メディカルエッセイ

第161回(2016年6月) 超高額の「夢の薬」に対処する2つの方法(後編)

 超高額の薬を使い続けると国家財政が破綻するのは火を見るより明らかです。いずれどこかで一定の「線引き」をする必要があります。つまり、患者Aさんには保険で診療ができるけれど、患者Bさんには適用されません、としなければ医療費はもちません。当然この「線引き」は容易でありません。

 年齢を基準にすればいいではないか、という考えがありますが、そう単純な話ではありません。実際にオプジーボが100歳の症例に使われた例があるらしく、「100歳を101歳にするのに3,500万円を使うのはおかしいのでは?」、という意見は賛同が得られやすいでしょう。しかし、この例でも、元来とても健康な100歳であり、日本最高齢の記録を塗り替えるのではないか、と言われているような人であったとしたらどうでしょう。

 もっと分かりやすい例を挙げましょう。例えば、オプジーボを使用する年齢基準を80歳未満と決めたとしましょう。80歳の誕生日を迎えればもう保険診療はできない、とするのです。78歳からオプジーボを使い続けてがんがほとんど消失している、という人がいたとして、「はい。80歳の誕生日が来ましたから治療は終わりです。またがんが大きくなるでしょうができることはありません」と言うことが許されるでしょうか。

「80歳未満」というのを使用時の年齢でなく「使用開始」の年齢にすれば?という意見もあるでしょう。では次の2つのケースではどうでしょうか。

 患者Xは、地域医療を担う医師。その地域には医師がひとりしかおらず住民は24時間365日その医師を頼っています。引き継いでくれる医師を探していますが見つかっておらず、引退したくてもできません。そんななか自分自身に肺がんが見つかりました。しかし先月80歳の誕生日を迎えたためにオプジーボは保険適用がありません・・・。

 患者Yは、強姦事件で何度も逮捕され、少なくともあと10年は刑務所を出られません。おまけに刑務所内で脳梗塞を起こし、ひとりでなんとかトイレに行ける程度の活動度です。最近は軽度の認知症もでてきました。そんななか、定期検診で肺がんが見つかりました。患者Yは現在77歳です・・・。

 さて、患者Xと患者Y、あなたが医師ならオプジーボを使いたくなるのはどちらでしょうか。ここで、犯罪歴のある人には高額医療を受けられないようにすればいいではないか、ということを考えた人がいるかもしれませんが、その理屈はおそらく受け入れられないでしょう。強姦で何度も逮捕と聞くと、「そんなやつに貴重な医療費を・・・」という気持ちになる人もいるでしょうが、犯罪歴があるというだけで医療を受ける機会を奪われるのは問題です。また、認知症があればオプジーボを使えなくする、というアイデアを思いついた人がいるかもしれません。しかし、認知症かそうでないかというのは境界が非常に曖昧ですし、オプジーボを使い出してから認知症を発症すればどうすればいいのか、という問題もでてきます。

 つまり、年齢でオプジーボの適応を決める、というのはそう簡単なことではないのです。

 では、お金で線を引く、というのはどうでしょう。オプジーボについては高額養費制度が適応されないようにして保険適応で3割負担とするのです。この方法でも年間3,500万円の3割、すなわち1,050万円を払えるという家庭はほとんどないでしょうし、差額の2,450万円は保険が負担することになります。現在の高額療養制度はその人の収入にもよりますが、最高でも月の上限が14万円ほどです。オプジーボに限りこの上限を50万円程度にするというのもひとつの方法です。別の方法としては、これは公的保険のオプションとしてでもいいですし、民間保険でもかまいませんが「オプジーボ保険」というのをつくるというのもひとつです。

 このような方法をもし採用すれば「医療はいかなる人にも平等におこなわれなければならないものであり、金持ちのみがいい治療が受けられるなどという制度は言語道断である」という意見が必ずでてきます。というより医師の大半はそう言うでしょう。私自身もそう言いたいです。ただし、国に潤沢なお金があれば、です。

