2013年6月22日 土曜日

119 絶対に許せないイタズラ電話 2012/12/21

わいせつ事件や違法薬物など到底許されるものではない犯罪で逮捕される医師が少なくない、ということを昨年(2011年)と一昨年(2010年)の12月のこのコラムで述べており、なんとなく年末には医師の犯罪について一年を振り返ることが恒例になってしまうのかな、と感じていたところ、イギリスからとんでもないニュースが伝わってきたので、今回はこの事件について取り上げたいと思います。

 これは今年私が最も怒りを感じた事件のひとつです。

**********

 2012年12月7日9時35分、ロンドン中央部に位置するウエーマス通り(Weymouth Street)で(一部の報道では看護師寮と言われています)ひとりの女性が意識不明との通報がロンドン警視庁に寄せられました。女性はすでに死亡しており、鑑識によれば他殺の可能性はなく警察は自殺と断定しました。

 この女性は、ジャシンタ・サルダナ(Jacintha Saldanha)さん、ロンドンの名門病院キング・エドワード7世病院に勤務する46歳の看護師で二児の母親でもあります。

 なぜサルダナ看護師は自殺しなければならなかったのか。事件は3日前にさかのぼります。

 2012年12月4日、ロンドン時刻で早朝の5時30分に1本の電話がキング・エドワード7世病院にかかってきました。通常外部からの電話は専門のオペレータがとりますが、その時間帯はオペレータがおらず、夜勤の看護師として勤務していたサルダナ看護師が取りました。

 電話をかけてきたのは男女二人で、なんとエリザベス女王とチャールズ皇太子だと名乗ります。実は、12月3日に第一子の妊娠が発表されたキャサリン妃はこの病院に入院していたのです。つわりがあまりにもひどいために入院が必要であったと報道されています。電話をとったサルダナ看護師はさぞかし驚いたことでしょう。受話器の向こう側の男女が女王と皇太子なわけですから緊張しないはずがありません。

 キャサリン妃の容態を知りたい、と皇太子と女王に言われたサルダナ看護師は、この電話をキャサリン妃の担当看護師につなぎました。そして、担当看護師はキャサリン妃の容態を皇太子と女王に電話で伝えました。

 ところが、この電話がイタズラ電話だったのです。女王と皇太子になりすまして電話したのはオーストラリアのラジオ局『2DayFM』の番組「The Summer 30」でパーソナリティをつとめるメル・グレイグ(Mel Greig)とマイケル・クリスチャン(Michael Christian)の2人でした。

 キャサリン妃の容態はラジオで報道されることになりました。そして、守秘義務を守れなかったサルダナ看護師は強い責任を感じ自殺という道を選択するまでに追い詰められたのです。この事件を報道しているBBC(注1)によりますと、キング・エドワード7世病院は、サルダナ看護師を「大勢の患者さんに献身的な看護をしてきた一流の看護師(a first-class nurse)」と敬意を表しています。

 イタズラ電話をかけたラジオ局の代表取締役であるリース・ホラーラン(Rhys Holleran)氏は、記者会見を開き、「誰も予測できなかった悲劇であり深く悲しんでいる」とコメントしていますが、同時に「このようなイタズラ電話は昔から行われていることで、法律的には何ら問題がない」と述べています。報道からは謝罪の言葉は一切伝わってきません。

**********

 オーストラリアは英連邦王国に属するひとつの国ではありますが、それでも一般のイギリス人からみればオーストラリア人は外国の人間です。その外国人の悪質極まりないイタズラ電話で自国の看護師が自殺に追い込まれたということに対し、イギリス人はどのような感情を持っているのでしょう。

 この事件を伝えているBBC(注1)は、あからさまにはこのラジオ局やイタズラ電話をした2人のDJに対して非難をしていないように見受けられますが、それでも、真剣な表情をしたサルダナ氏の写真を大きく載せ、同時に2人のDJがのんきに笑っている写真を掲載し、必死で記者会見に応じているようにみえるラジオ局代表取締役の写真も合わせて載せていることから考えて、イギリスの世論は相当怒りを感じているのだと思われます。

 この事件を聞いた人のなかには、「プロの看護師ならなぜイタズラ電話を見抜けなかったのか」とか「本人確認をせずに電話をとりつぐことがおかしいのではないか」と感じる人もいるかもしれません。

 実際、医療機関にはなりすまし電話がかかってくることがしばしばあります。家族を名乗る人や、自称「上司」という人、ひどい場合は弁護士を名乗るとか、あるいは警察のふりをして電話をかけてくる人もいます。我々医療者はそういうことがあることをわかっていますから、患者さんの容態を教えてほしいという電話があったときは、慎重に本人確認をします。

 例えば、警察から電話がかかってきたときには、警察署と内線番号を聞いて、いったん電話を切ってこちらからかけ直すようにします。太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)にもときどき警察からの電話がかかってきます。事件の加害者も被害者も病気にはなりますから医療機関の受診内容が事件解決の手がかりになるということもあるのです。実際、谷口医院の患者さんのなかにも、マスコミで報道された大きな事件の被害者もおられますし、報道されないような事件の加害者も過去に何人かいました。余談になりますが、報道されないけれども悪質な事件が世の中にはたくさんあることを、医師をしていれば実感せざるを得ません。

 話を戻しましょう。医療者であれば、患者さんに関する外部からの問い合わせには慎重すぎるほど慎重になります。それを考えると、一見サルダナ看護師のとった行動は軽率に思われるかもしれません。しかし、電話の相手が女王と皇太子となると動転するのも無理もありません。「失礼ですが、本人確認のためにこちらから(皇室に)かけ直します」と言えるでしょうか。もしもそのようなことを言ってしまうと、後で病院から「あなたは皇室に対して大変失礼なことをしました。これは解雇の理由になります」と言われるかもしれません。サルダナ看護師がこの電話を担当看護師に取り次いだときは相当悩まれたと思いますが、よく考えた上での判断だったのでしょう。

 裏をかえせばそれだけこのイタズラ電話が巧妙だったということです。ですからラジオ局のパーソナリティとしてはこの2人は一流なのかもしれません。報道によれば、この2人のDJは事件の後相当ふさぎこんでいるようです。しかしどのような謝罪の言葉を述べようが、サルダナ看護師の遺族はこの2人を許せないのではないでしょうか。

 この2人のDJにもこれからの人生があります。ならば、この事件をいろんなところで取り上げて(なぜか日本のマスコミはこの事件をそれほど報道していません(注2))、このようなイタズラ電話は許されるものではない、ということを世界中にアピールするような活動をやってもらえないでしょうか。

 同じ医療者である私が言っても説得力がないかもしれませんが、どこの国でもほとんどの医療者は疲弊しています。そして、ほとんどの医療者は他人を疑うことが得意ではありません。他人を疑うことが得意でない疲弊した人間を騙すことはおそらくそうむつかしくないでしょう。今後同様の事件が起こらないことを願いたいと思います・・・。

注1:下記のURLでBBCの記事と写真が閲覧できます。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-20649816
 
注2 例えば日経新聞では、この事件の直後の2012年12月16日の社会面で「揺れる英大衆紙 盗聴取材で批判」というタイトルで、イギリスのマスコミ(主にタブロイド紙)がいきすぎた取材をしていることを非難していますが、サルダナ看護師の自殺については一切触れていません。また、日本のいくつかの大衆誌は、フランスの芸能誌がキャサリン妃の盗撮トップレス写真を掲載したときに記事にしたようですが、やはりサルダナ看護師の自殺についてはほとんど取り上げていないようです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第118回(2012年11月) 解剖実習が必要な本当の理由

 医学部受験を考えているという人から「成績が悪いので不安です」と相談されることがよくあります。こういう質問に対しては、ほぼ例外なく「頑張りましょう」と私は答えています。ところが、「僕は、人の死体を解剖する自信がありません。医学部はやめた方がいいでしょうか・・・」と聞かれることがあり、このときの返答には悩まされます。

 というのも、解剖実習に耐えられなくて、せっかく苦労して医学部に入学したのだけれども退学せざるを得ない、という人が実際にいるからです。

 解剖実習はだいたいどこの大学医学部でも2回生のときにおこなわれます。私の母校の大阪市立大学医学部でも2回生の4月から解剖実習が始まりました。その解剖実習のときに初めて会う「先輩たち」がいます。その先輩たちとは、要するに解剖学の単位が取得できずに留年した人たちです。多くは、勉強不足で解剖学の試験に合格できなかった人たちですが、なかにはテストができなかったのではなく実習に耐えられなくなり途中でドロップアウトしたという人もいるのです。私が2回生になったとき、そのような先輩が1人いました。

 私はその先輩とは一度も話したことがなく名前も覚えていませんが、たしか2年連続で解剖実習を途中でリタイヤし、その年を最後のチャンスと考えている、といったようなことを人づてに聞いた記憶があります。過去2年間は、がんばってみたもののどうしても、ご遺体に向き合いメスを入れる、ということに耐えられなくなり途中から実習に参加できなくなったそうです。3年目は、「今年こそ!」という気持ちで望まれたのでしょう。たしか、実習に対する態度はどの学生よりも熱心だったように覚えています。しかし、2ヶ月が経過したかどうかという頃だったと思います。ある日から実習に来られなくなり、その後一度も会うことはありませんでした。その人が現在何をされているのかも分かりません。

 大阪市立大学医学部のこの私の先輩のように、どこの大学でも解剖実習に耐えられなくて退学する医学生がいるそうです。だいたい、2~3年に1人くらいそのような学生がいて、不思議なことに男性ばかりのようです。たしかに、解剖実習に耐えられなくて退学した女子学生、の話は今も聞いたことがありません。

 私は、この解剖実習に耐えられなくて退学していった人たちと話をしたことがないのですが、退学という選択が苦渋の決断であったに違いありません。医学部入学は簡単ではありませんから、退学してしまうとその苦労が無駄になるという気持ちも出てくるでしょうし、家族など周囲からも残念に思われることでしょう。しかし、耐えられないものは耐えられないのであって、誰も彼らを責めることはできません。

