メディカルエッセイ

2013年6月17日 月曜日

36  医師の努力がむくわれないとき 2006/4/1

年々、患者さんが医療従事者を訴える、いわゆる医事紛争が増加していますが、同様に、刑事的に医師が逮捕や書類送検されるという事件が目立つようになってきました。

 最近、福島県のある病院の産婦人科医が、業務上過失致死と医師法違反で逮捕されるという事件が世間の注目を集めています。

 この事件を振り返ってみましょう。

 2004年12月、この医師が帝王切開した女性(当時29歳)が死亡し、24時間以内に届けなかったとして、福島県警がこの医師を逮捕しました。報道によりますと、この医師は、帝王切開の手術を執刀した際、胎盤の癒着で大量出血する可能性があり、生命の危険を未然に回避する必要があったにもかかわらず、癒着した胎盤を漫然とはがし大量出血で女性を死亡させたとのことです。また女性の死体検案を24時間以内に警察署に届けなかったことが医師法違反に該当するとのことです。

 この逮捕に対し、日本産科婦人科学会、日本医師会などが次々と反対の意思を表明しています。例えば、ある学会は、「術前診断が難しく、治療の難度が最も高い事例で対応が極めて困難。産婦人科医不足という現在の医療体制の問題点に根差しており、医師個人の責任を追及するにはそぐわない部分がある」と声明を発表しました。

 すると今度は、「産婦人科医不足や現在の医療体制の問題を理由にするのは、患者さんの立場に立った理由ではない」といった旨をマスコミに発表する医師も登場し、事態の混乱が続いています。

 話は少々ややこしくなっていますので、ここで整理をしておきましょう。

 まず、検察が逮捕に踏み切った理由は、業務上過失致死と医師法違反です。

 業務上過失致死というのは、例えばトラックの運転手などが路上で人をはねて死亡させたときなどに適応される法律用語です。この場合、運転手に殺人の意図がなくても法律(この場合は「道路交通法」)は適応されます。

 医師が全力を尽くしたのにもかかわらず、術中、あるいは術後に患者さんが亡くなった場合はどうなるのでしょうか。もちろん、すべての死亡が業務上過失致死にはなりません。業務上過失致死と認められるのは、文字通り「過失」がある場合のみです。

 では、今回の福島県の事件では「過失」があったのでしょうか。検察は、あらかじめ大量出血が予見できて生命の危険を未然に回避できた、と主張していますが、これを実証するのは簡単ではありません。癒着した胎盤というのを私は教科書でしか知りませんから、私自身はコメントする立場にありません。ただ、産婦人科の各団体が、一斉に逮捕に抗議をしていることを考慮すると、明らかな「過失」があったとは到底考えられないように思われます。

 次に、医師法違反についてですが、同法には、「医師は,死体又は妊娠4月以上の死産児を死体検案して異状があると認めたときは,24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。」との記載があります。ところが、この「異状」の定義がはっきりしておらず、以前より問題視されていました。

 今回のケースでは、胎盤の癒着から大量出血が起こったということ事態が「異状」に該当するのかどうかという点が争点になるのかもしれませんが、定義のあいまいさが以前より指摘されている法律をこのような症例に適応するというのは問題があるように私には思えます。それに、大量出血を「異状」とするなら、あらかじめ「大量出血を予見できた」と主張する検察のコメントが「過失」ではないことを示していないでしょうか。

 今回のこの事件が大きな意味をもつひとつの理由は、同業者である他の医師や病院、あるいは医学生、さらには医学部受験を考えている受験生にも少なくない影響を与えているということです。すでに、癒着した胎盤の帝王切開はやりたくない、と考える産科医が現れているそうです。少しでも危険のある帝王切開は他院にまかせようとする病院もでてくるに違いありません。産科をやめたいと考えている医師もいるという噂もあります。さらに、将来産科医になることを考えている研修医、医大生、受験生も進路の変更をおこなうかもしれません。すでに、医事紛争の増加で減少の一途をたどる出産施設が今後加速度的に増加することが予想されるわけです。
 
 さて、今回の一連の報道で私が疑問に感じるのは、患者さんのご遺族のコメントがまったく報道されていないという点です。私は医師として、患者さんとこの産科医がどのような話をされていて、この事件に対して遺族はどのような感想を持たれているのかを知りたいのですが、私の知る限りそういったことは報道されていません。医療の主役は患者さんであるということが忘れられているような気がしてさみしく思います。

 もちろん、「業務上過失致死」や「異状死体届出義務違反」というのは、患者さんやご家族がどのような感想を持たれるかに関係なく適応されなければならないものです。また、検察官や警察官は、個人的にどのような意見があろうとも法律に基づいて任務を遂行しなければなりません。

 しかしながら、私はひとりの医師として、患者さんがどのような思いで手術を受けられ、またご遺族はどのように思われているのかが知りたいのです。というのも、極端に言えば、嫌がる患者さんを無理やり説得してその病院での帝王切開に踏み切ったのと、あらかじめある程度の危険性を認識された上で、その医師による帝王切開を強く希望されていたのとでは天と地ほどの差があると思うからです。これは法律とは別の次元の話です。

 私の率直な感想を言えば、これから自分がおこなう医療のなかでこの産科医と同じような経験をしないという確信は持てません。私はいつも患者さんにとって最善と思われる治療を選択しているつもりです。さらにその治療法を患者さんに説明し同意が得られたときにのみ実施するようにしています。また、その治療法が、例えば難易度が高く私にはできないような手術などのときには、他の医師を紹介するようにしています。おそらくほとんどの医師がこのようにしているに違いありません。

 しかしその結果が不幸を招いたとき、あるいは努力がむくわれなかったときというのも、今後起こりえない保証はありません。おそら今後の医師人生のなかで一度くらいは予期せぬ結果というものが起こりえるのではないかと思います。

 そんなときにどうすべきかというと、法を犯したのであれば法に従い、最後まで患者さんやその家族の立場にたった態度を貫き通すということです。これ以外にはありません。

 法律や医事紛争を恐れて治療をおこなっていれば、患者さんにとってのいい治療ができなくなってしまいます。例えば、後に医事紛争になったときに自分に有利になるように、といった観点からのみカルテを書けばどのようになるでしょうか。カルテはあくまで患者さんにとって最善になるような観点から書かれるべきものです。それに、医事紛争のことばかりを気にしていると、少しでも診断がつきにくかったり、少しでも未知数があったりする症例をすべて他の病院に搬送することばかりを考えるようになるかもしれません。これでは常に、自分の身を守ることだけを考えて、患者さんにとっての最善の医療ができなくなってしまいます。

 医師にとって必要なことはたくさんあります。絶え間ない知識や技術の習得、高い人格、協調性、など、あげればいくらでもありますが、私がもっとも重要視しているのは「良心」です。常に自分の「良心」に従って診療をおこなう限り、少なくとも後に後悔することはなくなるはずです。いつも「良心」に従っていれば、結果的に法律を犯したことになったとしても、それほど恥じることもないのです。たとえ患者さんにとってみれば不幸な結末になったとしても、最後まで「良心」に従い、最後まで患者さんの立場にたった態度を取り続ける限り、それが謝罪や慰謝料というかたちになったとしても、少なくとも自分の「良心」は傷つけることはないわけですから。また、「良心」は常に鍛えていくということも必要です。そのためには、日頃からどんな行動をとるときにも「良心」に従うことが大切です。

 これから医師を目指されている方がこれを読まれているとすれば、どうかこの点をよく考えていただきたいと思います。医療とは、自分の身を守るものではなく、患者さんのためにおこなうものなのです。

 私が診させている患者さんがこれを読まれているなら、私が良心に従っていない治療をおこなっているのでは、と感じられるようなことがあればすぐにご指摘いただければ幸いです。

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2013年6月17日 月曜日

第35回(2006年3月) 理想の父

 先日、ある病院で夕方に外来をしていたときのことです。最後の患者さんの診察を終え、片付けを始めようとしたところ、突然救急車でひとりの患者さんが搬送されてきました。

 その患者さんは14歳の女子、搬送の理由は喘息発作です。これまでも度々同様の発作を起こしているそうです。私は彼女を診察台に寝かせ、聴診器を使って診察をおこないました。幸い症状はそれほどひどくなく、吸入と点滴で改善しそうな状態です。予想通り、点滴を開始してしばらくすると、苦しそうにしていた呼吸状態が落ち着いてきました。

 救急隊からの情報によると、この女子、自分で救急車を要請したそうです。14歳の女子がひとりで救急車を呼ぶとはなかなかしっかりしています。しかし、女子の外見が私にはひっかかりました。体格は14歳相応なのですが、服装や髪型、それに外見から醸し出している雰囲気がとても14歳には見えず、幼い感じがするのです。

 この幼くみえる女子がひとりで救急車を・・・。

 もちろん、人を外見で判断するのはよくないことなのですが、医師という職業上、患者さんの外見というのはいつも気になります。10代の女子で言えば、極端に化粧が濃かったり、あるいは逆にあまりにも不潔な格好をしていたりすれば、社会背景に何か問題があり、そのために身体上の障害が出現しているということが珍しくないのです。

 この女子の場合、化粧はまったくしていませんし、不潔にしているわけでもありませんでしたが、全体の雰囲気が普通ではないように見受けられます。

 あらためてよく観察してみると、髪は決して不潔というわけではないのですが、あまりまとまっておらず染めてもいません。髪は染めているのがいいというわけではもちろんありませんが、最近は中学生でもヘアダイやヘアブリーチをしていることがごく普通なので、逆に何もしておらず、あまり手入れをしていない黒い髪に違和感を覚えてしまうのです。

