メディカルエッセイ

1 小児科最後の日のセンチメンタリズム 2004/2/5

2004年1月30日、この日は私の小児科での研修最後の日となりました。今なんとも言えないセンチメンタリズムに心が苦しめられています。

 思えば、もともと私はここ、星ヶ丘厚生年金病院(以下、「星ヶ丘」)で、昨年5月から10月まで半年間形成外科の研修を受ける予定であって、11月からは大学の皮膚科に戻る予定でありました。ところが、星ヶ丘の症例の多さと、医師や看護師をはじめとするスタッフの手厚さに感銘を受け、大学の医局と星ヶ丘の先生方に無理を言って、半年間の研修延長を認めてもらったのです。

 そして、11月から今年の1月末まで、星ヶ丘の小児科の研修を受けさせてもらえることになったわけです。私の3ヶ月間での小児科研修の目的は、採血や点滴などの基本的な手技を覚えることと、風邪や腹痛などのいわゆるコモン・ディジーズの診察及び治療ができるようになることでした。

 ところが、研修が始まった頃は、採血ができない、点滴がとれない、(当たり前だけど)子供が言うことを聞いてくれない、お母さんとのコミュニケーションがなかなかスムーズにいかない、などトラブル続きで、医師になってはじめてとも言えるスランプに陥りました。

 もともと子供には苦手意識もあり、なんとか3ヶ月間で子供のことが理解できるようになりたいと考えていたのですが、理解するどころか、ますます苦手になっていったのです。先月の中ごろまでは、夢の中でも子供の泣き声に悩まされ、電車の中で子供が泣いているのを見ただけで逃げ出したくなるといった日々が続いていました。

 私は幸いなことに、それまでの研修生活では、患者に苦手意識を持ったことはほとんどなく、例えば他の医師が嫌がる患者に対しても、何のストレスもなく接することができていました。そのため、トラブルをおこしがちな患者の主治医をまかされるということがこれまでにも何度かあったのです。

 そういうわけで、対患者のコミュニケーションで、これまでまったく不都合を感じていなかった私は、小児科で初めて壁にぶちあたったのです。

 そして、私が苦手意識を持っていたのは、実は対患者さんだけではありませんでした。小児科病棟の看護師と接するのも、特に最初の頃は、苦手というかうっとうしく感じていたのです。

 そもそも研修医というのは、看護師さんとの関係が上手くいかないことが多く、ろくに仕事のできない研修医が看護師からはけむたがられ、やたら冷たく接する看護師が研修医からはうっとうしがられるという構図はよくあることです。(この点については、別の機会に詳しくお話しようと思います。)

 ただ、私の場合は、大学にせよ、星ヶ丘にせよ、これまで所属したところが自分に合っていたため、看護師をうっとうしく思うことはほとんどありませんでした。

 ところが、今回初めて、研修医も4分の3を終えて初めて、看護師を苦手と感じたのです。というのも、星ヶ丘の小児科病棟では、看護師から、やれ、伝票は2枚打ち出せだの(他の病棟では1枚でよい)、やれ、薬をオーダーしたときは薬剤部に電話連絡をしろだの(他の病棟では看護師がやってくれることが多い)、なにかと煩わしいことを言われることが多いのです。他の研修医から、「小児科病棟は看護師から何かと文句を言われることが多い」と事前に聞いてはいたのですが、実際に体験してみると予想以上のしんどさがあったわけです。

 つまるところ、私は研修医になって初めて、患者(及び患者の家族)に対しても、看護師に対しても苦手意識を持ち、医者になって初めてのスランプに陥っていたのです。

 そんななか小児科研修も半ばを迎えたころ、小児科の先生方に丁寧に指導してもらってきたおかげで、採血や点滴などの手技がある程度できるようになってきました。さらに、子供やお母さんとのコミュニケーションも少しずつ苦手意識がなくなってきました。一度毎回入院する度にトラブルを起こしている患者さん(のお母さん)が入院してきたときに、私が主治医となりましたが、このときも何らクレームもトラブルも起こさずに無事退院されていきました。

 対看護師の関係にしても、別に人間的に嫌な人がいるわけでなく、制度として医師がやりにくいという点があるだけであり、これはシステム維持のために仕方のないこともあるわけで、慣れればどうってことはないように感じるようになりました。まあ、郷に入っては郷に従え、というわけです。

 さて、3ヶ月の小児科研修がたった今終わってしまったわけですが、今なんとも言えないセンチメンタリズムに心が苦しめられています。胸の奥が緩やかに締め付けられるようなこの感覚は、ここ数年経験したことのないような不思議な感じです。

 どうして、こんな感覚に捉われるのでしょうか。もう毎日子供とコミュニケーションすることができなくなるという寂しさなのか、これまでお世話になってきた先生と別れる辛さなのか、あるいは最初はうっとうしく感じていた看護師と接することができないことからくる空虚さなのか、それは分かりませんが、何かとても苦しい気持ちでいっぱいです。

 話は変わりますが、私は、「人生の価値はどれだけ感動できたかで決まる」と常々感じています。どれだけ大きな感動をどれだけ数多く体験できたかで、その人の人生が実りの多いものだったのか、そうでなかったのかが決まると思うのです。だから私の行動の選択基準は、「常に感動のある方へ」です。

 小児科で研修医をさせてもらった3ヶ月では、そんなに大きな感動があったわけではありません。その代わり、日々小さな感動を覚えることができました。忙しいなか、私のために時間をつくってくださって、丁寧にご指導いただいた先生たちからはあたたかさを感じました。熱が下がって元気になった子供の笑顔も感動を与えてくれます。採血するときは泣きじゃくっていても、終わってからだっこしてあげようと手を差し出すと、あわせて両手を差し出してくる子供を見ると嫌なことも忘れます。聞き分けのない子供を一生懸命なだめて子供を落ち着かせている看護師さんの姿からも感動を覚えることができました。「子供が元気になってほしい」その気持ちは看護の姿勢から伺い知ることができるのです。

 これら小さな感動の積み重ねのおかげで、私にとって非常に実りの多い3ヶ月となりました。先生方、看護師の方々、多くの患者さん、患者さんのお父さん、お母さんたちにはいくら感謝してもしすぎることはありません。

 私は星ヶ丘の小児科で3ヶ月間研修を受けたということを誇りにしたいと思います。これらお世話になった方々にむくいるためにも、私はこの3ヶ月の経験を、医師としての、そして人間としての糧にしていくつもりです。

 それにしてもこのセンチメンタリズムは一体何なのでしょうか。もしかすると、あと3ヶ月でこの病院を去らなければならないという辛さも相まっているのかもしれません。ここを去れば新天地で新たな出会いがあるわけで、それは確かに楽しみではあるのですが、一方でお世話になった方々と別れる辛さもあり、これはこれで非常に辛い。

 高校の卒業式のときもこんな感じだったのかな、ふとそんなことを考えました。けれども高校のときは、おそらく都会に出る期待の方が圧倒的に大きかったと思います。今回は、・・・・、何なのでしょう。このセンチメンタリズムは。あぁ誰かと朝まで飲み明かしたい、今そんな気分です。