2025年3月23日 日曜日
2025年3月24日 魚の油のサプリメントは無効
魚の油が心血管疾患の予防になることが確立されたのは2002年に医学誌「Circulation」で論文「Fish Consumption, Fish Oil, Omega-3 Fatty Acids, and Cardiovascular Disease」が公開されたときだとされています。そして、この論文が発表されてからも、魚の油が心血管系疾患の予防に、あるいは炎症性疾患や神経疾患など他の疾患にも良いとされる研究が相次いでいます。
今回はその魚の油は「サプリメントで摂っても意味がない」ことを示した研究を紹介したいと思います。しかし、その前に言葉の整理をしておきましょう。ω3(脂肪酸)、DHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)などの区分がよく混乱されるからです。しかし、この理解は実は簡単で「魚の油≒ω3脂肪酸≒DHA≒EPA」と考えて差支えありません。
では2つの研究を紹介しましょう。
糖尿病患者15,000人以上を対象とした無作為化試験で、ω3サプリメントを摂取した人と摂取しなかった人の間で、重篤な心血管イベントのリスクに有意な差はありませんでした。
25,000人以上が参加した別の無作為化試験では、ω3サプリメントを摂取しても、重大な心血管イベントやがんを発症するリスクは低下しないことが示されました。
ちょっと古い記事ですが、米紙Washington Postもω3サプリメントが無効であり、健康食品業者が過剰な宣伝をしていることを指摘しています。
では、医薬品であれば効果はあるのでしょうか。日本には次の2つの製品があります。
・エパデール:EPA
・ロトリガ:DHA+EPA
効果を添付文書からみてみましょう。エパデールは中性脂肪の数値を1割程度下げます。ロトリガは4グラム(2グラムを1日2回)飲めば、エパデール服用時に比べて中性脂肪がさらに1割低くなる(何も飲まないときに比べると2割低くなる)とされています。両者とも適応は「高脂血症」とされていますが、これらでLDLコレステロールが下がったとする研究は添付文書に記載されていません。
費用も加味して今回述べたことをまとめると、次のようになります。
・食事からω3系脂肪酸を摂取すれば心血管系疾患のリスクが低下する
・ω3系サプリメントでは効果がない
・効果が期待できる医薬品は2種類あり、添付文書を読む限りロトリガの方がエパデールよりも有効
・ロトリガの薬価は1日2回なら322円(3割負担で1日97円)。安い後発品を使えば157円(3割負担で1日47円)
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サプリメントの費用を調べてみました。
・Nature Made: EPA+DHA:1日あたり約20円
・FANCL: EPA+DHA:1日あたり約60円
・小林製薬: EPA+DHA(+αリノレン酸):1日あたり約60円
・サントリー: EPA+DHA(+セサミン):1日あたり約220円
こうしてみてみると、Nature Made製だけは医薬品より安いことが分かりますが、上述した2つの研究が示しているようにサプリメントの効果が否定された以上は意味がありません。FANCL、小林製薬、サントリーは医薬品よりも高額な上に効かないなら購入する理由がありません。
ところで中性脂肪は運動(特に心拍数を上げる有酸素運動)で大きく下げることができます。その逆に、運動をおざなりにしてω3脂肪酸をいくら摂取しても中性脂肪は(もちろんコレステロールも)下がらないことは覚えておいた方がいいでしょう。
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|2025年3月23日 日曜日
2025年3月20日 女性のADHDが増えている
ADHDやADHDを含む発達障害が増えているかどうかについては議論が分かれますが、私自身は過去のコラム(「はやりの病気」第219回 2021年11月「発達障害」を”治す”方法)で述べたように、増えていると考えています。
これは日本に限ったことではなく、英国でも同様で、The Timesによると、イングランドでは、ADHD薬を服用している患者総数は10年間で3倍に増加しています。2015年に同地域でADHDの治療薬を処方されたのは81,000人だったところ、2024年には248,000人にも増えているのです。特に顕著なのが20代後半から30代前半の女性で、なんと10倍に増加しています。
