メディカルエッセイ

第84回(2010年1月) 本能としての正義感

 先日、高校のミニ同窓会でのこと・・・。

 高校卒業後、警察官になったK君と席が隣り合わせになった私は、興味本位で警察の内部のことを尋ねてみました。というのも、週刊誌やテレビドラマで警察内部の実情が紹介されるとき、警察の不祥事や暴力団との癒着などが浮き彫りにされることがあるからです。私は、正義を貫くことをミッションとしている警察官が、そのミッションとは逆に反社会的な行動をするようなことがあるのかどうか、本当のところを知りたかったのです。同級生のK君なら本当のことを話してくれるに違いありません。

 K君によると、「すべてを知っているわけではないが、そんなこと(不祥事など)はありえない。警察官は常に自身の正義感に基づいて任務を遂行している」と言います。「正義感をなくせば人間はおしまいだ」と強く訴えるK君に私は共感を覚えました。

 なぜ共感したかというと、私は年を追うごとに「正義」というものを意識するようになってきているからです。私のいう「正義」とは、警察官が日々考えているような「悪を社会から失くす正義」といった大きなものではなく、日常生活の中で、ちょっとした不公平が許せなかったり、ずるいことをする人間を非難したくなったりするような正義です。

 飲み会の席で「正義」について熱く語ったのは私にとっては初めてで、K君との会話は大いに盛り上がりました。

 そして、あることに気づきました。

 K君と私は高校生のとき、一度クラスが一緒になったことがあるのですが、お互いテストになると憂鬱な気分になり、よく愚痴をこぼしていました。テストのときは名簿順に座りますから、K君と私はいつも席が隣で、「なんとかカンニングをする方法がないか」ということを半ば冗談半ば本気でよく話し合っていたのです。

 そんなK君と私が、それから20年以上の月日を経て「正義」について熱く語り合っているのです! このことに気づいたK君と私は高校生時代を思い出して笑ってしまいました。

 さて、K君が言うように「正義感をなくせば人間はおしまいだ」ということに賛同する人はどれくらいいるでしょうか。

 私自身のことを言えば、おそらく20代半ばくらいまでは、「ふん! 何が正義だ。正義なんて言葉を口にする人間は偽善者に決まっている!」と考えていました。ところが、その後次第に正義を当然のことと感じるようになったというか、正義でないこと、例えば不公平や不正に対して強い嫌悪感を抱くようになってきたのです。これは、私が医師という職業を選んだことと無関係ではないでしょうが、それだけではないように思います。

 たしかに私は医学部に入学し、知人から医療現場での不満を聞くにつれて、医療現場ではどのような患者さんであれ平等に医療を受けられなければならない、と考えるようになりましたし、タイのエイズの実情を目の当たりにし、エイズという病が原因で、社会から家族から、そして医療機関からも差別を受けている人を救わなければならないと考えました。そして、それらが太融寺町谷口医院やNPO法人GINA(ジーナ)のミッション・ステイトメントの原点になっています。

 しかし、私が「正義」にこだわるのは、このような個人的体験だけでなく、もっと本質的なものがあるように感じていました。というのも、正義を貫くことには、何か”感動”のようなものがあるからです。例えば、身近なところに何らかの不公平があり、それを自分自身で指摘し改善するような行動をとったときに”感動”のような感覚がありますが、これは自己満足と言われるかもしれません。けれども、例えば、映画やテレビドラマで、主人公が様々な嫌がらせや脅迫を乗り越えて正義感を貫く姿にはほとんどの人が感動するのではないでしょうか。

 つまるところ、「正義」とは本来は誰もが持っている言わば”本能”のようなものではないか、と感じることが私にはあったのです。そして、最近この私の感覚を裏付けるような研究が発表されました。

 玉川大学脳科学研究所の春野雅彦研究員が、脳の中に不公平を嫌がるときに盛んに活動する部位があることを突き止めたのです。これは科学誌『Nature Neuroscience』のオンライン版2009年12月20日号で発表されています。(注)

 この研究では、まず男女64人に報酬金の分け方について好みを調べています。自分と相手がもらう金額の差が小さくなるのを好む25人と、そうでない14人を選抜しています。そしてこの39人に自分と相手の報酬金の差を36パターン示し、その際の脳の活動をfMRI(
機能的磁気共鳴画像装置)で観察しています。

 その結果、自分と相手がもらう金額の差が小さくなるのを好む人は、金額の差が大きいほど扁桃体と呼ばれる情動に関連する脳の部分が活発に活動することが分かりました。また扁桃体の活動の様子に応じて、不公平をどの程度嫌がるかも予測できたそうです。

 扁桃体は、脳の大脳辺縁系と呼ばれる部分の一部にあたります。一般的には、「原始的な脳」と言われ、基本的な怒りや恐怖など、生物にとって原始的な情動に関連していると言われています。「原始的な脳」に対して、ヒトに発達している理性などをつかさどる「高次な脳」は大脳皮質に存在します。大脳皮質が高度な思考や理性を司っているというわけです。

 一見すると、「正義」「公正」「平等」などは、高次な理性によって処理されている、すなわち大脳皮質に関係していると思われがちです。ところが、この研究では、こういったものは扁桃体に関係している、要するに原始的な情動のひとつである可能性を指摘しているわけです。

 何らかの不正を発見したとき、ずるいことをしている輩をみたときに、我々は瞬時に「許せない」という感覚を覚えます。これは自分自身が得をするか損をするかといったものとは別の次元での感覚です。そして、自分自身の損得とは関係なく、平等、公平、正義などが感じられるときに我々は安堵感を覚えるのではないでしょうか。

 私は、こういった平等、公平、正義などを絶対正しいと思う感覚は、人間の本能であると感じています。こういった感覚が本能であり、上に述べた研究が示すように原始的な脳が司っているとすれば、人間以外の動物にも認められることになりますが、最近の動物行動学の研究でも動物の様々な「利他的な行動」が報告されています。

 よく「良心の呵責に耐えられなくて・・・」と言って罪を告白したり懺悔を考えたりする人がいますが、これも本能に逆らえないからではないでしょうか。

 よく「本能」というと、食欲、性欲、自己顕示欲などが取り上げられますが、正義、公平、平等などを求める欲求も本能のひとつと捉えるべきではないか、と私は考えています。そして、こういった欲求に逆らうような、要するに正義、公平、平等などに反するような行動をとれば、本能に逆らうこととなりいずれ精神の破綻をきたすのではないかとも感じています。

 そう考えると、私のように年をとってから正義を強く意識するようになった人間というのは、これまでの人生でさんざん正義に反する行動をとっていたために、それを埋め合わせたいという欲求が強いということなのかもしれません。

注:上記論文のタイトルは「Activity in the amygdala elicited by unfair divisions predicts social value orientation」です。
http://www.nature.com/neuro/journal/v13/n2/full/nn.2468.html