その曖昧さが日本語の美しさという考えもあるでしょうが、仕事で使う言葉では曖昧さを取り除かなければなりません。

 医学の会議や学会では、最近はそれほど大きなものでなくても外国人が発表したり、海外からの留学生が参加したりすることもよくあります。一般企業でも、国内外にかかわらず会議に外国人が参加していることがすでに珍しいことではなくなっているでしょうし、今後も増えていくでしょう。

 つまり、すでに世界共通語が英語になってしまっていると認識すべきです。これは医療界のみならず一般企業、一般社会においてもです。日本にやってくる外国人を意味する「インバウンド」という言葉は数年前までまったく聞かれないものでしたが、今や毎日のように新聞紙上で見かけます。そして、今後インバウンドはますます増えていきます。

 携帯電話やインターネットがない時代に戻れないのと同様、英語を使うということからもほとんどの人が逃れられないというのが私の考えです(注1)。

************

注1:今回のコラムでは英語の勉強法について述べていません。私が最も言いたいことは、上達度に差はあるものの英語は勉強すれば誰でも必ず上達する、ということです。効果的な勉強法については過去にコラムを書きましたので、興味のある方は下記を参照ください。

マンスリーレポート
2011年10月号「私の英語勉強法 その1」
2011年11月号「私の英語勉強法 その2」

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2015年9月11日 金曜日

2015年9月 お金に困らない生き方~4つの秘訣~(後編)

 今回は「お金に困らない生き方」の最終回として3つめと4つめの秘訣を述べたいと思います。前々回、前回に引き続き、今回も私がタイで見聞きしたエピソードが中心となります。「もうタイの話は聞き飽きた」という人も今しばらくおつきあいください。

 3つめの秘訣は「情けは人の為ならず」です。このことわざ、以前私はあまり好きでなかったのですが、最近はどうもこれは世の中の”真実”であるのではないかという気持ちになってきています。
 
 説明していきたいと思いますが、その前にこのことわざの意味をはき違えている人が少なくないという新聞記事を以前読んだことがあるので、念のため正しい意味の確認からしていきたいと思います。その記事によると「情けは人の為ならず」を「他人に情をかけることはその人の為にならない。だから他人に同情するな!」という意味と思っている人が少なくないそうです。

 もちろん正しくはまったく逆で「誰にでも親切にしなさい。そうすると、いずれ自分が困ったときに助けてくれるものですよ。だから情をかけるのは<他人>のためでなく<自分>のためなんですよ」という意味です。(「国語学者」からみると幾分ずれているかもしれませんが、私の解釈で大意は合っているはずです)

 では本題に入ります。以前私がなぜこのことわざを好きでなかったかというと、なんとなくエゴイスティックなイメージがあったからです。あとで見返りを期待して他人に親切にすると言っているように聞こえて、「あ~、なんか打算的でイヤな考え」と思っていたのです。

 しかし「情けは人の為ならず」を社会の構成員全員が実践していたとすればどうでしょう。そして、それがタイなのです。誤解のないように言っておくと、私はタイがパラダイスと言っているわけでは決してありません。タイ人と仕事をしたことがある人には同意してもらえると思いますが、あの「いい加減さ」についていける日本人はあまりいません。これからタイ人の優しさについて述べていきますが、一方で平気で仲間を裏切るタイ人は少なくありませんし(裏切られた方もいつのまにか許しているのがタイ人の魅力のひとつかもしれませんが)、彼(女)らは借りたものは返しませんし、嘘をよくつきますし、義理・人情というものがあるのかないのかよく分かりません。

 タイ人は男性でも女性でも、仲良くなるとすぐに「家に遊びに来い」とか「親戚が来るから一緒にご飯を食べよう」とかいいます。そして一緒に食事をすると、だいたい日本人が全額払わされることになります。経済格差がありますから、これは当然と言えば当然かもしれません。我々日本人が理解しがたいのは、彼(女)らがお礼を言わないことです。(このような機会でお礼を言われたとすれば、そのタイ人は日本文化を知っていると考えるべきです)

 タイ人の感覚は「お金は持っている者が払うもの」というものです。では、私に(日本人に)おごってもらう人たちはいつも他人の善意に頼っているのかというとそうではありません。彼(女)からみて困っている人に対しては手を差し伸べるのです。

 深夜、バンコクの繁華街では、男性なら薬物のディーラーかジャンキー、女性ならセックスワークをしているだろうと思われる不良タイ人にイヤでも遭遇します。そんな彼(女)らが悪人かといえばそうは思えません。彼(女)らがホームレスに果物やご飯を恵んでいる光景をしばしば目にするからです。

