メディカルエッセイ

第29回(2005年12月) なぜ日本人の自殺率は高いのか③(最終回)

 「死生学」と呼ばれる学問のジャンルがあります。これは欧米では一般的なのですが、日本では以前に比べると随分マシになったかもしれませんが、まだまだ普及しているとは言えません。例えば、「死生学」を学ぶために大学を目指すという受験生は聞いたことがありませんし、「死生学」で修士論文や博士論文を書いている学生はほとんどいないのではないでしょうか。それどころか、ある大学で「死生学」をテーマとした市民講座を開くという話が持ち上がったとき、地域の住民から反対意見が相次いだそうです。

 医療の現場では「死」に頻繁に遭遇しますが、現代医学というのはいかに「死」を逃れるか、あるいは引き伸ばすかという点からの考察ばかりで、例えば、「残りの生を幸せに生きる」という観点からはほとんど語られることがありません。

 末期癌の患者さんやその家族を対象とした雑誌を見てみても、抗癌剤やリハビリの記事ばかりで、「いかによりよく死んでいくか」という観点からの記事はほとんどありません。「死」を頻繁に経験する医療現場でさえも「死」はタブー視されているのです。

 日本社会は昔から「死」をタブー視してきています。タイの社会なら当たり前の「死体を見る」ということさえタブーとなっています。

 けれども、このことが「死」を適切に捉えることを妨げて、結果として「自殺」につながっているのではないか、私はそのように考えています。「死」は誰にでも起こる避けられない運命であるのは自明です。ところが、その当たり前の「死」をきちんと見つめないことによって、安易と言わざるを得ないような「自殺」を選んでしまっている人が少なくないように思われるのです。

 「自殺の自由」という考えを主張する人がいます。これはこれで正当化されなければならないのかもしれませんし、実際に自殺という道を選んだ人には図りしれない想像を絶するような苦痛があったものと察します。しかしながら、国際比較で異常ともいえるような高い自殺率を記録している日本では、やはり安易に死を選んでいる人が少なくないのではないかと感じずにはいられません。

 ところで、なぜ日本では死体を報道することがタブーとされているのでしょうか。私は当初、死体の報道は法律で禁じられているのではないかと思っていたのですが、私の調べた限りそのような法律はありませんでした(ご存知の方おられましたら教えてください)。

 法的な制約がないとすれば、世論の圧力が問題となる可能性があるが故に死体の報道がなされないのでしょう。おそらく、夕方のニュースで死体がアップで報道されたらテレビ局に苦情が殺到するでしょう。その理由は、例えば「不謹慎である」とか「子供に悪影響を与える」、あるいは「プライバシーの侵害」といったものではないかと思われます。

 しかしながら、「不謹慎である」というのは明確な科学的根拠が見当たりませんし、「子供に悪影響を与える」というのも科学的なデータがありません。漫画や映画、ゲームといったツールでしか死体と接することがないために、逆に「死」というものをきちんと把握できていないのではないかと私は考えています。

 「プライバシーの侵害」というのは確かにあるかもしれませんが、一般に殺人事件が起こると、被害者の生前の写真は公開されています。また、社会的に重要な意味のある事件であれば、公益性がプライバシーを優先するという議論が起こってもいいはずです。

 つまり、死体を報道すべきでない、という考え方は、なんとなく昔からみんなが感じていることに過ぎないわけで、死体を報道することによって社会的混乱が生じるという科学的根拠はなく、むしろ死体を報道することによって、日本人がきちんと死と直面するようになるのではないか、さらに安易に自殺する人が減少するのではないか、と私は思うのです。
 
 前回、タイでは輪廻転生の考えが深く社会に浸透しているという話をしました。一方、日本では心底から輪廻転生を信じている人はそれほど多くないのではないでしょうか。自己啓発を目的とした雑誌や書籍に目を通すと、「一度きりの人生・・・」「悔いのない人生を・・・」などといった表現をよく目にします。たしかに、何かを決意するときや頑張らなければならないときにはこういった考え方は有効です。例えば、医学部受験を決意するときにはこのように思うことが非常に効果的です。

 けれども、いつもいつもこのような考えでいると、避けられない運命に遭遇したときや、予期せぬ不幸に見舞われたときには絶望を加速することになりかねません。そんなときには、「一度きりの人生・・・」ではなく、「何度も生まれ変わる魂が経験するひとつの場面」くらいに思ってしまう方が強いストレスから脱出できるのではないか、と私は考えています。

 実は、このような考え方をもつにいたるきっかけとなった経験があります。

 それは私が研修医の頃の経験です。ある末期の状態の患者さんと話をしているときのことです。自分でもそれほど長くないことを悟っていたその患者さん(女性)は、ある日私にポツリと言いました。

 「先生、あたしね、もういいんです。もう充分です。そろそろあの世に行くときが来ました。あの世に行けば久しぶりに主人と会えるんです。あの世で会おうって主人が亡くなるときに約束したんです。あの世でふたりで楽しく過ごして、また生まれ変わったら結婚しようねって・・・・」

 輪廻転生なんてあるわけないという人がおられれば質問したいと思います。この患者さんに、例えば「何を言っているんですか。あの世とか生まれ変わるとかそんな非科学的なことを・・・。人生は一度きりです。人間は死んだら終わりなんです!」と言うことができるでしょうか。

 この患者さんが輪廻転生のことをどれだけ真剣に信じていたかは分かりませんが、少なくともこの患者さんにとっては輪廻転生という考えを持つことによって、死の不安が和らぎ、落ち着いた精神状態を保つことができていたのです。

 「一度きりの人生・・・」という考えに縛られすぎると、避けられない運命に遭遇したときに、強いストレスから自殺へとつながることになるかもしれません。配偶者の突然の死や予期せぬ難病だけでなく、突然のリストラや厳しい借金の取立てにあったとしても、長い長い寿命の魂が経験するほんの一場面だという認識に立てば、少しは自殺を思いとどまるのではないでしょうか。

 そろそろまとめに入りましょう。

 私が日本人の自殺率が高い理由として考えているものは3つあります。

 ひとつは、日本は「階級社会」ではなく、身分というものを考えることなく生きていける社会でありながら、以前のように国民の多くが中流階級である思っていた時代がすでに過去のものになったことが原因です。よく言われるように「終身雇用」「年功序列」というものが完全に崩壊してしまい、「才能のある者だけがやりたいことをみつけて努力したときにしか幸せが来ない」、というような幻想が存在するように見受けられます。このため、何をやっていいか分からない者は、デュルケームの言うところの「アノミー」の状態に容易に陥り、その結果自殺を選んでしまうというわけです。

 ふたつめは、「一度きりの人生・・・」という観念が強すぎるというものです。例に挙げた仏教だけではなく、キリスト教をはじめほとんどの宗教は輪廻転生というものを認めています。それに対して無宗教の日本人は、この考えを信じていないだけでなく、それが精神状態に寄与する効果についても考えようとしていません。そのため「人生に失敗した」と考えることが自殺につながっているのではないかと思われるのです。

 3つめは、「死」というものをタブー視しすぎているということです。「死」をタブー視するあまり、現実的に適切に「死」を捉えることができず、安易に「死」を選んでしまうというパラドックスが存在するのではないかと思われるのです。
 
 「自殺の自由」を主張するのは個人の「自由」でありますが、日本の自殺率が先進国のなかで第1位であるという現実にはしっかりと注目する必要があるでしょう。

 そして、予期せぬ不幸に突然見舞われたときに、何ができるか、何を思うことができるか、ということについて日頃から考えておくべきではないか、私はそのように感じています。