 服装は、上は色あせたトレーナーで、下は体育の授業で使うようなトレパンです。トレーナーはおそらくもともとは濃い赤色なのですが、何度も洗濯したせいでその赤色がまだらのようになっており、はげかけて薄いピンク色になっている部分もあります。両肘の部分は布地が相当磨り減っています。現代の日本でここまで同じ服を繰り返し着る10代も少ないのではないかと思わずにはいれません。はいているトレパンも、いくら動きやすいからといっても、おしゃれに敏感な14歳の女子が体育の時間以外にはいているというのも普通ではありません。

 この女子が幼く見えるのは、あまりにも貧しい衣服を身にまとい、おしゃれとは疎遠であることが原因のようです。

 しかし、話してみると、その幼さとは裏腹に、言葉遣いも丁寧で大人びた側面も持ち合わせています。

 「苦しくなったらいつも救急車を自分で呼ぶの?」

 私の質問に彼女は答えました。

 「はい。父がいるときは父に呼んでもらいますが、父と二人暮らしなのでこの時間だと私が自分で救急車を呼ぶんです」

 私は自分が14歳のとき、自分の父のことを人に話すときに「父」とは呼んでいなかったことを思い出しました。彼女のように正しい敬語を使うこともできていませんでした。

 ボロボロの衣服を身にまとった言葉遣いがしっかりした14歳の女の子……。

 こうなると次に気になるのが、この子のお父さんです。医師をしていると、ついつい家族関係を追求したくなることがよくあります。実際、家族関係が良好かそうでないかによって診断や治療に影響がでてくることがあるからです。虐待や近親相姦はその最たる例です。

 服装や髪型から想像を膨らませ、家族関係まで詮索してしまう・・・、私は医師になってから随分イヤなやつになってしまったのかもしれません。

 そんなことを考えているとき、この子の父親が診察室に飛び込んできました。

 「娘は?! 娘は大丈夫ですか!」

 血相を変え、息を切らせて必死に娘の安否を気遣うこの父親に、私が「大丈夫ですよ。今は息苦しさもほとんどないはずです」と答えると、診察台で横になっている娘の両肩を抱きかかえ、「大丈夫か、ほんまに大丈夫か!」と何度も自分の娘に返事を促しています。

 私や看護師の目の前で父親が大きなリアクションで安否を気遣うものですから、女子は少し恥ずかしそうにしています。

 「お父さん、大丈夫やで。いつもよりましやわ。そんなに心配せんといて~な。うち、はずかしいわ」

 微笑ましい親子愛といった感じです。

 それにしてもこの父親の格好、娘のそれと同じように、いえ、娘よりも私には奇異にうつりました。

 髪はボサボサで手入れはまったくしておらず、無精ひげは決して清潔とはいえない状態で、服装は上下とも作業服で相当汚れています。作業服だから汚れていても不思議ではないのですが、この父親の作業服はところどころ破れていて、そのすりきれた布地からかなり使い古されたものであることが伺えます。それに靴には穴が開いています。失礼な言い方ですが、21世紀の日本人の服装とはとうてい思われないような格好なのです。

 「娘さんと二人で暮らされているのですか」

 私は父親に質問しました。

 「はい。そうなんです。この子の母親は今から7年前に病気で亡くなって、それからは私ひとりで育てているんです」

 この父親は、以前はある大企業に勤めていたのですが、妻を病気で亡くしてから、娘を育てるためにその会社をやめ、定時で終われる現在の仕事に転職したそうです。給料は半減したそうですが、それよりも娘と一緒にいる時間を大切にしたいと言います。毎朝5時半に起床し、朝食と娘の弁当をつくり、夕食も必ず自分でつくるそうです。娘にはできるだけ家事を手伝わさせずに掃除も洗濯もこの父親がほとんどおこなっているそうです。

 娘は言いました。

 「父の料理はとってもおいしいんです。お弁当が毎日すごく楽しみなんです」

 このときの娘の瞳の美しさに私は小さな感動を覚えました。

 喘息発作で度々救急搬送されるということは、現状の喘息の治療が適切でない可能性があります。問診してみると、最近かかりつけの診療所に通っておらず、自己判断で治療を中断しており、発作がおこったときに救急車を呼ぶということを繰り返していることが分かりました。

 私はそれが非常に危険であることを話し、明日にでもかかりつけ医を受診するよう指示しました。点滴が終了する頃にはすっかり元気になっており、ふたりは何度も礼を言って仲良く帰っていきました。

 大企業を退職し、貧しいなかでたったひとりで娘を育てる……。おそらく私には想像もつかないような苦労をされていることでしょう。この父親は40代半ばくらいですから、その大企業にそのまま勤めていれば、それなりの収入とそれなりの暮らしがあったに違いありません。それらを捨てて娘ひとりに愛情を注いでいるのです。

 片親に育てられて非行に走る子もなかにはいますが、この子は非行どころか、家が貧乏であることを恥じることなく、そしてきっと父親を誇りに思っていることでしょう。

 すばらしい親子関係が構築できているのは、この父親が世間体や自分のプライドのためにひとりで娘を育てているのではなく、心から無条件の愛情を示しているからに違いありません。

 私自身は結婚の経験も、子育ての経験もありませんが、いずれ結婚して子供をもつときがくれば、無条件の愛情を示すこの父親のようになりたいと思いました。

 また、私はこれからも、多くの患者さんや、国内外のエイズの患者さんをみていくことになりますが、ひとりひとりに医師としての精一杯の愛情を注いでいきたいと、この父親をみて思うようになりました。大勢の患者さんの役に立つ医師というよりもむしろ、目の前の患者さんに精一杯の愛情を注げる医師、それが私の理想です。

 最後に、私の好きな言葉を紹介します。

 「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」

ダグ・ハマーショールド(元国連事務総長)

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2013年6月17日 月曜日

34  語学はこんなにおもしろい! 第2回(全2回) 2006/2/28

私は一度、タイ語の先生に、「C」の二つの音(無気音と有気音)を続けて発音してもらったところ、違いがまったく分からなかったために、「一緒やん」という言葉が思わず出てしまったことがあるのですが、彼女はすかさず「イッチョじゃないよ!」と言ったので、おかしくなって笑ってしまいました。2つの「C」を、無気音と有気音として、厳密に区別しているタイ人が、タイ語より格段に音の少ない日本語の「し(SHI)」を発音できないのです。

 英語を母国語とする外国人はどうでしょうか。私は、ある西洋人に、このタイ人の先生とのエピソードを話した上で、「英語を母国語とする人にとって、むつかしく感じる日本語の音があるか」という質問をしたことがあります。彼女の答えは「まったくない」というものでした。

 けれども、よくよく思い出してみると、アメリカ人であろうがオーストラリア人であろうが、日本語の文章をきれいに発音している西洋人を私は見たことがありません。どれだけ日本に長く暮らしている人であっても、声だけを聞いて、「この人、日本人かな」と感じたことは一度もありません。

 それに対して、日本語のよくできるタイ人は、「SHI」や「Z」などがあまり出てこない文章であれば、ほとんど日本人と同じように発音します。例えば「お元気ですか」という文を、英語を母国語とする人に発音してもらうと、イントネーションや発音の微妙な違いから、すぐに日本人でないことが分かりますが、これをタイ人が発音すると、場合によっては「この人、日本人かな」と思うほどきれいです。

 どうやら、スピーキングという語学の領域は、単に母音や子音を正しく聞き取れて発音できるかどうか、という問題だけではなさそうです。

 もうひとつアジアの例を挙げましょう。

 中国という国は、多民族から成立している国家ですが、統一支配をする上で、語学の問題にもっとも難渋した(している)そうです。北京語が一応の共通語ということになっていますが、北京語は数多い中国語のなかでも音の数の多い、少なくともリスニングとスピーキングにおいてはもっとも難易度の高い言語です。

 そんな言語を共通語にしようとしたものですから当然無理がでてきます。いくら言葉を強制されても、もともと発音できない音が多数含まれているのですから、地方の民族の人には正しく使えるはずがありません。例えば、台湾の言語は北京語よりも音が少なく、そのため台湾人には上手く発音できない音が北京語には多数あり、北京語を話す中国人が台湾人の中国語を聞けば、洗練されていない、どこか野暮ったい言葉に聞こえることがあるそうです。

 日本人が外国語を学ぶときに、発音のハンディキャップを背負っているのは確かに事実ですが、西洋人が日本語を流暢に話すかと言えば、必ずしもそうではありませんし、タイ人は母国語に多くの音を持っていながら、正しく発音できない日本語がありますし、中国にいたっては、同じひとつの国でありながら、地方によっては標準語が正しく発音できないのです。

 こう考えれば、日本人だからといって一方的に悲観的になる必要はありません。また、考え方を変えて、日本語と同様に音の少ない言語を勉強するというのもひとつの方法かもしれません。(センター試験で英語以外の科目を選択するというのはかなりリスキーかもしれませんが・・・)

 ちなみに、日本人が発音に比較的コンプレックスを持つことなく勉強できるメジャーな外国語は、韓国語とスペイン語だと言われています。私の知る範囲でも、韓国語はある程度までマスターする人が多いような印象があります。スペイン語については、発音には抵抗なく入れたけれど、単語の語尾変化の多さに疲れてしまって挫折するというケースが多いようです。

 ところで、語学が苦手という人は男性に圧倒的に多いような印象があります。これは昔からよく言われていることですし、脳生理学的な説明が試みられることもあります(例えば右脳と左脳の使い方の差異や脳梁(のうりょう)の太さの違いなど)。また、私自身の経験から言っても、英語をきれいに話す韓国人は圧倒的に女性に多いという印象がありますし、タイ人にいたっては、例えばタイ国内の銀行に入ると、女性はほとんどがある程度きれいな英語を話しますが、男性職員はかなりのベテランと思わしき人でも、さっぱりしゃべれないということがよくあります。

