メディカルエッセイ
第178回(2017年11月) 論文を持参すると医師に嫌われるのはなぜか
「インターネットをみてこういう治療を考えているんですけど…」、と言って受診する人が次第に増えています。一昔前までは、「テレビのパーソナリティが言ってたから」、の方が多かったのですが、最近は、「ネットに書いてあったから」が上回ります。大阪では、かつては「近所のおばちゃんが言ってたから」、というのが頻繁にありましたが、最近は大阪でも「近所のおばちゃん」はネットに負けています。
この手の話を医師どうしでしたときに、こういう患者さんを否定的にみる意見が多くでます。初めから特定の考えに凝り固まっていると、それをニュートラルな状態に戻すのに時間がかかるからです。ときには、これはマインドコントロールを解くようなものかもしれない、と感じることもあります。
そんな「〇〇を見て聞いて…」のなかで、おそらく医師が最も嫌がるのが「論文に書いてあった」というもので、その論文(多くは英語)を持参する患者さんもときどきいます。後述するように、私自身はこういう患者さんがどちらかというとイヤではなく、むしろ好感を持ってしまうことが多いのですが、勘弁してほしい…、と感じる医師は大勢います。今回は、なぜそのような患者さんが嫌がられるのかを解説したいと思います。まず、実際にあった症例を紹介します。(ただし、本人特定ができないように細部に変更を加えています)
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【症例】50代男性 A氏 商社勤務
胃炎があり、近くのXクリニックで胃薬のプロトンポンプ阻害薬(以下「PPI」)を処方してもらい半年になります。ネット上でたまたま見つけたブログにPPIが脳梗塞のリスクになるという話が書いてあり、そこから原著の論文にまでたどりつきました。イギリス駐在経験もあるA氏は英語の論文を読むことにそう抵抗はありません。1週間かけてすべて読み込み9割以上は理解しました。
やはり、PPIは脳梗塞のリスクになると確信したAさんはその論文を印刷しXクリニックに持参しX医師に話をしました。すると、医師の対応はつれないもので、その論文を読もうともしません…。
X医師:「そういう意見もあるという程度です。気にする必要はありません」
Aさん:「でもこの論文にこう書いてあるんですよ。先生はこの論文を読まれたのですか」
X医師:「読む必要があるとは考えていません。そんなに飲みたくないらやめますか」
Aさん:「なぜ読む必要がないと言い切れるんですか! もういいです!!」
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X医師といわば喧嘩別れしたAさんは、翌週、職場の近くの太融寺町谷口医院にやってきました。私は、Aさんに「あなたの疑問はもっともだと思います」と答えながら、一方ではX医師の気持ちもよく分かりました。その理由を述べます。
まず、Aさんが持参した論文が掲載されている医学誌は、一流のものではなく、比較的小規模の研究や症例報告でも採用されるものです。もちろん、そういった論文にもすぐれたものは多数あるのですが、その論文を金科玉条のように考えているAさんにX医師は抵抗を持ってしまったのでしょう。
次にこの研究は「後ろ向き研究」でした。つまり、脳梗塞を起こした人のいくらかが過去にPPIを飲んでいることを報告したものだったのです。統計学的に「後ろ向き研究」はエビデンスレベル(科学的確証度)が高くありません(注1)。Aさんによると、X医師はAさんが持参したその論文に見向きもしなかったということですが、もしかすると最初のページの「概要」の部分にはさっと目を通し、それが後ろ向き研究であることに気付いたのかもしれません。
その一方、私はAさんの気持ちもよく分かります。私にも同じような経験があるからです。医学部の1回生の頃、英語の論文をまだ読み慣れていない私はひとつの論文を最後まで読むのにそれなりに苦労しました。読み終えると充実感が得られ、そこに書いてあることが”絶対的な真実”のように思えるのです。おそらく、せっかく頑張って読んだのだから価値のある論文に違いない、と思いたくなるのでしょう。
ですが、医学をきちんと学ぶとこの「危険性」が理解できるようになります。一般の方の希望を壊すようですが、論文をいくら拾い読みしても医学に精通することはできません。知識レベルで医師と対等になることはほとんど不可能というのが私の意見です。よく「医師と患者は対等に」と言われ、そこから「患者様」と呼べ、という意見もありますが、私は反対です。医師がエラそうにするのはもちろんNGですが、対等になることは無理です。
