2013年6月13日 木曜日

2011年6月号 勉強し続けなければ仕事ができない・・・

われわれが学生の頃に学んだことの多くは役に立たない・・・

 これは私が医学部在学中に教わった先生たちから何度も聞かされた言葉です。そりゃ医学は日進月歩なんだし、新しい薬は次々と市場に出てくるんだから当然でしょ・・・。私はそのように感じていて、そういう言葉を聞いたときも特に驚くことはありませんでした。それに、私自身はサラリーマンの経験がありますから、一般社会だって新しい商品は次々と出てくるし会社の方針はころころ変わるし、医者だけじゃなくってどんな仕事でも勉強し続けなければならないのは一緒でしょ・・・。と、ちょっと斜に構えて先輩医師達の意見を聞いていました。

 医師という職業は、医学部受験よりも医学部在学中の勉強の方が大変で、その医学部在学中の勉強よりも医師になってからの勉強の方が大変で重要ということは充分承知しているつもりですから、もちろん私自身は医学に関する何らかの勉強を継続しておこなっています。(もっとも医師であれば誰でもおこなっていることで、とりたてて強調すべきことではありませんが・・・)

 勉強を継続する、といってもまったく新しいことを学ぶのであれば(例えばベンガル語をゼロから開始する)、かなり高いハードルが立ちはだかるでしょうが、基礎的な医学の知識がある上での新しい医学の勉強ですから、例えば論文を読んで内容を理解するのに苦しむということはあまりなく、現在おこなっている医学の勉強というのは、これまでの知識の整理や付記・追記などであることが多く、それほど苦痛を伴うものではありません。(時間を確保するのが最も大変なことです)

 しかしながら、これまでの概念をくつがえすような理論が登場すると話は変わってきます。これまで当然と考えられていたことが実は誤りだった、となれば勉強しなければならないことは相当なものになります。もちろん、純粋に「学問を学ぶ」という観点から考えたときには、これほどおもしろいことはないのですが、医学というのは目の前の患者さんに役立てていかなければならないわけで、正しい理論があっちに行ったりこっちに行ったりすれば、まともな臨床ができなくなります。

 話を前にすすめましょう。最近出てきた理論で私が最も関心を持っているのが、免疫学における「デンジャーモデル」というもので、提唱しているのは、Polly Matzingerという”異色”の女性免疫学者です。”異色の”としたのは、この学者の経歴が非常にユニークだからです。Wikipediaの情報ではありますが、この学者は学者になる前に、バニーガール(原文はPlayboy Bunny)、バーのウエイトレス、ジャズミュージシャン、大工、犬の調教師などをしています。そして、あるバーでウエイトレスをしているときにカリフォルニア大学の教授と出会い、その教授が彼女の能力を見抜いて学問の世界にスカウトしたそうです。

 私が関心を持っているのはもちろんこのような経歴ではなく(たしかにこの経歴は非常に印象的ですが)、彼女の唱えているデンジャーモデルです。デンジャーモデルは免疫学の基礎をひっくり返すほどの強いインパクトがあります。

 免疫学の基礎中の基礎の考え方として、「免疫とは自己と非自己の認識である」というパラダイムがあります。(少し話がそれますが)私は元々社会学を本格的に学ぶつもりで会社員時代は社会学部の大学院進学を考えていました。社会学に関しては様々な分野の本を読んでいたのですが、あるときこの生命科学としての免疫が「自己と非自己を認識する」ということに大変な魅力を感じました。社会学でいうところの「実存」に通じるものがあると感じたからです。多田富雄の『免疫の意味論』や中村桂子さんの『自己創出する生命』を何度も読み返し、この経験が医学部進学を決意するきっかけのひとつとなったのです。

 医学部に入学してから学んだ免疫学も「自己と非自己の認識」というパラダイムから成り立っていました。(私が当初考えていたような「実存」という観点からの考察は医学部ではありませんでしたが) しかし、Polly Matzingerが唱えるデンジャーモデルはこれを根本から覆すものなのです。

