メディカルエッセイ

第153回(2015年10月) iPS細胞の未来

 今年(2015年)のノーベル賞は日本人が二人も受賞したこともあり大きく取り上げられました。ニュートリノが質量を持つことを発見した東大の梶田隆章博士の功績は科学史を書き換えるほどのものですし、イベルメクチンという寄生虫の薬を開発しノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智は、我々医師からみると、世界で初めて抗菌薬を発見・開発したフレミングに匹敵するくらいの偉大な科学者です。

 ノーベル生理学・医学賞といえば2012年には京都大学の山中伸弥先生がiPS細胞の発見で受賞されました。3年前のこの時期、日本中はiPS細胞フィーバーで盛り上がりました。山中先生は私の母校である大阪市立大学医学部で講師をされていた時期もありましたから(私も医学部3年生のときに講義を受けていました)、私の周りではしばらく山中先生とiPS細胞の話が耐えませんでした。

 今回お話したいのは、タイトルのとおり「iPS細胞の未来」ですが、その前に、大村先生のイベルメクチンと山中先生のiPS細胞では、同じノーベル生理学・医学賞を受賞された偉大な功績であっても方向性がまったく異なる、ということを確認したいと思います。

 大村先生が開発したイベルメクチンという薬は、世界中の寄生虫疾患で苦しむ大勢の人を救っています。現在では年間に3億人もの人がイベルメクチンを服用しており、それまでは有用な治療がなかったフィラリア症やオンコセルカ症が治癒する病気になりました。こういった感染症はアフリカで多く日本人にはあまりなじみがありませんが、イベルメクチンは疥癬というやっかいな感染症にもよく効き、これは日本でもおこりうる感染症です(これについては「はやりの病気2015年10月号」で取り上げています)。これほど有用な薬を開発した大村先生がノーベル賞を受賞されるのは当然ですし、これからも世界の多くの人々がイベルメクチンで命を救われることになります。

 一方、山中先生のiPS細胞は”現時点では”多くの人を救っていません。しかし、これからの展開を考えると、iPS細胞はとてつもない可能性を持っています。イベルメクチンで命が助かった人数の何倍、何十倍もの人を救うことができるかもしれません。また、誤った方向に開発されたとすると、(私はキリスト教徒ではありませんが)神を冒涜するような結果となるかもしれません。

 具体的に説明しましょう。iPS細胞とはどんな細胞か。一言でいえば、どんな細胞にもなれる細胞です。つまり、自分のiPS細胞があれば、それを筋肉細胞にすることも、神経細胞にすることも、皮膚の細胞にすることも可能なのです。これがどれだけ素晴らしい、またある意味では”恐ろしい”ことか分かりますでしょうか。

 加齢黄斑変性症という放っておくと失明することもある目の病気があります。この病気、高齢化と共に患者数が急増しており、現在日本には約70万人の患者がいると考えられています。治療法はないわけではありませんが、何をしても失明が避けられないということもあります。しかし現在この疾患に悩む人には「希望」があります。iPS細胞を応用した治療が開始されだしたからです。

 現時点では研究レベルの治療ですが、2014年9月、世界初のiPS細胞から作った網膜細胞を加齢黄斑変性の患者さんに移植する手術がおこなわれました。この手術を一言でいえば「患者さん自身の皮膚の細胞などからiPS細胞をつくり、そのiPS細胞を網膜細胞に分化させ、その細胞をダメになった古い網膜と取り替える」というものです。私が聞いたところによると、この手術を受けた患者さんは術後1年が経過した現在、経過は非常に良好だそうです。

 現段階では実際に患者さんに移植手術をした疾患は加齢黄斑変性症だけです。しかしいくつかの疾患ではかなり研究が進んでおり、実用化が見えてきています。しかもそれら研究中の疾患は、これまでは有効な治療法がなかったものです。

 パーキンソン病という脳内の神経がやられる細胞があります。パーキンソン病の薬はありますが、ずっと飲み続けなければなりませんし、その薬の副作用もあります。iPS細胞を用いて正常な神経細胞を作り直すことができれば完全に治すことも夢ではありません。そして実際にiPS細胞を用いたパーキンソン病の治療の研究はかなり進んできています。ただ、網膜とは異なり、脳全体を交換するわけにはいきませんから、脳内にiPS細胞由来の正常な神経細胞をどのように定着させるかが、おそらく課題になるであろうと思われます。

 パーキンソン病を含む神経内科の疾患というのは大変興味深いのですが、今ひとつ医学生から人気がなく神経内科専門医を目指すという研修医はそれほど多くありません。その最大の理由は「有効な治療法がない」からではないかと私には思えます。純粋な学問としては神経内科の疾患というのは非常に興味深いのです。しかし疾患の多くはいくらか進行を食い止めることができたとしてもやがて進行していきます。

