メディカルエッセイ
第35回(2006年3月) 理想の父
先日、ある病院で夕方に外来をしていたときのことです。最後の患者さんの診察を終え、片付けを始めようとしたところ、突然救急車でひとりの患者さんが搬送されてきました。
その患者さんは14歳の女子、搬送の理由は喘息発作です。これまでも度々同様の発作を起こしているそうです。私は彼女を診察台に寝かせ、聴診器を使って診察をおこないました。幸い症状はそれほどひどくなく、吸入と点滴で改善しそうな状態です。予想通り、点滴を開始してしばらくすると、苦しそうにしていた呼吸状態が落ち着いてきました。
救急隊からの情報によると、この女子、自分で救急車を要請したそうです。14歳の女子がひとりで救急車を呼ぶとはなかなかしっかりしています。しかし、女子の外見が私にはひっかかりました。体格は14歳相応なのですが、服装や髪型、それに外見から醸し出している雰囲気がとても14歳には見えず、幼い感じがするのです。
この幼くみえる女子がひとりで救急車を・・・。
もちろん、人を外見で判断するのはよくないことなのですが、医師という職業上、患者さんの外見というのはいつも気になります。10代の女子で言えば、極端に化粧が濃かったり、あるいは逆にあまりにも不潔な格好をしていたりすれば、社会背景に何か問題があり、そのために身体上の障害が出現しているということが珍しくないのです。
この女子の場合、化粧はまったくしていませんし、不潔にしているわけでもありませんでしたが、全体の雰囲気が普通ではないように見受けられます。
あらためてよく観察してみると、髪は決して不潔というわけではないのですが、あまりまとまっておらず染めてもいません。髪は染めているのがいいというわけではもちろんありませんが、最近は中学生でもヘアダイやヘアブリーチをしていることがごく普通なので、逆に何もしておらず、あまり手入れをしていない黒い髪に違和感を覚えてしまうのです。
服装は、上は色あせたトレーナーで、下は体育の授業で使うようなトレパンです。トレーナーはおそらくもともとは濃い赤色なのですが、何度も洗濯したせいでその赤色がまだらのようになっており、はげかけて薄いピンク色になっている部分もあります。両肘の部分は布地が相当磨り減っています。現代の日本でここまで同じ服を繰り返し着る10代も少ないのではないかと思わずにはいれません。はいているトレパンも、いくら動きやすいからといっても、おしゃれに敏感な14歳の女子が体育の時間以外にはいているというのも普通ではありません。
この女子が幼く見えるのは、あまりにも貧しい衣服を身にまとい、おしゃれとは疎遠であることが原因のようです。
しかし、話してみると、その幼さとは裏腹に、言葉遣いも丁寧で大人びた側面も持ち合わせています。
「苦しくなったらいつも救急車を自分で呼ぶの?」
私の質問に彼女は答えました。
「はい。父がいるときは父に呼んでもらいますが、父と二人暮らしなのでこの時間だと私が自分で救急車を呼ぶんです」
私は自分が14歳のとき、自分の父のことを人に話すときに「父」とは呼んでいなかったことを思い出しました。彼女のように正しい敬語を使うこともできていませんでした。
ボロボロの衣服を身にまとった言葉遣いがしっかりした14歳の女の子……。
こうなると次に気になるのが、この子のお父さんです。医師をしていると、ついつい家族関係を追求したくなることがよくあります。実際、家族関係が良好かそうでないかによって診断や治療に影響がでてくることがあるからです。虐待や近親相姦はその最たる例です。
服装や髪型から想像を膨らませ、家族関係まで詮索してしまう・・・、私は医師になってから随分イヤなやつになってしまったのかもしれません。
そんなことを考えているとき、この子の父親が診察室に飛び込んできました。
「娘は?! 娘は大丈夫ですか!」
血相を変え、息を切らせて必死に娘の安否を気遣うこの父親に、私が「大丈夫ですよ。今は息苦しさもほとんどないはずです」と答えると、診察台で横になっている娘の両肩を抱きかかえ、「大丈夫か、ほんまに大丈夫か!」と何度も自分の娘に返事を促しています。
私や看護師の目の前で父親が大きなリアクションで安否を気遣うものですから、女子は少し恥ずかしそうにしています。
「お父さん、大丈夫やで。いつもよりましやわ。そんなに心配せんといて~な。うち、はずかしいわ」
微笑ましい親子愛といった感じです。
それにしてもこの父親の格好、娘のそれと同じように、いえ、娘よりも私には奇異にうつりました。
髪はボサボサで手入れはまったくしておらず、無精ひげは決して清潔とはいえない状態で、服装は上下とも作業服で相当汚れています。作業服だから汚れていても不思議ではないのですが、この父親の作業服はところどころ破れていて、そのすりきれた布地からかなり使い古されたものであることが伺えます。それに靴には穴が開いています。失礼な言い方ですが、21世紀の日本人の服装とはとうてい思われないような格好なのです。
「娘さんと二人で暮らされているのですか」
私は父親に質問しました。
「はい。そうなんです。この子の母親は今から7年前に病気で亡くなって、それからは私ひとりで育てているんです」
この父親は、以前はある大企業に勤めていたのですが、妻を病気で亡くしてから、娘を育てるためにその会社をやめ、定時で終われる現在の仕事に転職したそうです。給料は半減したそうですが、それよりも娘と一緒にいる時間を大切にしたいと言います。毎朝5時半に起床し、朝食と娘の弁当をつくり、夕食も必ず自分でつくるそうです。娘にはできるだけ家事を手伝わさせずに掃除も洗濯もこの父親がほとんどおこなっているそうです。
娘は言いました。
「父の料理はとってもおいしいんです。お弁当が毎日すごく楽しみなんです」
このときの娘の瞳の美しさに私は小さな感動を覚えました。
喘息発作で度々救急搬送されるということは、現状の喘息の治療が適切でない可能性があります。問診してみると、最近かかりつけの診療所に通っておらず、自己判断で治療を中断しており、発作がおこったときに救急車を呼ぶということを繰り返していることが分かりました。
私はそれが非常に危険であることを話し、明日にでもかかりつけ医を受診するよう指示しました。点滴が終了する頃にはすっかり元気になっており、ふたりは何度も礼を言って仲良く帰っていきました。
大企業を退職し、貧しいなかでたったひとりで娘を育てる……。おそらく私には想像もつかないような苦労をされていることでしょう。この父親は40代半ばくらいですから、その大企業にそのまま勤めていれば、それなりの収入とそれなりの暮らしがあったに違いありません。それらを捨てて娘ひとりに愛情を注いでいるのです。
片親に育てられて非行に走る子もなかにはいますが、この子は非行どころか、家が貧乏であることを恥じることなく、そしてきっと父親を誇りに思っていることでしょう。
すばらしい親子関係が構築できているのは、この父親が世間体や自分のプライドのためにひとりで娘を育てているのではなく、心から無条件の愛情を示しているからに違いありません。
私自身は結婚の経験も、子育ての経験もありませんが、いずれ結婚して子供をもつときがくれば、無条件の愛情を示すこの父親のようになりたいと思いました。
また、私はこれからも、多くの患者さんや、国内外のエイズの患者さんをみていくことになりますが、ひとりひとりに医師としての精一杯の愛情を注いでいきたいと、この父親をみて思うようになりました。大勢の患者さんの役に立つ医師というよりもむしろ、目の前の患者さんに精一杯の愛情を注げる医師、それが私の理想です。
最後に、私の好きな言葉を紹介します。
「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」
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