メディカルエッセイ
第149回(2015年6月) 世界で最も恐ろしい生物とは?
マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツは『gatesnotes』というタイトルのブログを運営しています。そのブログの2014年4月25日に「The Deadliest Animal in the World」というタイトルで、人間を死に至らしめる動物のランキングが掲載されています(注1)。
このブログが公表されたとき、いくつかのマスコミにも取り上げられましたからこの話はすでに有名になっているのかもしれませんが、まだ聞いたことがないという人は、答えを聞く前に自身で考えてみて下さい。
「The Deadliest Animal」、つまり、「人を殺す動物」ですが、ビル・ゲイツのこのランキングでは、年間に何人の人間が殺されたかを基準にしています。トップをいきなり紹介するよりもランキングを下からみていきましょう。
第14位は「サメ」と「オオカミ」で年間死亡者は各10人、12位は「ライオン」と「象」で死亡者は各100人ずつです。ライオンはともかく象は意外な気がしないでもないですが、たとえばタイでは「象に踏まれて死亡」という記事が現地の新聞にときどき載っています。
第11位は「カバ」で年間死亡者は500人、10位は「ワニ」で1,000人です。9位が死亡者数は2,000人で動物の名称は英語でtapewormとされています。英語が得意な方はtapewormと聞くと「サナダムシ」を思い出すと思うのですが、ここでいうtapewormはサナダムシのことを指しているのではなく生物学でいう「条虫」全体のことを指しています。条虫には人間にあまり有害性のないものから治療法のない死に至る病まで様々なものがあります。サナダムシは正式には「無鉤条虫」という名称で、昔の日本人の腸のなかにはよくいましたし、今でも自らサナダムシを飲み込んで腸内で”飼育”しダイエットをおこなうという変わった人もいます。
最近ブタの生食が危険であることが頻繁に指摘されるようになり、今月(2015年6月)からブタの生肉の飲食店の提供が法律で禁止されることになりました。この原因はE型肝炎ウイルスの感染が急増しているからですが、有鉤条虫という条虫の一種に感染することもあり日本のブタからの感染報告は多くはありませんが死に至ることもあります。
第8位は「回虫」(蛔虫)で年間死亡者は2,500人です。回虫はヒトの糞便を口にする機会がなければ感染しませんから、上水道がきれいで肥料に糞便を使わなければ感染はなくなるはずです。実際日本では衛生状態がよくなってからはほとんど消失しました。しかし水がきれいな国というのはあまりありませんから、今も世界では数億人のヒトが回虫に感染しています。また、日本でも有機栽培のブームが原因で感染者の報告も散見されます。
第7位は「住血吸虫」で年間死亡者は10,000人です。医学部で勉強しない限り「住血吸虫」などという生物の名前を聞くことはほとんどないと思いますが、住血吸虫のなかには「日本住血吸虫」というものもあり、文字通りかつての日本で多い感染症だったのです。住血吸虫は川で水浴びをしたときなどに皮膚から浸入してきます。症状としては感染してしばらくすると発熱や下痢を生じ、その後肝硬変をきたすこともあります。
現在の日本では心配することはないと思いますが、世界では熱帯地方の川には様々な住血吸虫がいます。たとえばメコン川流域にはメコン住血吸虫がいますし、南米やアフリカにはマンソン住血吸虫がいます。川の水には充分に注意しなければならないのです。また日本住血吸虫は現在の日本にはまず存在しませんがフィリピンにはいます。
さてここからがトップ5の発表です。6位がないのは5位が2つあるからです。ひとつめの第5位は「サシガメ」で年間死亡者数は10,000人です。サシガメといわれてもピンとこないと思いますが、これは南米に生息するカメムシです。カメムシ(サシガメ)自体に毒があるのではなく、このカメムシに寄生しているクルーズ・トリパノソーマと呼ばれる原虫が原因です。この原虫が体内に入ると発熱や倦怠感をきたしますが、この時点で診断がつくことはあまりありません。その後10年以上経た後に心臓、消化管、脳などに症状が出現します。この病名を「シャーガス病」と呼びます。長い潜伏期間を経たのちに致死的な状態になることから南米では「もうひとつのエイズ」と呼ばれることもあるそうです。
もうひとつの第5位は「ツェツェバエ」と呼ばれるサシバエの1種でこちらは南米ではなくアフリカに存在します。トリパノソーマと呼ばれる原虫がツェツェバエに寄生し、ツェツェバエに刺されたときにその原虫が人の体内に侵入します。この病気は「アフリカ睡眠病」と呼ばれ、文字通り傾眠状態から昏睡に至ります。
5位のふたつは似ていますので整理してみましょう。どちらも昆虫に寄生しているトリパノソーマという種類の「原虫」が真の病原体であり、一方は刺すカメムシの「サシガメ」、もう一方は刺すハエの「サシバエ」、一方は南米でもう一方はアフリカ大陸です。症状はどちらも緩徐に進行し死に至る病です。日本でカメムシやハエに遭遇しても怖くはありませんが、こういった地域では死に至る病がすぐ身近にあるということです。