 デンジャーモデルをごく簡単に説明すると、「免疫応答とは非自己を認識することにより生じるのではなく、自らの細胞が傷つけられたときに身体が反応するもの」となります。つまり、何らかの原因で自らの細胞が傷つけられたときにT細胞という免疫をつかさどる細胞が活性化を始め一連の免疫応答が生じる、というのです。

 このデンジャーモデルは現時点では正式には認められておらず実証するには超えなければならない壁がいくつもあります。しかしながら、デンジャーモデルを当てはめることによって納得できる臨床上の事象は、私が感じるだけでもいくつかあります。

 例えば、非ステロイド系の軟膏(商品名でいうと「アンダーム」や「スタデルム」)は、アトピー性皮膚炎など慢性の湿疹に使われていた時代がありましたが、効果がほとんどないどころか、かぶれ(接触皮膚炎)を高頻度で起こしうるため、今では「原則として使用しない」ということになっています。ところが、同じ非ステロイド系の湿布では、かぶれは起こりえますが、軟膏に比べると頻度は随分少ないのです。この理由として、アトピーなどの湿疹では掻いてしまうことにより微小な傷ができていて、そこに非ステロイド系の薬を塗ったことで、この薬に対するアレルギー反応が起こった、と考えれば説明がつきます。つまり、デンジャーモデルで説明できるのです。

 また、お茶石鹸のトラブルで有名になった小麦アレルギーも、デンジャーモデルで説明ができます。お茶石鹸で小麦アレルギーを起こしてしまった人たちも、元々は小麦(パンやうどんなど)を食べても問題なかったのです。ところが洗顔で毎日小麦を肌にすりこむことで、そのときに微小な傷があったとすれば、その傷に小麦成分が侵入したことで小麦に対するアレルギー反応が起こった、と考えられるというわけです。

 今のところデンジャーモデルは正式に認められていませんし、日々の臨床で応用している医師もほとんどいないと思いますが、先日(2011年5月15日)幕張でおこなわれたアレルギー専門医セミナーでも、ある講師がこのデンジャーモデルを取り上げていました。

 アレルギーの関連で言えば、先に述べた小麦でもおこりうる「食物依存性運動誘発性アナフィラキシー」は、私が医学部の学生の頃は、せいぜい<トピックス的>なことで、医師国家試験には絶対に出ないような疾患でしたが、今では<比較的よくある病気>と位置づけられています。また口腔アレルギー症候群(OAS)やラテックス・フルーツ症候群(LFS)といった疾患は、感作される物質と反応を起こす物質が異なる(例えば花粉やラテックスでアレルギーが起こる身体となり、フルーツや野菜を食べたときに反応が起こる)という、過去の常識からは考えられないメカニズムでアレルギー反応が成り立っています。この2つの疾患については、私は学生の頃は名前すら知りませんでした。

 新しい疾患が確立されたり、新しい理論モデルが提唱されたり、というのはアレルギーの領域だけではありません。現在(2011年6月10日)の時点では、欧州で発生した集団食中毒の病原性大腸菌について感染経路も含めて分からないことだらけです。基礎医学で言えば、京大の山中伸弥教授が研究されているiPS細胞は実用化まであと一歩のところまできています。(ちなみに山中教授は以前大阪市立大学医学部薬理学教室に在籍されており、私も講義を受けたことがあります)

 われわれが学生の頃に学んだことの多くは役に立たない・・・。医師としての経験を積めば積むほど、この言葉の意味が重たくのしかかってくるように私は感じています。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2011年5月号 被災者支援よりも重要なこと

東日本大震災が発生して2ヶ月近くがたちました。発生直後から急速に全国的、あるいは全世界的に広がった「被災者を皆で助けよう!」という熱狂的ともいえる盛り上がりはいくぶん落ち着いたようにもみえますが、それでも依然「被災者のために!」というムードは続いています。

 マスコミの世論調査をみてみても「寄附をおこなった」と答える人は(母集団にもよりますが)過半数を超えていますし、その金額も決して小さくありません。私の周りをみてみても、数万円単位で寄附をしている人もいて、なかには、無職で仕事がない、と日頃は嘆いているのに高額を寄附している人もいますから驚かされます。