 このような現実があるから、冒頭で述べたように「解剖実習が不安なので医学部受験が心配・・・」という人に対して、どのように返答すべきか悩まされるのです。訓練すれば解剖に耐えられるようになるのか、持って生まれたものであり耐えられない人は何をしても耐えられないのか、私にはこの答えが分かりません。しかし、何の抵抗もなく解剖実習がおこなえる、という人もまたほとんどいないと思われます。

 ご遺体に対面したときのことは、私は今でも鮮明に覚えています。初めから顔を拝見することはできず、まずは右上肢をおそるおそる視界に入れ、ホルマリンに保管されてやや黄色に変色した皮膚の色に自分の目をならしました。そして、体全体を眺めるように視線を動かし、最後に顔を拝見しました。視界に入るこの光景が日常から隔絶されたような感覚をもたらせますが、鼻腔を刺激するホルマリンの臭いがさらに非日常さを増幅します。医学部に来たんだ、という実感が、合格通知を受け取った日や入学式以上に重たく感じられたのはおそらく私だけではないでしょう。

 この日から私は医師の仲間入りをしたような感覚にとらわれました。最初にご遺体にメスを入れるときは緊張し、「この人はどんな人生を歩まれたのだろう・・」などと考えていましたが、1週間もすれば、そのような気持ちは次第に薄れていきました。最初の数日間は肉が食べられませんでしたが、そのうちに実習終了直後から普通に食事ができるようになりましたし、覚えなければならない筋肉、血管、神経などのことで頭がいっぱいになっていきました。もはや感傷的な気持ちに浸っている余裕はありません。

 解剖実習では筆記試験以外に口頭試問があります。これは、ご遺体の横に1人で立たされ、その場で先生から、例えば「肩甲下動脈と胸背動脈を示しなさい」といった問題が出題されるのです。学生はピンセットを持って、これら動脈を探し出して先生に提示しなければなりません。このような問題が4~5問ほど出題され、これが実習中を通してたしか4回ほどあったと思います。この口頭試問で不合格となれば、筆記試験ができたとしても留年となってしまいます。ですから学生としてはまさに必死であり、とてもご遺体に対するセンチメンタリズムを感じている余裕はないのです。

 解剖実習を終了するというのは、医学部の学生にとって儀式を通過したような意味があるのではないか、と私は考えています。ご遺体にメスを入れることによって、生命の重さを感じるのと同時に、人間を「治療の対象」とみることができるようになるのではないかと思うのです。医学部の学生はその後、臨床実習で手術を見学することになりますが、解剖実習を経ていなければ、手術を冷静に観察することはできないでしょう。もちろん、実際に手術をすることもできません。

 顔面を包丁で何箇所も切られていたり、腹部を刺されて腸管が飛び出していたり、あるいは電車に引かれて足が切断されていたり、といった症例を救急の現場で私は何度も経験しましたが、我々医師は誰一人、そのような光景におびえたりとまどったりしません。一般の人からは「目の前の患者さんを救いたいという気持ちがあるからこそなんですね」とかっこよくみてもらえるかもしれませんが、実はそのような高尚なものではありません。どのような状態の患者さんをみても戸惑うことがないのは、医師として高い倫理観を持っているから、といったものではなく、解剖実習という”儀式”を通過しているからではないか、そしてその”儀式”を経ることによって医師という職業人のいわば”本能”が培われるのではないか、と私は考えています。

 切断や顔面の切傷などの外傷をみても怖くないの?、というもの以外に、一般の方からときどき受ける質問に「異性の裸をみてドキドキすることはないの?」というものがありますが、これも普通の医師であれば、まったくありません。誤解を恐れずに言えば、我々は患者さんを「同士としての人間」とはみていません。「物」としてみているわけではありませんが、「患者さん」は「患者さん」なのです。患者さんの歩き方、目線のやり方、声の大きさやトーン、話すときの仕草やクセ、そのようなことすべてに注目しています。(男性)医師が、「外陰部がかゆい」と訴える若い女性の外陰部を診察するとき、周囲も含めて外陰部に、発赤や丘疹など異状所見はないか、帯下(おりもの)の性状や量、臭いに異常はないか、といったことをみていき、瞬時に必要な検査を考えて実施していきます。このとき男性医師はこの患者さんを「異性」とはみていないのです。

 同じように「好みのタイプの患者さんがやってきたらデートに誘いたくなることはないの?」と聞かれることがありますが、これもまともな医師であればありません。つまり、医師からみれば患者さんは「恋愛」はもちろん「友達」の対象にさえもならないのです。一般の方からは分かりにくいかもしれませんが、これは不文律のようなものです。米国では、実際に倫理規定として指針が文章で示されています(注1)。わざわざ言葉にしなくても日本人からすれば常識なのに・・、と思いますが、米国ではきっちりと文章にする必要があるのでしょう。

 患者さんを「同士の人間」ではなく「患者さん」とみることができるようになるのは解剖実習という”儀式”を経たからではないか、私はこのように考えています。つまり、外傷で原形を残していないような患者さん(あるいはご遺体)をみても、異性(同性も)の外性器をみても、美しい女性(や男性)をみても、冷静に診察ができるのは、解剖実習を経験しているから、と私は思うわけで、解剖実習はどのような医師になるにしても避けることができない、というのが私の考えです。

 解剖実習に不安がある、という医学部受験生の気持ちはわからないではないのですが、何と助言していいのか悩まされます・・・。

注1:アメリカ医師会(American Medical Association、AMA)の「医療倫理の指針」(AMA Code of Medical Ethics)に、患者との性的接触についての項目があります。下記に一部を示し、下に簡単な和訳を記しておきます。

Sexual contact that occurs concurrent with the patient-physician relationship constitutes sexual misconduct. Sexual or romantic interactions between physicians and patients detract from the goals of the physician-patient relationship, may exploit the vulnerability of the patient, may obscure the physician’s objective judgment concerning the patient’s health care, and ultimately may be detrimental to the patient’s well-being.

患者と医師の性的接触は不正行為に相当する。 医師と患者の性的関係、あるいはロマンスは、医師と患者のあるべき関係を損ない、患者の弱い立場が悪用される可能性があり、また医師の客観的な判断を鈍らせる可能性がある。つまり、患者にとって有害となり得るのである。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

117 医師の勤務時間・年収の実態 2012/10/20

 毎年夏が終わる頃になると、受験の相談のメールが増えるようになります。現役の高校生や浪人生からの「医学部を目指しています」というものもあれば、現在何らかの仕事をしている人、あるいは無職の人から「医学部再受験を考えています」、というものもあります。

 メールの内容は大変熱心で真摯なものもあれば、そうでないものもあります。「そうでないもの」とはどのようなものかというと、代表的なのが「勤務条件がいいから医師になりたい」、もっと端的に言えば「医師になって金を稼ぎたい」というものです。

 動機がどのようなものであれ、与えられた仕事をまっとうしそれに見合う報酬を受け取ることには何の問題もないではないか、という意見もあるでしょうが、「医師という仕事そのものに魅力を感じなければ医師は目指すべきでない。もしも勤務条件を医師という職業選択のただひとつの理由と考えるなら後悔することになる」、というのが私の考えです。

 「m3.com」という医師向けのウェブサイトがあります。サイトの案内によれば、m3.comは、全国の医師20万人以上が登録している「日本最大規模の医療専門サイト」だそうです。最近、このm3.comが医師の勤務状況に関してアンケート調査をおこないました。

 その調査によりますと、勤務医の平均時給は2,643円、平均年収は1,442万円だそうです。

 この数字をみてあなたは何を感じるでしょうか。私自身はこれら2つの数字をみて「まさか、これほどとは・・・」と驚きました。そのことについて述べる前に、この調査について少し詳しくみておきましょう。

 m3.comは、医師会員を対象とし、2012年9月14~15日にアンケート調査を実施しました。回答者は、勤務医270人と開業医231人の合計501人だったそうです。せっかくこのような調査をおこなうなら、もう少し母数を増やして調査の信憑性を上げてもらいたい、と感じますが、同サイトはこれで充分と判断としたのでしょう。

 時給については、「昨年の1ヶ月の平均休日数」のデータを基に、「年収÷12÷(30-休日)÷勤務時間」の計算式で算出しているそうです。

 さて、私が驚いたことですが、勤務医の平均時給が2,643円、平均年収が1,442万円ですから、単純にこれらから年間労働時間を計算すると、14,420,000円÷2,643円/時=5,456時間となります。これを月にしてみると、5,456÷12=455時間!となります。

 現在労働法で定められている標準的な労働時間は、1日8時間x週5日=40時間です。1月4週とすると40時間x4週=160時間となります。現行の労働安全衛生法によれば、月平均の時間外・休日労働時間が80時間を越えれば産業医の面談を受けなければならないことになっています。以前弁護士に聞いたことがあるのですが、最近はだいたい月150時間以上の時間外・休日労働があれば過労死を含む労災が認められる傾向にあるそうです。

 今回のm3.comの調査から算出された勤務医の月平均の時間外・休日労働時間は、455-(40 × 4週)=295時間!となります。150時間で労災が認定されるなら、大半の勤務医は、うつなどの精神症状や何らかの身体症状が生じれば、過重労働が原因、と容易に認められることになるでしょう。

 月あたり455時間という数字を考えてみましょう。休日ゼロと仮定すれば、1日あたりの労働時間は15.17時間(455時間÷30日)となります。毎日休みなく、1日15時間以上働く気合いと体力がなければ勤務医はつとまらない、というわけです。

