メディカルエッセイ
17 なぜあの学生は退学にならないのか 2005/6/16
2005年5月に、大阪大学でとんでもない事件が発覚しました。
大阪大学医学部の学生が、「ネイチャー・メディシン」という医学誌に発表した論文のなかで、なんとデータの捏造があったと言うのです。
少し詳しくみてみると、その学生が発表した論文に使われている画像データが複数個所で同じものが使われていることを、研究室の研究員が発見したそうです。直ちにその学生を問いただしたところ、学生は、一部で意図的に画像を改変したことを認めたそうです。また、この学生が国内に発表した論文にもデータが未熟なところがあり、論文の取り下げの申請がおこなわれたそうです。
この学生は、「マウスの実験はきちんとやった」と言い、画像については「いいデータを早く出さなければと思った」と話したそうです。
しかし、「実験はきちんとやった」などというこの学生の言葉をいったい誰が信じることができるでしょうか。
この論文の内容は、肥満に関する遺伝子についての研究結果であり、将来的には肥満の予防あるいは治療に応用できると考えられていたものです。学生は、医学をばかにしているばかりか、他の研究者の信頼もなくしていると言わざるを得ません。
捏造したデータを平気で発表する研究室の信頼も落ちるでしょうし、これでは大阪大学医学部から発表されるすべての論文、さらには他学部の論文、もっと言えば、日本人のすべての論文の信憑性が疑われることになるかもしれません。
この学生のとった行動は、法的にどれくらい裁かれるべきなのか私には分かりませんが、断じて許せるものではありません。捏造したデータを使った論文を平気で発表できるこの学生は、いったい医学というものをどのように考えているのでしょうか。真実を解明することに情熱を燃やし、着実に研究を積み重ねている研究者に対し、この学生はどのように思っているのでしょうか。法的には無罪であったとしても、この行為は、科学に対する「冒とく」であり「侮辱」であり、二度と科学に携わることをさせてはいけない、と私は考えます。
たしかに、人間は誰でも「失敗」することがあります。昨今マスコミで報道されている「医療過誤」にしても、「失敗」から患者さんの生命をなくしたものもあります。それに対して、「人間は誰でも失敗するものだから過失のある医師を許してほしい」というつもりはありません。けれども、過失をした医師とて、患者さんのためになると思うことをしているのです。例えば、患者さんを救おうと思って手術をおこない、結果的にそれが「失敗」となり、法的に過失が認められたというわけです。
それに対し、データ捏造の学生は、明らかに「悪意」があります。この学生の行為で、命を亡くした人はいないでしょうが、「悪意」のある行為を断じて許してはいけない、と私は思います。
それにしても、なぜこの学生は退学にならないのでしょうか。退学にならないどころか、報道では名前さえ公表されていません。この学生は現在医学部の6回生だということですから、来年の今頃は医師免許を所得して、研修医として患者さんの治療をおこなうことになるのでしょう。しかし、こんな医者を誰が信用することができるでしょうか。
この医学生の起こした事件とほとんど同時期に、北海道のある医師が殺人容疑で書類送検されました。この医師は、入院中の患者さん(当時90歳)の人工呼吸器のスイッチを切り死亡させたというのです。この医師がスイッチを切る時点では、この患者さんはすでに意識不明であり、もしもスイッチを切らなかったとしても死亡した可能性が強いとのことです。
報道によりますと、この医師と患者さんの関係は非常に良好で、患者さんの長男の妻は、「まるで親子のように仲が良かった。近所でも評判のいい先生だった。」と発言しているそうです。そして、殺人容疑での書類送検に対して、「こんなことになるなんて…。先生はまだ若いので、先のことが心配です」とつぶやいたとのことです。また、呼吸器のスイッチを切ることについては家族の同意があったと報道されています。