 実際、「語学は女の方が有利なんだから試験にハンディをつけてほしい」、とまで言う男性もいます。語学にコンプレックスを持っている男性のなかには、「女性はもともと語学のセンスがあるのに加えて、日本人の女であれば、容姿にかかわらず(?)、たいていどこの外国人からもモテるから、恋人をつくることによって語学が飛躍的に上達する。それに対して日本人の男は、特に西洋の女性からはまったく相手にされないからハンディを背負っているんだ」、と言う人までいます。

 う~ん、たしかに一理あるような気もします。例えば、オーストラリアには、de facto partner visaと呼ばれるものがあります。これは通称「恋人ビザ」と言われているもので、オーストラリアでは、結婚していなくても、ある程度長期間の付き合いがあれば、恋人とみなされて居住権を獲得できるという制度です。この制度を利用したことのある日本人女性(要するにオーストラリアの男性ときちんと付き合っている(いた)女性)の話は、たまに聞くことがありますが、男性でこのビザを取得したことがあるという話は私の知る限りありません。

 けれども、男性も決して悲観することはありません。私の知る限りでは、リスニングとスピーキングで女性に劣ることが多いとしても、リーディングやライティングではそれほどひけをとっていないのではないかと思われます。

 実際、英文がほとんど書けずに初歩的な文法のミスをしている日本人女性が、ビックリするくらいきれいな英語を話すことがよくあるのと同様、ほとんど英会話ができない男性が、難解な英文をスラスラ読んでいる光景も珍しくありません。

 私は現在、月に2~3度、タイ語を習っていますが、その先生によると、「(私のような)男性は文字や文法をすぐに覚えるけれど発音はもうひとつ」、だそうです。それに対して、「女性は文字や文法をイヤがるけれど発音はきれい」、だそうです。男の私からすれば、文字や文法をイヤがる、というこの女性心理が理解できません。タイ文字はとても「かわいい」ですし、そもそも文字を覚えなければ辞書すら使えないのです。辞書も使えない状態で、語学力を向上させるなんてことは私には不可能です。しかし、女性たちは、辞書なしで会話力をどんどんアップさせていくのです。興味深いと思いませんか。

 特に語彙力に関しては、男性も自信を持っていいのではないか、と私は思っています。もちろん、語彙力アップには絶え間ない努力が必要ですが、トータルでみれば、語学で女性に劣っているというわけでは決してないと思うのです。リスニングが採用されたといっても、まだまだ大学入試の英語は筆記試験が中心ですし、また、ビジネスの現場でも、いくら流暢に英語を話そうが、英字新聞をろくに読めないような日本人は信用されません。

 それに、語彙力を増やし、正しい文法を見につけることによって、リスニング力も上達するのです。これは、多数の単語や文章に慣れることによって、その単語の発音が正確にできなくても、文脈から意味をとれるようになるからです。特に長い単語というのは少々発音に自信がなくても、馴染みがあれば簡単に理解できるものです。

「Y」の発音に苦手意識があり、「year」が正確に聴き取れず発音できなくても、例えば、同じ「Y」から始まる、「yellow-dog-contract」(労働組合に加入しないことを条件とする雇用契約のこと)という単語が会話のなかで出てきたときに、この単語を知っていればすぐに理解できるでしょう。そして、この単語を知っていれば、西洋人から(おそらく)一目おかれるでしょう。

 受験生の方には時間的な余裕がないかもしれませんが、実際に英語を母国語とする外国人と話す機会をつくれば、単に自宅で英語を聞くよりもはるかに効果があります。これは、先に述べたように、よく使うフレーズを何度も聞くことによって文脈から単語を類推する能力がアップするからですが、他にも理由はあります。

英語教育番組にはないすぐれたところは、その外国人がどういうところでつまるか、あるいはどのような「間」を置くかが、セリフを話すだけの教育番組よりも手に取るように分かるからです。そして、こういうことが分かるようになると、英語独特のリズムのようなものが身につくようになります。また、もう一度聞き返すことによって、例えば、今の発音は「that」なのか「the」なのかといったことを確認することもできます。

 それに、会話の内容を興味深いテーマにすることによって、楽しんで英語と接することができます。お互いの国の文化の違いや、考え方の相違点を知るのは本当に楽しいものですし、書物からは分からないことも多々あって、語学がますます好きになります。

 私は昨年の秋から月に2~3度、英語のプライベートレッスンを受けていますが(と言うよりは、ほとんど雑談ですが)、次回のテーマは、「母国ではさっぱりモテない西洋の男が日本に来ればアイドル並みの扱いを受けている実情、なかには寄ってくる日本人女性をひどく扱っている男もいるという現実」、というものです。こういう話は、実際に被害(?)にあった日本人女性から聞くことはありますが、このテーマで、西洋人とディスカッションするということがおもしろいわけです。
 こんな会話をしながら実力がアップするなんて・・・。語学っておもしろいと思いませんか。

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2013年6月17日 月曜日

33  語学はこんなにおもしろい! 第1回(全2回) 2006/2/15

受験シーズンになって、私にメールをくださる受験生の割合が増えてきました。内容は、「二次試験対策をがんばって合格目指します!」というものもあれば、「センター試験に失敗したので来年に照準を合わせます」というものまで様々です。

 最近目立つ質問に、「医学部二次試験の理科が3科目のところは不利ですか」、というものと、「英語のリスニングの効果的な勉強法ってありますか」、というものがあります。

 「理科3科目」については、近日出版予定の『偏差値40からの医学部再受験テクニック編(仮)』にも書きましたので、ここでは詳しく触れませんが、私としては、不利になることはなく、むしろ有利になるものと思っています。

 今日は、英語のリスニングについてお話したいと思います。

 英語のリスニングに苦手意識を持っている人は非常に多いように思います。実は私も、リスニングは決して得意ではなく、英語の4つの分野、すなわち、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングのなかでは、リスニングがもっとも、そしてダントツで苦手です。
 日本人の多くが英語のリスニングが苦手なのに対して、英語を母国語とする人たちは日本語を勉強するときに、リスニングがもっとも簡単だ、と言います。そしてこれは、英語を母国語とする人だけでなく、他の言語を母国語とする人にとっても同じようです。外国人が受験する日本語検定というのは4級から1級までありますが、日本に数ヶ月もいれば、たとえ日本語検定1級の試験でも、リスニングに関してはそれほどむつかしくないという外国人も珍しくありません。

 この最大の原因は、日本語は母音も子音もその数が多言語に比べて圧倒的に少ないということです。母音を考えてみると、日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つしかありません。一方、多言語では、英語で12、ベトナム語で15、タイ語で32、中国語は36もあると言われています。(尚、母音の数については、本によって書いてあることが違うので、これらの数字はあくまでも参考程度です。)

 子音については、日本語は、「K、S(SH)、T(TH)、N、H、M、Y、R(L)、W、G、Z、D、B、P(PH)、J」の15個しかありませんが、英語では20個、タイ語では22個、中国語は30以上もあるといわれています。さらに、これらだけではありません。中国語とベトナム語には4つの声調が、タイ語には5つの声調があります。

 文法や作文については、努力すればかなり実力を伸ばすことが可能ですが、リスニングについてはそう簡単には上達しません。よく、「音感のある人は上達が早い」と言われますが、(私も含めて)音感がそれほどなくてもやらなければならない人も大勢いるわけですから、「自分は音感がないから・・・」と言って逃げるわけにはいきません。

 では、どうすればいいかと言うと、繰り返し繰り返し聞く練習をするのです。「なんだ、当たり前のことじゃないか・・・」と思われるかもしれませんが、これは、単に「何度も繰り返し聞けば聞き取れるようになる」という意味ではありません。むしろ、「正確に聞き取れなくても意味が理解できるようになる」ということが重要なのです。そして、そのためには、文法をしっかりとしたものにして、語彙力を増やすことが必要です。

 例を挙げましょう。

 英語を母国語とする人は、「ear」と「year」を正確に区別しますが、日本人でこれらを正確に聴きわけて、そして区別して発音している人はどれくらいいるでしょうか。少なくとも私にはほとんど絶望的です。先ほど日本語の子音に「Y」を含めましたが、実は日本人の多くはこの「Y」が正確に発音できません。「や・ゆ・よ」はそれぞれ「YA,YU,YO」と発音しているのですが、「YI」「YE」については、「I」「E」になってしまう人がほとんどです。五十音の表にも「や・い・ゆ・え・よ」と書かれていることからも、それは明らかでしょう。

 外国人が日本に来て驚くことのひとつに、「日本人は自国の通貨の発音もできないのか・・・」というものがあります。つまり、日本の通貨は「YEN」(円)なのに、これを「EN」と発音するからです。「Y」の発音は、「I」と「J」の中間のような音ですが、これを日本人が正確に発音するのは至難の業です。(しかし、よく考えてみると、なぜ「円」の英語は「EN」ではなく「YEN」なのでしょうか・・・)

 私は、「Y」の発音は難しくないのか、ということをオーストラリア人に質問したことがあります。彼女の答えは、「日本人が難しく感じるのは分からないでもないが、英語を母国語とする人からみればまったく難しくない」というものでした。

同様の質問をタイ人にしたこともありますが、彼女の答えも「簡単です」の一言でした。ちなみに、タイ語では日本のことを「???????」(これを無理やりアルファベットで表記するとyiipunもしくはyiibpunとなると思います)と言いますが、これを正しく発音できる日本人はほとんどいないそうです。彼女によれば、日本人は「YA」や「YU」は発音できるのに、「YI」ができないことが大変不思議で興味深いそうです。
 
 では、日本人は、母国語のハンディキャップから、リスニング習得を諦めなくてはならないのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。受験にも英語のリスニングは必須化されるようになってきているわけですから、かなりのハンディがあろうとも克服しなければなりません。