 では、開業医はどうかというと、m3.comの調査によれば、開業医の平均時給は4,333円、平均年収は2,156万円となっています。これをみれば、開業医ははるかに勤務医より恵まれている!、となりますが、実際はそうではありません。以前も述べたことがありますが(下記コラムも参照ください)、開業医の7割は診療所・クリニックを医療法人としていません。医療法人にしていなければ診療所・クリニックの経常利益がそのままその開業医の年収と計上されます。しかし、実際はここから高い税金を払い(給与所得控除が認められませんから税率はかなり高い)、残ったお金から借入金の返済をしなければならないのです(借入金の利子は経費として認められますが借入金そのものは認められません)。この手の調査は「勤務医vs開業医」とするものが多いのですが、実際は医師になっていきなり開業医となる者はいませんし、開業をしながら勤務医として週1~2回は勤務医としても働いている医師もいますから、2項対立の構図を描くことはあまり意味がありません。

 以前私は自分の年収から時給を計算したことがあります。(太融寺町谷口医院は医療法人にしていますから収入は勤務医と比較しやすい) その結果は、上に述べた勤務医の時給よりはいくらか高いのですが、逆に年収はいくらか低くなります。ということは、私は平均の勤務医ほど働いていない、ということになります。「開業医でラクをしているのはけしからん! 勤務医を見習って働け!」という意見もあるかもしれませんが、それでも私の月あたりの労働時間は320~350時間ほどになっています。一般の労働者で、残業なし、休日出勤なしの場合、勤務時間は40時間x4週=約160時間/月、ですから、すでに私のレベルでもこの倍以上働いていることになります。

 私自身も産業医としてときどき労働者の面談をすることがあります。月あたりの時間外・休日労働時間が80時間を越えている人に対し、「こんな状態が続くといろんな病気のリスクになりますよ」などと話していますが、心の中では「説得力ないなぁ・・・」と感じているのが正直なところです。

 もしもあなたにとって興味のない仕事を「時給2,643円あげるから月に400時間やりなさい」と言われればどうするでしょうか。おそらく大半の人は辞退して他の仕事を探すでしょう。しかし、私は「こんなに過酷なんだから医師になるのはやめなさい」と言っているわけではありません。その逆に、それでも医師は魅力ある職業だ、と言いたいのです。

 月あたり455時間の労働時間は、すべて外来や手術などで患者さんと接している時間だけではないはずです。このなかには勉強と呼ぶべき時間も含まれているでしょう。つまりカルテをみながら、複数の教科書を広げ、いくつもの論文に目を通している時間が相当入っているはずです。また、学会や研究会での発表の資料を作る時間や、そのための勉強時間も含まれているのではないかと思われます。(私が算出した自分の労働時間にはそのような時間も含めています) そして、こういった仕事と勉強の中間のようなことをするのは大変楽しいことなのです。楽しいですし、学んだことを治療にいかせることができるのです。そして担当している患者さんが元気になることが期待できるわけです。
 
 もしも「医師は年収が高い。高い年収をもらえるなら興味のないことでも我慢してがんばろう」などと思っている人がいるなら医学部受験は辞めるべきでしょう。これからの人生が大変不幸なものになります。

 その逆に、「医師の仕事は自分にとってとても興味深い。だから目指すんです」とか「目の前の患者さんの力になりたい。そのためなら過酷な労働条件にも耐えます」、という人は是非医学部を目指してください。

 過酷な労働条件に不安を持つ人もいるでしょう。私自身も、もう少し勤務時間を減らしたいと考えています。医師増員に反対する医師がいるのは事実ですが、行政としては医学部の定員を増やす方向にありますし、医学部新設も検討されています。将来的には、少しくらいは労働時間を減らすことが期待できます。

 さあ、あなたも医学部を目指しませんか?

参考:メディカル・エッセィ第106回(2011年11月) 「開業医は儲かる」のカラクリ」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

116 待つ苦痛と待たせる苦痛 2012/9/20

外来患者の4人に1人が病院で診察を受けるまでの待ち時間に不満を持っている・・・

 2012年9月11日、厚生労働省は2011年の「受療行動調査」を公表しました。上記は、そのなかの「待ち時間」に関する調査結果です。この調査は2011年10月18日から20日の3日間、厚労省が無作為に抽出した全国の500病院(岩手・宮城・福島を除く)を受診した患者約10万人が対象となっています(注1)。

 外来での不満で最も多い原因が「診察までの待ち時間」で25.3%、2位が「診察時間」の7.8%、3位が「精神的なケア」で6.0%となっています。

 待ち時間に関して詳しくみてみると、「待ち時間に非常に不満」は6.9%、「やや不満」が18.4%で、合わせて25.3%にのぼります。実際の待ち時間は「15分未満」が21.6%、「15分以上30分未満」が22.6%、「30分以上1時間未満」が21.0%と、「1時間未満」が全体の65.2%を占めます。

 この調査を正確に読むには少し解説が必要であり、また医療者からの観点も述べておいた方がいいと思います。

 まず、この調査の対象となっているのは「20床以上の病院」のみです。通常(大きな)病院であれば「予約制」を引いていることの方が多いですから、予約がなかなか取れないという問題はありますが、待ち時間はそれほど長くないはずです。ではなぜ25%以上もの人が「待ち時間が長い」と考えているかというと、予約制を引いていない病院もあるということ、予約外でもみてもらえるが予約優先のため相当時間待たなければならない病院があるということ、そして、予約制なのだけれど医師の診察が長引いてそれが積み重なって待ち時間が長くなっていること、などがあるからです。

 厚労省の調査結果によれば「1時間未満」の待ち時間が65.2%となっています。私はこの数字をみて驚きました。それは、約3分の2の患者さんの待ち時間が1時間以内であり、にもかかわらず待ち時間に不満を感じている人が4人に1人以上となっていることに対してです。

 厚労省のこの調査は20床以上の病院が対象です。もしもクリニックや診療所を調査に加えれば、待ち時間の平均は短くても2時間程度にはなるでしょう。そして、「待ち時間の不満」は・・・、ちょっと想像するのが怖いくらいです。

 患者さんの立場に立って医療をおこなう、というのは医療の原則ですが、今回は「医療者の立場に立って待ち時間を考える」ことにお付き合いいただきたいと思います。

 我々医療者も職場を離れれば一人の市民ですから、レストランや買い物で並んで待つこともありますし、患者として医療機関を受診して待たされることもあります。そんなときは「こちらも忙しいんだから早くしてくれ!」と叫びたい気持ちになることがあります。ですから、(言い訳がましいですが)我々は患者さんに「病院では待つのが当然のことです」と思っているわけでは決してありません。我々としても、患者さん(多くは早く帰宅して安静にする必要がある!)の診察はできる限り早くしてできる限り早くお帰りいただきたいと考えているのです。

 「待つ苦痛」が辛いことは承知していますが、「待たせる苦痛」も相当辛いものです。太融寺町谷口医院の会議では、待ち時間対策として「患者さんが1秒でも早く帰れるように何ができるかを考える」ことにしていて、毎回のようにスタッフ全員で検討しています。私自身も、例えば、カルテには診察時間には必要最低限のことだけ記載して不足分は後で書くようにしていますし(そのため診察後のカルテ記載時間は1日あたり3~4時間になります)、診察室を離れてレントゲンの撮影をおこなうときには、どちらの足から踏み出せば診察室を早く出られるか、といったことまで考えています。

 また、診察そのものを短くするために、可能な限り早口で話すようにしています。このため、私の話し方が早すぎる、と感じている患者さんも少なくないでしょう。診察時間中に看護師や他のスタッフから報告や相談を受けるときは、「できる限り手短に、結論から話す」ということをルールにしています。

 しかし、一方では患者さんの話をもっと聞きたいですし、説明ももっと時間をかけておこないたいのです。厚労省の調査の「外来での不満」が、1位の「待ち時間」に続き、2位、3位がそれぞれ「診察時間」「精神的なケア」となっていますが、我々医師としても、診察時間をもっと取りたいですし、精神的なケアにももっと力を入れたいのです。しかし、それらをやりすぎると、待ち時間がさらに長くなってしまいます。

 では、どうすればいいのか。私はこれを医師になる前から主張していますし、上梓した書籍でも述べていますが、「医師の数を増やす」のが最も理に適っているのです。2012年9月10日、厚生労働省と文部科学省は、「地域の医師確保対策2012」を取りまとめ、そのなかで2013年度の医学部の定員を暫定的ではありますが126人以上にすることを認めています。現行の省令では、大学医学部の定員数は1校125人までと定められていますから、この基準に従わなくてもいいという決定をしたというわけです。

 この決定は歓迎すべきことですが、医学部の定員を増やす、医師数を増やす、といった議論になると、反対意見が必ずでてきます。そしてそれは現役の医師のなかから出てくるのです。誤解を恐れずに言えば、医師増員に反対する医師の大半は「何らかの専門医」です。

 歯科医院が過剰であることはよく指摘されますが、例えば、眼科、耳鼻科、皮膚科、糖尿病専門の内科、消化器専門の内科、などは地域によっては飽和している可能性があります。先日、ある医師向けのサイトに掲載されている眼科医のコラムを読んでいると、その眼科専門開業医の半径1.5kmにはなんと合計14軒もの同じような眼科専門開業医があるというのです。こうなってくると、自分が食べていくために「医師増員に反対!」となる医師がでてくることもあるかもしれません。開業医だけではありません。例えば私の知人のある循環器内科医は心臓カテーテルを専門としていますが、心臓カテーテルを積極的におこなえる病院での勤務の空きはほとんどないそうです。

 一方、開業医であろうが勤務医であろうが、プライマリケアや総合診療の現場では医師が大幅に不足しています。特に、開業医の場合、夜や土曜日にも開いていることが多く、病院よりも受診しやすいですから、いろんな訴えを持った患者さんが”大勢”受診されます。

 ここでいう”大勢”は専門医の開業とは実際の人数がまったく異なります。例えば、整形外科専門クリニックでは1日に200人を超えるところも珍しくないそうです。一方、太融寺町谷口医院では午前は完全予約制を引いていますから約25人を超えると予約をお断りしていて、予約制をとっていない午後では40人を超えると2時間以上の待ち時間、50人を越えると3時間以上の待ち時間となります(注2)。