第4位は「イヌ」で年間死亡者数は25,000人です。アジアなどではときどきイヌに噛み殺された幼児の記事がでていますがそのような例はさほど多くありません。ここで言っている「イヌ」は狂犬病のことです。狂犬病は過去に詳しく述べたことがあるので(注2)ここでは繰り返しませんが、発症すると100%死に至る病であることと、ワクチンで完全に防ぐことができることを繰り返しておきたいと思います。
第3位は「ヘビ」で年間死亡者数は50,000人です。私はこのビル・ゲイツのブログをみたときに知人何人かに「世界で最も恐ろしい生物は?」と尋ねてみたのですがヘビをあげた人が何人かいました。今も奄美諸島や沖縄ではハブは恐怖の生物ですし、マレーシア、カンボジアあたりのジャングルなどにはキングコブラがいます。私は経験したことがありませんが、突然何メートルもの巨大なコブラが首をあげたまま襲ってくるシーンは想像するだけで身の毛がよだちます。もろに咬まれると死を逃れることはできないでしょう。
私は現在大阪に住んでいますが、高校までは三重県伊賀市(当時は上野市)に住んでいました。中学生になってからはあまり草むらにはいきませんでしたが、小学生時代は草木の生い茂った野山で遊ぶことが多く、大人からは「マムシだけには気をつけろ」と言われていました。アオダイショウなどの普通の(害のない)ヘビとマムシはまったく異なります。マムシは人に出会っても(私が子供だからなのかもしれませんが)逃げることはありません。むしろ立ち向かってこようとします。咬まれたことはありませんが、私には今もマムシの恐怖心が消えません。それに現在の日本でも毎年数人はマムシに咬まれて死んでいます。
第1位と第2位は3位以下とは死亡者数の桁が違います。第2位の生物には年間475,000人もの人命が奪われています。そして第1位の生物にはなんと年間725,000人もが殺されているのです。
さてその第2位ですが、これは私の知人に尋ねたところ最も多かった回答で、シニカルな人ほど世界で最も危険な生物としてこの生物を選びました。その生物とは「ヒト」です。大規模な戦争などはなくとも、民族紛争、テロなどで50万人近くの尊いヒトの命が奪われていることに注目すべきでしょう。
さて、そのヒトを差し置いて第1位となった生物は何かわかりますでしょうか。答えは「蚊」です。ダントツの1位が「蚊」ということを意外に感じた人は少なくないのではないでしょうか。私は自分が考える前にランキングの表を先に見てしまったのですが、このようなクイズを出されて蚊とは答えられなかったと思います。
実際、ビル・ゲイツのこのブログの文章も、いかに蚊対策が重要かということばかりが述べられており、蚊の重要性を言いたいがためにこのようなランキングをつくったのだと思われます。
さて、蚊に刺されて死ぬのは蚊そのものに有害性があるわけではなく、蚊に寄生している病原体が原因です。最も多いのはもちろん「マラリア」ですが、デング熱(デング出血熱)やチクングニア熱でも死亡することはあります。
日本脳炎も現在の日本にはほとんど存在しませんが、アジア諸国では死に至ることのある病です(注3)。フィラリアについても、現在の日本国内での発生はほとんどありませんが、熱帯地方では今でも年間1億人以上が感染し死亡することもあります。ブラジルでワールドカップが開催されたときに話題になった黄熱もネッタイシマカが媒介しますし、米国でときどき報告のあるウエストナイル熱も蚊が媒介するウイルス感染です。
海外の論文を読んだり、熱帯医学の情報収集をしたりしていると、いかに日本人が蚊に無頓着でいるか、逆に言うと、蚊の心配がほとんど不要な日本とは何といい国か、ということを思い知らされます。しかし、日本でも過去には九州地方を中心にフィラリアで命を落とした人が少なくありませんでしたし、日本脳炎は今も日本に渡航する外国人からは恐れられていると聞きます。
現代の日本人にとって、海外旅行が身近なものになり、帰国後のデング熱やマラリア感染も増加傾向にあります。昨年(2014年)国内で150人以上が感染したデング熱のことを忘れないようにして、これからは国内外で蚊の対策を各自がおこなう必要があるでしょう(注4)
注1:このサイトは下記URLで読むことができます。
http://www.gatesnotes.com/Health/Most-Lethal-Animal-Mosquito-Week
注2 狂犬病については下記も参照ください。
はやりの病気第130回(2014年6月)「渡航者は狂犬病のワクチンを」
注3 日本脳炎については下記も参照ください。
はやりの病気第63回(2008年11月)「日本脳炎を忘れないで!」
注4 蚊の具体的な対策については下記を参照ください。
トップページ「旅行医学・英文診断書など」のなかの「その他蚊対策など」
はやりの病気第141回(2015年5月)「マラリアで死んだ僕らのヒーロー」
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