マンスリーレポート
2011年6月号 勉強し続けなければ仕事ができない・・・
われわれが学生の頃に学んだことの多くは役に立たない・・・
これは私が医学部在学中に教わった先生たちから何度も聞かされた言葉です。そりゃ医学は日進月歩なんだし、新しい薬は次々と市場に出てくるんだから当然でしょ・・・。私はそのように感じていて、そういう言葉を聞いたときも特に驚くことはありませんでした。それに、私自身はサラリーマンの経験がありますから、一般社会だって新しい商品は次々と出てくるし会社の方針はころころ変わるし、医者だけじゃなくってどんな仕事でも勉強し続けなければならないのは一緒でしょ・・・。と、ちょっと斜に構えて先輩医師達の意見を聞いていました。
医師という職業は、医学部受験よりも医学部在学中の勉強の方が大変で、その医学部在学中の勉強よりも医師になってからの勉強の方が大変で重要ということは充分承知しているつもりですから、もちろん私自身は医学に関する何らかの勉強を継続しておこなっています。(もっとも医師であれば誰でもおこなっていることで、とりたてて強調すべきことではありませんが・・・)
勉強を継続する、といってもまったく新しいことを学ぶのであれば(例えばベンガル語をゼロから開始する)、かなり高いハードルが立ちはだかるでしょうが、基礎的な医学の知識がある上での新しい医学の勉強ですから、例えば論文を読んで内容を理解するのに苦しむということはあまりなく、現在おこなっている医学の勉強というのは、これまでの知識の整理や付記・追記などであることが多く、それほど苦痛を伴うものではありません。(時間を確保するのが最も大変なことです)
しかしながら、これまでの概念をくつがえすような理論が登場すると話は変わってきます。これまで当然と考えられていたことが実は誤りだった、となれば勉強しなければならないことは相当なものになります。もちろん、純粋に「学問を学ぶ」という観点から考えたときには、これほどおもしろいことはないのですが、医学というのは目の前の患者さんに役立てていかなければならないわけで、正しい理論があっちに行ったりこっちに行ったりすれば、まともな臨床ができなくなります。
話を前にすすめましょう。最近出てきた理論で私が最も関心を持っているのが、免疫学における「デンジャーモデル」というもので、提唱しているのは、Polly Matzingerという”異色”の女性免疫学者です。”異色の”としたのは、この学者の経歴が非常にユニークだからです。Wikipediaの情報ではありますが、この学者は学者になる前に、バニーガール(原文はPlayboy Bunny)、バーのウエイトレス、ジャズミュージシャン、大工、犬の調教師などをしています。そして、あるバーでウエイトレスをしているときにカリフォルニア大学の教授と出会い、その教授が彼女の能力を見抜いて学問の世界にスカウトしたそうです。
私が関心を持っているのはもちろんこのような経歴ではなく(たしかにこの経歴は非常に印象的ですが)、彼女の唱えているデンジャーモデルです。デンジャーモデルは免疫学の基礎をひっくり返すほどの強いインパクトがあります。
免疫学の基礎中の基礎の考え方として、「免疫とは自己と非自己の認識である」というパラダイムがあります。(少し話がそれますが)私は元々社会学を本格的に学ぶつもりで会社員時代は社会学部の大学院進学を考えていました。社会学に関しては様々な分野の本を読んでいたのですが、あるときこの生命科学としての免疫が「自己と非自己を認識する」ということに大変な魅力を感じました。社会学でいうところの「実存」に通じるものがあると感じたからです。多田富雄の『免疫の意味論』や中村桂子さんの『自己創出する生命』を何度も読み返し、この経験が医学部進学を決意するきっかけのひとつとなったのです。
医学部に入学してから学んだ免疫学も「自己と非自己の認識」というパラダイムから成り立っていました。(私が当初考えていたような「実存」という観点からの考察は医学部ではありませんでしたが) しかし、Polly Matzingerが唱えるデンジャーモデルはこれを根本から覆すものなのです。
デンジャーモデルをごく簡単に説明すると、「免疫応答とは非自己を認識することにより生じるのではなく、自らの細胞が傷つけられたときに身体が反応するもの」となります。つまり、何らかの原因で自らの細胞が傷つけられたときにT細胞という免疫をつかさどる細胞が活性化を始め一連の免疫応答が生じる、というのです。
このデンジャーモデルは現時点では正式には認められておらず実証するには超えなければならない壁がいくつもあります。しかしながら、デンジャーモデルを当てはめることによって納得できる臨床上の事象は、私が感じるだけでもいくつかあります。
例えば、非ステロイド系の軟膏(商品名でいうと「アンダーム」や「スタデルム」)は、アトピー性皮膚炎など慢性の湿疹に使われていた時代がありましたが、効果がほとんどないどころか、かぶれ(接触皮膚炎)を高頻度で起こしうるため、今では「原則として使用しない」ということになっています。ところが、同じ非ステロイド系の湿布では、かぶれは起こりえますが、軟膏に比べると頻度は随分少ないのです。この理由として、アトピーなどの湿疹では掻いてしまうことにより微小な傷ができていて、そこに非ステロイド系の薬を塗ったことで、この薬に対するアレルギー反応が起こった、と考えれば説明がつきます。つまり、デンジャーモデルで説明できるのです。
また、お茶石鹸のトラブルで有名になった小麦アレルギーも、デンジャーモデルで説明ができます。お茶石鹸で小麦アレルギーを起こしてしまった人たちも、元々は小麦(パンやうどんなど)を食べても問題なかったのです。ところが洗顔で毎日小麦を肌にすりこむことで、そのときに微小な傷があったとすれば、その傷に小麦成分が侵入したことで小麦に対するアレルギー反応が起こった、と考えられるというわけです。
今のところデンジャーモデルは正式に認められていませんし、日々の臨床で応用している医師もほとんどいないと思いますが、先日(2011年5月15日)幕張でおこなわれたアレルギー専門医セミナーでも、ある講師がこのデンジャーモデルを取り上げていました。
アレルギーの関連で言えば、先に述べた小麦でもおこりうる「食物依存性運動誘発性アナフィラキシー」は、私が医学部の学生の頃は、せいぜい<トピックス的>なことで、医師国家試験には絶対に出ないような疾患でしたが、今では<比較的よくある病気>と位置づけられています。また口腔アレルギー症候群(OAS)やラテックス・フルーツ症候群(LFS)といった疾患は、感作される物質と反応を起こす物質が異なる(例えば花粉やラテックスでアレルギーが起こる身体となり、フルーツや野菜を食べたときに反応が起こる)という、過去の常識からは考えられないメカニズムでアレルギー反応が成り立っています。この2つの疾患については、私は学生の頃は名前すら知りませんでした。
新しい疾患が確立されたり、新しい理論モデルが提唱されたり、というのはアレルギーの領域だけではありません。現在(2011年6月10日)の時点では、欧州で発生した集団食中毒の病原性大腸菌について感染経路も含めて分からないことだらけです。基礎医学で言えば、京大の山中伸弥教授が研究されているiPS細胞は実用化まであと一歩のところまできています。(ちなみに山中教授は以前大阪市立大学医学部薬理学教室に在籍されており、私も講義を受けたことがあります)
われわれが学生の頃に学んだことの多くは役に立たない・・・。医師としての経験を積めば積むほど、この言葉の意味が重たくのしかかってくるように私は感じています。
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