 開業当初には、「健康のことで困ったことがあれば気軽に相談しにきてくださいね」と話していたのですが、もうこのようなことは言えないのが現状です。”気軽に”受診して待ち時間が2時間を越えれば、「待ち時間に不満」となるのは当然ですし、我々も「待たせることが大変苦痛」なのです。

 今回の厚労省の調査に対し、各マスコミは数字をそのまま報道しているだけのように見受けられますが、病院よりも診療所・クリニック、特にプライマリケアを実践しているところでは待ち時間が大きな問題になっていること、患者さんが待つのも苦痛だけれど待たせる医療者も苦痛に感じていること、これを解決するにはプライマリケアをおこなう医師を増やす必要があること、などを報道してもらいたいと思います。

注1;調査結果の詳細に関心のある方は下記を参照ください。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jyuryo/11/dl/kekka-gaiyo.pdf

注2:本文では述べていませんが、ひとりあたりの診察に時間がかかるプライマリケアの開業が医師からみて人気がないのは経営的には大変だから、ということが言えるかもしれません。本文で述べたような1日200人を診察する専門医と、1日70人がやっとのプライマリケア医では診療所が得る収入がまったく異なります。さらに、専門医療に比べ、プライマリケアでは検査は少ないですし、薬は安いものが中心(薬がないことも多い)ですから、収入の差は患者数以上の差となります。ですから、医師になってお金を儲けたいと考えている者は(実際はこのような考えを持っている医師はほとんどいませんが)、プライマリケア医は初めから目指さないでしょう。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

115 医師が医師を誹謗する弊害 2012/8/20

2012年7月17日、大阪地裁は、名誉毀損があったとして、医師を誹謗中傷した医師に110万円の支払いを命じました。この事件に対する我々医師からみた印象というのは、一般の方からみたものと少し異なるような気がします。医師が医師を誹謗中傷するということは、いわば「医師のタブー」なわけで、今回はこのことについて述べていきたいと思います。まずはこの事件を振り返っておきましょう。以下は報道をまとめたものです。

 2010年9月、福岡市中央区の美容外科医院で院長をつとめる40代の医師が、大阪市東淀川区の美容外科医(64歳)を誹謗中傷する内容をインターネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込みました。具体的には、「ここの医者は独りよがりの考えでおかしな手術をすることで有名」「口ばっかりで腕が伴っていない」「悪徳医」といった言葉を使いました。

 大阪の美容外科医は患者さんからこの書き込みのことを知らされました。そこで、福岡市の美容外科医に1,100万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしました。大阪地裁の判決は、「投稿(書き込み)は原告(大阪の医師)の技能が低く、患者に多大な精神的ショックを与えるほどの失敗例があるという内容で、社会的評価を低下させた」と指摘し、福岡の医師に110万円の支払いを命じました。

 この事件に対する世間一般の見方は、「福岡の医師が大阪の医師の<営業妨害>をおこなった。だからそれに対する支払いが裁判で認められた」、というものだと思われます。しかし、我々医師はそのように捉えているわけではありません。この福岡の医師がとった行動というのは医師からみれば<掟>を破った、あるいはタブーを犯した到底許されるものではないのです。

 日本医師会が公表している『医の倫理綱領』の第4項は「医師は互いに尊敬し、医療関係者と協力して医療に尽くす」というものです。つまり我々医師は他の医師をいつも尊敬し互いに学ぶ姿勢を維持しているのです。一般の方からみればこれは単なる「きれいごと」に聞こえるかもしれません。なぜ、我々は他の医師を尊敬することができるのか。その理由はいろいろありますが、『医の倫理綱領』の第1項もそのひとつです。第1項には、「医師は生涯学習の精神を保ち、つねに医学の知識と技術の習得に努めるとともに、その進歩・発展に尽くす」とあります。まだまだ医学というのは分からないことだらけで、分からないことだらけだからこそ、常に知識と技術の習得に努めなければならず、普通の医師であれば日々努力を重ねています。常に知識と技術の習得に努めている他の医師を尊敬するのは当然なわけで、誹謗中傷などというのはまったく考えられないことなのです。

 ここで誤解のないように言っておくと、医師は他の医師の医療行為に対し”無条件で”賛同したり、賞賛したりしているわけではありません。それどころか、他の医師の行為に対して疑問を抱いたり、「自分ならこうしたいが・・・」という気持ちを持ったりすることも頻繁にあります。

 では、そのように他の医師に疑問や反対意見をもったときにどうするかというと、カンファレンスや研究会、学会などの場で意見交換をしたり、医師専門の掲示板やメーリングリストに投稿したり、学会誌に論文を書いて反論したり、あるいは直接その医師にメールや手紙を書いたり、ということをするわけです。カンファレンスの場などでは、ときに激しい論争になることもあり、会場の空気がピンとはりつめた緊迫した状態になることもあります。しかし、このような意見交換(というよりは”激論”)がおこなわれるのは互いに尊敬し合っているからともいえるわけで、激しく討論しあった医師どうしが仲が悪いというわけではありません。

 福岡の医師(被告)が大阪の医師(原告)の診療に疑問があるなら、このような正当な方法で意見を述べるべきなのです。訴訟で被告は「医学的見地からの公正な論評で名誉毀損にあたらない」と主張したと報道されていますが、本当にこのようなことを言ったのなら呆れてしまいます。2チャンネルというものの悪口を言うつもりはありませんが、「医学的見地からの公正な論評」を2チャンネルに「おかしな手術」「口ばっかり」「悪徳医」などの言葉を使って書き込むことが「公正な論評」なのでしょうか。

 私自身は2チャンネルというものの存在は以前から知っていますがあまり関心の持てるものではありません。しかし、今回の事件が報道されたことでこの事件についての書き込みをみてみました。驚くべきことに、5分もたたないうちに大阪の医師の名前も福岡の医師の名前もそれぞれのクリニック名も判ってしまいました。

 そこで二人の医師の経歴を調べてみると、原告の大阪の医師は形成外科領域で40年近く診療に携わっているベテラン、被告の福岡の医師は美容外科を始めて10年少しの経歴です。あらためてこの事件を考えてみると、年齢も経歴もかなりの先輩である医師を、よく「おかしな手術」「口ばっかり」などという言葉を使って誹謗中傷できたな、と呆れます。

 この事件を取り上げた医師の掲示版をみていると、「大阪の医師も2チャンネルの書き込みなど無視しておけばよかったのに・・・」というものが多いのですが、おそらく大阪の医師も当初はそのように考えていたことでしょう。大阪のクリニックのウェブサイトをみると、「何人もの患者さんからご指摘をいただいた2チャンネルの書き込み・・・」という表現がありましたから、おそらくこの医師は自分のためではなく、患者さんの名誉を守るため、つまり「自分が手術をしてもらった医師の悪口を書かれることが許せない」という患者さんの気持ちを代弁した訴訟だったのではないか、と私はみています。

 おそらく被告の福岡の医師は気づいていないでしょうが、この無責任な書き込みで傷ついたのは原告の大阪の医師ではありません。その大阪の医師を受診している患者さん、さらには自分自身が診ている患者さんをも傷つけています。自分を診てくれている医師が他の医師の悪口を2チャンネルに書き綴って裁判で訴えられて負けた、という患者さんの気持ちを考えてもらいたいと思います。

 さらに弊害はまだあります。このような事件が報道されると、医師どうしというのは互いにライバルを蹴落とすことを考えているものなのだ、という印象を世間に与えかねません。

 医師と他の業種の違いのひとつはここにあります。普通の企業であれば、新製品の情報や製品の設計図などは他に持ち出さないのが普通でしょう。しかし医師の世界というのは、「難治性の疾患にこのような治療をおこなって成功した」とか「難易度の高い手術に対してこのような手技を導入すればうまくいった」などの情報を”惜しみなく”公開するわけです。これは、「是非他の先生方もためしてください。そして患者さんに貢献してください」という気持ちがあるからです。つまり、自分が診ている患者さんだけでなく他の医師が診ている患者さんにも喜んでもらいたい、と考えるのが(まっとうな)医師なのです。

 医療というのは公共性を有するものです。実際、医師の倫理綱領には「医師は医療の公共性を重んじ・・・」という文言があります。もしも、一般の患者さんが「医療機関どうしは仲が悪い」といった印象を持ってしまえば、どの医療機関を受診すべきか、ということに悩まなければならなくなります。「まずは近くの医療機関を受診して、そこで診られなければ適切な医療機関を紹介してもらう」、これが患者さんにとって最も有益な考え方であり、医療機関は他の医療機関と協力しているからこそこのような考えが成り立つのです。

 あるいは、美容外科の領域というのは、通常の<医療>とは完全に別のものと考えるべきなのでしょうか・・・。

参考:メディカルエッセイ
第26回(2005年10月) 「後医は名医?!」
第100回(2011年5月) 「美容医療と一般医療はどこが違うのか」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第114回(2012年7月) 糖質制限食の行方

 最近の医学界で最もホットな話題のひとつが「糖質制限食」の是非です。危険性を指摘する声も根強くあるものの、推奨する医師が次第に増えてきており、マスコミなどでも取り上げられる機会が増えてきました。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんからも質問を受けることが日に日に増えています。

 権威ある糖尿病関連の学会でも次第に糖質制限食を支持するような流れにあります。医学誌『Diabetes Care』2012年2月号に掲載された論文(注1)では、過去10年間に糖質制限食について研究された論文を系統的に検証しており、その結論は、おおまかにいえば「糖質制限食の有効性を以前よりも認める」というものです。

 2012年5月18日、横浜で開催された第55回日本糖尿病学会年次学術集会では、「糖質制限食は糖尿病の食事の選択肢のひとつとなりうる」というコンセンサスが得られました。これまで日本糖尿病学会では従来のカロリー制限食しか認めていなかったわけですから、これは画期的なことと言えます。

