メディカルエッセイ

第24回(2005年9月) 「クスリ」を上手く断ち切るには ④(最終回)

 これまでに、私が述べてきたことをここで確認しておきましょう。

    ・違法薬物はやらないに越したことはないが、必要と感じている人もいる理由は理解しなければならない

    ・その理由とは、人間は「日常」だけでは生きられずに、「非日常」の時空間も必要であり、「クスリ」は簡単に「非日常」を体験できる、というものである

    ・「非日常」の時空間が特に必要になるときというのは、人生のどん底に沈んでいるとき、自暴自棄になっているとき、あるいは、「クスリ」のリバウンドで苦しんでいるとき、なども該当する

  ・ 「非日常」を適切に体験できればそれは素晴らしいことであるが、現代社会では必ずしも容易なことではない。そのため、医療機関を受診するのもひとつの方法である

 しかしながら、「あたしって、非日常をうまく体験できないから、先生助けて~」と言って医療機関を受診するわけにはいきません。そんなこと言っても、私以外の医師は「???」となるに違いありません。

 けれども、私の言う「日常/非日常」というのは、実は社会学では常識的な考えです。これまでも多くの学者が提唱してきています。「日常/非日常」という言い方は、場合によって、「ハレとケ」であったり、「労働(生産)/祝祭」であったり、「過剰/蕩尽」であったりします。

 もう少し解説しましょう。人間は、生産活動をするようになってから、モノを過剰につくるようになりました。食べる分だけ生産すれば事足りるはずなのに、それ以上のものをつくります。そして、ある一時期に、それら過剰なものを一気に消費するのです。これは一見非合理なように見えます。なにも努力して余計なものをつくって一気に消費しなくても、初めから余分なものなどつくらなくてもよさそうに思われるからです。

 けれども、例えば、お祭りのときには、普段口にしないような料理や酒を絶対に食べられないほど大量に用意してドンちゃん騒ぎをします。普段はご法度のケンカやナンパもお祭りのときは誰もとがめません。年に一度、それまで住民が一生懸命作り上げた建物をみんなで壊す習慣のある地域も世界にはあります。日本でも、岸和田のだんじり祭りや青森のねぶた祭りでは、勢いあまって建物が壊れたり怪我人が出たりすることも珍しくありませんが、非難する人はほとんどいません。

 祝祭や儀式があるような文化では、住民が自然に「非日常」を体験できて「健康に」過ごせるというわけです。おそらく、こういう文化を心底楽しめるような人は「クスリ」が必要になることはないのではないかと私は考えています(もっとも、バリ島の伝統的な祝祭のように、儀式で「クスリ」を用いるということはあるでしょうが・・・)。

 理由はともかく、人間は「日常」と「非日常」をうまく使い分けてきた、というのが社会学の考え方です。そして、現在でも周りを見渡せばこういう現象は見受けられます。

 例えば、毎日早朝から深夜まで休みなく長期間働き、ようやく仕事が一段落すると、ハメを外して遊びたくなります。普段真面目でおとなしい人が、飲み会で人柄が変わるというのもよくあります。コツコツ貯金をしてやりたいことを我慢していると、あるとき一気に消費してしまうものです。

 もうひとつ、強烈な「非日常」を紹介しましょう。それは「恋愛」です。恋愛といっても、例えば長年寄り添っているカップルや夫婦の恋愛は「非日常」でなく「日常」になってしまっています。そうではなく、例えば、恋愛の初期というのは、突然それまでの「日常」になかったドキドキするものが舞い込んでくるわけですから、これは強烈な「非日常」になるわけです。また、周囲から反対されている恋愛や、不倫や浮気のようなかたちの恋愛も「非日常」になるでしょう。駆け落ちを考えているカップルが世間の常識からはずれた行動を取るのは、まさに「非日常」の真っ只中にいるからです。

 だから、長年連れ添った配偶者よりも、新しい浮気相手に夢中になるのはある意味では当然のことなのです。「日常」に退屈していたところに、突然魅力的な「非日常」が舞い込んできたわけですから・・・。念のために言っておきますが、私はこのような恋愛を奨励しているわけではありません。むしろ、恋愛の非日常性を理解していれば、長年連れ添ってからでも二人で何らかの「非日常」を見つけることによって、恋愛を長続きさせることができるのではないかと考えています。