 私は、先ほど「繰り返し繰り返し聞く」ことが大切だと述べましたが、これは「その単語の発音に慣れる」という意味ではなく、「その単語を含めた文章に慣れる」ということです。

 「ear」と「year」は確かに単独で発音されれば聴き取るのは至難の業ですが、文脈と合わせて考えるとそれほどむつかしくはありません。実際、私はこれら2つの単語が聴き取れずに苦労した経験はありません。そのスピーカーが「耳」のことを言っているのか、「年」のことを言っているのかで迷うなんてことは、普通はありえないからです。

 これは「L」と「R」でも同じことです。「glass」と「grass」、「collect」と「correct」などは、それだけで聞くと判別しにくいことがありますが、文脈から察すればそれほどむつかしくはありません。(ただし、TOEICのリスニングの問題でこれらの区別を問うている問題はあります。)

ただ、「L」と「R」については、発音するときには充分に注意しなければなりません。これを曖昧にして発音すると、文章の意味が伝わらないことがよくあります。私はそんな経験をこれまでに何百回としてきています。
 
 英語を母国語としない外国人のこともみておきましょう。

 「L」と「R」の区別は、韓国人も苦手なようです。そのため韓国では幼少児に舌の手術をおこなうこともあるそうです。舌を手術して「L」と「R」の発音が正しくできるのかどうか、私には甚だ疑問なのですが、世界一の受験大国と呼ばれている韓国の教育の狂信的な力の入れように驚きます。ちなみに、韓国人の多くは日本語の「ず」が正しく発音できないようです。私は一度「ミジュをください」と言われて、それが「水」だと分かるまでに随分長い時間がかかったという経験があります。

 タイ語では「L」と「R」は区別されているのですが、欧米人に言わせると、タイ人の「R」は、はっきりと「R」と発音するときと、「L」に極めて近い音を出すときがあるそうです。

 また、タイ語には、日本語はもちろん、英語よりも多数の母音と子音、さらに5つの声調がありますが、発音できない日本語があって興味深いと言えます。タイ人のほとんどは、日本語の「し(SHI)」が発音できません。だから「新幹線」は「チンカンセン」と発音しますし、「ショッピング」は「チョッピング」と言います。また、「Z」の音もタイ語にはなく、そのため「象さん」は「ソウさん」になります。

 その一方で、日本人にはかなりのむつかしさを感じさせる発音がタイ語には多数あります。先に述べた「Y」もそうですし、「C」「P」「T」「K」はそれぞれ2種類(無気音と有気音)あって、これらを厳格に区別しなければなりません。例えば、日本人には(少なくとも私には)、同じように聞こえる「C」を発音するときに、息を出すか出さないかで、まったく別の音として扱うのです。欧米人も、この点についてはタイ語を難しいと感じているようです。

 これらを発音するときに区別しようとすると、例えば「C」については、有気音の「C」は日本語の「ち(CHI)」と同じ音で、無気音の「C」は「じ(JI)」と同じ音で発音すると、問題なく通じることも多いのですが、逆にタイ語を聞くと、どう聞いても「C」の無気音は「じ(JI)」とは聞こえなくて不思議です。これは、タイ語には英語や日本語の「J」の音がないことが原因なのですが、語学のおもしろさはこういうところにもあります。

つづく・・・・

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2013年6月17日 月曜日

第32回(2006年2月) 医者は「勝ち組」か「負け組」か

 2006年1月23日、ライブドアの堀江社長が証券取引法違反で逮捕されたという事件は、翌日の各新聞のトップを飾り、大きな議論を呼んでいます。この事件を報道しているのは日本のマスコミだけでなく、ReuterやBBCといった海外の一流メディアまでもが大きく取り上げました。

 そして、海外のメディアも、堀江容疑者の人物像について、不正行為の容疑についてばかりでなく、放送局やプロ野球チームを買収しようとしたことや、衆院選に立候補したことなどにも触れています。

 数年前から「勝ち組・負け組」という言葉が流行していますが、堀江氏は典型的な「勝ち組の象徴」として語られることが多かったように思います。

 人間を単純に二極化してしまうような、この「勝ち組・負け組」という言葉には、私は当初から抵抗感があったのですが、あまりにもこの言葉が世間に浸透してしまったために、様々な弊害が生じているように思えてなりません。

 例えば、私のホームページからメールを送ってくる医学部受験を考えているという人のなかにも、「医師になって勝ち組になりたい」というような表現を使う人がいます。

 この「勝ち組・負け組」という言葉が広がることに危惧を感じるのは、世の中の価値を単に「お金」を尺度としてみなされてしまうからです。文脈にもよるでしょうが、結局のところ「お金」のある人間は「勝ち組」で、「お金」のない人を「負け組」と捉えることが多いように思われます。実際、堀江氏の発言のなかで「人の心はお金で買える」とか「お金があればオンナをものにできる」というものもあったそうです。

 「人間の幸せはお金で決まるものではない」と言ってしまえば、中身のない綺麗事に聞こえますが、世の中にはお金を優先事項にしていない人も大勢います。今回は私の知るそういう人たちを紹介したいと思いますが、その前に世間で言われているような「負け組」とは何なのかを考えてみましょう。

 森永卓郎氏の『年収300万円時代を生き抜く経済学』という本が大ベストセラーになったこともあり、年収300万円程度の人を「負け組」と呼ぶような風潮があります。ところが、あるデータによると、年収300万円程度の人の9割以上がインターネットの使える環境のパソコンを所有しており、また、半数以上の人が車を所有しているそうです。また、現在の日本ではよほどのことがない限り、衣・食・住に困ることはありません。

 はたして、自宅で悠長にインターネットをしている人を「負け組」と呼んでいいのでしょうか。たしかに、年収何億もある人と単純に収入だけで比較すれば「負け組」ということになるのかもしれません。けれども、それを言うならパソコンどころか、その日に食べるものがない環境にいる人が世界にどれだけいるかを少し想像してみればどうでしょうか。

 見方を変えれば、日本国籍を有していること自体がすでに「勝ち組」なわけです。

 しかし、こういう見方は「屁理屈、あるいは単なる綺麗事だ」と言う人もいるかもしれません。そういう人に私が問いたいのは「それでは、衣・食・住に困らずに車やパソコンを有していてそれ以上に必要なものは何なのですか」ということです。

 実際に年収300万円くらいの男性にこの質問をすると、よく返ってくる言葉が「それでは恋愛や結婚ができない」というものです。

 けれども、本当にそうなのでしょうか。たしかに、恋愛や結婚に関するデータをみてみると、女性が男性に求めるひとつに「高収入」というのがあるようです。しかしながら、アンケートで「お金があるのとないのではどちらがいいですか」と聞かれれば、よほどの変人でもない限り「お金はある方がいい」と答えるでしょう。

 統計学的な根拠があるわけではありませんが、私には世間の女性が「年収300万円程度の男とは恋愛ができない」と考えているようには到底思えないのです。私の周りの女性に話を聞くと、「お金はそれほど重要じゃない」と言いますし、年収300万円くらいの男性と付き合っている女性は何も珍しくありません。

 誤解を恐れずに言うならば、恋人のいない男性は、その理由を年収のせいにして、恋人のできない本当の理由を見ようとしていないだけではないでしょうか。また、恋人のいない女性は「周りには年収の低い男しかいないからひとりでいるんだ」という言い訳を用意して、恋人のできない本当の理由を見ないようにしているだけではないでしょうか。

 恋愛や結婚のことはさておき、衣・食・住は満たされているけれども「心の平安」がないという人に私がおすすめしたいのは、「感動」を探すということです。そもそも、衣・食・住、さらに車やパソコンの次に必要なものが「お金」だ、という考えばかりが注目されるから、人間の価値を「お金」だけで評価するような「勝ち組」という概念ができあがってしまっているわけで、「お金」以外の「感動」を求めてもかまわないわけです。

 もちろん、世の中にはお金が好きで好きでたまらないという人がいますし、私はそれはそれでかまわないと思います。実際、そういう人もいなければ資本主義がうまく回転しないのかもしれません。

 けれども、「お金」以外の選択枝を見つめなおすのは悪いことではないでしょう。
 
 例をあげましょう。

 私が、タイのエイズホスピスにいたときにヨーロッパから来ているボランティアが何人かいました。彼(女)らは医師であったり、看護師や介護師であったり、普通の主婦であったりするわけですが、お金持ちはひとりもいませんでした。年収は300万円もありません。ヨーロッパでは一部の貴族的な身分の人を除けば、大半は年収300万円以下の人たちです。物価が安いかというとそうではなく、日本の方がよほど物が安く買えるように思います。

 そんな状況のなかで、彼(女)らは短くても数ヶ月、長ければ数年という単位でボランティアに来ていました。義務感でボランティアをしているわけではありません。楽しくて「感動」があるからこそはるばるとやって来ているのです。これはやってみないと分からないかもしれませんが、患者さんと触れ合って得ることのできる「感動」というのは、お金では買えない、いわば「priceless」なものです。

 もうひとつ例をあげましょう。

 タイでは貧富の差が激しいという話を別のところでもしましたが、例えば、地方からバンコクに出稼ぎにきてホテルのルームメイキングをしているような女性は、月収で1万円程度です。私が彼女らと話して感動するのは、表情に悲壮感がまったくなく、その仕事を楽しんでいるということです。お金はないけれども、外国人と話すのはおもしろいし、仕事が暇なときは同僚とおしゃべりするのが楽しいと言います。なかにはもう20年も同じ仕事をしている女性もいます。彼女らは月収1万円で楽しく生活しているのです。

 日本に目を向けてみましょう。

 『医学部六年間の真実』でも述べましたが、日本の医師というのは儲けようと思えばかなり儲けることができます。2005年12月に発覚したニセ医者の年収が2000万円というのがいい例でしょう。しかし一方では、年収数百万円程度で自分の好きな臨床や研究に没頭している医師も少なくありません。

 私はこの春にクリニックの新規開業を考えていますが、私の試算ではこれまでに比べて年収が半分以下になります。それでも開業にこだわるのは、総合診療ができて(これまでは皮膚科の外来をしているときは風邪すらもみることができず、内科の外来をしているときは湿疹すら診れませんでした。なぜならそれらの診察をすれば他科に対する「越権行為」になるからです)、継続して患者さんを診ることができるからです。つまり、患者さんとの距離がぐっと近くなるわけで、それだけ「感動」も増えると考えているのです。

 お金のみに価値を置いていれば、いつも強盗や詐欺師から身を守ることを考えなければいけませんし、近づいてくる人間はお金目当てかもしれない、と要らぬ疑いを持つことになるかもしれません。お金で買えない「priceless」な「感動」というものを考えてみるのは決して悪くないことです。

 私個人としては「勝ち組・負け組」という言葉は好きではありませんが、あえて使うならば、「お金」ではなく、どれだけ自分の人生で「感動」を体験できたかによって「勝ち組・負け組」が決まる、とは言えないでしょうか。

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2013年6月17日 月曜日

第31回(2006年1月) 正しい医師への謝礼の仕方、教えます!