「所得との関係」にも興味深い現象が生じています。2015年の時点では最も貧しい5分の1の地域の患者数は最も裕福な5分の1の地域の約2倍であったところ、2024年にはその差が縮まり、最も貧しい地域での処方箋数は52,262件、最も裕福な地域では49,073件と、ほとんど差が消失しています。
************
なぜ、裕福な地域にも患者が増え、そして若い女性の間で急増しているのでしょうか。その答えは「診断されやすくなったから」でしょう。ADHDの古典的な症状は「落ち着きがなく騒がしい」ですが、そうでない場合もあります。例えば「クラスで目立たない存在で夢見るように窓の外を見つめるタイプ」は周囲からは気づかれにくいと言えます。
ところでADHDは「治る」のでしょうか。一般的には「治らない」とされています。実際、ADHDは脳の器質異常とされていて、MRIの所見では小脳や前頭前野の活動が低下していることが指摘されています(このような特徴があるのにも関わらず、画像診断を経ずに診断がつけられているのはおかしいのではないか、という私見を上述のコラムで述べました)。
しかし、私自身はADHDを含む発達障害は「治る」と考えています。証拠を提示することもできます。ADHDの疫学についての研究によると、ADHDは若年者の5.9%、成人の2.5%に発生するとされています。もしもADHDが「治らない」のであれば、若年者が成人より罹患率が高い理由の説明がつきません。もしも治らないのであれば、(成人になってから診断がつく場合もあるわけですから)罹患率は「成人>若年者」でなければなりません。
この数字からも分かるようにADHDは治るのです。「治る」が不適切な表現であれば「治療が不要なほど社会に適応できるようになる」でもかまいませんが、ADHDのレッテルを貼られても社会から遠ざかる必要はないわけです。
ADHDを含む発達障害を議論するときに最も重要なのは「増えているのか、変わらないのか」、あるいは「診断は正しいのか、見逃されていただけではないか」といった議論ではなく、「その人が苦しいのか否か」です。ですから、ADHDであろうがなかろうが、またADHDと診断されようが否定されようが、その人の立場に立って考えれば診断名などどうでもいいわけです。
「前医でADHDって診断されたんですけど……」と診断に疑問を感じて受診する人や、「わたしはADHDでしょうか……」と相談されに来る患者さんにも私はこのようなことを話しています。
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|2025年3月20日 木曜日
第257回(2025年3月) 人生が辛いなら「スマホを持って旅に出よう」
「格差社会」という言葉が人口に膾炙し始めたのは2000年代前半あたりでしょうか。当時は「勝ち組/負け組」という分かりやすい表現もよく使われていました。しかし、「勝ち組/負け組」はあまりにも露骨な言い回しであり、品がなく、一過性の流行語のように消えていきました。他方「格差社会」という用語は、社会に根付き、一般人から学者まで幅広い人たちに使われています。
その格差社会は成人のみならず、若年者、さらに10代の若者にも広がっているような気がします。谷口医院の患者さんをみていても、いわゆるスクールカーストの上位にいそうなキャラクターの10代男女もいれば、その反対に中学や高校、あるいは大学で、対人関係が上手くいかず、親友どころか友達もできず、学校から足が遠のき、心を病んでいく人たちがいます。
そしてその傾向は全国的にみられるようです。まず、不登校の児童の増加ぶりは異常と呼べるほどです。2023年度の不登校の小中学生は34万人を超え、これは11年連続の増加です。東洋経済が作成した下記のグラフを見れば不登校児童が異常なほど急増していることに驚かされます。
https://toyokeizai.net/articles/-/853036?utm_campaign=ADict-edu&utm_source=adTKmail&utm_medium=email&utm_content=20250215
では、これだけ大勢の若者が病んでいるのは「失われた〇〇年」などという言葉がしばしば当てはめられる日本特有の現象なのでしょうか。そうではなく、若年者が心を病んでいるのは世界共通の現象です。米国の10代のうつ病の増加率は驚くべきもので、5人に1人がうつ病です。
https://www.statista.com/chart/33610/share-of-us-teenagers–12-17-y-o–who-have-experienced-a-major-depressive-episode/
もっとひどいのが英国で、10代のうつ病罹患者は年ごとに増え、2021年にはなんと4割を超えています。
https://www.statista.com/statistics/1199302/depression-among-young-people-in-the-united-kingdom/
国の将来を担う10代の4割がうつ病を患っている国家がまともであるはずがありません。日本では10代のうつ病の年次推移を調べたデータは見当たらず、米国や英国との直接比較はできないのですが、日本も深刻な状態にあるのはおそらく間違いありません。自民党の山田太郎議員が不安に関して調査した報告書には、「死んだ方がマシ」「早く死にたい」「死ぬしかない」「正直死にたい」「生きていても意味がない」「ただただ苦しい」「あと何十年も生きるのかと思うと不安」といった若者の言葉が並んでいます。
「21世紀には明るい未来が待っている」と前世紀に世界中の多くの人が考えていたはずなのに、これだけ大勢の若者が心を病んでいるのはなぜなのでしょう。テクノロジーは発達し、世の中は随分と便利になりました。科学技術だけではなく、医療も大きく発展しました。今やがんやHIVは命をなくす疾患ではありません。関節リウマチや潰瘍性大腸炎といったかつては生活が大きく制限された疾患も今では普通の生活ができるようになっています。薬でやせることができ、髪を増やすこともできるようになり、美容外科が日常となりました。人々は心身ともに若返り、元気になっているはずです……。
しかし実際には10代の若者の何割かが心を病んでいるのです。格差社会というからには「勝ち組」に入る幸運な若者もいるはずですが、そんな彼(女)らもいつ「負け組」に転落するかもしれないという恐怖に実は怯えているのではないでしょうか。
では科学も医療も発展したのにも関わらず、心が病んでいくのはなぜなのか。医療のなかでも精神医療だけが遅れているのでしょうか。それもあるでしょう。しかし最大の原因はやはり多くの識者が指摘しているように「SNSの普及」だと思います。そして、これは識者だけでなく、誰もが気付いているはずです。
もしも、世界からSNSが一掃され、SNSが存在しなかった頃の世界に戻れば、人は人間らしいつながりや絆を取り戻すことができると皆が分かっているのになぜそれができないか。それは、人はSNSの”魅惑”に取りつかれてしまっているからです。豪州では近日「16歳未満のSNSは禁止」というルールが施行されますが、すでにSNSに魅了されている若者はなんとかしてそのルールを破ろうとするに違いありません。それに16歳になれば解禁されるわけですから、仮にそれまで健全な精神を保てていたとしてもSNSの使用開始と同時に病んでいく男女が続出するでしょう。では、「20歳未満はSNS禁止」というルールを世界一斉に発令したとすればどうでしょう。その場合も、大人たちはSNSの使用をやめないわけですから、なんとかしてSNSに手を出そうとする若者が続出することになるでしょう。結局、人類がいったん知ってしまったSNSの”果実”から逃れることはできないのです。
ではなぜ人はそんなにもSNSに惑わされるのか。おそらくその答えは「SNSによりすぐに孤独から救われるから」でしょう。SNSを続けていればそのうち誰かがメッセージをくれます。人に飢えている人はそれに飛びつきます。SNSの世界ではやたら褒められて承認され、自己肯定感が生まれます。そうすると、人はこの”麻薬”を断ち切ることができなくなります。しかし、その”幸せ”は、本物の麻薬と同じように実は見せかけのものであることにそのうちに気付きます。それでも万が一くらいの確率では生涯の親友やパートナーができるかもしれないという希望が捨てられず、SNSの果てしない”夢”の前には屈するしかないわけです。
だから、悩める若者に対し「スマホを捨てよ、町へ出よう」と言ったところで絵に描いた餅に過ぎません。この言葉は「書を捨てよ、町へ出よう」と似ているようで、実は意味するところは正反対だからです。「書を捨てよ……」に説得力があるのは、「本を読んでいても本当に大切なことは分からない。人生の真の喜びは人との関係でしか生まれない」ということを我々は本能的に知っているからです。そして、街へ出たから直ちに素敵な出会いがあるわけではありませんが、少なくとも狭いアパートにこもって本を読んでいるよりははるかに期待できるわけです。他方、「スマホを捨てよ……」といっても説得力がないのは、街へ出てもいい出会いに遭遇する可能性はこの社会では限りなく低く、スマホの方がはるかに可能性が高いからです。