 糖質制限を推薦する医師が着実に増えているのは間違いありませんし、これからますます糖質制限を始める患者さんが増えるのも確実でしょう。いえ、患者さんだけではなく、健康な人のなかにも取り組みたいと考える人が増えていくに違いありません。糖質制限は糖尿病の治療の有効性が指摘されているだけではなく、ダイエットにも大変有効であるとされているからです。

 糖質制限は、ご飯、パン、麺類などの摂取を大きく制限されますから決して簡単ではありません。しかし最近は、糖質制限用のケーキやパン、お好み焼きなども登場してきていますから、以前に比べると少しはおこないやすくなっています。麺類が大好物という人は少なくないでしょうが、糖質制限食用にこんにゃくでできた焼きそば、ラーメン、パスタなども普及してきています。このような「糖質制限の○○○」というのは今後急速なスピードでラインナップが増えて味も向上してくるに違いありません。

 けれども、では、世の中に存在するパンや麺類、お菓子の類がすべて糖質制限を考慮したものに変わっていくかと言えば、その可能性はないことはないでしょうが、少なくとも向こう数十年は起こらないでしょう。糖質制限食がどこまでの味を出せるか、にもよりますが、やはり純粋なご飯やパン、パスタにはかなわないでしょうし、果物がジュースも含めてNG、というのは相当きついと感じる人は少なくありません。実際、谷口医院に糖尿病でかかっている患者さんに聞いても、「糖質制限は試してみたけど無理だった・・・」という声は少なくありません。

 ところで、谷口医院の糖尿病の患者さんは「優秀」な人が多いという印象を私は持っています。何が「優秀」かと言うと、食事療法・運動療法のみで大きく改善する人が少なくないからです。

 私の勤務医時代に診てきた糖尿病の患者さんは、もちろんなかには食事療法をがんばっている人もいましたが、努力の効果が出ずにどんどん悪化していき、薬の量が増えていき、そのうちインスリンを使わざるを得なくなり・・・、というケースが多くあり、「糖尿病を生活習慣の見直しだけで改善するのはかなり困難なんだ」という印象が私にはありました。

 ところが、谷口医院を始めてから私が診るようになった患者さんは、ガイドラインに従うなら直ちにインスリンを導入しなければならないような状態、例えばHbA1Cが10%を超えているような人でも、数ヶ月の内服薬のみでほぼ正常値に戻る人が少なくないのです。はじめのうちは、「この患者さんは特別がんばったんだ・・」と感じていたのですが、何人も同じように成功している患者さんをみているうちに、「かなりの努力を要することには変わりないけれど奇跡ではなくやればできるんだ」と思うようになってきました。そして、そういった患者さんたちの話を聞くと、ほとんどは糖質制限ではなくカロリー制限で成功しています。

 私自身は糖質制限を否定しているわけではありませんが、現時点では2つの理由から「何が何でも糖質制限」という考え方には賛成していません。1つ目の理由は、糖質制限をおこなわずカロリー制限で成功している患者さんを身近にみているから、というもので、もう1つの理由は安全性への疑問を払拭できないから、です。

 糖質制限はよほど無理をしない限りは安全で効果的という研究がある一方で、危険性を指摘する研究もあります。最近のものでは、スウェーデンの女性を対象とした大規模研究で、「糖質制限を長期間続けると、心筋梗塞や脳卒中になる危険性が高まる」というもので、ハーバード大学の研究チームが医学誌『British Medical Journal』2012年6月26日号(オンライン版)で発表しています(注2)。

 この研究では、1991~1992年の時点でスウェーデンの30~49歳の女性42,396人が対象とされ、その後平均約16年間、心筋梗塞や脳卒中などの発症を追跡調査しています。1,270の発症例について、炭水化物と蛋白質の摂取量によって10段階に分けて分析されています。

 その結果、炭水化物の摂取量が1段階減り、蛋白質の摂取量が1段階増えるごとに(つまり、糖質制限をよりしっかりとおこなうごとに)、心筋梗塞・脳卒中それぞれ発症の危険が4%ずつ増えているのです。低炭水化物・高蛋白質のグループ(つまりしっかりと糖質制限をおこなったグループ)では、そうでないグループに比べて危険性が最大1.6倍も高まった、というのです。

 現在この論文は世界中で物議をかもしています。糖尿病というのはつきつめて言えば血管の病気です。血管に異常が生じるわけですから脳卒中も心筋梗塞も糖尿病がない人に比べてリスクが上昇します。この研究の結果が普遍的なものであるとするならば、糖質制限(低炭水化物+高蛋白質)を実践して糖尿病にはならなかったとしても、結果として脳卒中や心筋梗塞になりやすくなる、ということになります。

 では、どうすればいいのでしょうか。いったい、糖質制限は有効なのでしょうか、そうでないのでしょうか・・・。

 現時点では折衷案が最も理に適っていると考えるべきでしょう。つまり、「カロリー過多に気をつけながらできる範囲で糖質制限をおこなう」というものです。そして、糖質は制限ばかり考えるのでなく「その美味しさをしっかりとかみ締めながら食べる」ということを提案したいと思います。

 糖質制限が理論的に説得力があるのは、炭水化物や糖類を摂らなければ血糖値は上がらないという事実があるからです。実際、空腹時に白いご飯を食べると一気に血糖値があがり、肥満のリスク、そして糖尿病のリスクになることはこれまでの多くの研究で認められています(下記医療ニュースも参照ください)。ですから、食餌療法に積極的な医療者は白米ではなく玄米をすすめます。しかし玄米は白米ほど美味しくない、と感じる人は少なくありません。

 私がよく患者さんに話すのは、「白米をメインディッシュと考えてみてください」というものです。「○○があればメシ何杯でも食える」という言い方がありますが、この発想をまるっきり変えてしまうのです。つまり「少量の白メシを最後に美味しく食べるためにおかずから食べよう」と考えるのです。

 もうひとつ、提案したいことがあります。それはファストフードです。ハンバーガー、フライドポテト、コーラという組み合わせは糖質制限を考えたときに最悪なことはすぐにわかりますが、これを裏付ける研究が発表されました。医学誌『Circulation』2012年7月2日(オンライン版)に発表された研究(注3)によれば、週2回のファストフード店の利用で、糖尿病発症リスク、心筋梗塞による死亡のリスクが、それぞれ27%、56%上昇するというのです。週1回でもそれぞれ17%、19%の上昇が認められるそうです。この研究の対象は中国系シンガポール人52,322人です。

 ファストフードの危険性はこれまでも指摘されてきましたが、これほどの大規模調査で、しかも対象がアジア人でこの結果ですから、我々日本人も深刻に受け止めるべきでしょう。しかし、ファストフードが美味しい(私の大好物のひとつです)のは事実です。ではどのように考えるべきか、ですが、ファストフードを「月に一度の贅沢ディナー」と捉えることを提案したいと思います。

 最後に現時点での効果的な食事療法に関する私の見解をまとめてみたいと思います。ただしこれは、現在糖尿病など生活習慣病に罹患しておらず、糖尿病を予防したい、あるいは太りたくない・やせたい、と感じている健常人で、晩御飯に家族や友達と美味しいものを食べるのが好き、なおかつ炭水化物が好き、という人を対象としています。すでに罹患している人は主治医に相談すべきですし、糖質制限を苦痛に感じない人は対象となりません。

・総摂取カロリーに注意する(男性で2,000~2,200Kcal、女性で1,800~2,000Kcalくらいを上限とする)

・夕食のみを豪華にして、例えば、朝は野菜ジュースとバナナ1本、昼はおにぎり1個などとしてカロリー制限をおこなう。ただし食べるものは腹持ちのいい糖質(バナナもおにぎりも糖質です)でかまわない。

・夕食は好きなものを食べる。朝・昼にカロリー制限している分しっかり食べてもOK。ただし野菜から食べ始め、炭水化物は最後に。

・ファストフードは「贅沢な食事」と認識し、月に1~2回にとどめる。

注1:この論文のタイトルは「Macronutrients, Food Groups, and Eating Patterns in the Management of Diabetes A systematic review of the literature, 2010」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://care.diabetesjournals.org/content/35/2/434.full

注2:この論文のタイトルは「Low carbohydrate-high protein diet and incidence of cardiovascular diseases in Swedish women: prospective cohort study」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://www.bmj.com/content/344/bmj.e4026

注3:この論文のタイトルは「Western-Style Fast Food Intake and Cardiometabolic Risk in an Eastern Country」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://circ.ahajournals.org/content/126/2/182.full?sid=309d67ec-0597-48b8-8be8-686391b53d96

参考:
メディカルエッセイ
109回(2012年2月) 「糖質制限食はダイエットにどこまで有効か」
第94回(2010年11月) 「水ダイエットは最善のダイエット法になるか」
第93回(2010年10月) 「ダイエットの2大法則」

医療ニュース
2012年4月27日 「白米は糖尿病のリスク」
2010年11月15日 「白いご飯で糖尿病のリスク上昇」
2010年6月20日 「白米→玄米で糖尿病のリスクが低下」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第113回(2012年6月) 生活保護の解決法

 前回のこのコラムで、生活保護受給者には一部悪質な者がいるが、若い世代の受給者の大半は働きたくても仕事がなく生活保護に頼らざるを得ないこと、悪質な医療機関はまったくないとは言えないが稀なケースでありマスコミがそれを強調するのはおかしい、といったことなどについて述べました。

 高額を稼いでいるタレントの母親が最近まで生活保護を受給していたことが発覚したこともあり、世間の生活保護受給者に対する風当たりは一層強くなっています。

 生活保護を不正に受給するための偽装離婚や、「幻聴が聞こえる」「FBIに追われている」などと嘘を言って精神科の診断書を不正に入手し生活保護を受給する者がいる、といった話は、世間から興味深いと思われるのか、マスコミの報道やインターネットから目にすることが多くなってきました。

