2025年3月9日 日曜日
2025年3月 医師になるつもりもなかったのに医学部に入学した理由(後編)
前回は、1つ目の大学を卒業後企業に就職したものの学問への興味が強くなり、母校の大学の先生に相談して社会学部の大学院進学を目指すようになったこと、たくさんの文献を読むようになったこと、米国の人類学者Helen Fisherの書籍を読んで神経伝達物質に興味が出てきたこと、さらに、神経伝達物質を解明することで人間の感情・思考・行動などが解読できるのではないかと考えたこと、などを述べました。今回はその続きです。
神経伝達物質で人間の感情や行動が説明できるとしても、なぜ、そしてどのように神経伝達物質がつくられるのかを知らねばなりません。当時から、人間の遺伝情報はすべて遺伝子によって決定されること、遺伝子は生涯変わらないこと、どの遺伝子が発現するかによりどのような蛋白質がつくられるかが決まること、特定の蛋白質が神経伝達物質になったり酵素として様々な体内の物質に変化を与えたりすること、などは知っていました。
ということは、どうしても究明しなければならないのはやはり「遺伝子」ということになります。当時はまだヒトのDNAの塩基配列がすべて解き明かされていませんでしたが、いずれそれらが分かる時代が来ると考えられていました。塩基配列の解明はその人間の「設計図」が明らかにされることを意味します。人が人との関係を通して学ぶ人生の教訓でさえも、所詮は遺伝子の塩基配列が決めることなのでしょうか。そう考えると虚しくなる気がしないでもないのですが、私の関心は「こうあってほしい」ではなく「真実が知りたい」でした。どうしても遺伝子を学ばなければならないという気持が強くなってきました。
ところで、遺伝子の話になると、ひとつ”場違いな言葉”が存在することが当時ずっと気になっていました。「セントラル・ドグマ」です。セントラル・ドグマとは「遺伝情報の伝達は『DNA→RNA→蛋白質』の一方通行であり、その逆はない」とするものです。DNAからRNAに遺伝情報が「転写」され、RNAの情報が蛋白質に「翻訳」されることは高校の生物でも習う基本事項です。それはいいのですが、なぜ”ドグマ”なのでしょう。
ドグマとは我々社会学(というか人文系の科学)を学んだ者からみれば「真実」を表す表現ではありません。例えば、カルト宗教の教義などを指すときに用いる、明らかにうさん臭さの伴う考えのことを指します。たしか栗本慎一郎さんが似たようなことを指摘していたと思うのですが、ドグマなどと言わず、生命科学の真理であるのなら「rule」とか「law」とか、あるいは「principle」または「theory」などでいいわけです。なぜ、いかがわしい意味がつきまとうドグマなどという言葉が用いられたのでしょう。この理由として栗本さんは「いずれ遺伝情報の流れが一方通行でないことが判ると考えられていたからだ」と指摘されていました。
そして、栗本さんの指摘どおりセントラル・ドグマは”破られ”ました。つまり「例外」があったのです。セントラル・ドグマと呼ばれていた生物学の常識を破ったのは何を隠そう「レトロウイルス」です。まだ生命科学の文献は英語で読んでいなかった当時の私でさえも「レトロ」が懐古趣味のレトロでないことくらいは分かりました。ですが、このレトロという響き、ドグマと同様、どこかワクワクしてこないでしょうか(私だけでしょうか)。
ワクワクする言葉はドグマ、レトロだけではありません。レトロウイルスのレトロはreverse transcriptase、つまり「逆転写酵素」からきています。この「逆転写」、そして「逆転写酵素」という響きもどこか魅惑的に感じられないでしょうか。「ドグマ」「レトロ」「逆転写(酵素)」とくると、なんだかこれまで体験したこともない不思議な時空間に放り出された気分にならないでしょうか(私だけでしょうか)。
まだあります。逆転写酵素はレトロウイルスの持つ遺伝子によってつくられます。その遺伝子には3種類あり、それぞれの名前を「ギャグ(gag)」「pol(ポル)」「env(エンヴ)」というではないですか。ギャグ、ポル、エンヴというこの響きも妙にワクワクしてこないでしょうか(私だけでしょうか)。