 先日、ある患者さんと話していたときのことです。

 「先生、あたし3年前に手術受けたときに10万円も医者に渡してんで~。ほんま腹立つわ~。」

 医師への金銭の授与・・・。誰が考えてもおかしいのは明らかですが、いまだにこの悪しき慣習は根強いようです。

 「そんなに腹立つんやったらあげへんかったらよかったのに・・・」

 私がそう言うと、その患者さんは続けました。

 「そやかて、そこの病院では手術を受けるときにはお金を渡すのが暗黙のルールやって聞いてんもん・・・」

 そんなルール、本当にあるのでしょうか。

 この患者さんのように10万円という大金は極端だとしても、今でも実際に、我々医師にお金を渡そうとする患者さんは少なくありません。特に手術の後に渡そうとする患者さんが多いような印象があります。

 もちろん、こんなことは誰が考えてもおかしいわけで、医師もできるならば受け取りたくありません。お金を失うことになるわけですから患者さんの負担にもなりますし、受け取る医師としても気持ちのいいものではありませんから、合理的に考えれば、このようなおかしな慣習は直ちに撤廃してしまえばいいのですが、現実はそう簡単ではないようです。

 私自身も含めて医師側からみれば、お金を渡そうとしてくる患者さんと接するのは、かなりしんどくて疲れます。もちろんできることなら受け取りたくないわけですから、最初はなんとかして断ろうとします。しかしそのうちに、患者さんが「先生が受け取るまで帰りません!」などと言って一歩も譲らなくなると、その場の空気から逃げ出したいがために受けとってしまうこともあります。

 しかし、その気まずい空気からは抜け出したとしても、その後に「患者さんから受け取ってしまった・・・」という罪悪感に苦しめられることになります。

 また、私の「受け取りません」という言葉にいったんは納得した患者さんでも、後で(どうやって住所を調べたのか)自宅に送ってくる人もいます。

 私は、できるだけ早いうちに、いただいたお金をそのまま(商品券の場合は換金してから)、各団体に寄付するようにしていますが、寄付したからといって罪悪感が完全に消えるとは限りません。

 私の尊敬するある医療従事者は、「患者さんからお金や物を受け取らない」ことを徹底しています。その人は、患者さんから非常に人気があるということもあり、お金や物を渡したいという患者さんが後を絶ちません。院内では何があっても絶対に受け取らないことが分かると、一部の患者さんはその人の自宅にお金を送ります。お金が送り返されてくると、今度は米や酒、果物といった物を送るようになります。しかし、その人の態度は徹底していますから、きちんと手紙が添えられて送り返されてくるというわけです。
 
 医師への金銭の授与、この悪しき慣習は、なぜなくならないのでしょうか。

 その最大の理由は、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」と患者さんが考えるからではないでしょうか。

 けれども、そんなことは絶対にありえません。いくら大金を渡そうが、その逆にわがままばかり言って医療従事者をてこずらせようが、医療従事者が手を抜くということは絶対にありません。これは決して綺麗事や単なる理想論ではなく、医師が患者さんによって治療に差をつけるということはありえないのです。

 その理由は、少し考えるとすぐに分かります。例えば手術を例にあげて考えてみましょう。医師というのは、できるだけ手術の成績をあげたいと考えています。つまり、自分のおこなった手術で患者さんがよくならなければ、自信を失うことになりますし、その医師や病院の評判が落ちてしまうことにもなりかねません。医師はどんな患者さんに対しても全力で手術をおこなっているのです。そして、これは他の治療でも同じです。治る病気が治らなければ、その医師や病院の評判が下がってしまいますから、治療で手抜きなどをおこなうと、結果としてその医師や病院が困ることになるのです。

 ですから、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」という心配は理論上でもまったく不要なのです。

 「純粋な感謝の気持ちからお金を渡したい・・・」、そのように考えられる患者さんもおられるかもしれません。自分にとっていいことをしてもらえば、何かのかたちで感謝の気持ちを現したい、と思うのは人間にとって自然なことかもしれません。

 けれども、その患者さんに対しておこなった治療行為というのは、我々医療従事者は「仕事」としておこなっているのです。もちろんその「仕事」に対する報酬は病院からきちんと支払われています。与えられた「仕事」をして、その分の報酬を得ているわけですから、それ以上の収入を得ることはおかしいのです。それに、そもそも病院から支払われている報酬は、元をただせば国民の税金と保険料から捻出されているのです。
 
 「でも、本当にあの先生にはよくしてもらったし、なにかのかたちでどうしても感謝の意を示したい・・・」、そのように考えられる方もおられるでしょう。

 では、その問題にお答えしましょう。

 お金を渡すからいろいろと問題が生じるわけですから、どうしても感謝の意を示したいなら、お金以外のものを渡せばいいのです。「お金以外のもの」といっても、商品券の類のものは金銭と同じですからダメです。また明らかにお金がかかっていると思われるモノもダメです。

 患者さんによっては、お菓子や花を持ってこられることがあります。小さな箱に入ったチョコレートを退院した後で持って来られた方がいました。退院の日に一輪の花を「みなさんのおかげで元気になれました」という言葉とともに渡してくれた患者さんもいました。お金や商品券ならイヤな気持ちになりますが、こういうときは私は純粋に嬉しく感じます。

 しかしながら、小額であっても、やはりお金のかかるプレゼントを患者さんが医療従事者に渡すという行為は、問題がないわけではありません。

 ならば手作りのものならいいのか、そう考えられる方もいるでしょう。確かに手作りのアクセサリーなどをいただくと大変嬉しく思います。私も患者さんにもらった手作りのブローチや、子供が書いてくれた絵などは宝物にしています。

 しかしながら、感謝の意を示すには、もっと簡単でもっと適したものがあります。

 それは、「手紙」です。

 患者さんからの手紙ほど嬉しいものはありません。医療従事者にとって、患者さんからの手紙というのはお金に代えることのできない価値のあるものです。私も患者さんからいただいた手紙は宝物にしています。小さな子供が覚えたての文字を使って色鉛筆で一生懸命に書いてくれた手紙など、何度読み直してもすがすがしい気分にさせてくれます。最近は、インターネットで私の名前を検索してメールをくれる方も増えてくるようになりました。

 患者さんの手紙からは学べることもあります。例えば、「先生は最初は怖い人かと思っていましたが・・・」とか「あの検査があれほどしんどいとは思いませんでした」などと書かれていると、「ああ、もっと第一印象を大切にして丁寧に患者さんに接するようにしよう」とか「検査の苦痛についても勉強する必要があるな」とか、そういうフィードバックができるわけです。

 それに、手紙というのは出した方も気持ちのいいものではないでしょうか。手紙なら、冒頭で紹介した患者さんのように後からグチを言いたくなることもなくなるはずです。

 私は私生活で、人に親切にしてもらったり、助けてもらったりすると、できるだけ手紙や電子メールで感謝の意を伝えるようにしています。手紙や電子メールは、直接会って話したり電話で話したりするのとは違った表現ができるために、特に感謝の意を示したいときには最適ではないかと私は考えています。

 手紙(や電子メール)がきっかけで、人間どうしの絆が太くなったり、お互いに理解し合えたりすることはよくあります。これはあらゆる人間関係で言えることだと思います。

 そして、それは患者さんと医師の関係でも同じなのです。

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2013年6月17日 月曜日

30  ニセ医者とシャブ中東大医大生 2005/12/31

2005年12月6日の新聞記事は我々医療従事者を大変驚かせました。

 33歳の男性が、なんと医師免許を持っていないのにもかかわらず8年半もの間、医師として勤務していたことが発覚したというのです。偽造医師免許証のコピーを提出し、医師になりすまし、複数の病院で勤務し、年収はなんと2千万円もあったというのですから、我々医療従事者だけでなく、一般の方も大変驚かれたと思います。

 この事件はいくつかの問題点がマスコミなどで指摘されていますので、それらをみていきましょう。

 ひとつめに、なぜ偽造医師免許証がバレなかったのか、という点です。私も現在複数の医療機関で仕事をしていますが、雇用契約を結ぶ前には、医師免許証の原本と保険医登録票(こちらはコピーでいいことが多い)を提出します。おそらく被告の男性(以下、「ニセ医者」とします)の勤務先の病院では医師免許証の原本は求めていなかったのでしょう。