 しかし、一方で、本当は生活保護を受給すべきなのに、世間の目を気にして申請をしない人がいるのもまた事実です。生活保護受給者に対するバッシングが強くなればなるほど、こういった人たちは申請するのをためらいます。我々医療従事者はこのような人たちによく出会います。

 一例をあげましょう。

 その患者さんは30代前半の男性でAさんとしておきます。Aさんは太融寺町谷口医院がオープンした2007年頃からアトピー性皮膚炎を中心に受診されていました。仕事は、派遣で工場勤務をしていて、契約が終了すればまた別の工場を探して、といった感じでした。2007年当時はこのような仕事はいくらでもあり、贅沢をしなければ生活はできたそうです。しかし、Aさんのアパートには風呂がなく、銭湯に通わなくてはなりませんでした。工場勤務は夜勤となることも多く生活は不規則であり、銭湯の開いている時間が合わずに2~3日間風呂に入れないこともありました。

 アトピー性皮膚炎の患者さんにとって、汗を流せない、というのは大変なことです。かいた汗はできるだけ早く流さなければならない、ということはAさんにも分かっていましたから、もう少し貯金が貯まれば風呂付のアパートに引っ越すつもり、ということを話されていました。

 リーマンショックが起こったのはそんな矢先でした。Aさんによると、瞬く間に工場勤務の求人はほぼ皆無となったそうです。Aさんは、風呂付のアパートどころか、今住んでいる風呂なしのアパートの家賃を払うことさえ困難になりました。

 仕事をなくしてから受診したAさんが私に言ったのは、「副作用のことはいいですから、とにかく安くて強いステロイドをください。これからあまり来れなくなると思いますから薬は出せるだけ出してください」、というものです。私が生活保護の話をすると、「生活保護には頼りたくありません。僕には何の才能もありませんが五体満足の身体がありますから・・・」、と話されました。

 それ以降Aさんは受診しておらず連絡もつきません。どこかに引っ越して新しい仕事を見つけてくれていればいいのですが・・・。

 最近は、生活保護の不正受給を取り締まる「生保Gメン」もいて、その人数を増やすべき、という論調が強くなってきています。そのような対策も必要でしょうが、誤解を恐れずに述べれば、生活保護を申請すべきなのに申請していない人に適切な助言を与える相談員を各自治体で増やすべき、と私は考えています。

 そんなことすればますます生活保護受給者が増えて財政がいきづまるではないか、と言われそうですが、たしかにそれはその通りです。もしもこの国に潤沢なお金があればやっていけるかもしれませんが、900兆円以上の借金をかかえたこの国でこれ以上生活保護の予算を割くのは現実的ではないでしょう。

 ならば生活保護受給者への給付額を減らすしかありません。例えば夫婦に子供2人という一家が生活保護を受けていれば、(地域にもよりますが)住宅手当や扶養手当を加えると毎月20万円以上の現金を受け取ることができます。朝から晩まで休みなく働いて手取りが20万円未満、それで子供2人を含む家族を支えている父親が世間にたくさんいることを考えると、生活保護の受給額が多すぎるという意見は当然でてきます。

 しかし、生活保護受給者も余裕のある生活を送っているわけではありません。受給額が減らされるとやっていけないと考えている受給者が大半でしょう。

 そこでこのような方法はどうでしょう。現金給付を減額する代わりに生活保護受給者用のシェアハウスを建ててそこに住んでもらうのです。シェアハウスは最近急速に利用者が増えているようですが、何もお金を節約することを目的とした人だけのものではありません。例えば、「トーキョーよるヒルズ」というシェアハウスが大手広告代理店を退社した若者たちにより運営されています。ここではミーティングや作業などの他、リビングを会場にしてイベントや勉強会のようなものも開催しているそうです。

 現在大阪市の生活保護受給者の家賃の上限は42,000円です。このため西成区などには42,000円の狭いアパートがたくさんあります。受給者からみても、狭いアパートに一人でこもるよりも、シェアハウスで複数の人たちと友に暮らす方が精神衛生上もいいのではないでしょうか。求人の情報交換などもおこないやすくなるでしょうし、何よりも孤独感が解消されます。「トーキョーよるヒルズ」のようにイベントや勉強会もできるかもしれません。また医療が必要な人に対して医師や看護師が往診しやすくなるというメリットもあります。

 もちろん、知らない人間どうしが共同生活するとなるといろんな問題がでてきます。喧嘩や諍いが起こるでしょうし、部屋が散らかったり、食品が盗まれたりといった問題も起きるでしょう。また、そもそもそのような場所はどこにあるんだ、という問題もあります。

 しかし、場所については比較的簡単に解決します。現在日本には人が住んでいない「空き家」が大量にあると言われており、大阪市で言えば西成区と生野区では2割にもなるそうです。おそらく古い文化住宅などが多いでしょうから、シェアハウスに改良するのに適した物件となるでしょう。内装に費用がかかりますが、生活保護の現金支給額が減らせるならば長期的には財政が安定します。

 住人どうしの諍いや掃除、食事の問題については「管理人を置く」というのはどうでしょう。人件費がかかるではないかという問題がありますが、ボランティアとして無給でやってもらうのです。「どこにそんなお人よしがいるの??」という声が聞こえてきそうですが、困っている人がいれば力になりたい、と考えている日本人は決して少なくありません。東日本大震災がそれを証明してくれました。被災地に駆けつけて汗水流してボランティアにいそしんだ人たちが大勢いましたし今も活動中の人もいるのです。

 困っている人を助けたい、と感じるのは日本人だけではありません。東日本大震災に対する義捐金は世界中から集まりましたし、実際に被災地でボランティアをしてくれた外国人もいます。

 もしも日本の首相が、「生活保護を受給せざるを得ない困っている日本人を助けてください。無給のボランティアとなりますが住居費と食費はかかりません」と、世界中に訴えかければすぐに世界中から大勢のボランティアが集まるに違いありません・・・。

 私がここで述べたことは確かに「突拍子もないこと」です。実際にこんなことを実現するにはいくつもの壁があります。けれども、現在の生活保護に関する一連の記事やインターネット上の言論をみていると、生活保護を受給せざるを得ない困っている人を助けよう、という視点のものがほとんど見当たらないのです。このことに侘しさややるせなさを感じるのは私だけではないでしょう。

 不正受給者を探しだしたり糾弾したりするよりも、むしろ困っている人に積極的に手を差し伸べる方がずっと賢明です。支援者がたくさん現れれば、不正受給を考える輩は激減するでしょうし、一部のマスコミが報道するような悪徳医療機関も(もしあるならば)絶滅するでしょう。

 「良心」や「支援」「奉仕」といった絶対的な原理原則を目の前にすれば、まともな人間はずるいことを考えられなくなるものです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第112回(2012年5月) 生活保護に伴う誤解

 生活保護に対する批判が強くなってきています。

 現在の経済状態の悪化を背景として、生活保護受給者が増加の一途をたどっており、昨年(2011年)6月に200万人を突破というニュースを聞いたところですが、それから1年もたっていないというのに現時点(2012年5月)で210万人を越える勢いです。

 なぜこんなにも生活保護受給者が増えているのか。働き盛りの世代の増加が著しいことが最大の理由と言われています。では、なぜ働き盛りの世代の増加が目立つのかと言えば、もちろん仕事(雇用)が見つからないからですが、最近は雇用保険に加入していない非正規社員が増えたために、仕事を失うと一気に一文無しとなりアパートの家賃も払えずに生活保護に頼らざるを得ない、というケースが目立ちます。

 生活保護が増えるということは、国の予算を圧迫するわけで、本年度(2012年度)の給付総額は3兆7,000億円を超える見通しだそうです。3兆7,000億円を210万人で割って、ひとりあたりの受給額を計算すると、約1,800,000円(3,700,000,000,000円 ÷ 2,100,000人 = 1,764,904円)となります。

 つまり、生活保護が認められると、行政から年間180万円相当の給付を受け取ることができるわけですから、働きたくても仕事がない人からみれば、頼りたくなるというのも理解できますし、また頼らざるを得ない人が少なくないのが事実でしょう。

 一方、ひとりあたり180万円もの負担をするのは納税者です。辛いことも我慢しながら一生懸命働いている労働者からみれば、働かずに給付を受け取れる生活保護受給者に否定的な気持ちをついつい持ってしまうことも分からなくはありません。

 もしも、生活保護受給者が、例えば障害を負っているとか、両親の残した借金のせいでやむにやまれず・・・、という人ばかりなら、納税者も納得するでしょう。しかし、実数はよくわかりませんが、生活保護受給者のなかには、例えば海外旅行にでかけたり、高価なアクセサリーを身につけていたりする者がいるのも事実です。先日、私の知人が、知り合いの生活保護受給者が最先端のスマートフォンを持っていることに腹がたった、と言っていましたが、この気持ちは理解できます。

 ところで、一人当たり180万円相当の内訳は、現金給付も含まれますが約半分を占めるのが医療費です。生活保護受給者は原則として医療費が無料となるのです。

 最近、生活保護受給者に対する医療が不適正ではないのか、という議論が増えてきています。生活保護受給者が複数の医療機関を渡り歩き、大量の薬剤(睡眠薬や抗不安薬が多い)を手に入れて闇のマーケットで高値で販売している、というニュースがときどき報道されています。

 また、2009年に発覚した奈良県大和郡山市のY病院が生活保護受給者の診療報酬を不正請求していた事件は大変ショッキングでしたが、マスコミのなかにはこのような例は氷山の一角とみる向きもあります。

 このような事件を並べて書けば、受給者は薬を無料で入手し高値でさばき、医療機関は受給者を集めて不要な治療をしている、というふうに思われますが、極端な事件だけがクローズアップされると真実が分かりにくくなってきます。

