マンスリーレポート
2021年7月 「相手の立場に立つ」を再考する
2021年6月1日、東京都立川市のホテルで性風俗店勤務の31歳の女性が19歳の少年に殺害されました。この事件は「初対面の女性を70か所もメッタ刺しにした残虐さ」と「未成年の加害者が法律上匿名とされる一方で、被害者のセックスワーカーが実名を報道されたこと」が注目されました。
これだけ残虐な事件が起こると、週刊誌は加害者の人物像を過去にさかのぼり取り上げます。そんななか、私が最も驚いたのは週刊新潮と週刊文春が報道した中学の卒業アルバムに掲載された加害者の文章です。一部を抜粋します。
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僕はいつか、僕を支えてくれた人たちを支えられるような人になりたいと思います。だから、そのためには、まず自分自身が成長し、自立することです。そして、相手の立場に立って一緒に考えてあげる力を身に着けていきたいです。そして、苦しい思いをしている人たちを支えられるような大人になりたいです。
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話は変わって、2021年6月30日、大阪府下のある大学の看護学部の授業で、私は「在日外国人の健康問題」というタイトルで講義をおこないました。日本(特に大阪)では、外国人が適切に医療を受けられていない現状があります。それを、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の経験も踏まえて、外国人医療に関する諸問題を話したのです。
その講義で、外国人医療の問題を解決するために最も重要なのは「相手(外国人患者)の立場に立つことだ」と強調しました。講義では、「相手の立場に立つこと」が外国人医療の最重要事項であるだけでなく、すべての医療問題の最重要事項であるという私見を紹介しました。
実際、患者・医療者間のトラブルのほぼすべての原因が「相手の立場で物事を考えていないこと」と言っても過言ではありません。逆に言えば、そのトラブルは「相手の立場に立てばたいていは解決する」のです。
そして、私自身はこの「相手の立場に立つ」を(後述するように)あるときから実践するよう心がけています。医師になってからも、例えば「救急外来で患者が怒っている」などという話を聞くと「自分の出番だ」と考えて駆けつけていました。なぜ、多くの人が嫌がる仕事を率先して引き受けるかというと、それまでの人生でいくつもの成功体験があるからです。
争いごとは、たいていは、「私があなたのことを理解していることをあなたに理解してもらうまでは私の言い分を言わずあなたの話を聞きます」という態度で臨めば一気に進展します。このときに絶対にやってはいけないことは、「相手の意見を聞く前にこちらの言い分を主張すること」と「正論の押し付け」です。
例えば、外来で「長時間待たされたのにCTも撮ってくれへんのか!」と騒いでいる人がいたとしましょう(実際こういう人は多い)。このときに「この状態ではCTは不要です。不要な検査はあなたのためになりません」などと言ってしまうと、理屈の上ではそれは正しいわけですが、これは医療者側の見方です。こういうときには、「なぜあなたがCTが必要と考えているか聞かせてもらえますか?」という切り口で話を聞くことから始めます。
もっとも、実際の現場では、全体の状況を考えた上で、あえて怒らせたままにしておくこともあります。例えば、暴言を浴びせられて委縮している医療者に対して、いかにも殴り掛からんばかりの態度で威圧してくるような人に対しては、「それは恫喝です。お引き取りください!」と(ちょっとだけ)強い口調で迫ることもあります。
谷口医院でもだいたい年に1人くらいは「お帰りください」と言わねばならないことがあります。理由として多いのは「スタッフへの暴言」と「金払うから〇〇を出してくれ、△△の検査をしてくれ」と威圧的に言ってくる場合です。
コロナ禍以降は、通常の診察時間に「コロナかもしれへんから診てくれ」と言ってやって来るケースも該当します。そういう場合、直ちに外に出てもらい、「いったんお帰りいただいて発熱外来にお越しください。あるいは当院が紹介する医療機関を受診してください」と説明するのですが、「どうしても今ここで(谷口医院で)診てくれ」という人がいます。院内感染を起こすわけにはいきませんから、こういうケースでは強い口調で「お引き取りください!」と言わざるを得ません(当院が今も「コロナ院内感染ゼロ」を維持しているのはこういうことも実施しているからです)。