「タイでホームレスや障害者からお金を求められても無視するように」と言う日本人がいます。しかし、実際にホームレスや障害者をしばらく観察していると、タイ人、それもスーツを着た富裕層ではなく、低い層と思われる男女がそのような社会的弱者にお金をあげているシーンを目にします。

 では、ホームレスや障害者の人たちは恵んでもらうだけかというと、そうではないのです。彼(女)らは野良犬にご飯をあげています。つまり、タイでは社会を構成するすべての階層のひとたちが、困っている人(犬)たちに何らかの手を差し伸べているのです。

 そして、以前は自分よりお金を持っていた人が何らかの理由で転落したときには、今度はその人を助けようとします。これは、私の印象でいえば、日本人が感じる「恩返し」とは少し異なります。「恩を返す」あるいは「借りを返す」というものではなく、あたかもそれが「当然」という感じなのです。

 東日本大震災が起こったとき、バンコクではBTS(モノレール)の主要な駅周辺に募金箱が置かれました。BTSの料金は冷房なしのバスの何倍もしますからある程度の富裕層しか使わない乗り物です。このとき、庶民的なタイ人たちはBTSを利用するわけでもないのに駅まで来て募金をしてくれたのです。「困っている人は放っておけない」という感覚が自然に身についているのかもしれません。

 タイは特に地方に行けば日本よりもはるかに貧しく、また格差はすさまじいものがあり日本の比ではありません。生活保護などの公的扶助は日本とは比較にならないほど貧弱です(ただし医療費は無料です)。しかし、自殺する人は非常に少ないですし、最近よく聞く「孤独死」もおそらくほぼ皆無でしょう。

「情けは人の為ならず」をただひとり実践したとしても社会は変わらないかもしれません。しかし、良貨は悪貨を駆逐します。(これは私があえて「誤用」している言葉で、正しいことわざは「悪貨は良貨を駆逐する」です。念のため) 私はタイの文化をみて「情けは人の為ならず」が「非現実的な理想」ではなく「真実」であると考えています。真実であるならば、少しずつ草の根レベルで他人に広めていけばいいのです。つまり「情けは人の為ならず」を実践し続けることでそれが真実であることに気づく人が増え、結果として「お金に困らない」=「お金がないときも他人に頼れる」社会になると思うのです。

「お金に困らない」4つめの秘訣は「健康」です。健康を損なえばお金に困ることがあります。またまたタイの話で恐縮ですが、北タイ在住のある日本人男性の話をしたいと思います。この男性に私は会ったことはありませんが、チェンマイでは有名のようで、作家の下川裕治氏はこの男性を実名をだして著書で紹介しています(注1)。沖縄出身で東京で飲み屋をやっていたこの男性はチェンマイが気に入り移住したそうです。しかし持病の腎臓病が悪化し人工透析が必要になってしまいました。

 人工透析はかなりの高額が必要になり、日本で治療を受けた場合、実際は保険や公的扶助で自己負担はあまりありませんが、透析の費用だけで月あたり40~50万円程度かかります。タイで透析を受けるとなると自費診療となりますから10万円以上は必要になります。このような高額な費用を払い続けることはできません。下川氏によると、この男性は月額7万円の年金で楽しく暮らしていたそうです。前回も述べたように月7万円もあれば贅沢しなければ北タイでは充分に暮らしていけます。しかし透析代が必要となるとすぐに破産してしまいます。下川氏は「乞食をやってもチェンマイにいる」とこの男性に言われ、言葉をなくしたそうです。

 タイを含むアジア諸国で老後をまったり過ごす予定だったけれども、現地で病気を患って帰国せざるを得なくなった。あるいは、海外に旅立つ前に持病が悪化し夢を諦めなければならなくなった、という話はそう珍しくありません。

 比較的よくある疾患が、生活習慣病(特に糖尿病)や悪性腫瘍です。HIV感染も珍しくありません。ちなみに抗HIV薬はタイでは日本よりも格段に安く入手できますが、それでも(円安の影響もあり)月に1万円以上はします。しかも、この安い薬剤が副作用で使えなくなったり、他の病気を併発したりすると、日本に帰国せざるをえなくなってきます。

 さて、3回にわたり、私が思う「お金に困らない秘訣」を述べてきました。「年金」「倹約」「情けは人の為ならず」「健康」がその4つです。振り返ってまとめてみると、「日頃から健康に気をつけ、倹約に努め、年金は遅滞なく支払い、困っている人がいれば手を差し伸べる」となります。

 どこかで聞いたことがあるようなないような・・・。もしかすると小学校の道徳の時間に習ったようなことかもしれません。つまり、「道徳的に生きること」が結局のところ「お金に困らない生き方」につながる。それが私の考えです。

