メディカルエッセイ

108 医師がストレスを減らすために(後編) 2012/1/20

太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)が他のプライマリケアのクリニックと異なる点のひとつに、働いている患者さんが多い、ということが挙げられます。農村や郊外にあるクリニック(診療所)では、患者さんの大半が高齢者であるのが普通であり、年齢だけでなく、かかっている病気の種類も随分と異なります。

 高齢者の多いクリニックでは、高血圧、腰痛、骨粗鬆症、悪性腫瘍、などの疾患が多いのに対し、谷口医院の場合は、高血圧や高脂血症、糖尿病といった生活習慣病や上気道炎や感染性胃腸炎といった”かぜ”は若い世代にも多く共通していますが、花粉症や喘息といったアレルギー疾患、ニキビやアトピー性皮膚炎といった皮膚のトラブル、HIVなどの感染症、などは比較的若い世代に多いという特徴があります。

 そして見逃せない症状・疾患として、不眠、不安、抑うつなどの精神症状があります。もちろん、高齢者の多いクリニックでもこうした精神疾患は珍しくありませんが、谷口医院の患者さんの大半は、「働いていることや職場の環境が原因もしくは増悪因子になっている」という特徴があります。実際、出向や転職によって症状が改善(もしくは増悪)した、ということは珍しくありません。

 前回は、医師は長時間労働を強いられ、患者さんから誤解されることが多く、それが耐えられないほどのストレスになる、という話をしました。職場で多大なるストレスを受ける、という意味では、医師も、谷口医院に通院している患者さんも同じようにみえますが、私はあるときから「医師と他の職業ではストレスの種類が違う」ことに気づきました。

 このことを説明するのに、病院で事務をしている40代のある男性(仮にAさんとしておきます)を紹介したいと思います。(ただし本人が特定されないように若干のアレンジを加えています)

 中規模の病院で事務員として働くAさんは、労働時間そのものはそれほど長くないものの、仕事でのストレスから不眠と抑うつ状態が続いています。薬を飲めば眠ることができますし、抑うつ状態やイライラもある程度は薬で改善します。夏休みにはまったく症状がでない、と言いますから、このことからもAさんの精神症状の原因(もしくは増悪因子)が職場にあるのは間違いありません。

 ではAさんはなぜ職場からそれほど強いストレスを受けているのか、というと、「誰からも感謝されないことがつらい・・・」と言います。これはどういうことなのでしょうか。

 Aさんは仕事上「事務長」という立場にいます。事務長というと聞こえはいいのですが、実際は「クレーム係」だそうです。病院中のクレームをひとりで引き受けていると言います。

 患者さんからのクレームは、「それはもっともだ!」と感じるものから、言いがかりにしか思えないようなものまで様々だそうです。しかし、Aさんが辛い立場にいるのは患者さんからのクレームを聞くからだけではありません。そのクレームを医師や看護師に伝えたときに、医師や看護師からも怒鳴られることがある、そうなのです。例えば、「ある患者さんから、先生の説明は難しすぎて分からないし、ひどいことを言われた、という意見がありましたが・・」とある医師に伝えたとき、「こっちは説明すべきことはきちんとしている。そんなクレームそっち(事務)でなんとかしろ!」と逆ギレされたそうです。要するに、Aさんは患者さんからのみならず医療従事者からもクレームをつけられることが日常茶飯事なのです。また、医師からは、事務職が定時に帰り残業時間が少ないことからラクな仕事と思われていることも辛い、とAさんは言います。

 Aさんが感じていることはもっともなことでしょう。人が気持ちよく働けるのは、「自分が他人の(もしくは社会の)役に立っている」と感じることができるときです。役に立っている、という感覚がなければ高い給料を支給されたとしても心底満足することはできないのが人間というものです。

 Aさんは自分の存在価値が分からないといいます。「自分探し」をするような年齢ではありませんが、今のままの自分でいいのだろうか・・・、何のために生きているのだろうか・・・、などと考えることもあると言います。仕事にやりがいが見つからないなら趣味に生きようと考え、料理や英会話、ヨガなどの教室に通ったこともあるそうですが、それなりに楽しいものの心を満たしてくれるわけではなかったと言います。「やっぱり仕事でやりがいを感じたいんです!」 私にはAさんのその言葉が大変印象に残っています。