 もちろん被災者のために各自ができることをするという考えは間違っておらず、私自身も異論はありません。しかしながら、「被災者に対して何もしていないことがまるで犯罪であるかのような雰囲気」が生じてくるとすればこれは問題です。

 今回は問題となる2つの点について考えてみたいと思います。

 まずひとつめの問題は、被災者を支援する程度(一番分かりやすいのは寄附金の額)が大きければ大きいほど偉いんだ、という空気が広がってしまうことです。すでに、有名人の寄附金のランキングのようなものがインターネット上に出回っているようですが、こんなものには何の意味もありません。匿名で寄附をしている有名人もいるでしょうし、例えばたった一度1千万円を寄附した人と、毎月100万円を今後10年間寄附していく人のどちらが被災者のためになるか、という議論もあります。年収1億円の人と300万円の人では当然支援できる額が変わってきます。改めて言うまでもないことですが、寄附を含めた支援活動というのは「各自のできる範囲」でおこなうべきです。

 被災者支援が盛り上がりすぎることで生じる可能性のあるもうひとつの問題は、「支援が必要なのは被災者だけではないことが忘れられていないか」ということです。

 今の日本には他者からの支援を必要としている困窮者が少なくありません。きっとあなたの周りにも、失業者、ひきこもり、あるいはホームレスとなってしまった人やその予備軍の人もいるのではないでしょうか。また、身体的にハンディキャップを背負っている人、うつや適応障害を含めた精神障害で社会参加ができていない人、あるいはHIV感染が原因で社会から不当な偏見を持たれ疎外されているような人もいるわけです。

 私は、被災者支援が熱狂的になりすぎることで、こういった人たちへの社会からの眼差しがおざなりになってしまうことを危惧しています。例えば、あなたが郵便局に義援金を振り込みに入ったその帰り道に、仕事が見つからず所持金も底をつきアパートを追い出されその日のねぐらとなるインターネットカフェを探している人とすれ違っているかもしれないわけです。

 以前別のところで述べたことがありますが、私は今の日本が世間でよく言われるような「格差社会」だとは考えていません。希望すればほとんどの人が少なくとも高校には進学でき、読み書きができるわけですから内容にこだわらなければ仕事はないわけではありません。生活保護などの公的扶助もこれほど充実している国もそうはありません。インフラが整備されているおかげで、例えば公園の水道水を飲むこともできます。無料で水が飲める国というのはほとんどないのです。また、トイレも、駅や公園、あるいは図書館などで、無料で使用することができます。しかもトイレの紙を便器に流すことができるのです。(我々は当たり前のように感じていますが、お尻を拭いたトイレットペーパーを便器に流していい国は少数で、アジアではほとんどの国がトイレの横に置かれているゴミ箱に大便が付着した紙を捨てます。また、そもそも紙を使わない国や地域もあります)

 もう少し具体的な話をしたいと思います。最近はかなりましになってきたとは言え、タイでは高校どころか中学も、さらに小学校さえも卒業できない子供が大勢います。その子供たちはまだ小学校低学年のときに学校をやめて、農作業や内職を手伝います。ひどい場合には夜中に観光客に花を売ったり、信号待ちしている車に駆け寄り窓を拭いて乗客から小銭を乞うたりしています。子供たちはボロボロの衣服を身にまとい例外なく裸足です。(このような”ビジネス”には元締めがいてボロボロの衣服はパフォーマンスのひとつだ、と言う人もいますが10歳未満の子供たちが深夜に働かされているのは事実です)

 もっと言えば、世界には国籍を持たない人が1,200万人以上もいることが指摘されています。(下記参考文献参照) そのような人たちは仕事ができなければアパートを借りることもできません。もちろん電話を持つことなど不可能です。(実は日本にも無国籍の人が2万人程度いるのではないかと言われているのですが、この問題は今回は取り上げないでおきます)

