メディカルエッセイ
74 レセプト電子化をめぐる論争 2009/3/23
「レセプト」という言葉は一般的には馴染みがないと思われますが、現在この「レセプトの電子化」をめぐって医療界では大変な論争が起こっています。一部には医師らが原告団を結成し国を訴えるところまで発展していますし、レセプト電子化に反対する医療関係団体を非難する日経新聞の社説が物議をかもし、日本医師会が記者会見で反論する事態にまで進展しました。
話を整理していきましょう。まずは「レセプト」とは何か、からです。
このウェブサイトでも何度かレセプトについては取り上げましたが、レセプトとは分かりやすく言えば、医療機関が患者ごとにどんな治療をしたかをまとめた診療明細書のことです。医療機関はこのレセプトを毎月「支払基金」という公的機関に提出します。支払基金は、レセプトを1枚1枚確認し、記入ミスがないかどうかとか、不正請求になっていないかなどをチェックします。問題がなければ、そのレセプトに書かれた保険点数に基づいて支払基金が医療機関に診療費(の7割)を支払うことになります。3割は受診時に患者さんが医療機関にすでに支払っています。
要するに、医療機関側からみれば、レセプトとは支払基金に対する請求書のようなものです。
医療界でもIT化を促進するために、このレセプトを完全電子化するよう討議がなされており、2011年度からは完全電子化が決まっています。「完全電子化」とは、医療機関は必ずレセプトの提出をオンラインでしなければならない、というものです。昔はどこの医療機関もレセプトは「紙」だったわけですが、もう紙のレセプトは受け付けられなくなることを意味します。
さて、いったん2011年度からはレセプトの提出をオンラインでおこなわねばならないということが閣議決定されていたわけですが、医療関係者から次々に反対意見があがり、2月27日の自民党医療委員会でオンライン義務化に対する反対意見が相次ぎ、「完全電子化」から「原則電子化」になる見込みがでてきました。「原則電子化」とは、「原則としてオンライン請求しなければならないけれども例外も認めよう」とするものです。
この「完全電子化」から「原則電子化」に軟化しそうな状況を受けて、3月9日、日本経済新聞の社説は「レセプト完全電子化を撤退させるな」というタイトルで、閣議決定どおり完全電子化しなければならない、という旨の論調を発表しました。
日経新聞の主張をまとめると、以下のようになります。
・医療界ではIT化がさほど進んでおらず、2008年12月時点でのオンライン請求の割合は、病院では57%だが、診療所は4%にすぎない。歯科の請求にいたっては、いまだにすべて紙のレセプトに頼っている。
・オンライン請求義務化は、請求事務の効率化や人件費の圧縮を通じ、国民医療費の増大を抑えるのに役立つ。
・医療機関が診療報酬を請求する過程が健保組合や患者本人にガラス張りになり、過大請求や不正請求があった場合には即座に見抜けるようになる。
たしかに、オンライン請求が義務化されれば、コンピュータがレセプトの誤りや過大請求、不正請求などを判別できるようになり、請求事務の効率化や人件費の圧縮が実現されるようになると思われます。現在は、紙のレセプトに対して、審査員がレセプトの誤りがないかどうかを1枚1枚チェックしています。
きちんとした数字はみたことがありませんが、日本全国の医療機関から集まるレセプトの合計は毎月数千万枚になるでしょう。この1枚1枚を人間がチェックしているわけですから相当な人件費がかかっているはずです。もしも、この作業をすべてコンピュータがおこなうようになれば、かなりの初期費用がかかったとしても、長期的には大幅に医療費が削減できるはずです。ですから、私個人の意見としても、いずれオンライン義務化は実現しなければならない課題だと思っています。
太融寺町谷口医院では、今月からオンライン請求をおこなっています。これをおこなってみると、実にラクなことが分かりました。技術的にいくつかクリアしなければならない点がありますが、いったんやり方をパターン化してしまえばそうむつかしくはありません。以前だと、紙を打ち出してそれを紐で閉じて提出しに行かなければならなかったのですが、オンライン請求だとこの手間も省けます。コンピュータに詳しいスタッフがいない当院では実施するまでにいくつもの壁がありましたが、実際にやってみると「もっと早く取り組んでいればよかった」というのが正直な感想です。
ですから、オンライン請求というのは、医療機関にとってもメリットがあり、また審査員の人件費が大幅に削減できますから医療費自体がかなり抑制されるはずで、誰からみても優れた請求方法ということになります。(審査に携わっていた人が失業するかもしれないという問題はありますが・・・)
しかしながら、実際の問題として2011年度から完全オンライン請求義務化が現実的かどうかという点については、もう一度検討しなおすべきではないかと私は感じています。
その最大の理由は、オンライン請求をおこなうのにいくらかの設備投資をしなければならないということです。実際、医師会の調査によれば、オンライン請求が義務化されれば、設備面でついていけないという理由で、全体の8.6%もの医療機関が「実施されれば廃業を考える」と答えています。(3月2日の共同通信)
もしも、全医療機関の8.6%が廃業するようなことがあれば、日本の医療は完全に麻痺してしまいます。地域によっては診療所が充分足りているところもあるかもしれませんが、そうでない地域も多いのです。もしも診療所の8.6%がなくなってしまえば、そこに通院していた患者さんが行き場を失います。他のクリニックを受診すればいい、という考えもあるでしょうが、ただでさえ待ち時間の長いクリニックがさらに待ち時間が長くなってしまいます。
8.6%の医療機関の医師が廃業をしても、現在人手不足が深刻化している病院に就職すればいいという考えもあるでしょう。これは理論的にはその通りかもしれませんが、実際には相当むつかしいでしょう。なぜなら、「オンライン請求が義務化されれば廃業する」と答えている医師の多くは高齢の医師であることが予想されるからです。そういった医師たちの全員が、夜勤や当直義務もある病院勤務ができるとは考えにくいのです。
このウェブサイトで何度も繰り返しているように、日本の医療の最大の問題は「医師不足」です。レセプトのオンライン請求が義務化されるようになって、本来なら(他の職種なら)とっくに引退している年齢で頑張っておられる高齢の医師たちが医療をやめてしまえば、現在より深刻な医師不足となってしまいます。
そのあたりを役人や日経新聞の論客はどのように考えているのでしょうか・・・
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