医学部に入学しなければ医師と対等になれない、とまでは言いません。ですが、少なくとも教科書を理解していない人がいくら論文を読んでも、まず100%正確には読めないでしょうし、その論文が医学全体のなかでどのような位置づけで、エビデンスレベルはどの程度なのかということは理解できないのです。
我々医師は最新の医学情報に追いついていかねばなりませんから日々の勉強は欠かせません。ほとんどの医師は、複数の一流の医学誌(もちろんすべて英語です)の目次程度には定期的に目を通しています。ですが、それだけでは医師として失格です。なぜなら、教科書の内容にもキャッチアップしていかねばならず、むしろこちらの方が重要だからです。
もちろん私自身も複数の教科書を定期的に読むようにしています。私の場合、内科領域で言えば『Harrison’s Principles of Internal Medicine』(以下「ハリソン」)という世界的に有名な教科書の19th editionを読んでいます。これはかなり高価なもので学生の頃は買えず私は図書館で読んでいました。現在私が読んでいるのはKindle版で割安ですがそれでも24,000円もします。
教科書は最重要なのですが、臨床には直接役に立たないことが多々あります。実際に患者さんの診察をおこなうにはもっと臨床に即したテキストが必要です。私が高頻度に用いているのは『UpToDate』というオンライン上のテキストです。これは文字通り最新の知識、それもエビデンスレベルの高い知識が効率的に得られます。価格は3年間で1,200ドル(約15万円)もしますが、内容を考えるとまったく高くありません。
私の場合、複数の教科書と『UpToDate』を基本とした上で、日々発表される新しい論文を読んでいます。そして、どのような論文にも同じ価値があるとはみなしておらず、一流の医学誌(注2)に掲載されているものを優先して読みます。
一般の人は、おそらく24,000円も出して「ハリソン」を買おうと思わないでしょうし、またたとえ入手したとしてもスラスラ読めるものではありません。読みこなそうと思えば、基礎的な解剖学や生理学、生化学の知識が必要であり、それらから勉強してみようとは考えないでしょう。15万円も出して『UpToDate』にアクセスしようと思う人もいないでしょう。
では、一般の人は、正確で新しい医学情報にアクセスできないのかというとそういうわけではありません。例えば、健康食品やサプリメントでいえば国立健康・栄養研究所が作成している「「健康食品」の安全性・有効性情報」というページは有用なサイトです。また、「コクラン(Cochrane)」というエビデンスレベルの高い医療情報を集めたサイトは分かりやすく私は患者さんにしばしば推薦しています。これらを読みこなせば、ある程度正確で偏りのない知識が得られると思います。
ですが、限界があります。やはり一番いいのは、「かかりつけ医から学ぶ」という姿勢です。偉そうに言うな、と反発する人もいるかもしれませんが、目の前の患者さんに正確で最新の医療情報を提供するのはかかりつけ医の使命なのです。最後に、日本医師会が定めている「かかりつけ医の定義」を紹介しておきます。
「なんでも相談できる上、最新の医療情報を熟知して、必要な時には専門医、専門医療機関を紹介でき、身近で頼りになる地域医療、保健、福祉を担う総合的な能力を有する医師」
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注1:後ろ向き研究に対し「前向き研究」と呼ばれるものがあります。PPIと脳梗塞を例にとるなら、ある時点で2つのグループに分けて、一方にはPPIを、もう一方には偽薬を飲んでもらい、それぞれのグループが脳梗塞をどの程度起こすか観察する方法です。この方法だと信頼度がぐっと上がります。
注2:誰もが認める一流の医学誌となると、『British Medical Journal』、『New England Journal of Medicine』、『The Lancet』、『Journal of the American Medical Association』、『Annals of Internal Medicine』あたりが挙げられると思います。
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