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注1:私の記憶はいい加減ではありますが、下川裕治氏は確実にこの男性を著作で紹介しています。けれども、私はこのコラムを書くにあたり、本棚をひっくり返し下川氏の10冊以上の本を手にとってみたのですが結局見つかりませんでした・・・。どこか海外のホテルにでも忘れてきたのでしょうか・・・。ただ、この日本人のことを自身のブログで書かれていました。下記URLを参照ください。

http://odyssey.namjai.cc/e25942.html

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2015年8月7日 金曜日

2015年8月 お金に困らない生き方~4つの秘訣~(中編)

 お金に困らない生き方として、前回は「タイで幸せをつかんだ日本人の高齢者」の話をしました。この男性は、年金の受取ができるようになり、ホームレス同然の生活から一気にお金持ちになったのです。しかし一方で、前回も述べたように、月額12万円の年金を受給していた東京都の男性は新幹線の中で焼身自殺を図っています。タイで幸せになった男性の年金額は分かりませんが、定年前にタイに渡航しているようですから受給額は東京都の男性とそう変わらないと思われます。

 同じような受給額でこれほどの差が出るのは興味深いといえます。新幹線で自殺した男性は12万円を生活できないレベルと考え、タイで幸せになった男性はリッチな生活をしているのです。(ただし、前回述べたように若い女性と結婚して家を建てたというのは未確認情報で私の「推測」にすぎませんが・・)

 ここで疑問が出てくると思います。「月収12万円でタイに渡ったとして誰もが幸せになれるわけじゃないのでは?」というものです。もちろん、持病を抱えていたり介護しなければならない家族がいたり、といった理由で海外に出ることができない人も大勢いるでしょう。しかし、報道によればこの男性は身寄りもなく一人で生きていたようですし、海外渡航が制限されるような持病を持っていたわけでもないようです。

 では、健康で日本に居続けなければならない理由が特にない場合、誰もがタイで生きていくことができるのでしょうか。私はこの問いに対して条件付きで「イエス」と答えたいと思います。

 条件付きというのは、ぜいたくしなければ、つまり「倹約」すれば、というものです。タイだけではありませんが日本よりも物価が安い国にせっかく旅行しているのに、外国人が泊まるホテルを利用し、外国人用のレストランばかりに行く人が少なくなく、これは短期旅行であればいいでしょうが、長期で過ごすにはもったいないと言わざるを得ません。つまり、現地の人たちと同じような生活をすれば滞在費は半分どころではなく、5分の1から10分の1くらいに減らすことができます。

 この私の考えには反対意見が多いでしょう。ロングステイを考えている人が読む雑誌やウェブサイトには、長期滞在するにはある程度のお金が必要(つまり貧乏人はロングステイできない)といったことが書かれています。海外移住に詳しいある作家によれば、「日本人が現地の料理で生活することは絶対にできない」そうです。

 太融寺町谷口医院では、海外渡航する人、あるいは海外から帰国した人の健康の悩みをしばしば聞きます。ときどき驚かされるのが、例えばジャカルタやバンコクに数年間駐在していたという人が一度も屋台でご飯を食べたことがない、ということです。なかには会社から「現地滞在中は現地人が行くような食堂には行かないこと」と言われているという人もいます。

 たしかに現地の人が利用する食堂や屋台では食中毒のリスクがありますから、会社としては大切な社員をそのようなリスクに晒すわけにはいかないのでしょう(注1)。これは各企業の考え方ですから私がどうのこうの文句を言う立場にはありません。

 しかし、生活費を低く抑えたいという観点からみれば、現地の人たちと同じご飯を食べればいいのです。タイでは最近少し物価が上がり、また円安の影響で以前ほど安くなくなりましたが、それでも一食あたり100円程度で外食(といっても屋台ですが)ができます。しかも、そういうところの料理の方が美味しいこともよくあるのです。ちなみに私がタイに渡航するときは、だいたい現地の人と行動を共にしているという理由もありますが、外国人が利用するようなレストランにはめったに行きません。
 
 食事だけではありません。我々日本人が当たり前と思っているホットシャワーもアジアの田舎に行けば贅沢品です。というより、シャワー自体が高級品です。おけに貯めた雨水を洗面器を使って頭と身体を洗うのがタイの田舎では一般的です。トイレで用を足すときはもちろん紙など使わずお尻は手で拭きます。石鹸は贅沢品で日常的には使いません。衣服など局所を隠せればそれでいいと考えればほとんどお金がかかりません。ただし、誤解のないように言っておくと、アジアでは貧しい地域に行ってもそれなりの美学があり、特に女性はお金はさほどかけていないもののファッショナブルな衣服に身をまとっています。

 ここで私が以前北タイで知り合った日本人男性を紹介したいと思います。その男性は30代前半に日本での仕事をやめいくらかの貯金を持ってタイに渡航、貯金が尽きかけた頃に現地の女性と恋に落ち結婚することになりました。奥さんの紹介で小さな旅行会社に仕事を見つけることができたそうです。しかし月給は1万バーツ、日本円で3万円ほどです。ただし、タイでは大卒の初任給がそれくらいですらタイ人の感覚からいえば悪い給料ではありません(注2)。