 たしかに、私自身の経験からも否定的な感情を持ってしまう生活保護の患者さんがいるのは事実です。私が大学病院の総合診療科の外来をしていたとき、生活保護のある患者さんは、けっして重症ではないのに、「MRIをとってくれ」「一番上等の薬をくれ」「待ち時間が長いのは気に入らん」などといちゃもんをつけてきました。一般の(善良な)患者さんは、(私がMRIを撮影しましょうと言うと)「必要なのはわかるんですが、MRIは高すぎて今は無理です」とか、「薬は少々の副作用は覚悟しますから一番安いものをだしてください」(これは太融寺町谷口医院の患者さんに多い)とか、言われますから、生活保護で横柄な態度の患者さんを診察すると、やる気が失せてしまいそうになることがあるのは事実です。

 しかし、生活保護の患者さんはこのような人ばかりではありません。現在太融寺町谷口医院に通院されている生活保護の患者さん、特に働き盛りの人は、複数の難治性の疾患を抱えていて、とても仕事どころではない人が大半です(注1)。

 医療機関の方も、生活保護の患者さんを積極的に診ているところは、在宅医療にも熱心であり一生懸命に取り組んでいるところが多いはずです。しかし、この点について、ときにマスコミはねじれた報道をおこないます。例えば、2012年5月11日の読売新聞(オンライン版)の社説では、「(生活保護)受給者ばかりを集め、診療報酬を稼ぐ悪質な医療機関も存在する」と述べられています。

 この記者が分かっていないのは、生活保護であろうが3割負担であろうが、医療機関に入ってくる料金は同じということです。生活保護の場合は支払い基金から10割が支払われ、3割負担の場合は7割が支払基金から、残りの3割は患者さん本人から徴収しますから、患者さんが生活保護を受けていようがいまいが医療機関が受け取る報酬は同額です。

 読売新聞は、医療の必要のない生活保護受給者を集めている、と言いたいのかもしれませんが、こんなことは到底考えられません。郡山市のY病院は、わざわざ大阪まで生活保護受給者を探しだしてバスに乗せて病院につれて帰って入院させていた、といったことが報道されていましたが、こんな例は極めて特殊なものです。

 また、Y病院は「やってもいない治療をやったようにみせかけて診療報酬を請求していた」と報じられましたが、こんなことする医療機関は(探せば他にもあるかもしれませんが)通常は考えられません。そもそも我々医師の仕事というのは、いかに検査を減らしていかに薬を減らすかが目標なのです。

 この社説のように、(Y病院のような)極めて特殊な事例があるというだけで、「悪質な医療機関も存在する」という表現をすることは報道のあり方として問題ではないでしょうか。読者によっては、あたかも悪質な医療機関が少なくないのではないか、という印象をもちかねません。今年(2012年)の2月、(読売新聞ではありませんが)大手新聞会社の記者が覚醒剤取締法で逮捕されましたが、良識を持った一般人であれば、だからといって新聞記者の多くが覚醒剤を使っているとはみなしません。

 今は、不正に薬を入手する一部の受給者や、ごく一部の悪徳医療機関を糾弾することよりも(もちろんこういった事実があれば白日の下にさらすことは必要ですが)、働き世代の受給者にどうやって仕事を見つけてもらうか、ということに集中すべきであり、そのための提案をおこなうのがマスコミの使命ではなかったでしょうか。

 現在大阪市の橋下市長は、生活保護受給者が受診できる医療機関を指定することを検討しているそうです。私はこの考えに賛成です。現在大阪市には生活保護の患者さんが大半を占める医療機関が数十軒あるそうです。そういった医療機関では医療者も生活保護の制度や実態に詳しいに違いありません。ならば、そういう施設を生活保護受給者が受診できる医療機関に指定するのが現実的ではないでしょうか(注2)。

 さらに、そういった医療機関に、可能であればハローワークの職員に常駐してもらうというのはどうでしょう。医療者とハローワークの職員が相談して、その患者さんにできそうな仕事を探すのです。また、その医療機関で、求職している生活保護受給者のための勉強会やセミナーを積極的に開き、通院していない生活保護受給者でも参加できるようにすればどうでしょう。

 消費税アップも所得税引き上げも私自身としてはやむを得ないと考えていますし、橋下市長がおこなっている職員の給与引き下げもけっこうだとは思いますが(やりすぎて公務員の士気が下がらないかを懸念しますが・・・)、その前に、生活保護受給者に社会復帰をしてもらうことが受給者にとっても社会にとっても有益であることを忘れてはいけません。

************

注1:現在太融寺町谷口医院では、生活保護の患者さんは原則として大阪市北区在住の方に限っています。生活保護受給者は地域の医療機関にかかる、というのが生活保護の理念だからです。(数名の患者さんは、北区以外の地域から通院されていますが、複数の疾患を一度に診察する必要があり、なおかつその患者さんの自宅近くには同じような診療をおこなっている医療機関がない、という例外的な場合のみに限ってです)

注2:生活保護受給者が受診できる医療機関が指定されることになれば、太融寺町谷口医院が(たとえ市から依頼があったとしても)指定医療機関になるのは現実的ではありません。谷口医院では在宅医療をおこなう余裕がありませんし、これ以上生活保護の患者さんを診察するのは極めて困難だからです。指定制がひかれたときには、現在谷口医院にかかられている生活保護の患者さんには、指定病院を新たに受診してもらうようお願いすることとなります。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

111 救急車は本当に有料化すべきなのか 2012/4/20

2011年度の救急車出動1回当たりのコストは、報償費、役務費、備品購入費などを含めると42,425円・・・。

 これは、さいたま市が市のウェブサイトで公開している税金の使い道のリストに掲載されている数字です(注1)。同市は、各行政サービスにどれだけの費用がかかっているかを詳しく公開することで、必要な経費を市民に身近に感じてもらい、また職員のコスト意識向上を図りたいと考えているとのことです。

 救急車が一度出動する度に4万円以上の費用がかかるというこのニュースは一般の新聞にも掲載され世間の注目が集まっています。我々医療者の間では、もう何年も前から、軽症で救急車を呼ぶ患者さんを診る度に、誰がどのような理由で救急車を要請しても一切無料という現在の制度はおかしい、という議論がありました。

 医療者の間の「救急車を有料にすべきではないか」という声は数年前から目立つようになってきています。医師限定のコミュニティサイトである「MedPeer」は、2012年2月24日から3月1日、救急車を有料にすべきかどうか、というアンケート調査を、医師を対象におこない、その結果、88%の医師が「有料化に賛成」と回答しているそうです(有効回答数は2,723件)。

 また、同じく医師限定のコミュニティサイトである「M3」も同じ質問をネット上でおこなっており、こちらは2012年4月16日現在、救急車有料化に賛成が95.7%(1,015票)、反対が4.3%(46票)となっています。M3の調査の方が「有料化賛成」が多いのは、さいたま市の42,425円、という数字がマスコミで報道されたことが影響しているのかもしれません。

 医師はどのような患者さんに対しても否定的な気持ちを持ってはいけないのですが、実際にはそのような気持ちを瞬間的に持ってしまうことはあります。下記の3つの症例は実際に過去に私が救急外来をしていたときに体験した症例です。

・症例1 6歳女子
朝から体調不良。食欲がなくて夕食はほとんど食べなかった。熱はなく水分はとれる。心配した母親が夜10時に救急車を要請。明らかに救急車を呼ぶほどの重症ではなかったために、救急車を呼ばなければならなかったのですか、と質問すると、この女子の母親が言ったセリフは、「あたしの車にこの子を乗せて、もし吐いたら誰が掃除してくれんの!」

・症例2 50代男性
数年前からときどきめまいを自覚している。過去に何度か救急外来を受診しており、いつも点滴をすれば1~2時間後には治るためにこの日も点滴希望で受診。過去にはタクシーで受診したこともあるが、ここ何回かは常に救急車を要請。なぜ救急車を呼んだのですか、という質問をすると、「カネがないんや。仕方ないやろ・・・」という返答。吐息に明らかなアルコール臭がある・・・。 

・症例3 20代女性
腹痛で救急車を要請。私が診察室に入ると、激しい痛みを訴えるが実際に診察をおこなうと痛がり方に不自然さがある。「痛いから○○○○を注射して!」と何度も言う。「どうして○○○○を希望されるのですか」と聞くと、「あたしの痛みは○○○○でしかとれへんねん!」と強く訴える。救急隊員に「話がある」と言われたために、その場を離れると、「この女性は○○○○中毒で、いくつもの病院から要注意患者とされてるんですわ。今日はここの病院にどうしても行ってくれ、言われたんで運んだんですけどね。先生に迷惑かけるのはわかってたんですけど、我々の立場では要請を受けたら断れないんですわ・・・」と救急隊員からの説明を受けた。この女性に対し、「このような痛みで○○○○は注射できません。まずは普通の痛み止めで様子をみてください」と言うと、「注射してくれへんのやったらもうええわ」と言い、悪態をつきながらそそくさと帰っていった。その姿に痛がる様子などまったくなかった・・・。

 それぞれの症例を簡単に解説しておきましょう。まず、症例1は、自分の娘が軽症であることは母親にも分かっています。しかし、自分の車に嘔吐されると掃除するのが大変だという理由だけで救急車を呼んでいるのです。この母親は、救急車の車内を汚すことに対しては何とも思っていないというわけです。

 症例2は、救急車が無料のタクシーになることをいったん知ってしまってから、タクシー代を払うのがバカらしくなったと考えている男性です。救急車が現場に到着した時点で、救急車を呼ぶような症例でないことは救急隊員からみても自明です。しかし、救急隊の立場としては、市民が要望している以上は断ることはできないのです。

 症例3は大変悪質です。○○○○というのは、中毒性のある言わば麻薬のような痛み止めです。よほど重症の場合を除いて処方されることはありませんから、この女性は、救急車を要請すれば重症と判断してもらえる、と考えたのでしょう。この女性は、自分の身勝手な欲望のために、1回4万円以上もかかる救急車を呼んでいるのです。もしも私が○○○○の注射をしていれば、さらに大切な医療費でその女性の薬物依存を助長することになります。