そういうわけで、セントラル・ドグマを打破したのは人間ではなくウイルスであり、そのウイルスに関連した用語が、レトロ、逆転写(酵素)、ギャグ、ポル、エンヴというのです。誰からも理解してもらえないと思いますが、これらの言葉の響きが「もっと詳しく学びたい!」という私の気持ちを強くしたのです。
話はまだ続きます。先に述べたように、私にとってドグマという言葉には「本当は正しくないけれど人々が信じ込まされている誤った考え」というイメージがあります。その「誤った考え」を暴いたのがレトロウイルスです。ということは、ここまでを振り返れば、レトロウイルスとは「正義の味方」のようなイメージになります。
ところが、90年代前半も今も、レトロウイルスの代表といえばHIVです。逆転写酵素を”武器”に、ギャグ・ポル・エンヴの”三兄弟”を引き連れて、セントラル・ドグマに”戦い”を挑んで”真実”を暴いたレトロウイルスの”本性”は人間を死に至らしめるHIVだったのです!
このように、レトロウイルスの存在は90年代前半、つまり医学部受験を考える前の時期の私にとって衝撃的な「遺伝子に関する出来事」だったのですが、当時、世間では遺伝子といえば別のことが話題をさらっていました。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』です。ドーキンスによれば、人間の行動はすべて遺伝子に支配されていて、一見利他的に見える行動(「人間らしい行動」と呼べるかもしれません)はすべて遺伝子が規定したものであり、実際には利他的でも何でもなく、遺伝子にとって有利なものに他ならないというのです。
そんなことがあってもいいのでしょうか。私がそれまでの人生で感動を覚えていた親友や先輩の仁義ある行動が、あるいは当時のパートナーの献身的な行為が、その人たちの遺伝子が利己的に決めたものだとでも言うのでしょうか。しかし『利己的な遺伝子』を読めば(和訳版で読みました)ドーキンスの理屈は間違ってなさそうです。
少し前まで、社会学や人類学を極めれば人間の感情・思考・行動といったものが解き明かせるに違いない、ひいては人間は何のために生まれて来たのかが解明できるに違いない、と考え、私は社会学部の大学院進学を目指していました。しかし、ドーキンスの理屈を拡大して解釈すれば、ヒトの行動はすべて遺伝子で決まることになってしまいます。
ここまでくればもうあとには引けません。Helen Fisherの『Anatomy of Love』を読んで神経伝達物質が恋愛までも支配していることを知ってしまい、”ドグマ”を打破したレトロウイルスの正体が人間を死に追いつめるHIVであることを知り、そして、ドーキンスからは「人間の利他的な行動なんて本当は存在しない」と言われ、それまでの私が培ってきた人間に対する美徳が貶されてしまったのです。こうなれば、私自身がこれらの学問を極めて真実を解き明かすしかありません。
同時に、当時の私は社会学や人文科学を超えた現代思想や精神分析学への探求も続けていました。ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガタリなどの書籍に触れ、難解ながらも解読することを試みていたのです。
そういった書籍を原書(仏語)でマスターし、興味を持ち始めたばかりの生命科学を極め、そしてこれらを”融合”すれば、すべてが解き明かされ「人間の正体」が解明できるのではないか、そしてそれを白日の元に晒すことが私が目指す道ではないか。そんな大それたことは成功しないにしてもそれを突き詰めることが自分が進むべき人生ではないか、と思うようになっていったのです。
そして医学部を受験し合格しました。当時の私は臨床すなわち医者になることにはまったく関心がなく、入学と同時に基礎医学の分厚い原書を大量に買い込み、仏語の勉強を基礎から始め、少しのアルバイトと友達とたまに会う時間を除けば学問に没頭する日々に耽溺していきました。その後挫折することになるのですが……。
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