 けれども、このニセ医者が偽造に関する高度な技術を持っていて、原本を偽造していたらいったいどうなっていたのでしょうか・・・。

 ふたつめの問題点は、なぜ2千万円もの年収があったのかということです。2004年度の人事院調査のデータによりますと、全国の勤務医の平均給与は28~32歳で月収約73万7000円だそうです。この数字とニセ医者が取得していた年収2千万円には大きな格差があります。

 私が、『医学部六年間の真実』で述べたように、医師の当直アルバイトというのは破格で、なかには一晩で20万円ももらえるところもあるようです。けれども、そのような高額アルバイトは重症の患者さんがひっきりなしに入ってくるような救急医療の現場であって、ニセ医者に務まるとは到底思えません。だとしたら、ごく軽症の患者さんしか来られない病院で働いていたことが予想されるわけで、当然そういう病院は給与はそれほど高くないですから(ただし一般の仕事に比べればそれでも破格です)、どう計算しても2000万円という数字は不可解なのです。

 12月18日に政府が発表した、「診療報酬マイナス3・16%の改正」というのは大きな議論を呼び、医師会を初めとする医療団体は一斉に反対の表明をしています。「これでは医師に充分な報酬が支払われず医療の質が低下する」というのがその理由だそうです。

 しかしながら、ニセ医者が2千万円も稼いでいるんだから、やっぱり医師はもらい過ぎているんじゃないのか、と言われても仕方がないのではないでしょうか。
 
 もうひとつ指摘されている問題点は、(これはマスコミからというよりは我々医師の間で議論になることですが)、なぜ8年半もの間ニセ医者であることを隠し通せたか、ということです。それもニセ医者であることが発覚したのは、医療行為が不十分であったとか、患者さんからクレームが来て、とかではなく免許証の原本の提示を求められて発覚したわけです。ということは原本の提示が求められなければいつまでも続けていた可能性があるわけです。しかもこの二セ医者は、患者さんから評判がよかったというから驚きです。

 医学部での六年間は、医学部受験とは比較にならないほどの勉強をおこなわなければなりません。後半の二年間は臨床実習で実際に患者さんを診察することによっても勉強をおこないます。卒業後は二年間の研修医期間が義務付けられています。しかし、これでもまだまだ不十分で、それからもしばらくは実質研修期間のようなものです。私の場合も、二年間の研修ではまだまだ未熟であることを自覚し、その後の二年間さらに研修医のような生活を続けました。

 ところがこのニセ医者は、定時制の高校を中退した後、都立の病院で一年間見習いをおこなっていたそうですが、そんなことだけで医療行為がおこなえるようになるとは到底思えないのです。(この「見習い」というのもよく分かりません。いったい誰を対象とした何のための「見習い」なのでしょう・・・)

 もしかすると、我々が(私が)思っているほど、現在の医療レベルというのは高いものではなく、たしかに六年間の勉強とその後の研修は大変ではあるけれど、そこからアウトプットされるものは、素人が短期間で勉強して得るものとそんなに変わらないのかもしれません。いや、そんなはずはない!と思いたいのですが、そんなことで意地を張るよりも、今まで通り日々の勉強を頑張る方が私にとってはきっといいことでしょう。

 ところで、今回発覚したようなニセ医者は氷山の一角ではないか、という話があります。私には到底そのようには思えないのですが、インターネットで複数の掲示板を探してみると次のような書込みが見つかりました。
 
>コンタクト屋でアルバイトをしたことがあるんだけど

>医師不在時に、コンタクト屋の店員が医師のふりをして

>診察や投薬をしているのは日常茶飯事のことですよ…

>以前にせ医者が精神科病院に勤務していて、よく日医雑誌に投稿していた。頻繁に投稿していたので、緑陰随筆まで書いていたことがあったっけ。

 やはり、ニセ医者は他にも大勢いるのでしょうか。

 ところで、このニセ医者発覚が報道された同じ日に、この事件とは対照的な記事が報道されました。

 それは、東大医学部の学生が覚醒剤中毒で逮捕されたという記事です。報道によりますと、覚醒剤取締法で逮捕されたこの27歳の東大医学部四年生は、超有名進学校の灘高を卒業している超エリートで、高校時代も成績は上位だったそうです。ところが医学部に入学してから覚醒剤にハマりだし4年連続留年していたとのことです。

 私が『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』などで指摘したように、シャブ中医師は何も珍しくありません。日頃から覚醒剤中毒者と接し(夜間の救急外来にはよく来ます)、覚醒剤の恐ろしさをよく知っているはずの医師がなぜ自らもシャブ中になるのかについては、『今そこに・・・』に書きましたからここでは述べませんが、危険性を充分に知っているはずの医師でさえ手をだしてしまう覚醒剤の恐ろしさは何度繰り返し強調してもしすぎることはありません。

 医師でさえハマるわけですから、まだ知識が充分でない医学生が覚醒剤に溺れるのは理解できることです。いくら灘高で上位の成績であろうが日本で最難関とされる東大医学部の学生であろうが、そんなことは関係ないわけです。ちなみに東大では2004年の9月に、教養学部の学生が大麻取締法で逮捕されています。
 
 さて、何も珍しくないシャブ中ドクター(医大生)をここで取り上げたのは、覚醒剤の恐ろしさを再確認したかったからだけではありません。というのは、マスコミの報道に疑問を感じるのです。

 例えば、夕刊フジが報道したこの記事の見出しは「東大理Ⅲ(医学部)エリート人生がシャブで霧散」となっており、本文のなかで「クスリにハマり、エリート医師への道を自ら閉ざした学生の堕落ぶりに・・・」と述べられています。

 たしかにこの男が再び医師の道を目指すのは不可能でしょう。しかし「エリート人生がシャブで霧散」というのは言いすぎではないでしょうか。この男はまだ27歳です。おそらく初犯でしょうし販売をしていたわけではありませんから、実刑にはならず執行猶予がつくことになると思われます。

 ならば、人生が終わったわけでは決してありません。灘高から東大医学部に進学するくらいの頭脳を持っているのです。賢い頭脳があるからといって覚醒剤を断ち切れるかどうかは分かりませんが、もし完全に断ち切ったとすれば、その体験を本にするとか講演するとかして、現在もシャブに依存している人を救うような活動はできるのではないでしょうか。なにも東大出身の医師だけが「エリート」ではないのです。

 念のために断っておくと、私はこの男の罪を軽くせよと言っているわけではありません。むしろ、現在の覚醒剤取締法はユルすぎることが問題で、初犯であっても実刑にすべきという考えを持っています。しかしながら、それと同時に、依存症の人から覚醒剤を断ち切る支援や、また断ち切った人に社会に復活してもらう方法も考えていかなければならないとも思っています。

 覚醒剤取締法違反というのは、殺人やレイプとは犯罪の質が違うのです。覚醒剤取締法で逮捕されたとしても、殺人やレイプのような被害者はいませんし、本人の努力次第では充分に社会復帰することが可能なのです。

 だから、私はこのシャブ中(元)医大生を応援したいと考えています。まずは覚醒剤を断ち切ることに専念してもらいたいと思っています。そして、その後は社会のために貢献してほしいのです。

 これからの努力によっては、もしかすると医師になるよりも多くの人に貢献できるかもしれないのです。決して「エリート人生がシャブで霧散」と決まったわけではないのです。

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2013年6月17日 月曜日

第29回(2005年12月) なぜ日本人の自殺率は高いのか③(最終回)

 「死生学」と呼ばれる学問のジャンルがあります。これは欧米では一般的なのですが、日本では以前に比べると随分マシになったかもしれませんが、まだまだ普及しているとは言えません。例えば、「死生学」を学ぶために大学を目指すという受験生は聞いたことがありませんし、「死生学」で修士論文や博士論文を書いている学生はほとんどいないのではないでしょうか。それどころか、ある大学で「死生学」をテーマとした市民講座を開くという話が持ち上がったとき、地域の住民から反対意見が相次いだそうです。

 医療の現場では「死」に頻繁に遭遇しますが、現代医学というのはいかに「死」を逃れるか、あるいは引き伸ばすかという点からの考察ばかりで、例えば、「残りの生を幸せに生きる」という観点からはほとんど語られることがありません。

 末期癌の患者さんやその家族を対象とした雑誌を見てみても、抗癌剤やリハビリの記事ばかりで、「いかによりよく死んでいくか」という観点からの記事はほとんどありません。「死」を頻繁に経験する医療現場でさえも「死」はタブー視されているのです。

 日本社会は昔から「死」をタブー視してきています。タイの社会なら当たり前の「死体を見る」ということさえタブーとなっています。

 けれども、このことが「死」を適切に捉えることを妨げて、結果として「自殺」につながっているのではないか、私はそのように考えています。「死」は誰にでも起こる避けられない運命であるのは自明です。ところが、その当たり前の「死」をきちんと見つめないことによって、安易と言わざるを得ないような「自殺」を選んでしまっている人が少なくないように思われるのです。

 「自殺の自由」という考えを主張する人がいます。これはこれで正当化されなければならないのかもしれませんし、実際に自殺という道を選んだ人には図りしれない想像を絶するような苦痛があったものと察します。しかしながら、国際比較で異常ともいえるような高い自殺率を記録している日本では、やはり安易に死を選んでいる人が少なくないのではないかと感じずにはいられません。

 ところで、なぜ日本では死体を報道することがタブーとされているのでしょうか。私は当初、死体の報道は法律で禁じられているのではないかと思っていたのですが、私の調べた限りそのような法律はありませんでした(ご存知の方おられましたら教えてください)。

 法的な制約がないとすれば、世論の圧力が問題となる可能性があるが故に死体の報道がなされないのでしょう。おそらく、夕方のニュースで死体がアップで報道されたらテレビ局に苦情が殺到するでしょう。その理由は、例えば「不謹慎である」とか「子供に悪影響を与える」、あるいは「プライバシーの侵害」といったものではないかと思われます。

