メディカルエッセイ

119 絶対に許せないイタズラ電話 2012/12/21

わいせつ事件や違法薬物など到底許されるものではない犯罪で逮捕される医師が少なくない、ということを昨年(2011年)と一昨年(2010年)の12月のこのコラムで述べており、なんとなく年末には医師の犯罪について一年を振り返ることが恒例になってしまうのかな、と感じていたところ、イギリスからとんでもないニュースが伝わってきたので、今回はこの事件について取り上げたいと思います。

 これは今年私が最も怒りを感じた事件のひとつです。

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 2012年12月7日9時35分、ロンドン中央部に位置するウエーマス通り(Weymouth Street)で(一部の報道では看護師寮と言われています)ひとりの女性が意識不明との通報がロンドン警視庁に寄せられました。女性はすでに死亡しており、鑑識によれば他殺の可能性はなく警察は自殺と断定しました。

 この女性は、ジャシンタ・サルダナ(Jacintha Saldanha)さん、ロンドンの名門病院キング・エドワード7世病院に勤務する46歳の看護師で二児の母親でもあります。

 なぜサルダナ看護師は自殺しなければならなかったのか。事件は3日前にさかのぼります。

 2012年12月4日、ロンドン時刻で早朝の5時30分に1本の電話がキング・エドワード7世病院にかかってきました。通常外部からの電話は専門のオペレータがとりますが、その時間帯はオペレータがおらず、夜勤の看護師として勤務していたサルダナ看護師が取りました。

 電話をかけてきたのは男女二人で、なんとエリザベス女王とチャールズ皇太子だと名乗ります。実は、12月3日に第一子の妊娠が発表されたキャサリン妃はこの病院に入院していたのです。つわりがあまりにもひどいために入院が必要であったと報道されています。電話をとったサルダナ看護師はさぞかし驚いたことでしょう。受話器の向こう側の男女が女王と皇太子なわけですから緊張しないはずがありません。

 キャサリン妃の容態を知りたい、と皇太子と女王に言われたサルダナ看護師は、この電話をキャサリン妃の担当看護師につなぎました。そして、担当看護師はキャサリン妃の容態を皇太子と女王に電話で伝えました。

 ところが、この電話がイタズラ電話だったのです。女王と皇太子になりすまして電話したのはオーストラリアのラジオ局『2DayFM』の番組「The Summer 30」でパーソナリティをつとめるメル・グレイグ(Mel Greig)とマイケル・クリスチャン(Michael Christian)の2人でした。

 キャサリン妃の容態はラジオで報道されることになりました。そして、守秘義務を守れなかったサルダナ看護師は強い責任を感じ自殺という道を選択するまでに追い詰められたのです。この事件を報道しているBBC(注1)によりますと、キング・エドワード7世病院は、サルダナ看護師を「大勢の患者さんに献身的な看護をしてきた一流の看護師(a first-class nurse)」と敬意を表しています。

 イタズラ電話をかけたラジオ局の代表取締役であるリース・ホラーラン(Rhys Holleran)氏は、記者会見を開き、「誰も予測できなかった悲劇であり深く悲しんでいる」とコメントしていますが、同時に「このようなイタズラ電話は昔から行われていることで、法律的には何ら問題がない」と述べています。報道からは謝罪の言葉は一切伝わってきません。

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 オーストラリアは英連邦王国に属するひとつの国ではありますが、それでも一般のイギリス人からみればオーストラリア人は外国の人間です。その外国人の悪質極まりないイタズラ電話で自国の看護師が自殺に追い込まれたということに対し、イギリス人はどのような感情を持っているのでしょう。

 この事件を伝えているBBC(注1)は、あからさまにはこのラジオ局やイタズラ電話をした2人のDJに対して非難をしていないように見受けられますが、それでも、真剣な表情をしたサルダナ氏の写真を大きく載せ、同時に2人のDJがのんきに笑っている写真を掲載し、必死で記者会見に応じているようにみえるラジオ局代表取締役の写真も合わせて載せていることから考えて、イギリスの世論は相当怒りを感じているのだと思われます。

 この事件を聞いた人のなかには、「プロの看護師ならなぜイタズラ電話を見抜けなかったのか」とか「本人確認をせずに電話をとりつぐことがおかしいのではないか」と感じる人もいるかもしれません。

 実際、医療機関にはなりすまし電話がかかってくることがしばしばあります。家族を名乗る人や、自称「上司」という人、ひどい場合は弁護士を名乗るとか、あるいは警察のふりをして電話をかけてくる人もいます。我々医療者はそういうことがあることをわかっていますから、患者さんの容態を教えてほしいという電話があったときは、慎重に本人確認をします。

 例えば、警察から電話がかかってきたときには、警察署と内線番号を聞いて、いったん電話を切ってこちらからかけ直すようにします。太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)にもときどき警察からの電話がかかってきます。事件の加害者も被害者も病気にはなりますから医療機関の受診内容が事件解決の手がかりになるということもあるのです。実際、谷口医院の患者さんのなかにも、マスコミで報道された大きな事件の被害者もおられますし、報道されないような事件の加害者も過去に何人かいました。余談になりますが、報道されないけれども悪質な事件が世の中にはたくさんあることを、医師をしていれば実感せざるを得ません。

 話を戻しましょう。医療者であれば、患者さんに関する外部からの問い合わせには慎重すぎるほど慎重になります。それを考えると、一見サルダナ看護師のとった行動は軽率に思われるかもしれません。しかし、電話の相手が女王と皇太子となると動転するのも無理もありません。「失礼ですが、本人確認のためにこちらから(皇室に)かけ直します」と言えるでしょうか。もしもそのようなことを言ってしまうと、後で病院から「あなたは皇室に対して大変失礼なことをしました。これは解雇の理由になります」と言われるかもしれません。サルダナ看護師がこの電話を担当看護師に取り次いだときは相当悩まれたと思いますが、よく考えた上での判断だったのでしょう。

 裏をかえせばそれだけこのイタズラ電話が巧妙だったということです。ですからラジオ局のパーソナリティとしてはこの2人は一流なのかもしれません。報道によれば、この2人のDJは事件の後相当ふさぎこんでいるようです。しかしどのような謝罪の言葉を述べようが、サルダナ看護師の遺族はこの2人を許せないのではないでしょうか。

 この2人のDJにもこれからの人生があります。ならば、この事件をいろんなところで取り上げて(なぜか日本のマスコミはこの事件をそれほど報道していません(注2))、このようなイタズラ電話は許されるものではない、ということを世界中にアピールするような活動をやってもらえないでしょうか。

 同じ医療者である私が言っても説得力がないかもしれませんが、どこの国でもほとんどの医療者は疲弊しています。そして、ほとんどの医療者は他人を疑うことが得意ではありません。他人を疑うことが得意でない疲弊した人間を騙すことはおそらくそうむつかしくないでしょう。今後同様の事件が起こらないことを願いたいと思います・・・。

注1:下記のURLでBBCの記事と写真が閲覧できます。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-20649816
 
注2 例えば日経新聞では、この事件の直後の2012年12月16日の社会面で「揺れる英大衆紙 盗聴取材で批判」というタイトルで、イギリスのマスコミ(主にタブロイド紙)がいきすぎた取材をしていることを非難していますが、サルダナ看護師の自殺については一切触れていません。また、日本のいくつかの大衆誌は、フランスの芸能誌がキャサリン妃の盗撮トップレス写真を掲載したときに記事にしたようですが、やはりサルダナ看護師の自殺についてはほとんど取り上げていないようです。