マンスリーレポート
2025年11月 私が安楽死に反対するようになった理由(後編)
前回は、「私自身は安楽死に賛成の立場であるものの、それは周囲の誰からもその選択を認められた場合に限る」という考えを述べました。例えば、家族やパートナーが「死なないでほしい」と言っている状況での安楽死は認められない、というのが私の考えです。医師になるまでは、人には「自殺する自由」があると固く信じ、たとえ誰に反対されようが個には自殺する”権利”があるのだ、とまで思っていました。
ところが、医師になってから「大切な人が自殺した」という話を患者さんから繰り返し聞くようになり、残された者の悲しみは決して癒されることがないことを知るようになりました。また、私自身のプライベートでも、自殺、あるいは自殺に近い死に方をした友人知人がひとりふたりと増えていきました。
前回も述べたように、大切な人が他界すれば、その死因が長年患っていた病気であっても、突然の事故であっても、そして自殺であっても、その辛さや悲しみは容易に言葉では表せず、まさに筆舌に尽くしがたいものです。どの「死なれ方」が最も辛いか、といった議論には意味がありません。つまり、「自殺しないでほしい」あるいは「安楽死しないでほしい」と考える人があなたの周りに「たったひとり」でもいるのなら、あなたは自殺してはいけないと考えるようになってきたのです。
しかし、ここで非常に難解な「命題」が生まれます。そもそも自殺したいと考える人、あるいは安楽死の場合もそうかもしれませんが、彼(女)らは人生に「絶望」しているわけです。もはやこの人生に希望がもてないがゆえに自殺や安楽死を考えるようになったのです。彼(女)らのそばにいるあなたが「死なないで」と言うのなら、彼(女)らからその絶望を取り除き、希望を与えなければならない、ということにならないでしょうか。
もっとプラクティカルな話をしましょう。自殺を考える人の多く(または安楽死を考える人のいくらか)は貧困な状態にあることが予想されます。「もうやっていける見込みがないから……」と彼(女)らに言われたとして、あなたは「じゃああたしがあなたの面倒をみるね」と常に言えるわけではないでしょう。そして、「あんたなあ、自殺(安楽死)するななんてことを言うけど、もうカネもないし生きていかれへんねや。あんたが食わしてくれるんやったら別やけど、あんたにもオレの面倒みられへんやろ」と言われればどのように返答すればいいのでしょうか。
私はこの「問題」を長年考えてきました。私ならどのようにするかはその相手とその状況によります。これまでの経験を述べれば、ダイレクトにお金をあげたこともありますし、一緒に仕事を探したこともあります。カウンセリングや精神科受診を勧めたこともあります。ですが、差し出すお金がなく、仕事を探せるような状態ではなく(例えば、身体的あるいは精神的不調で)、カウンセリングや精神科はすでに利用したけれどまるで役に立たなかったときにはどうすればいいのでしょう。実際には、なんとかなることがほとんどですが、この問題を突き詰めて考えるとどうしても壁にぶちあたります。
しかし、あるときこの「問題」に対する「答え」がふとみつかりました。これまで私は長年、冒頭で述べたように、「人間には自殺する権利がある」と信じていたのですが、実は「人間には自殺する権利がない」ことに気付いたのです。権利なんて人間が社会で生み出した単なるルールに過ぎず絶対的な真実ではありませんが、「人間には自殺する権利がない」を絶対的なものではなく、「この社会での掟」とみなせば腑に落ちるようになったのです。なぜ、私の考えは180度変わったのか。説明しましょう。
「人間には自殺する権利がない」が腑に落ちるようになったのは、私にはある「前提」があったからです。その「前提」に気付いたのはいつだったか覚えていないのですが、それはコロンブスの卵のような、「なんでそんなことに今まで気づかなかったのだろう」というようなものです。それは「人間には生まれない自由はない」という真実です。これは「絶対に正しい真実」と呼んでもいいのではないかと今では考えています。
過去のコラム「「人は必ず死ぬ」以外の真実はあるか」で、私は「絶対に正しい真実」は「人は必ず死ぬ」「地球は必ず滅びる」の2つしかないことを指摘しました。今は3つ目として「人間には生まれない自由はない」を入れてもいいだろうと考えています。実際、これを科学的に、あるいは論理的に反論することはできないのではないでしょうか。
話を進めましょう。「人間には生まれない自由はない」のなら、「自殺する自由もない」とは言えないでしょうか。あなたには生まれてこないという選択肢はありませんでした。たとえ生まれてこない方がよかったのだとしても、強制的に生まれさせられたのです。そして今も生きているということは、母親であったり、父親であったり、あなたが捨てられているところをたまたまみつけた人であったり、あるいは赤ちゃんポストを覗きにいったその日の当番であったり、があなたを生かそうと考えていろいろとケアをしたからこそ今あなたは生きているわけです。つまりあなたは自分の意思とは関係なく生かされてしまったのです。
人間には自由を求める権利があり、そして自由とは絶対的に正しいものだ、とついつい我々は考えてしまいがちです。ですが、実はあなたが成長したのはあなたに自由があったからではなく、強制的に生かされたからこそ今のあなたが存在しているのです。ならば、あなたは自らの意思で他人の反対を押し切って自殺してもいいのでしょうか。あるいは安楽死する自由があるのでしょうか。
「ゾーン・ポリティコン」はアリストテレスが提唱した人間の概念のことを指します。アリストテレスが本当は何を言ったかを知るには原書にあたるのが一番ですが、残念ながら私には古代ギリシャ語が読めません。よって、他者が書いたものを解読していくしかなく、その識者の恣意性が多少なりとも入ることは避けられないでしょうから、アリストテレス自身がどのように考えたのかは正確には分かりませんが、人間はポリス的な生き物、つまり他者との関わりのなかでしか生きていけない、ということかと私は解釈しています。「誰もひとりでは生きていけない」といったフレーズはしばしば流行歌などで使われますが、本当の意味において「ひとりでは生きていけない」は生まれてから数年の間です。
あなたにとって、あなたをケアしてきた人たちはあなたにとっては余計なお世話だったのだとしても、現にあなたが今も生きているということはいわば「借り」があるわけです。だから社会貢献して借りを返しましょう、などと言うつもりはありません。ですが、あなたを死なせてはいけないと考えてケアした人たちが存在した以上、つまりこの社会で生かされた以上、世界中のすべての人から全員一致で「死ね」と宣告されない限りは、つまり「あなたに死んでほしくない」と思う人が「たったひとり」でもいるのなら、あなたには死ぬ権利はないと思うのです。
では、その「たったひとり」がいない場合はどうでしょう。家族もパートナーも友人もいない、どころか、あなたの顔と名前が一致する人がひとりもいないとしましょう。さらに、あなたにはペットもおらず、エサをあげる動物や鳥も存在しないと仮定しましょう。
もしもこのような人が谷口医院を受診して「体調不良は治してくれなくてもいいんです。〇〇国に連れていって安楽死させてください」と言われれば私はどうすればいいのでしょうか。実は、似たようなことをある患者さんから言われたことがあります。そのとき私は直接的な言葉は避けたものの「いずれ安楽死ができる国ができれば考えましょうか」と返答しました(前回述べたように、カナダやオランダなど大きな病気がなくても安楽死できる国は日本人は対象外で、スイスなら日本人も可能ですが不治の病に罹患している必要があります)。
その後、この患者さんと共に〇〇国に渡航するシーンを繰り返しイメージしました。すでに数回の診察でこの患者さんのこれまでの過去の話はある程度聞いています。〇〇国がどこに位置しているのかにもよりますが、機内では横に座るでしょうからそのときに数時間かけて話をすることになり、それだけ時間があれば話はいろんなところに及び、その人の人生について深く知ることになるでしょう。
そして私は気付きました。私自身がその人に対する「たったひとり」となることに。
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