現在の日本では、安楽死に関する法的整備がきちんとなされているとは言い難い状況であり、このようなケースに遭遇することは私にもしばしばあります。法的には、いったん作動させた人工呼吸器を止めることはむつかしいことが予想されますから、患者さんが高齢で、先が長くないと思われるときには、あらかじめ患者さんと家族に、呼吸状態が悪くなったときに人工呼吸器を使うかどうかを確認しておくことが多いと言えます、
おそらく、この医師もそのようなことを考えていたと思います。これは、私の推測ですが、この患者さんは、まだ先が短いという状態ではなく、呼吸器の説明をするタイミングになかったのではないかと思われます。ところが、何らかの理由で、突然呼吸困難に陥り、緊急的に気管内挿管をおこない、人工呼吸器を接続する事態になったのではないかと思われます。高齢者は、例えば、誤嚥などによって突然呼吸不全に陥ることもあり、それはこの医師も予想していたのでしょうが、患者さんと「親子のように仲がよかった」こともあり、急変したときの対応について、本人や家族にそういった話をするタイミングが結果的には遅くなったのではないでしょうか。
安楽死や尊厳死といった問題は、また改めて述べたいと思いますが、こういった問題は、単に法律を制定すれば解決するといった問題ではありません。「死」とは、法律で決められるものではなく、それぞれ個人が決めるべきものだと思うからです。
この医師が殺人容疑で書類送検されたのに対して、データを捏造した医学生は名前の公表がなされないばかりか、1年後には医師として患者さんと接することになります。このふたりのうち、どちらが患者さんの立場にたった医師と言えるでしょうか。答えは自明でしょう。私が患者ならこの書類送検された医師を信頼します。
法律というものは、本当の意味でものごとを正しく判断できない、というのが私の持論です。本当の意味での罪の重さと、法律で裁かれる罪の重さは必ずしも相関していないように感じることがよくあります。
例えば、「殺人」という罪を考えたときに、自分の低次元な欲求を満たすために少女を誘拐し殺害した未成年者は数年間の刑期を終了すれば社会に復帰します。これに対し、ヤクザが自分の親分の仇をとるために、抗争相手のヤクザを殺害すれば、ヤクザという理由だけで一般人よりも長い刑期を命じられるのが普通です。これら2つの例では、本当の意味でどちらが重い罪を受けるべきでしょうか。
もうひとつ例を挙げましょう。大阪市では、スーツの支給を始め様々な手当てを市役所の職員に供給していたことが発覚し、税金を不当に使用していることが明らかになりました。これは職業倫理上許されないことですが、誰も職を失っていません。
数年前に、中部地方のある警察官が、裏ビデオ所持で逮捕された犯人の所有していたビデオを自宅に持ち帰り懲戒免職になったという事件がありました。
市民の税金を不当に使っていた大阪市の職員と、ビデオを自宅に持ち帰った警察官のどちらが懲戒免職になるべきでしょうか。
私個人の考え方ですが、法律に従って生活することが正しく生きることではないと思います。私の基準は、「法律」ではなく、「良心」や「情熱」「人情」といったものです。アウトロー的な言い方をすれば、「法律」ではなく「掟」に従うべきということです。
「掟」に照らして考えれば、データ捏造は絶対に許せる行為ではありません。多くの医師や研究者、それに間接的には患者さんをも裏切る行為になるからです。これに対し、日頃から仲がよかった患者さんの人工呼吸器のスイッチを家族の同意を得た上で切る行為は「法律」には反しているとしても、「掟」の基準では許されるのです。
私は『偏差値40からの医学部再受験』で、医学生のカンニングを激しく非難していますが、これも「掟」を踏みにじる行動だからです。
どのような仕事についても、自分なりの「掟」をもっていれば道を踏み外すことがなくなるのではないでしょうか。仕事だけではありません。あらゆる行為、あらゆる人間関係に「掟」を適用すれば、変わらざる真理と価値観に従い、正しく生きていけるということを私は確信しています。
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