 さて、ここからが本題です。このように自分勝手な理由で救急車を簡単に呼ぶ市民がいるという現実を踏まえて考えたとき、やはり救急車は有料にすべきでしょうか。私の意見は医師の大半の意見と異なり「救急車は無料のままにすべき」、です。

 ここにあげたような症例に遭遇すると否定的な気持ちになりますし、なかなか頭から離れないものですが、一方で、重症で救急車を要請する人(またはその家族や知人、あるいは通行人)がいるのも事実です。もしも救急車が有料になってしまえば、本当に必要な症例が手遅れになってしまうことになるかもしれません。なぜなら、「しんどくなってきたけどもう少し様子をみればよくなるかもしれない。軽症だったのに救急車を呼んだ、となると家族に申し訳ない」と考える人もでてくるでしょうし、通行人が救急車を呼ぶのには相当の勇気が必要になります。

 私は一度、バンコクの繁華街で(おそらくひき逃げの被害に合い)怪我をしている男性を通行人の二人の若い女性がタクシーを止めて乗せているシーンに出会ったことがあります。そのとき一緒にいたタイ人に聞くと、二人の女性は怪我をしていた男性とは顔見知りではなく、たまたまそこにいただけ、だそうです。タイでは救急車は有料だから簡単に呼べないし、呼んだところで渋滞のなか到着するのを待つよりも、近くのタクシーを拾って病院に行く方が早い、と考えられているそうです。タイ人の助け合いの精神に感動したのと同時に、救急車が直ちに到着し無料で搬送してくれる日本の制度は素晴らしい、と感じました。

 このまま身勝手な理由で救急車を要請する人が増えていくと、世論が「救急車有料化」に向かうことになるでしょう。つまらない正論を言うようですが、現状の救急車無料を維持するためには、やはり「ひとりひとりが良識ある救急車の要請」をするしかありません。

 先に例にあげたような人たちがこのコラムを読んでいることはないでしょうが、これを読まれた方で、身勝手な理由で救急車を呼んでいる人がもしも知人にいるならば、このままでは救急車有料化が避けられないかもしれない、ということを伝えてもらえれば、と思います。

注1:このリストは下記URLで閲覧することができます。(さいたま市民でなくても誰でも見ることができます)

http://www.city.saitama.jp/www/contents/1331613613674/files/kosuto.pdf

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

110 「老衰」で死ねない日本人 2012/3/20

それは私が小学生の頃。何の授業だったか忘れましたが、担任の先生が「みんなは何で死にたいか」という質問をしました。詳しいことは覚えていませんが、ほとんどの生徒が「老衰で死にたい」と答えました。「なぜ老衰で死にたいのか」という質問に対しては、(私の記憶は非常にあいまいですが)おそらく「痛くなさそうだから」とか「それが一番自然だから」といった答えがあったのではないかと思われます。

 たしかに人間はいずれ必ず死にます。必ず老い、必ず衰えていくのです。ならば、老衰というのは人生をまっとうした帰結であり、老衰で死ぬということは最後まで生きぬいた証であるということもできます。

 その小学校の授業から20年以上がたち、私は医師として人の死に立ち会う立場となりました。現在は診療所(クリニック)の医師であり、在宅医療もおこなっていませんから、ここ5年ほどはそのような機会はほとんどありません。しかしそれ以前は複数の病院で働いていましたから、患者さんが他界するその瞬間に立ち会い、家族の方々を前に「死亡宣告」をすることがしばしばありました。

 これまで私が死亡宣告をおこなった患者さんは数十名になり、その数十名分の死亡診断書を書いています。死亡診断書には亡くなった人の氏名、生年月日、死亡した場所(病院)や日時などの他に「死亡の原因」も記載しなければなりません。私はその死亡診断書の原因の欄に「老衰」という文字を書いたことは一度もありません。

 病院に入院しているということは病気があるからであって、その病気で死んだのなら老衰であるはずがないじゃないか、と考えたくなりますが、実は慢性期の病院に入院している人というのは、帰るところがないから、とか、看てくれる家族がいないから、という人も少なくありません。例えば、80歳を超える高齢者がインフルエンザなどをきっかけに入院となって、インフルエンザは治ったけれども、入院前から足腰や心肺機能が弱っていてさらに認知症が加わり、自分で自分の身の回りのことができなくなっているようなとき、家族の要望などもあり、そのまま入院を続けざるを得ない、といったことがあります。そのうちに食事摂取が困難になり、点滴をつなぐことになり、やがて胃瘻(いろう)を装着することになります。するとますます食事が摂れなくなり、そのうち心臓の働きも低下し死に至ります。

 このようなケースに遭遇すると、死亡診断書に書く病名に悩まされるのですが、「心不全」とすることが多いといえます。心臓が徐々に弱っていって、最後は心停止の状態になりますから、解釈の仕方によっては「心不全」という病名は間違いではないでしょう。しかし、インフルエンザが治って退院して最期まで自宅で過ごすことができたとすれば、やはり「心不全」が死因となるでしょうか。

 2012年2月、自民党の石原伸晃幹事長が、胃瘻を付けた寝たきりの患者さんを見学して、「人間に寄生しているエイリアンが人間を食べて生きているみたいだ」と発言したとされマスコミから批判されました。

 私自身はこの発言を直接聞いていませんが、おそらく石原幹事長は、食べられなくなったらすぐに胃瘻、という現在の日本の高齢者の医療に対する疑問を呈したかったのではないでしょうか。胃瘻をつけている人にエイリアンなどと言えば、その家族がどのような思いになるか、ということが石原氏に分からないわけがありません。エイリアンという単語が記事になると考えたマスコミが過剰に騒いで記事をつくったのでしょう。(しかし、胃瘻を装着している高齢者の家族からすればこのマスコミの記事で不快な気持ちになるのは事実であり、そういう意味では私には、(石原氏ではなく)マスコミが家族を傷つけているように感じられます)

 石原幹事長はこの報道に対し釈明の記者会見を開き、その場で、「将来食べられなくなったとしても胃瘻はつけないということを夫婦間で話し合っている」といったことも述べられたそうです。

 胃瘻とは、食べられなくなった患者さんに対し、胃に穴をあけ、外部から栄養を送りこむ人工栄養法です。点滴で血管に栄養を入れるよりは自然な方法ですから、一時的に食事ができなくなった患者さんに対する処置としては有効なものです。(ときどき誤解されていますが)胃瘻は一度つければ二度と外せないものではありません。一定の期間だけ胃瘻から栄養をとり、元気になってから胃瘻を取り外して口からご飯を食べることも症例によっては可能です。

 しかし、本当に胃瘻をつけてまで延命すべきなのか、と感じる症例が少なくないのもまた事実です。特に寝たきりの高齢者で認知症があるような場合、胃瘻をつけるというのは本人ではなく家族の意思です。認知症になる前に本人と家族がじっくりと話をして、胃瘻をつけるというのが本人の意思であるなら問題ないでしょう。けれども、このようなケースの多くは、認知症が起こって自らの意思表示ができなくなってから、家族の同意を得て医療者側が胃瘻装着をおこなうというケースが多いのです。

 東京の「芦花ホーム」という特別養護老人ホームで常勤配置医をされている石飛幸三医師は『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか 』という本を書かれ、そのなかで三宅島での高齢者の看取りについて紹介されています。三宅島では、年を取り体が食べ物を受け付けなくなると、無理に食事を与えず、やがて水分もとれなくなると水分補給もおこなわないそうです。そして”平穏に”命が尽きるのを周りの者が静かに看取るそうです。これがまさに「老衰」でしょう。

 一方、現在の日本の医療機関では、食事が困難になるとすぐに点滴をします。食欲がなくても介護師はスプーンを使って食事介助をおこない少しでも食べさせようとします。それも困難になると、胃瘻を装着し、栄養を与えないのは「治療の差し控え」とも言わんばかりの医療がおこなわれます。胃瘻をしていても嘔吐や誤嚥が続く場合は、腸瘻(ちょうろう)といって腸管に穴をあけて栄養を送り込むことになります。ここまでくると、再び口から食べられるようになることはもはや期待できません。

 日本の高齢者の死因は、ガン・心疾患・脳卒中のいわゆる三大疾病を除けば「肺炎」が最多となります。そして、その肺炎は、誤嚥性肺炎といって、食べ物が気管に入ってしまったことが原因で起こったものが大半なのです。熱心な介護師であればあるほど、少しでもたくさん食べて元気になってもらおうと食事介護を一生懸命におこないます。「治療の差し控え」と言われることを恐れる医療者は胃瘻をすすめることになります。誤解を恐れずに言うならば、これらの医療・介護行為が「余計な肺炎」をつくりだしている可能性があるわけです。

 そして、こういった医療・介護行為が我々日本人を「老衰」から遠ざけているとも言えるのです。私は石原幹事長の発言がきっかけとなり、世の中の人たちが胃瘻というものについて、そして人間らしく死ぬということについて、家族間、夫婦間で話し合う機会が増えることを期待しています。そういう意味では、エイリアンという単語に過剰に反応し世間の注目を集める報道をしたマスコミも社会貢献をしたことになるのかもしれません。

 冒頭で紹介した私の担任の先生は、なぜ授業中に死の話をしたのか、私の記憶にありませんが、小学生相手に「死」というものについて考える機会を与えてくれたこの先生は立派だと思います。この授業がおこなわれた1970年代後半は、まだ高齢者を自宅で看取り「老衰」で死ねた人がいたのでしょう。

 私を含む70年代の小学生にとって21世紀というのは「夢の時代」でした。その夢の21世紀に、ほとんどの生徒が希望した「老衰」で死ねる日本人がほとんどいなくなる、などといったことを当事の小学生だった我々は”夢”にも思いませんでした。担任の先生は当事からその予兆を感じていたのでしょうか。

 今から10年ほど前に風の便りで聞いた噂によると、その先生は入院生活の果てに亡くなられたそうです。詳しい死因は分かりませんが、死亡診断書に記載された死因は「老衰」、ではなかったでしょう・・・。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL