メディカルエッセイ

第176回(2017年9月) 臍帯血移植の罪と医師の掟

 私はほとんどテレビを見ないこともあり、恥ずかしながら小林麻央という人について他界されるまで名前すらも知りませんでした。有名人が亡くなったとしても、それが医師の間で話題になることはそう多くありませんが、小林さんの場合は医師の掲示板に多くのコメントが寄せられていました。

 その最大の理由は「効果が期待できるとは到底思えない民間療法を受けていた」というものです。医師の掲示板にはその民間療法を実施していたクリニック名と医師の名前(ここからは「S医師」とします)も記載されていました。そして、S医師の名前を忘れかけていた頃、再び新聞で目にすることになりました。

 S医師は「臍帯血」を使った”再生医療”を「無届け」で行い、しかも極めて高額な料金を患者に請求していた、というのです。私が言いたいのは「無届け」という違法行為が許せない、ということではありません。それも歴然とした罪ですが、そんなことよりも、臍帯血を「再生医療」として用いて、高額な料金を取っていたことの方が遥かに問題です。

 このS医師、本当にこんなことをして患者さんに有益だと思っていたのでしょうか。いくらひいき目にみても、こんな治療が「再生医療」になるはずがありません。

 私は「広く認められていない治療をすべきでない」と言っているわけではありません。患者さんが望む治療であれば、エビデンス(科学的確証)のレベルが低いものであったとしても、安全性が担保されるのであれば、患者さんが強く希望したときには「では一度試してみますか」と答えることもあります。

 ですが、こういった充分なエビデンスのない治療、それも実績のない治療については、医師の側から勧めるべきではありません。もしも、勧めるとするなら、その科学的根拠を示さなければなりません。また、根拠を示すのは患者さんに対してだけでなく、他の医師に対しても、です。歴史のない新しいことをおこなうのであれば、きちんとデータをとって報告する義務が医師にはあります。

 ここで、このような臍帯血移植が「治療になるはずがない」ことを説明したいと思います。

 そもそも「臍帯血移植」というのは、白血病など難治性の血液疾患に行われる治療で、対象は「小児」のみです。血液をつくる幹細胞(血液幹細胞)が「悪い血球」を作り出すのが病気のメカニズムですから、この役立たずの幹細胞を殺してしまって、他人の健康的な血液幹細胞に取り換えるという方法です。臍帯血移植であっても、治療方法は原則として通常の骨髄移植と同じです。臍帯血移植が小児のみを対象としているのは、臍帯血には幹細胞がわずかしか含まれておらす、成人では量が足らないことが最大の理由です。

 臍帯血移植の治療方法は骨髄移植のときと同じですから、移植前には役立たずの血液幹細胞を殺さなければなりません。全身に放射線を照射し、抗がん剤を投与します。これを「前処置」と呼び、これで元の血液幹細胞が消滅し、血球がまったくつくられなくなります。このような状態ではわずかな病原体にも打ち勝つことができませんから、移植を受けるときは無菌室に入ります。

「前処置」が終わればドナーの臍帯血を「移植」することになります。移植といっても肝臓や腎臓の移植とは異なり、静脈に臍帯血を点滴するだけです。通常の骨髄移植の場合、入ってきたドナーの骨髄細胞が、治療を受ける側の組織を破壊しだすことがあり、これを「GVHD」と呼びます。これは移植に伴うとてもやっかいな副作用なのですが、臍帯血移植の場合は、このGVHDのリスクが大幅に低下します。

 さて、逮捕されたS医師らはどのように「臍帯血移植」をおこなっていたのでしょうか。S医師のクリニックにはもちろん無菌室などありません。報道から推測すると、単に臍帯血を希望者の静脈に注射していただけのようです。報道にあるように、これでがんが治り若返ると言っていたということが本当だとすると「罪」以外の何ものでもありません。

 少し医学的に解説しておくと、”患者”に静脈注射された臍帯血は、その人にとっては異物ですから、免疫系の細胞が立ち上がり、入ってきた臍帯血を”処分”して、それで終わりです。当たり前ですが、前処置をしていない状態で臍帯血を注射しても臍帯血に含まれる細胞が、骨髄に住み着くことなどあり得ません。

 一連のマスコミの報道を見聞きして「だまされて臍帯血移植を受けた人たちはなぜ怒りを表明しないのか」と疑問に感じる人もいるでしょう。この理由は主に3つあります。

 1つは、「一度信じたものは簡単に覆らない」ということです。高額の治療費を払ったんだから何らかの期待ができるに違いない、それは今は起こらなくても数年後に起こるかもしれない、という心理が働くのです。実際にプラセボ効果で体調がよくなることもあるでしょう。2つめはこういう治療を受けたからといって「危険性」はほとんどない、ということです。治療をして悪くなったとすれば(最たる例は手術を受けて死亡)「訴えてやる!」という気持ちになりますが、この治療で悪くなるわけではありません。3つめが「効果には個人差がある」などといった文章です。こういった文言が同意書に書いてあるはずで、文句を言っても「この同意書にこう書いてあるでしょ」と言われれば反論できなくなるのです。小林麻央さんのご遺族がS医師に苦情を申し立てているかどうかは分かりませんが、おそらくこの3つめの理由から、訴えても勝ち目はないでしょう。

 さて、医学部受験は簡単ではありませんが、医学部を卒業するのはもっと大変です。医師国家試験はほとんどの医学生が合格しますが、6年間で学ぶこと、実習、試験などは本当に酷烈です。それらを乗り越えた医師が、今ここに述べたことを知らないはずがありません。つまり、マスコミが指摘しているように、S医師らははじめから効果がないことを知っていて金儲けのためにこのような悪事を働いたとしか考えられないのです。

 ですが、なぜなのでしょう。どこで道を踏み外したのでしょうか。社会では「悪徳医師」のイメージがよく風刺されますが、実際に金儲けを考えている医師など(ほとんど)いません。むしろ、お金よりも価値がありやりがいのある仕事をしていることに医師は誇りを持っています。これは医師の「矜持」と言っていいと思います。

 このような話を医師以外の人と話すとよく言われるのが「どの世界にもおかしな人がいる」という意見です。たしかに学校の先生にも政治家にもおかしな人はいるでしょう。それは分かります。ですが、医師には「ヒポクラテスの誓い」があり、日本医師会の倫理要綱には「医師は医業にあたって営利を目的としない」という文章があります。

 これらは「法律」ではありませんから”法的には”強制力はありません。ですが、法律が最も重要なわけではありません。我々医師にとって「営利を目的としない」というものは法律よりも遥かに重要ないわば「掟」なのです。「掟」に背けばこの世界ではもはや生きていくべきではありません。

 今後このような”罪”を犯す医師をどうやって未然に防げばいいのでしょうか。以前も述べたことがありますが、「医師の年収に上限を設ける」が最も現実的ではないでしょうか。そして、できれば下限もつくってもらえれば安心して医療がおこなえます。例えば、医師の年収は「国家公務員と同等とする」として、国家公務員の最低年収と最高年収の間にするのです。保険診療の財源の大半は、国民から徴収している税金と保険料であることを考えると、この私の案もまんざら的を外していないのではないでしょうか。

 
参考:メディカルエッセイ
第155回(2015年12月)「不正請求をなくす3つの方法」
第79回(2009年8月)「”掟”に背いた医師」