メディカルエッセイ
54 ある薬物中毒者との約束 2007/7/23
以前、私がある病院の救急外来をしていた頃の話です。
深夜に50代の男性が救急車で運ばれてきました。救急隊の話によれば、その男性は二階にある自分のアパートの窓から飛び降りて足を骨折している疑いがあるとのことでした。それを見た通りがかりの人が救急車を要請したそうです。
救急隊は「患者さんとコミュニケーションがとれなくて困っている」と言っていましたが、私はその患者さんの姿をみたときに、覚醒剤中毒者であることがすぐに分かりました。
両手が震えており、こちらの質問には一切答えず、なにやら呪文のようなものをぶつぶつと呟いています。目の診察をすると瞳孔が開いています。
覚醒剤が怖い理由のひとつは、キマったときに必ずしも”いい状態”になるわけではない、ということです。
女子高生らがおこなうことのある「スピード・パーティ」(覚醒剤は以前はシャブと呼ばれていましたが、最近は”スピード”、あるいはその頭文字をとって”エス”と呼ばれることが多いようです)では、みんながホンネで話せるようになりますし、試験前に徹夜をしたり、深夜のドライバーが眠気覚ましに使ったり、あるいはヤセル目的で使うときには、当事者にしてみれば”いい状態”になります。(もちろん、本質的には”いい”ことでは絶対にありません)
しかし、いつも”いい状態”になるわけではなく、”悪い状態(バッド・トリップ)”にはまってしまうこともあります。これは、本人の精神状態があまり良くない状態で覚醒剤がキマったときにおこりがちです。
こうなると、恐怖感や被害妄想が増幅され、ときには自傷行為にいたることもあります。救急車で運ばれてきたこの男性も、「FBIに追跡されているので逃げようとして窓から飛び降りた」と小さな声で話していました。
(医学の教科書には、「統合失調症になると、FBIに追跡されている、と言うことが多い」、と書かれています。たしかに、統合失調症の場合も患者さんはそのように言うことがあるのですが、私の経験で言えば、統合失調症の場合に比べて、覚醒剤中毒者の発言の方が話に整合性があるように思えます)
覚醒剤がキマっていることを確信して尿検査を実施したところ、案の定、メタンフェタミンに陽性反応がでました。レントゲンで骨折はありませんでしたが、この状態で家に帰すわけにはいきません。入院の手続きをおこない、点滴を開始しました。
翌日のことです。その患者さんに覚醒剤の話をしたところ、その患者さんは「お願いだから警察には言わないでほしい」、と私に嘆願してきました。
詳しく話を聞いてみると、その患者さんは、「以前は覚醒剤にどっぷりとつかっていたけれども、ここ数年は手を出していなかった。最近、会社をクビになって自暴自棄になってついつい手をだしてしまった。もう二度と手を出さないから警察には言わないでほしい」と言います。
医師をしていると、覚醒剤中毒者に会う機会は少なくありません。深夜に眠れないと言って救急病院に飛び込んでくる患者さんのなかで覚醒剤中毒者は珍しくありませんし、独特の振る舞いを観察すれば比較的簡単に診断がつきます。
そして、覚醒剤中毒者が”嘘つき”なのは世間の常識です。覚醒剤を買うために家族や知人から金を借りるときにはありとあらゆる嘘をつきますし、いったん依存症になった人が「もう覚醒剤はやめた」という発言は、結果としてそのほとんどが嘘です。
ですから、この患者さんがいくら真剣な顔をして一生懸命に訴えたとしても”二度と手を出さない”という言葉は簡単には信用できません。
しかしながら、この患者さんが覚醒剤を使用していたことを警察には通報すべきなのでしょうか・・・。
医師には守秘義務があります。これは個人情報保護などのレベルの話ではなく、医師には刑法上の守秘義務があるのです。「診療上知りえた情報は決して他言してはいけない」という厳しいルールです。もしも違反をすれば、個人情報保護法ではなく、刑法で裁かれることになります。
しかし、その一方で、公益性を優先するという考えがあってもいいと思われます。この患者さんの覚醒剤使用を警察に通報することにより、治安が維持でき不利益を被る人を未然に防ぐ、という考え方です。実際、もしも、この患者さんが覚醒剤の個人使用だけでなく販売もおこなっていたとすれば、私は躊躇せずに警察に通報したでしょう。
しかし、この患者さんは密造や密売をしているようには思えませんでしたし、”もうやらない”という言葉は結果的には嘘になるとしても、「数年ぶりに手をだした」というのは本当かもしれません。
悩んだ私は、ある法医学の先生を訪ねることにしました。その先生のコメントは次のようなものです。
「例えば、その患者さんが数年前に覚醒剤に手をだしていたけれど現在は完全に断ち切っているような場合は守秘義務を守るべきだろう。しかし、今現在も使用している場合は通報しても守秘義務違反を問われるようなことにはならない。たしかに法学者の間でも意見の分かれる問題ではあるが・・・」
結局、私はその患者さんの「もうやらない」という言葉を信じることにしました。結果として「もうやらない」という言葉が嘘になる、つまり約束を破ることになる可能性が強いのですが、そのときはその言葉を信じることにしたのです。
これは、今になってふりかえってみても「守秘義務を守るべきだと思った」というようなものではなく、なんとかその患者さんに立ち直ってほしかったという気持ちが強かったからだと思います。
その患者さんは、覚醒剤のために、仕事をなくし、家族をなくし、新しい仕事もなくしています。友人にも見放され、信用してくれる人は皆無です。
入院中、娘に会いたいとの希望を話されたために、私は娘さんに連絡をとり一度だけ病院に来てもらったのですが、その娘さんには父親との仲を修復する意思はありませんでした。
「あの人は父親ではありませんからもう二度と連絡をしないでください・・・」
その娘さんは私にそう言って帰っていきました。娘さんが帰った後、その患者さんが私に言いました。
「(覚醒剤は)もうやらない・・・」
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