メディカルエッセイ

42 馬を水辺に導くことはできるが馬にその気がなければ水を飲ませるこ とはできない 2006/7/19

2006年6月20日に奈良で起こった、有名進学高校の1年生が自宅に火を付け母子3人が死亡した事件は、我々医師の間でも議論を呼んでいます。

 加害者の少年が、医学部にたくさんの卒業生を送り込んでいる有名進学高校の生徒であるのと同時に、父親が医師である、というのもその理由です。

 報道によりますと、この47歳の父親は、加害者である息子に、医学部進学を義務付け、週に1~2回暴力を振るっていたそうです。勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼び、スパルタ教育を徹底していたとの報道もあります。

 暴力行為のほかにも、テレビゲーム機を取り上げて破壊したり、友人らの訪問中に勉強することを命令したりしたこともあったそうです。

 また、一部の報道によりますと、加害者は高校入学まで人気タレントの木村拓哉さん(33)の名前すら知らなかったことが分かり、奈良地検の調べに「家が灰になってすっきりした」「勉強しなくていいので留置場は快適だった」などと話しているとのことです。
 
 この話を医師のあいだでおこなうと、「他人事とは思えない」と感想を述べる者が少なくありません。

 よく知られているように、医師の父親(もしくは母親)もまた医師である、というケースは非常に多く、きちんとした統計は見たことがありませんが、おそらく半数近くの医師が該当するのではないかと思われます。もちろん、親も医師である医師のすべてがスパルタ教育を受けていたわけではありませんが、少なくとも両親から医師になることを薦められていた人はかなりの数になると予想されます。

 この加害者の罪を軽くするよう求めた嘆願書が全国からすでに1500通以上集まっているそうですが(7月2日現在)、嘆願書を書いた人のいくらかは、事件を起こした加害者の気持ちに共感できるからでしょう。

 この「スパルタ教育」という言葉は、決していい意味ではありません。「子供の気持ちを無視した親の一方的な教育方針」というニュアンスで語られることが多いと言えます。

 しかし、客観的には「スパルタ教育」と見える家庭でも、両親に話を聞けば、けっして「子供の気持ちを無視」しているわけではなく、「子供のためを思ってしっかりした勉強の環境を与えている」つもりのことが多いようです。

 そのため、この事件を他人事とは思えないと言う医師は、それまでは子供のためを思ってやっていると信じていたことが幻想であり、「自分の子供ももしかしたら・・・・」、と感じているのかもしれません。

 私自身は、自分の子供はいませんが、医師であり、また勉強に関する書籍を出版していることもあり、この事件に対するコメントを求められることが多いので、この場で私自身の意見を述べたいと思います。
 
 まず私は、嘆願書を書く人の気持ちが理解できません。たしかに、過酷な環境で勉強を強いられていたことには同情しますが、そこから殺人へは飛躍しすぎです。殺害は放火の帰着であって殺人の意図はなかった、という弁護もあり得るでしょうが、16歳にもなっていれば、自宅に火をつければどのような結果になるかということくらい、いくら世間知らずで木村拓哉さんを知らなくても分かるはずです。

 これは私の持論ですが、殺人については、自分の身内が殺られた復讐としての動機を除けば、罪を軽くすべきではないと考えています。
 
 一方で、私はこの父親にも同情する気になれません。

 というのは、自分が医師という職業に誇りを持っているならば、自分の臨床の成果や患者さんとの心のふれあいの話をして、医師の魅力を伝えることをすればいいわけで、それで充分なはずです。 

 もしも、医師の魅力が息子に伝わって、息子が医師になりたいと思えば、親が何も言わなくても勝手に勉強するでしょう。医師になるという目標があって勉強をおこなえば、自然に勉強のおもしろさが分かってくるはずです。

 なぜなら、病気や怪我の治せる一人前の医師になろうと思えば、基礎知識が必要になることは明らかで、その基礎知識を身につけるためには高校の勉強こそが大切だということが分かるからです。今やっている勉強が、将来患者さんのためになると思えば、少々のスランプが来ても乗り越えられるはずです。

 医師の魅力以外に、父親が息子にアドバイスすることがあるとすれば、今おこなっているほとんどの勉強が将来の患者さんに喜ばれることになる、ということを伝えればいいのです。
 
 「まだ、うちの子供は未熟だから勉強の大切さが分かっていない」、という親もいますが、私はこれにも同意できません。この親の言うことはたしかに事実かもしれませんが、そうであったとしても、やる気のない人間に何かを強いることは、どんな方法をもってしても不可能です。

 他人になにかをおこなってもらうときに有効な方法はただひとつしかありません。それは、その人にそのことがらに対する興味を持ってもらうことです。これ以外にはありません。いくらアメとムチを使ってコントロールしようとしても、その行動は長続きしません。まして、受験勉強のように、長期間の忍耐力が必要とされるようなものに対しては、本人が興味を持つ以外に方法はないのです。

 拙書『偏差値40からの医学部再受験実践編』で述べているように、医学部志望の動機が、金儲けとかブランドであっては勉強に対するモチベーションが継続せず、医療の本質に興味を持たない限りは、医学部合格はあり得ないのです。

 ちなみに、私は両親から「勉強しなさい」と言われた経験はほとんどありません。実際には言われていたのかもしれませんが、もし言われていたとしても無視していたに違いありません。

 私は、皮肉なことに、大学に入学してから他学部の学問が好きになり編入学をおこない、医学に興味を持ってからは会社を退職し、今も勉強を続けていますが、「勉強しなさい」と言われて勉強したことは一度もありません。

 しかしながら、現在ひとつだけ後悔していることがあります。

 それは、英語の発音です。商社に入社したての頃、まったく英語ができない私に対して、先輩方は、「(英語は)読み書きはいつでもできるから、先に発音をしっかり勉強しなさい」、というアドバイスをくださいました。

 先輩方は、たしかに例外なく発音がきれいでした。しかし、入社時から英語のできた人はほとんどおらず、ほぼ全員が入社後に発音の勉強をおこなうことによって上達したそうなのです。よく、英語の発音は幼少時に学ぶ必要がある、ということが言われますが、実はそうではなく、成人してから勉強しても上達するということを、先輩方は身をもって証明していました。

 ところが、私はそんな先輩方の忠告には一切耳を傾けず、貿易業務にすぐに役立つと思われたビジネス英語の読み書きに絞って勉強したのです。

 その結果、たしかに読み書きにはあまり苦労しなくなりましたが、会話、特に発音は今でも苦手です。

 けれども、最近になって、私もついに重い腰を上げました。商社を退職してからも、英語を使う機会が続いており、発音のおもしろさが10年以上の月日をかけてようやく分かるようになってきたのです。 先日、発音の教科書を購入し、毎日少しずつCDを聴きながら勉強しています。どれくらいの年月がかかるかは分かりませんが、今の私は発音に興味を持っていますから、いくらセンスがないとは言え、少しくらいは上達する日がやがてくるでしょう。

 あのときの先輩方、なぜ「発音を勉強しなさい」ではなく、「発音のおもしろさ」を教えてくれなかったのですか・・・

 と感じている私はあまりにもわがまますぎますか?