 この男性は、生活はもちろんラクではないし、日本人の観光客が行くようなレストランには到底行けないと言いますが、さほど苦痛ではないと言います。その男性と一緒に食べた屋台のパッカパオ・ムー(豚挽肉の野菜炒めをご飯にかけて食べるタイ料理)がすごく美味しくて私はそれ以来この料理の虜になっています。ちなみに値段は50円程度でした。

 タイでは屋台で料理を注文してもこのような値段ですし、市場で野菜や果物を買うとあまりにも安い値段に驚かされます。市場の値段はバンコクでもさほど変わりません。日本でマンゴーは高級品ですが、タイでは子供が気軽に食べているおやつです。

 スイーツはどうでしょう。私はバンコクを訪問したとき、時間があれば立ち寄るケーキ屋があり、そこでバタークリームのケーキを買います。これは理解されない人の方が多いと思いますが、現在の私は生クリームよりもバタークリームの方が好きなのです。私が小学生の頃はケーキといえばバタークリームが普通でした。私が生まれて初めて生クリームのケーキを食べたのは小学校6年生のとき、お金持ちの友達の誕生日パーティに行ったときです。生クリームを初めて口にしたあの衝撃・・・。あまりの美味しさに言葉をなくした程です。それ以来私の舌はバタークリームを拒絶するようになりました。

 しかし不思議なものでそれから20年以上たってから妙にバタークリームが恋しくなりだしたのです。けれども、現代の日本にバタークリームのケーキなどすでに存在しません。諦めかけていたそんなときにふと立ち寄ったのがバンコク郊外のケーキ屋だったのです。けばけばしい色をしたバタークリームのケーキが1つなんと7バーツ(20~30円程度)です。およそ四半世紀ぶりに口にしたバタークリームは、美味い!というよりは懐かしい!でした。今も私は生クリームも好きですが、好んで食べたいのはバタークリームです。

 話を戻します。北タイで私が知り合った日本人男性は月給3万円(1万バーツ)で幸せな生活をしていました。年金で幸せになった高齢男性と比べて収入は4分の1程度でしょう。タイ人と比較するとこの年金男性は大卒の初任給の4倍もの月収があるのです。

 貧乏人は海外にロングステイできないという人たちに私は堂々と反論したいと思います。海外滞在に向いているのは、高い円を持って行って贅沢をしたいと考えている金持ちだけではないのです。倹約の精神をもってすれば衣・食・住に必要なお金は随分と少なくて済むのです。

 ただし、私は日本でも倹約の精神を遵守すれば月12万円もあれば生活できると思うのですが、これは甘い考えでしょうか。タイのように新鮮な野菜や果物を安く入手することはできないでしょうが、12万円もあれば風呂なしの安いアパートを利用すれば食べていけると思うのですがどうなのでしょう。少なくとも私が大学生の頃は、これよりも少ない収入でやりくりしていましたが(というかやりくりするしかなかったのですが)、自殺した男性はどのように考えていたのでしょうか。

 お金に困らない秘訣の1つめは前回述べたように「年金」で、引退後働かなくても生涯にわたり受け取ることのできる年金というものは大変貴重です。ちなみに私は医学生時代に貧困からどうしても年金を払えなかった期間があり、そのため将来の受給額が少なくなってしまいました。今思えば借金をしてでも払っておけばよかったと後悔しています。

 そして秘訣の2つめが今回述べた「倹約」です。倹約はお金持ちの家庭に育った人にはむつかしいかもしれません。おそらく、先に紹介した私が小学6年生のときの金持ちの友達は今もケーキは生クリームしか食べられないでしょう。そういう意味では、私のように貧しい家庭で育った者の方が倹約するには有利であり、これは”自慢話”になるのかもしれません。

 次回はお金に困らない生き方の秘訣の3つめと4つめについて述べたいと思います。

注1:たとえばA型肝炎はアジアでは多くの人が幼少児に感染しすでに抗体を持っているために屋台のものを食べても平気です。一方、日本人はワクチンを接種していなければ抗体を持っている人はほとんどいません。ただし、日本でもまだ衛生的でなかった時代に子供時代を過ごした世代、具体的には現在60代以上の人であれば抗体を持っている人も大勢います。

注2:タイでは物価上昇の影響で現在の大卒の初任給は12,000バーツといわれています。円安もあるために日本円でいえば42,000円程度になり、本文で述べた時代と比べると少し生活しにくいといえるかもしれません。しかし、初任給が42,000円の社会で年金受給額が12万円あればやっていけないはずがありません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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