 しかしながら、「不謹慎である」というのは明確な科学的根拠が見当たりませんし、「子供に悪影響を与える」というのも科学的なデータがありません。漫画や映画、ゲームといったツールでしか死体と接することがないために、逆に「死」というものをきちんと把握できていないのではないかと私は考えています。

 「プライバシーの侵害」というのは確かにあるかもしれませんが、一般に殺人事件が起こると、被害者の生前の写真は公開されています。また、社会的に重要な意味のある事件であれば、公益性がプライバシーを優先するという議論が起こってもいいはずです。

 つまり、死体を報道すべきでない、という考え方は、なんとなく昔からみんなが感じていることに過ぎないわけで、死体を報道することによって社会的混乱が生じるという科学的根拠はなく、むしろ死体を報道することによって、日本人がきちんと死と直面するようになるのではないか、さらに安易に自殺する人が減少するのではないか、と私は思うのです。
 
 前回、タイでは輪廻転生の考えが深く社会に浸透しているという話をしました。一方、日本では心底から輪廻転生を信じている人はそれほど多くないのではないでしょうか。自己啓発を目的とした雑誌や書籍に目を通すと、「一度きりの人生・・・」「悔いのない人生を・・・」などといった表現をよく目にします。たしかに、何かを決意するときや頑張らなければならないときにはこういった考え方は有効です。例えば、医学部受験を決意するときにはこのように思うことが非常に効果的です。

 けれども、いつもいつもこのような考えでいると、避けられない運命に遭遇したときや、予期せぬ不幸に見舞われたときには絶望を加速することになりかねません。そんなときには、「一度きりの人生・・・」ではなく、「何度も生まれ変わる魂が経験するひとつの場面」くらいに思ってしまう方が強いストレスから脱出できるのではないか、と私は考えています。

 実は、このような考え方をもつにいたるきっかけとなった経験があります。

 それは私が研修医の頃の経験です。ある末期の状態の患者さんと話をしているときのことです。自分でもそれほど長くないことを悟っていたその患者さん(女性)は、ある日私にポツリと言いました。

 「先生、あたしね、もういいんです。もう充分です。そろそろあの世に行くときが来ました。あの世に行けば久しぶりに主人と会えるんです。あの世で会おうって主人が亡くなるときに約束したんです。あの世でふたりで楽しく過ごして、また生まれ変わったら結婚しようねって・・・・」

 輪廻転生なんてあるわけないという人がおられれば質問したいと思います。この患者さんに、例えば「何を言っているんですか。あの世とか生まれ変わるとかそんな非科学的なことを・・・。人生は一度きりです。人間は死んだら終わりなんです!」と言うことができるでしょうか。

 この患者さんが輪廻転生のことをどれだけ真剣に信じていたかは分かりませんが、少なくともこの患者さんにとっては輪廻転生という考えを持つことによって、死の不安が和らぎ、落ち着いた精神状態を保つことができていたのです。

 「一度きりの人生・・・」という考えに縛られすぎると、避けられない運命に遭遇したときに、強いストレスから自殺へとつながることになるかもしれません。配偶者の突然の死や予期せぬ難病だけでなく、突然のリストラや厳しい借金の取立てにあったとしても、長い長い寿命の魂が経験するほんの一場面だという認識に立てば、少しは自殺を思いとどまるのではないでしょうか。

 そろそろまとめに入りましょう。

 私が日本人の自殺率が高い理由として考えているものは3つあります。

 ひとつは、日本は「階級社会」ではなく、身分というものを考えることなく生きていける社会でありながら、以前のように国民の多くが中流階級である思っていた時代がすでに過去のものになったことが原因です。よく言われるように「終身雇用」「年功序列」というものが完全に崩壊してしまい、「才能のある者だけがやりたいことをみつけて努力したときにしか幸せが来ない」、というような幻想が存在するように見受けられます。このため、何をやっていいか分からない者は、デュルケームの言うところの「アノミー」の状態に容易に陥り、その結果自殺を選んでしまうというわけです。

 ふたつめは、「一度きりの人生・・・」という観念が強すぎるというものです。例に挙げた仏教だけではなく、キリスト教をはじめほとんどの宗教は輪廻転生というものを認めています。それに対して無宗教の日本人は、この考えを信じていないだけでなく、それが精神状態に寄与する効果についても考えようとしていません。そのため「人生に失敗した」と考えることが自殺につながっているのではないかと思われるのです。

 3つめは、「死」というものをタブー視しすぎているということです。「死」をタブー視するあまり、現実的に適切に「死」を捉えることができず、安易に「死」を選んでしまうというパラドックスが存在するのではないかと思われるのです。
 
 「自殺の自由」を主張するのは個人の「自由」でありますが、日本の自殺率が先進国のなかで第1位であるという現実にはしっかりと注目する必要があるでしょう。

 そして、予期せぬ不幸に突然見舞われたときに、何ができるか、何を思うことができるか、ということについて日頃から考えておくべきではないか、私はそのように感じています。

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2013年6月17日 月曜日

第28回(2005年12月) なぜ日本人の自殺率は高いのか②

 タイに行って驚くことのひとつは、日本からは考えられないくらいの階級社会である、ということです。

 例えば、年収何億円もの稼ぎがあり、豪邸に住み高級車を乗り回している富裕層がいるかと思えば、裸足の幼児を抱きかかえながら真夜中に小銭を乞うている中年女性もいます。街角では、そんな身分の違う人たちが、当たり前のようにすれ違っています。

 タイでは一応は小学校までは義務教育ということになっていますが、本当に小学校に通っているのか疑いたくなるような子供は少なくありません。真夜中に小さなバラを外国人に強引に買わせようとしている子供や、信号待ちで停車している車の窓ガラスを勝手に拭いて小銭をねだる子供は観光名物と言っていいほど有名です。彼(女)らは例外なくボロボロの衣服を身にまとい靴は履いていません。

 タイでは、福祉とか生活保護とかいった考え方がそれほど浸透しておらず、タイにしばらく滞在すれば、日本は本当は社会主義国なんじゃないかと思わずにはいられません。
 
 最近の日本は、「格差社会」という言葉がよく使われているような印象があります(例えば『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』山田 昌弘著 筑摩書房)。親の身分や年収で子供の人生がある程度規定されてしまう、というのが「格差社会」の一面です。例えば、東大に入学する学生の大半が高収入の家庭で育っているというデータもあるそうです。ここから、「地方で貧乏な家に生まれると高学歴・高収入は期待できない」という理屈につながっていくようです。

 実際のデータで、親の年収と子供の学歴(あるいは年収)にある程度の相関関係があるのが事実だとしても、私には日本が「格差社会」あるいは「階級社会」だとは到底思えません。

 私は地方出身で裕福でない家庭に育っていますが、公立大学の医学部を卒業しています。私立の高校や予備校には経済的な事情から行けませんでしたが、他の先進国と比べると信じられないくらいに安い授業料(例えば米国の医学部では公立でも年間300万円以上の授業料が必要)と複数の奨学金を借りることによって、特に苦労もせずに卒業することができました。

 また、ほとんどの人が希望をすれば高校程度は卒業することができるでしょうし、高卒であっても、本人の才能と努力次第で高所得者になるのはまったくの夢というわけではないでしょう。

 そんな日本に比べて、タイでは地方の貧困層として育てられれば、将来的に高額所得者になるのはほとんど絶望的であろうと思われます。

 これといった産業がなく、農作物も育たないために蛋白源として昆虫を食べなければならないような家庭で育てられれば、一攫千金を夢見て、男ならムエタイ選手を目指したり、女性なら都心に春を鬻ぎに行かねばならないというのが現状です。

 私がタイの様々な層の人たちと話をして不思議に思うのは、彼(女)らがそういう「階級社会」を言わば当然のことと見なしているということです。

 日本的な感覚で言えば、同じ国のなかでそれだけ身分に差があるのは許容しがたいことです。政治的に左翼的というか、プロレタリアート層が一致団結した運動が起こってもおかしくないのでは、と思うのですがそういう話は聞いたことがありません。

 それどころか、初めから一生貧困層でいることに対して「諦めている」というよりもむしろ「納得している」という印象を受けるのです。先にあげたムエタイ選手や売春の話にしても、極一部の人を除けば、正確に言えば「一攫千金を夢見て」ではなく、「単に生活するため」という感覚でいるように思われるのです。

 生まれたときから自分がどういう人生を歩むのかが分かっている・・・。タイの社会とはそんな社会であるように私には思われます。

 しかしながら、ある意味でこれはこれでいい面もあるのではないか・・・。最近私はそのように考えています。というのは、彼(女)らは近代社会がもたらした「自由」の苦痛から解き放たれているからです。

 前回に引き続き社会学者の説を紹介します。エーリッヒ・フロムという著明な社会学者がいます。フロムによると、人間は前近代的な諸々の束縛から解放されて (消極的)自由を手にすると孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると認識するようになります。

 フロムの学説に照らし合わせて考えると、タイの(特に貧困層の)人たちは、近代的な消極的自由を手にしておらず、その消極的自由がもたらす苦痛を感じずにいるのではないか。そしてその結果、極度の貧困であるのにもかかわらず自殺に至らないのではないか、私はそのように考えています。

 これは、前回取り上げたデュルケームが主張している「アノミー」を体験せずにすんでいる、という言い方もできると思います。

 そしてこのことが、タイの自殺率が低い原因のひとつではないかと考えているというわけです。

 ところで、タイは仏教国です。仏教といっても日本のような集約力の高くない仏教ではなく、国民の大多数が信仰している国民的宗教としての仏教です。実際、タイの社会は、仏教、あるいは僧侶なしでは語ることができません。例えば、通常名前は僧侶がつけます。タイ人は通常ニックネームで呼び合います。このニックネームは親がつけます。そしてIDカードに記載されている本名は僧侶がつけるのが一般的です。