ではどうすればいいか。きれいな答えとはほど遠いのですが、私が診察室でときどき若者に言っているのは「スマホを持って旅に出よう」です。さすがに小中学生にこんなことを言うわけにはいきませんが、大学生やときには高校生にもこのような助言をすることがあります。「旅に出る」も「町に出る」も変わらないように感じられるかもしれませんが、旅の場合は、そしてそれが日常からかけ離れていればいるほど予期せぬハプニングやアクシデントが起こります。楽しいハプニングとは呼べないものの方が多いでしょうが、見知らぬ人と接することで、ほっこりしたり、あるいはエキサイティングな気持ちになったりすることもたまにはあるものです。どうせ人生なんて辛いことの方がずっと多いわけです。ならばSNSで完璧な自分を演じようとしてみたり、他人の不幸をかいまみてほくそえんだりするのではなく、自分が主体になって辛いことが大半の舞台に立ってそのときの”役”を演じる方がずっと意味があるのではないでしょうか……。
と、こんな感じのことをときどき診察室で若い患者さんに伝えたり、メール相談に応えたりしています。若くない人にも同じようなことを話しています……。
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|2025年3月9日 日曜日
2025年3月 医師になるつもりもなかったのに医学部に入学した理由(後編)
前回は、1つ目の大学を卒業後企業に就職したものの学問への興味が強くなり、母校の大学の先生に相談して社会学部の大学院進学を目指すようになったこと、たくさんの文献を読むようになったこと、米国の人類学者Helen Fisherの書籍を読んで神経伝達物質に興味が出てきたこと、さらに、神経伝達物質を解明することで人間の感情・思考・行動などが解読できるのではないかと考えたこと、などを述べました。今回はその続きです。
神経伝達物質で人間の感情や行動が説明できるとしても、なぜ、そしてどのように神経伝達物質がつくられるのかを知らねばなりません。当時から、人間の遺伝情報はすべて遺伝子によって決定されること、遺伝子は生涯変わらないこと、どの遺伝子が発現するかによりどのような蛋白質がつくられるかが決まること、特定の蛋白質が神経伝達物質になったり酵素として様々な体内の物質に変化を与えたりすること、などは知っていました。
ということは、どうしても究明しなければならないのはやはり「遺伝子」ということになります。当時はまだヒトのDNAの塩基配列がすべて解き明かされていませんでしたが、いずれそれらが分かる時代が来ると考えられていました。塩基配列の解明はその人間の「設計図」が明らかにされることを意味します。人が人との関係を通して学ぶ人生の教訓でさえも、所詮は遺伝子の塩基配列が決めることなのでしょうか。そう考えると虚しくなる気がしないでもないのですが、私の関心は「こうあってほしい」ではなく「真実が知りたい」でした。どうしても遺伝子を学ばなければならないという気持が強くなってきました。
ところで、遺伝子の話になると、ひとつ”場違いな言葉”が存在することが当時ずっと気になっていました。「セントラル・ドグマ」です。セントラル・ドグマとは「遺伝情報の伝達は『DNA→RNA→蛋白質』の一方通行であり、その逆はない」とするものです。DNAからRNAに遺伝情報が「転写」され、RNAの情報が蛋白質に「翻訳」されることは高校の生物でも習う基本事項です。それはいいのですが、なぜ”ドグマ”なのでしょう。
ドグマとは我々社会学(というか人文系の科学)を学んだ者からみれば「真実」を表す表現ではありません。例えば、カルト宗教の教義などを指すときに用いる、明らかにうさん臭さの伴う考えのことを指します。たしか栗本慎一郎さんが似たようなことを指摘していたと思うのですが、ドグマなどと言わず、生命科学の真理であるのなら「rule」とか「law」とか、あるいは「principle」または「theory」などでいいわけです。なぜ、いかがわしい意味がつきまとうドグマなどという言葉が用いられたのでしょう。この理由として栗本さんは「いずれ遺伝情報の流れが一方通行でないことが判ると考えられていたからだ」と指摘されていました。
そして、栗本さんの指摘どおりセントラル・ドグマは”破られ”ました。つまり「例外」があったのです。セントラル・ドグマと呼ばれていた生物学の常識を破ったのは何を隠そう「レトロウイルス」です。まだ生命科学の文献は英語で読んでいなかった当時の私でさえも「レトロ」が懐古趣味のレトロでないことくらいは分かりました。ですが、このレトロという響き、ドグマと同様、どこかワクワクしてこないでしょうか(私だけでしょうか)。
ワクワクする言葉はドグマ、レトロだけではありません。レトロウイルスのレトロはreverse transcriptase、つまり「逆転写酵素」からきています。この「逆転写」、そして「逆転写酵素」という響きもどこか魅惑的に感じられないでしょうか。「ドグマ」「レトロ」「逆転写(酵素)」とくると、なんだかこれまで体験したこともない不思議な時空間に放り出された気分にならないでしょうか(私だけでしょうか)。
