メディカルエッセイ
139 難病を患うということ 8/21
すでにお知らせしているように、私は2014年8月1日から自分自身の変形性頚椎症の手術のために太融寺町谷口医院を長期間休診とさせていただきました。しばらくの間は静養とリハビリが必要であったために、術後すぐに退院というわけにはいきませんでした。
変形性頚椎症についての説明はマンスリーレポート2014年7月号及び8月号である程度おこないましたので、ここでは繰り返しませんが、私が最も困っていたのが左上肢に力が入らないということでした。
手術を受けると痛みからはすぐに開放されることはあっても筋力低下や筋萎縮はすぐには治らずに回復するまでに何ヶ月も何年もかかることもあるし、場合によっては回復しないこともある、ということは知っていましたし、手術を受ける前にも聞いていたのですが、それでも、「圧迫されている神経が開放されるのだからすぐに神経が機能を取り戻して元のように左腕に力を入れることができるのではないか」という、今思えば何の根拠もない夢を見ていたのは事実です。
実際のところは、私の甘い期待は裏切られ、手術後2週間以上経過した今も、手術を受ける前とほとんど症状は変わっていません。(2014年4月には茶碗も歯ブラシも聴診器も持てないほど悪化していましたが、6月頃からわずかではありますが回復しており、茶碗の保持や聴診器の使用も短時間ならおこなえるようになっていました。術前と術後で症状はほぼ変わりありません)
症状の劇的な回復を夢みていた私は現実を知らされました。「現実はそれほど甘くないか、それならば長期的な観点から考えていこう」、と冷静に考えなければいけないのは今から思えばわかるのですが、術後数日が経過した頃の私は、まともな思考回路が形成されておらず、なんと、「手術をしても腕に力が入らないのは原因が別にあるに違いない」と、まったく非合理的なことを考え出したのです。
しかも、私の悲観的なこの考えは負のスパイラルに堕ちていきました。まず気になりだしたのが私の症状についてです。典型的な変形性頚椎症の症状は痛みとしびれがまずあり、それが長期間持続すると筋力低下や筋萎縮がおこります。しかし、私の場合は痛みやしびれはそれほどたいしたことはなく、最も辛い症状は筋力低下です。筋力低下が全面的に出てくる疾患と言えば・・・。それは神経内科的ないくつかの病気、なかでもALS(筋萎縮性側索硬化症)ではないのか、と疑いだしたのです。
いったんそう考えると私の思考の「負のスパイラル」はますます深みにはまっていきました。そういえば、左上腕の筋肉がピクッ、ピクッと無意識的に震えることが過去数ヶ月に何度かあったことを思い出しました。これは「筋線維束攣縮」と呼ばれる現象で、ALSを含めた神経内科的疾患でしばしば観察され、逆に変形性頚椎症ではあまり見られないものです。
ALSは比較的早く進行し、最初は片側の上肢の筋力低下、その次は反対側の上肢の筋力低下、さらに下肢にも症状が生じ、飲み込んだり話したりするのが困難になってきます。しかしこれは典型例であり、ALSの非典型例では、ゆっくりと経過が進行し、しばらくの間は片側の上肢のみに症状が起こることもあります。実際、ALSなのにもかかわらず最初は私の疾患、つまり変形性頚椎症と誤診されることもあるという話を思い出しました。
それにまったく頚椎症を示唆する所見がないのにもかかわらず、頚椎X線や頚椎MRIを撮影してみると頚椎が変形していることはよくあります。変形性脊椎症というのは軽症のものも含めればかなりの人が罹患していると言えますから、ALSと変形性頚椎症が合併しているということも珍しくはないわけです。
こういったことまで考え出すと、私の「負のスパイラル」はますます加速され、いつのまにか「ALSに違いない。寿命はもってもせいぜい5年。その間に何をしておくべきか・・・」といったことまで考え出したのです。
これは冷静になって考えれば極端な思考であるのは自明なのですが、しかしだからといって理論的に私がALSでないということを100%証明することもできません。それに、筋力低下をきたす難治性の疾患はALSだけではありません。同じく難病である多発性硬化症という疾患も筋力低下が最初に現れることがありますし、パーキンソン病だってそうです。そのようなことを考えているときに、俳優のロビン・ウイリアムスがパーキンソン病に罹患したことからうつ病を発症し自殺した(注1)、というニュースを目にしました。私の「負のスパイラル」はさらに加速されていきました。