話を戻します。過去のことを言い出せば私には失敗例がものすごくたくさんあるのですが、少なくとも医師になってから20年近くの間、こちらから訣別することを決めたとき以外は、患者さんとトラブルになったことはほぼありません。仕事ではなくプライベートなことでも、信頼していた人から裏切られたことは何度かありますが、それほど人間関係で苦労したことはありません(注)。裏切られたのならそれは苦労じゃないのか、との指摘はあるでしょうが、こういうときは「あの人はその程度の人だったんだ」と思って以降関わらないようにすればそんなにストレスにはなりません。
「相手の立場に立つ」というのは一見当たり前のようですが、過去の私にとってはそうではありませんでした。私がはっと気づいたのは1997年のある日、このサイトでも何度か紹介した『7つの習慣』を読んだときでした。「7つの習慣」の第5の習慣が「理解してから理解される(Seek first to understand, then to be understood)」です。この本にはこの「習慣」が真実であることを示すエピソードがいくつも紹介されています。
私はこの本を読んで、それまでの人生でいかに自分が正論の押し付けをしていたか、そして議論に勝つことを目標にしていたかを思い知りました。今となっては常識中の常識と認識していますが、過去の私は「議論に勝ったときは内容ではたいてい負けている」ということが分かっていなかったのです。
さて、本題です。冒頭で紹介したように19歳の加害者は、中学の卒業論文で「相手の立場に立って一緒に考えてあげる力を身に着けていきたい」と書いています。「考えてあげる」は上から目線のおかしな表現ですが、それを除けばものすごく大切な人生の真理を述べています。これを常に心がけていれば他者や社会に貢献できることは間違いありません。
私は週刊誌で加害者のこの文章を読んだとき2つの点で大変驚きました。一つは、この部分だけでなく、文章全体に整合性があり、中学生の作文にしてはかなり優秀な内容だということです。なにしろ、私が20代後半になって『7つの習慣』のおかげでようやく理解できるにいたったことが書かれているわけです。そしてもうひとつの驚きは、言うまでもなくこの文章を書いた張本人がこれほど残虐な事件を起こし一人の女性の命を奪ったことです。
ではなぜこの加害者はこれほどまでに身勝手で残虐な事件を起こしたのでしょうか。「中学の卒業アルバムに書いたこの言葉のことなどすっかり忘れていた」と信じたいのですが、それで済ませていいのでしょうか。「忘れていた」にしても、これを書いた中学生時代にはそう思っていたのは事実でしょう。
我々はこの事件とこの卒業アルバムから何を学べばいいのでしょう。常に相手の立場に立って物事を考える人物でも残虐な事件を起こす、ということでしょうか。あるいは、正しく生きるために相手の立場に立つことを忘れてはいけない、ということでしょうか。
いずれにしても、私の場合、残りの人生、命が尽きるまでこの「習慣」を維持していくつもりです。
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注:ただし現在、医師になってから初の、というよりも人生初のトラブルを抱えています。2020年12月に谷口医院の階上に入居したボクシングジムが日々耐え難い振動と騒音をつくりだし、当院の患者さんを苦しめています。ジムのオーナーと話し合いをして「4月末に防音・防振対策の工事をする」との約束をもらったのですが、まったくそのような工事を実施した気配がなく、「本当に工事をしたなら証拠を見せてほしい」と依頼すると、意味不明の写真を送ってきただけでその説明をお願いしても無視されました。5月以降に振動・騒音が悪化していることを伝えると「6月20日を目途にちゃんとした工事をする」と約束を取り付けたのですが、7月5日現在、工事を開始した様子は一切なく説明も求めてもやはり無視です。「工事をする、と言っておけばいいだろう」と思っているのでしょう。「苦しんでいる患者さんに、恐怖と苦痛を与えていることをどう思いますか?」と尋ねると、「ウチは客に”ユメ”を与えなあかんからやめられへんのですわ」という回答が返ってきました。こういう問題は得てして被害者が泣き寝入りすることになると聞きましたが、これ以上、患者さんに苦痛と恐怖を与え続けるわけにはいきません。ときに「理解しようと努めてもまったく理解できない相手」も存在するのです。
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