 そんな難治性の代表性疾患がALS(筋萎縮性側索硬化症)です。病名に馴染みがないという人も宇宙物理学者のホーキング博士の病気と言われれば分かるのではないでしょうか。あるいは(現在40代以上の人であれば)「クイズダービー」の篠沢教授の病気を思い出されるかもしれません。パーキンソン病の場合は、まだ症状を緩和させる薬がありますが、ALSについてはほとんど何もありません。実際の治療にはまだ相当の時間がかかるでしょうが、iPS細胞を用いた治療の研究がすでに開始され注目されています。

 病気というよりは怪我ですが、交通事故やスポーツ外傷などで脊髄が損傷し車椅子の生活を強いられることがあります。「脊髄損傷」通称「せきそん」は若い人が苦しむことが多く何十年も車椅子、あるいは寝たきりの生活になります。本人の精神状態はかなり苦しくなることもあり家族のケアも大変です。もしも脊髄の神経細胞が再生できたら・・・、というのはこの病気に携わる医療者の長年の夢でしたが、iPS細胞を用いれば完全治癒も期待できるのです。

「夢の若返り」と聞いてSTAP細胞で世間を騒がせた小保方晴子氏のことを思い出す人もいるのではないでしょうか。私も小保方氏の記者会見をテレビで見た時にこの言葉を聞いた記憶があります。その後のSTAP細胞を巡る流れのなかで、この言葉もいつの間にか世間から忘れ去られていますが、iPS細胞を用いれば「若返り」は可能です。しかも、先に述べた神経内科の病気や脊髄損傷の治療よりもおそらくずっと簡単です。

 治療希望者の血液や皮膚の一部を使ってiPS細胞をつくり、それを皮膚に分化させ、加齢でしわとしみだらけになった皮膚を交換することができますし、AGA(男性型脱毛症)で禿げ上がった頭皮を10代の頃のようなフサフサの状態にすることもできます。どこまで実用化に近づいているかはわかりませんが、やろうと思えばそうむつかしくはないと思います。

 若返りは美容だけではありません。心臓は休みなく働き続けやがて動かなくなります。どのような心臓も永遠に拍動することはありません。しかし古くなった時点でiPS細胞から新しい心臓がつくれるとすればどうでしょう。また、脳細胞が古くなり認知症の可能性がでてくれば、iPS細胞からつくった新しい脳細胞を注入できるとすればどうでしょう。心臓と脳を定期的に入れ替えることができるとすれば、永遠に死なない身体を手に入れることも可能ということになります。筋肉も皮膚も必要に応じて新しくしていくことはそうむつかしくはないはずです。あるいは、完全なクローン人間をつくることも理論的には不可能ではありません。

 私が主張したい問題はここからです。現在iPS細胞については京都大学iPS細胞研究所(CiRA)が特許を取得しています。しかし、ライセンスを取得すれば研究をおこなうことができますし、ライセンスを取得している企業からiPS細胞を購入することも可能です。そもそも、特許があるからといってiPS細胞を用いた治療がすべて日本の企業主導となると考えるのは甘すぎます。

 iPS細胞をつくろうと思えば、人の血液や皮膚の一部に「山中ファクター」と呼ばれる物質を振りかければそれでできてしまうのです。それからどのような細胞に分化させたいかによって手順が変わり、必要な薬剤もかわるわけですが、原理自体は、もはやそれほどむつかしいものではないのです。

 これまで治療法がなかった疾患のみならず、美容や、不死身の身体、さらにクローン人間までつくることができる可能性があるとすると、これを放っておかない人間は世界中に存在します。そしてこのようなことを考える人間は善人ばかりではありません。例えばCiRAの研究員をカネやイロで懐柔しようとする者もでてくるかもしれません。これ以上は小説や映画の世界のような話になりますが、私はiPS細胞が悪用される可能性を否定できないと考えています。

 そして最後に、現在日本がお金をつぎこむべき分野がiPS細胞であることを行政がどれだけ理解しているかが疑問であるということを指摘しておきたいと思います。iPS細胞の研究には莫大なお金がかかります。「一億総活躍」する必要はありませんが、iPS細胞に関心のある若い人たちに研究の場と予算を割り当てられるように国を挙げて取り組んでいく必要があるのではないか、それがiPS細胞に対する私の考えです。

参考:マンスリーレポート2012年10月号「山中先生から学んだこととこれからも学びたいこと」