 一般的には、「のむ・うつ・かう」というのが、「非日常」の典型であるかもしれません。だから、「のむ・うつ・かう」というような行為をうまくおこなえる人というのは、社会学的には(私に言わせれば医学的にも)健全であるのです。

 しかしながら、複雑な現代社会では、近代以前のような祝祭というのは地域にもよりますがそれほど期待できませんし、モノをつくって壊すという行動も簡単にできるものではありません。また、「のむ・うつ・かう」などという行動も、環境によってはむつかしいでしょうし、そうそう新しい恋愛や危険な恋愛をおこなうわけにもいきません。

 では、どうすればいいのかというと、一般的には、スポーツ、旅行、音楽、買い物、などがいいのでしょうが、自分でいろんなことを試行錯誤してみて見つけていく他に方法はありません。

 そして、うまく見つけられなかった場合には、人生のスランプがやってきます。ちょっとしたトラブルやストレスにも上手く対処できなくなってしまいます。そして気分は沈みがちになり、何をやっても上手くいかなくなります。
 
 さて、そろそろ話しを戻しましょう。うまく「非日常」を体験できない場合、医療機関を受診するのもひとつの方法であると私は言いました。もちろん、医師にむかって「先生、非日常を体験させてください」というわけにはいきません。

 では、どうすればいいかと言うと、気分がすぐれずに、人生のスランプであることをそのまま訴えればいいのです。あるいは、薬物をやめたいがリバウンドで苦しんでいるということを言えばいいわけです。

 そして、医師は話を充分聞いた上で、必要であれば、薬剤を処方することになります。向精神薬と言えば、何か恐いものというイメージをもたれている人もおられますが、そんなことはありません。当たり前の話ですが、違法薬物なんかより遥かに安全です。
 
 例えば、「プロザック」という薬剤があります。これは「SSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitorsの略、これを和訳すれば、選択的セロトニン再取り込み抑制剤、となる)」というクスリのひとつで、別名「ハッピードラッグ」と呼ばれています。抗うつ薬の一種ですが、従来の抗うつ薬に比べ副作用が少なく、医師の処方箋がなくても買える国もあるくらいです。アメリカには2000万人以上のプロザックユーザーがいると言われており、サラリーマンやOLが出勤前に飲んでいるそうです。日本でもインターネットを通して個人輸入して使用している人はかなりの数に上ると言われています。

 「プロザック」は、日本ではなぜか販売されていませんが、同じ効果のある「SSRI」がたくさんあり、どこの医療機関でも処方してくれます。

 「SSRI」だけではありません。抗不安薬やSSRI以外の抗うつ薬も作用の軽いものから、それなりに作用の大きいものまでたくさんの種類があり、必要に応じて医師は処方をおこないます。もちろん、安易に使用するものではなく、ある程度長期的に医師の管理のもとで服用する必要がありますが、充分に効果が期待できます。

 実際に、私がみた患者さんで、長年覚醒剤を断ち切れずに自殺未遂までしたけれども、SSRIのみで(しかも少量で)完全に社会復帰を遂げ、元気に働くようになり新しい恋人までできたという例もあります。

 抗不安薬を使用して、ストレスを感じなくなり、一度やめた仕事を復活させたという患者さんもおられます。

 頭のかたい昔の人は、「何がストレスだ!何が不安だ!何が退屈だ!」などと言って、現代人が「クスリ」が必要な理由を分かろうとしません。違法薬物を使用するのは、社会からドロップアウトしたやつらだ、などと決め付け、普通の女子高生や、サラリーマンや主婦がドラッグに手を出している現実を見ようとしません。彼らには、複雑な現代社会の構図が読めていないのです。

 私は、「現代社会に住む誰もが向精神薬を服用すべきだ」と言っているわけではありませんし、使用するには必ず医師の指導のもとでおこなう必要があると思っています。

 けれども、「非日常」を求めて違法薬物に手を出す前に、あるいは違法薬物から断ち切るために、いくつかの向精神薬は有効である、ということを主張したいのです。