 名前だけではありません。例えば車を買う日とか、海外に渡航する日なども僧侶に決めてもらうことが珍しくありません。もちろん結婚式も仏教的儀式でおこないます。「得を積む」という考えはタイにもありますが、基本的な「得を積む」方法は、寺に対してどれだけ貢献するかということです(これを「タンブン」と言います)。もちろん寺を訪問することを慣習としていますし、街角にある仏像に対しても素通りすることなく手を合わせます。タクシーの中からでも手を合わすのが普通です。これはいかにも信心深そうな人はもちろんですが、普段はやんちゃをしてそうな若い男女でもそうなのです。

 そんな仏教(小乗仏教)の考え方のひとつに「輪廻転生」というものがあります。タイ人は私の知る限り、ほとんど例外なく「輪廻転生」を信じています。

 そして、この「輪廻転生」が低い自殺率と関係があるのではないか、私はそのように考えています。つまり、人生とは自ら得たものではなく、与えられたものであって、運命に逆らって生きるのはよくない。そして自殺は運命に逆らう最たる行動である。今世がそれほど恵まれたものでなくてもきちんと得を積んでおけば、来世では富裕層として生まれてくるかもしれない・・・。そのような考えがあるのではないかと思うのです。

 ちなみに、タイには相続税というものがありません。つまり、先祖が金持ちであればよほどのことがない限り、子孫も裕福な暮らしができるというわけです。そして、相続税を導入すべき、という声は私の知る限り聞いたことがありません。

 「輪廻転生」への信仰、これが私の考えるタイで自殺率が低いふたつめの理由です。

 もうひとつ、タイ人が自殺をしない理由を私は考えています。

 それは、死体に対する考え方です。バンコクには有名な「死体博物館」というものがあり、多くの死体が展示されています。例えば、凶悪殺人犯が死刑にされた後の死体が輪切りにされて多くの人の目にさらされています。また、私がいろんなところで報告しているエイズホスピスのパバナプ寺では、エイズで亡くなった人の死体がミイラにされ展示されています。また、タイの新聞やテレビのニュースでは、ほとんど毎日といっていいくらい、事件や事故での死体の映像が報道されています。

 タイ人が日本に来て驚くことのひとつに、日本の新聞やテレビでは死体が写されていない、というものがあるそうです。死体が写されていないとその事件や事故がよく分からないではないか、と感じるそうなのです。

 凶悪殺人犯の死体を輪切りにすることの良し悪しは別にして、たしかに日頃から死体を目にする機会が頻繁にあれば、嫌でも「死」というものを考えるようになるはずです。

 それに対して、日本では昔から「死」というものが、タブー視されてきているのではないでしょうか。
 
 つづく

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2013年6月17日 月曜日

第27回(2005年11月) なぜ日本人の自殺率は高いのか①

 私が初めて学問的に「自殺」というテーマに興味を持ったのは社会学部の学生の頃です。社会学部を学んだ者なら誰でも知っているデュルケームという学者の代表著作が『自殺論』なのです。

 「自殺」までも学問の対象にする社会学とはなんて魅力的なんだろう・・・。当時の私はそのように感じて、必死にデュルケームの『自殺論』を勉強しました。

 デュルケームの理論は、発表してから100年以上たった現在でも尚正しいのではないか、私はそのように考えています。今回取り上げたいテーマは、「日本人の自殺率の高さ」で、このことを考える際にもデュルケームの理論は参考になるのでは、と思うので、少し触れておきたいと思います。

 デュルケームは、冬季よりも夏季、カトリックの国よりもプロテスタントの国、女性よりも男性、既婚者よりも未婚者、農村よりも都市で自殺率は高くなると言います。

 現在の日本の自殺の状況をみてみましょう。季節ごとのデータは私の調べた限りありませんでした。宗教別の考察はキリスト教がそれほど深く浸透していないために日本にあてはめて考えることはできません。

 しかしそれら以外の要素、つまり、女性よりも男性、既婚者よりも未婚者、農村よりも都市に自殺者が多いというのは、現在の日本にも当てはまります。

 デュルケームは「自殺」を4つに分類しています。

 ひとつめは「利他的自殺」と呼ばれるもので、自殺せざるを得なくなるような集団の圧力によって起こる自殺のことです。具体的には、社会の秩序を乱したとか、ルールや掟を破ったときにのしかかる社会的圧力から死を選ぶような場合です。現在でも、例えば暴力団の組員が組織の掟を破って責任をとるために自殺、というようなことはあるかもしれませんが、現代日本においてはそれほど多くはないでしょう。

 ふたつめは、「利己的自殺」と呼ばれるもので、 孤独感や焦燥感などエゴイスティックなものによって起こる自殺のことです。これは現代日本では若い世代を中心にあり得るものと思われます。ただ、最近の統計も含めて日本では、若い世代よりも中年から老年の自殺が多いのが特徴ですから(日本では55歳から64歳で最も自殺率が高い)、このタイプの自殺は日本では多くはありません。

 三つめは、「アノミー的自殺」と呼ばれるもので、社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺のことです。自由のもと、自分の欲望を抑えきれずに自殺するというイメージです。

 この「アノミー」という言葉は、デュルケーム自らが提唱した概念で、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指します。社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況に陥るとデュルケームは言います。デュルケームによると、規制や規則が緩むことが必ずしも社会にとってよいことではないのです。

 私が社会学を勉強していた80年代後半、日本はバブル経済に突入し、このようなアノミーの状態にあるのではないかと言われていました。デュルケームはなにも不景気のときだけに自殺率が上昇するのではなく、景気の急上昇期、大繁栄の時代にも自殺者が急増するということを示しています。この指摘が当時に私には非常に衝撃的でした。

 しかしながら、結果的にはバブル経済の頃の日本の自殺率はそれほど高いものではありませんでした。

 一方、バブル経済が破綻し、不景気に突入しだした頃から自殺率は上昇しています。そして失業率が極めて上昇した1998年から現在まで毎年3万人前後の人が自ら命を絶っています。日本の自殺率の推移は失業率と明らかな相関関係があるのです。

 失業率が急上昇したのは、不景気そのものもさることながら、以前から崩れつつあった終身雇用がドラスティックに崩壊したり、正社員の雇用が大幅に減少し、代わりに契約社員やフリーターが一般化したりしたこともその一因です。一方では、IT企業に代表されるような若者のミリオネラーが次々と誕生し、一部の者に大金が集中しています。

 このような現在の日本の状態は、まさにデュルケームの言う「アノミー」ではないでしょうか。

 デュルケームが唱えた4つめの自殺は「宿命的自殺」と呼ばれるもので、閉塞感など欲求への過度の抑圧から起こる自殺のことです。これは、アノミー的自殺の亜種と類型でき、社会的混乱から生じた閉塞感などが自殺につながることは容易に想像できます。現代日本の社会混乱(アノミー)に上手く対応できず閉塞感を感じている人は少なくないでしょう。

 さて、デュルケームの考察はこれくらいにしておいて、今度は医学的な観点から日本人の自殺を考えて生きましょう。

 日本で自殺者が多いのは、確かに失業者の増加や不景気と相関がありますが、実は日本の自殺の原因の第1位は「病気による苦悩」です。慢性の病気や不治の病に耐え切れず、さらにおそらく家族に負担のかかることを懸念した人たちが自ら命を絶っているというわけです。

 どのような病気が自殺へとつながるかという点についてはデータがありませんが、最近デンマークの学者が発表した興味深い論文(Archives of Internal Medicine(2004; 164: 2450-2455))をご紹介したいと思います。

 この論文によりますと、シリコン豊胸術後の女性の自殺率が有意に上昇しているそうなのです。豊胸術を受ける女性は以前から精神的な悩みを抱えており、それが自殺と関係があるのではないかと、この論文では述べられています。

 これは日本のデータではありませんが、今後日本における自殺を考える際の参考になるかもしれません。

 次に自殺率の国際比較をみてみましょう。

 日本の自殺率は世界第10位です。しかし、1位から9位は旧ソ連や東欧の国ばかりで、いわゆる先進国のなかでは日本は第1位です。

 世界全体に目を向けてみると、明らかに自殺率の低いのが南米です。以前どこかで「自殺をしたくなったらブラジルに行け!」という言葉を聞いたことがあります。ブラジルに行けば、自殺を考えていた自分があほらしくなるそうなのです。

 また、すべての国でデータが揃っているわけではありませんが、中東諸国も低い国が多いようです。連日のように新聞で報道されているイスラム教徒の「殉死」はどのように解釈すればいいのでしょうか……。

 アジア諸国はどうかというと、これはバラバラです。日本以外ではなぜかスリランカの自殺率が高いようです(11位)。また、韓国(24位)、中国(27位)、香港(31位)もまあまあ高いと言えます。台湾はデータがありません。中国では、農村部の女性の自殺率が高いのが特徴で、旧態依然の、女性を大切にしない風潮が原因なのかもしれません。
 
 一方、タイ(71位)とフィリピン(83位)では、南米と同様に極めて自殺率が低いと言えます。タイは人口10万人あたりの自殺者数が4.0人で日本の6分の1以下です。

 私はフィリピンには行ったことがありませんが、タイには何度も訪問しています。親密な付き合いをしているタイ人も何人かおり、ある程度タイの文化に触れていると言えるかもしれません。

 世界第10位、先進国のなかでは第1位にランキングされ、一応は仏教徒である日本人に対して、同じアジア人であり、仏教徒であるタイ人は世界的にみて自殺率が極めて少ないのはなぜなのでしょうか。

 私は、これに対して一応の仮説を持っています。次回はその仮説について述べてみたいと思います。

つづく

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