まだあります。逆転写酵素はレトロウイルスの持つ遺伝子によってつくられます。その遺伝子には3種類あり、それぞれの名前を「ギャグ(gag)」「pol(ポル)」「env(エンヴ)」というではないですか。ギャグ、ポル、エンヴというこの響きも妙にワクワクしてこないでしょうか(私だけでしょうか)。
そういうわけで、セントラル・ドグマを打破したのは人間ではなくウイルスであり、そのウイルスに関連した用語が、レトロ、逆転写(酵素)、ギャグ、ポル、エンヴというのです。誰からも理解してもらえないと思いますが、これらの言葉の響きが「もっと詳しく学びたい!」という私の気持ちを強くしたのです。
話はまだ続きます。先に述べたように、私にとってドグマという言葉には「本当は正しくないけれど人々が信じ込まされている誤った考え」というイメージがあります。その「誤った考え」を暴いたのがレトロウイルスです。ということは、ここまでを振り返れば、レトロウイルスとは「正義の味方」のようなイメージになります。
ところが、90年代前半も今も、レトロウイルスの代表といえばHIVです。逆転写酵素を”武器”に、ギャグ・ポル・エンヴの”三兄弟”を引き連れて、セントラル・ドグマに”戦い”を挑んで”真実”を暴いたレトロウイルスの”本性”は人間を死に至らしめるHIVだったのです。しかもその方法が、逆転写酵素を使って「ドグマ」を打破し、自らのRNAの遺伝子をDNAに変換した上で人の遺伝子のなかに忍び込ませるというなんとも巧妙な手口を駆使するのです。
このように、レトロウイルスの存在は90年代前半、つまり医学部受験を考える前の時期の私にとって衝撃的な「遺伝子に関する出来事」だったのですが、当時、世間では遺伝子といえば別のことが話題をさらっていました。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』です。ドーキンスによれば、人間の行動はすべて遺伝子に支配されていて、一見利他的に見える行動(「人間らしい行動」と呼べるかもしれません)はすべて遺伝子が規定したものであり、実際には利他的でも何でもなく、遺伝子にとって有利なものに他ならないというのです。
そんなことがあってもいいのでしょうか。私がそれまでの人生で感動を覚えていた親友や先輩の仁義ある行動が、あるいは当時のパートナーの献身的な行為が、その人たちの遺伝子が利己的に決めたものだとでも言うのでしょうか。しかし『利己的な遺伝子』を読めば(和訳版で読みました)ドーキンスの理屈は間違ってなさそうです。
少し前まで、社会学や人類学を極めれば人間の感情・思考・行動といったものが解き明かせるに違いない、ひいては人間は何のために生まれて来たのかが解明できるに違いない、と考え、私は社会学部の大学院進学を目指していました。しかし、ドーキンスの理屈を拡大して解釈すれば、ヒトの行動はすべて遺伝子で決まることになってしまいます。
ここまでくればもうあとには引けません。Helen Fisherの『Anatomy of Love』を読んで神経伝達物質が恋愛までも支配していることを知ってしまい、”ドグマ”を打破したレトロウイルスの正体が人間を死に追いつめるHIVであることを知り、そして、ドーキンスからは「人間の利他的な行動なんて本当は存在しない」と言われ、それまでの私が培ってきた人間に対する美徳が貶されてしまったのです。こうなれば、私自身がこれらの学問を極めて真実を解き明かすしかありません。
同時に、当時の私は社会学や人文科学を超えた現代思想や精神分析学への探求も続けていました。ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガタリなどの書籍に触れ、難解ながらも解読することを試みていたのです。
そういった書籍を原書(仏語)でマスターし、興味を持ち始めたばかりの生命科学を極め、そしてこれらを”融合”すれば、すべてが解き明かされ「人間の正体」が解明できるのではないか、そしてそれを白日の元に晒すことが私が目指す道ではないか。そんな大それたことは成功しないにしてもそれを突き詰めることが自分が進むべき人生ではないか、と思うようになっていったのです。
そして医学部を受験し合格しました。当時の私は臨床すなわち医者になることにはまったく関心がなく、入学と同時に基礎医学の分厚い原書を大量に買い込み、仏語の勉強を基礎から始め、少しのアルバイトと友達とたまに会う時間を除けば学問に没頭する日々に耽溺していきました。その後挫折することになるのですが……。
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