ここまでくると、私の精神状態はまともではなく「うつ状態」と言ってもおかしくはありません。食事は摂っていましたし、自らに課した朝と夕方のリハビリはおこなっていたのですが、心の中は厚くて黒い雲に覆われているようなイメージです。
いったい私はこれからどうすればいいのか、クリニックの患者さんにはどのように話すべきか、GINAが支援しているタイのエイズ孤児に対してはこれからどのようにすればいいのか・・・。そのようなことを四六時中考えるようになっていました。真っ暗な闇の中で光の方向が分からずにもがき苦しんでいる感覚です・・・。
そんなとき、入院中の私を叱咤激励してくれた人たちがいました。それは、私が過去に診た患者さんたちです。といっても、実際に患者さんが私を見舞いに来てくれたというわけではありません。ある日の昼下がり、病室のベッドで夢なのか回想なのかよく分からないようなまどろみのなか、過去の患者さんたちが私の頭の中に登場しだしたのです。
今も鮮明に記憶に残っているのは、私が研修医のときに担当させてもらっていた脊髄損傷の患者さんたちです。私が研修を受けていた病院は脊髄損傷の患者さんを積極的に受け入れており、当時形成外科で研修を受けていた私は褥瘡(床ずれ)の診察で、毎日のように病室を訪れ話を聞いていました。彼(女)らは脊髄が完全にやられていますから、全員が車椅子の生活を強いられており、それは奇跡的な治療法がいきなり登場しない限りは治癒することはありません。そんな彼(女)たちが、「自分たちのことを忘れないで!」と私に訴えるのです。
夢か回想かよくわからないそのまどろみのなかで、過去に私が診たALSの患者さんもでてきました。その患者さんは車椅子に移動するのも困難で会話もできずほとんど寝たきりです。さらに、私がタイで診てきたエイズの患者さんたちもやってきました。「あたしたちのこと忘れたの?」すでに他界している彼(女)らは私にそう訴えかけるのです。GINAが支援しているエイズ孤児たちも無言のまま私を見つめています。
太融寺町谷口医院の患者さんたちも次々に私の頭のなかに登場します。私がガンの告知やHIVの告知をおこなった人たちもいれば、命に関わる病気ではないものの長期間の罹病で相当辛い思いをしているような人もいます。
いったい私はどうすればいいのか・・・。まどろみが消え完全に意識が覚醒し、あらためて過去そして現在の患者さんたちに思いを巡らせていたときに突然ある人の言葉を思い出しました。
それはある日本人のクリスチャンの女性の言葉です。私が変形性頚椎症で簡単でない手術を受けることを伝えたとき、その女性は「あなたにはやり残していることがあるんだから手術は必ずうまくいきます」と言ったのです。なんでも、キリスト教的にはそのような考え方をするそうなのです。
私はキリスト教徒ではありませんが、それを聞いたときに「なるほど」と感じました。そしてこの度、手術後症状が回復せずにうつ状態となり、これまでに診た患者さんが私の心に「しっかりしろ」と訴えかけてきたときに、再びこの言葉が私の頭の中を駆け巡ったのです。
脊髄損傷もALSもパーキンソン病も、ガンもHIVも、あるいは寿命は縮まらなくても生活に不自由がでる疾患も、それらを患った人たちは日々を生きるということに頑張っているのです。そして私は医師でありNPO法人GINAの代表をとつめているのです。私に残された道は、自身の疾患については現実を受け止めてリハビリに励む、そして職業人として患者さんたちに誠心誠意をもって接する、これしかありません。
私が今回手術を受けたのは症状の回復を期待して、あるいはこれ以上症状を進行させないために、ということで、手術が成功したことは大変ありがたいわけですが、症状が思ったほどに改善せずに、それがきっかけで難病を患っている人たちに想いを巡らすことにつながったことも手術と入院生活のおかげではないだろうか・・・。今私はそのように考えています。
注1:米国の俳優ロビン・ウイリアムス(63歳)は2014年8月11日、カリフォルニア州の自宅にて首をつって自殺したと報道されました。パーキンソン病が原因でうつ病を発症したとの報道があります。
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