 多くの医師は、このような議論になったときに「国民皆保険制」がある日本の医療システムは世界一だと言います。それはその通りかもしれません。しかし、です。このような制度は日本の伝統とまでは言いがたいものです。そもそも国民皆保険制が国民健康保険法の改正により成立したのは1961年ですからまだ55年しかたっていないのです。わずか55年間しか維持していない制度を、当然のように主張するには無理があるのではないか、というのが私が感じることです。

 では、なぜ国民皆保険制度がこれまで維持できたのか。これはいろんなところで議論されていますからここでは多くは語りませんが、一番のポイントは「これまではそんな高い薬が存在しなかった」ということです。(高齢化社会以前の社会では働く若い世代が多く充分な保険料と税金が集まった、というのも大きな理由です) 

 21世紀に入るまでに最もお金がかかっていた医療行為はおそらく「人工透析」でしょう。ひとりあたり年間約500万の医療費がかかります。これまでの日本の国民皆保険制度の歴史を振り返ってみれば、この金額くらいがおそらく限界になるでしょう。その人工透析も高齢化社会で実施すべき人が増えていますからいずれ国の財政がもたなくなるという声もあります。

 人工透析が誕生した当初は、極めて高額なものでありごく一部の人しか使用できなかったはずです。米国でもそれは同様で「生と死の委員会」または「神の委員会」と揶揄された会議があります。人工透析の実用化に成功したスクリブナーという米国の医師は「医療は非営利であるべき」と唱え、人工透析の適用はお金で決めてはいけないと主張しました。そこで、どの患者に透析をおこない、どの患者を(言わば)見殺しにするか、ということを決める委員会が1961年に開かれたのです。「3人の子どもの母親と、子どものいない偉大な芸術家、どちらが透析を受けるべきか」といった問題にきちんと答えられる人はいないわけで、この委員会は今でも医療倫理を語るときによく引き合いに出されます。

 それで、現在のアメリカはどうかというと、オバマ・ケアで改善されたとは言え、今も保険に加入しておらず腎臓が悪化しても人工透析を受けられない人が大勢いると聞きます。(ただし、米国の場合、低所得者はメディケアと呼ばれる保険があり、無保険者は中所得者に多いと言われています)

 世界に目を広げてみると、お金がなければ治療を受けられないのはむしろ当然のことです。日本では、心臓疾患の子供が米国で移植を受けるための募金が行われますが(親御さんの気持ちを考えると理解できることではあります)、米国でお金がないが故に心臓移植を受けられない子供がいるのも事実です。もっと言えば、例えばカンボジアやラオスで同じ心臓疾患の子供がいたとして、米国渡航を考える両親はほぼ皆無なわけです。

 フィリピンでは、低から中所得者の大半は無保険です。私の知人のフィリピン人は、妹が呼吸困難で食事も摂れない状態だけどお金がなくて病院に行けないと言っていました。そのうち死ぬだろうがこれがこの国では当然だと言います。タイは2001年に「30バーツ医療」という政策がおこなわれ、30バーツ(約90円)支払えばどんな医療も受けられる制度になり、現在は実質無料で治療が受けられます。しかし、この医療でできることは、基本的な治療だけで高額な検査や薬は対象になりません。(抗HIV薬は安いものは無料でもらえますが、それが効かなかったり副作用が出て使えなくなったりした場合は手がうてないのが現状です)

 私が興味深いと感じるのは、フィリピンやタイでは多くの人が、庶民が高額医療を受けられないのは当然と考えていることです。おそらくオプジーボのことをフィリピン人やタイ人に話すと、彼(女)らはたとえ自分自身が肺がんを患っていても笑い飛ばすでしょう。そして「生まれ変わったら日本に生まれてそんな治療を受けてみてもいいかも」と言うかもしれません。日本人を羨ましがるどころか、そこまでして生に固執する日本人を笑う人もいるに違いありません。

 さて、不気味なのは日本の厚労省です。これだけ高価な薬を承認しているわけですから、将来の医療費について何らかの説明があってもいいと思うのですが、私の知る限り何も発表していません。マスコミや有識者が、このままでは国が滅びる、と言っているのに、です。「高い薬剤を保険で認めるな」、という世論の声を待っているのでしょうか。そして、そのような声がある程度大きくなった時点で、保険診療の医療行為をバッサリと削減するつもりなのではないか。そのような穿った見方をしたくなります・・・。