 もうひとり、20代半ばの女性の患者さん(Bさんとしておきます)を紹介したいと思います。Bさんは関西では有名な私大の経済学部を卒業し大学院の修士課程も修了しています。学生の頃はシンクタンクや大手金融機関への就職を考えていましたがうまくいきませんでした。いくら履歴書を送っても面接にすらたどりつけないことも多く、いつしかBさんは不眠に悩まされるようになり私の元を受診するようになりました。睡眠薬で眠れるようにはなったものの仕事を見つけなければ食べていけません。そこでBさんは一時的な”つなぎ”として、ファストフード店のアルバイトを始めました。なんで大学院まで出てファストフードのアルバイト・・・と当初は感じていましたが、元々がんばりやのBさんは半年後には「社員」へと昇進したそうです。何年働いてもアルバイトのままの若者が多いなかでBさんは異例の出世をしたといってもいいでしょう。

 ところがBさんの気分はすぐれないままです。Bさんは言いました。「あんな仕事あたしじゃなくてもできるんです。マニュアルにそってやるだけなんですから・・・」

 AさんとBさんの仕事の悩みの共通点は「自分が必要とされていると感じることができない」というものです。おそらく二人とも今よりも給料が上がったとしても精神的に満たされることはないでしょう。もちろん、仕事をしたくても就職が決まらない人たちからみれば二人の悩みは贅沢なものにうつるに違いありません。そしてそれはもっともな意見であり、仕事のない人からみれば、仕事のやりがいなどで悩めること自体が幸せなことでしょう。

 さて、こういった点から医師という仕事を考えてみたいと思います。例えば普通に外来を一日していれば、患者さんから「ありがとうございました」という言葉を何十回と聞くことになります。「ありがとうございました」という言葉は、ファストフードのレジをしていても、レストランのウエイトレスをしていても聞くでしょうが、医師が患者さんから聞く「ありがとうございました」は質が異なるものであることが多いのです。

 なぜなら、患者さんは他人には気軽に言えないような症状を医師に伝え(ときには家族にさえ言えないような悩みも話されます)、医師は全力でその悩みに応えようとします。治療により病気が治れば(実際には医師の治療でなく患者さんの自然治癒力で治っていることも多いのですが)患者さんは喜びます。そして(おそらく)心の底から「ありがとうございます」と言ってくれます。もちろんすべてのケースで上手くいくわけではなく、医師のなかには「上手くいかなかった(治療をしたけどよくならなかった)症例を経験する辛さが上手くいったときの喜びを打ち消す」と感じている者もいるでしょう。

 しかし、医師という職業は、他の多くの職業に比べ、他者(患者さん)の最も関心の強いことがら(病気)に関与し、それを解決するという仕事(治療)は責任のある仕事であると同時にたいへんやりがいのあるものです。そして、必ずしも解決するわけではないにせよ、治療が奏功すれば、患者さんから心の底からの感謝の言葉を聞くことができます。これほど幸せな仕事があるでしょうか。私自身も医師という仕事から強いストレスに押しつぶされそうになることがときどきありますが、そんなときは患者さんからかけてもらった「ありがとうございます」という言葉を思い出すようにしています。ときには患者さんからいただいた手紙やメールを読み返すこともあります。これが医師のパワーの源となり、強いストレスに打ち勝つ最善の方法ではないかというのが私の考えです。

 けれども、日々の臨床のなかでは、患者さんがこちらを見て丁寧に頭を下げ感謝の気持ちを述べてくれているのに、私の指は電子カルテのキーボード、目は画面を見たままで社交辞令のように「お大事に・・・」と言っているだけのときもあります。待ち時間が長い中で次の患者さんを1秒でも早く診察するため、というのは言い訳に過ぎません。

 このような行為は失礼極まりないものであることを、今このコラムを書きながら反省しています・・・。