 さて、話を戻しましょう。世界に目を向けたとき、「日本社会は格差社会などではなく、これほど恵まれた国もない」、というのが私の基本的な考えです。しかし、現実には失業者やひきこもりが少なくなく、若い世代にもホームレスが増えているという報告もあります。(下記参考文献参照) それに、そもそも街に活気がないというか、閉塞感を醸し出している人たち、それも若い人たちが非常に多いように感じます。これは日本よりはるかに格差社会のタイの陽気な雰囲気とは対照的です。

 なぜ、日本は恵まれたインフラが整備されており格差は大きくないのにもかかわらず、これだけ<困窮している人たち>が大勢いるのでしょうか。

 いろいろと理由はあるでしょうが、私は日本社会の最大の問題は「身近にいる困っている人に対する無関心」だと考えています。なぜ、タイではあれほどの格差があり、生活保護などの公的扶助もほとんどないのにもかかわらず、日本社会のような閉塞感がないのか・・・。タイ文化に少し溶け込めば分かりますが、彼(女)らは他人に対する親切を当たり前のことと考えています。隣人が困っていれば食事を分け与えますし、寝床がなければ泊めてくれることも珍しくありません。タイ旅行中にトラブルが起こり現地の人々に親切にしてもらった経験のある日本人も少なくないのではないでしょうか。さらに、最下層(という言い方は失礼ですが)のまったくお金がない人たちも、犬や猫に残ったご飯やパン屑をあげています。

 つまり、タイでは(タイだけではありませんが)自分より困っている人(や動物)を助けるという慣習が不文律として存在しているのです。このため、タイ人と食事に行くと、ほとんどの日本人は(たとえタイ人が何人いたとしても)飲食代金を払わされます。しかも、お礼のひとつもないのが普通です。これは彼(女)らからみれば「お金をよりたくさん持っている人(日本人)が支払うのが当然」だからです。

 ワリカンがいいか悪いかは別にして、身近に困っている人がいれば助けるのが当たり前、という慣習を日本社会も見習うことはできないでしょうか。いえ、「見習う」のではなく「思い出す」が正しいかもしれません。というのは、かつての日本にも相互扶助の精神は存在していたからです。「結(ゆい)」という言葉が有名ですが、これは農作業や住居建築などを皆で力を合わせておこなう相互扶助共同体のことです。今でも沖縄には「ユイマール」と呼ばれる結が残っています。(最近はほとんど消滅しかかっているとも言われますが・・)

 日本人が東日本大震災の被災者にみせた慈悲の精神をもっと身近なところで発揮できれば今よりも遥かに住みやすい社会になるに違いありません。最後に、私の好きな言葉を紹介しておきます。

「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」 ダグ・ハマーショールド(元国連事務総長)

参考文献:
『ルポ 若者ホームレス』 飯島 裕子、ビッグイシュー基金 (ちくま新書)
『ビッグイシュー日本版』第166号(2011.5.1)「特集 無国籍」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2011年4月号 強力なリーダーシップが必要なとき

東日本大地震が発生した2011年3月11日から1ヶ月近くがたちました。あれだけの惨劇が起こりながら、冷静に行動する被災者の方々に対して、国内外からお見舞いや賞賛の声が寄せられていることが繰り返し報道されており、世界中の人々が被災者を応援していることがよく分かります。

 3月12日に設置した太融寺町谷口医院内の募金箱にもたくさんの方からの寄附金が集まり、3月末でいったん集まった金額を日本赤十字社に寄附しました。これからも当分の間、被災者に対する寄附金をクリニックで集めていきたいと考えています。

 私自身は今回の震災で現地に訪れていませんが、現地に赴いた医師からの報告はメーリングリストなどで伝わってきます。いくつかの報告をまとめてみると、まず今回の震災は阪神大震災のときとは様子がかなり異なるようです。

 阪神大震災では、家屋の下敷きになる人が多く、医師の側からみれば、外傷に対する治療、つまり出血や骨折、打撲などに対する処置が多くの場面で必要とされました。一方、東日本大震災では、地震よりもむしろ津波による被害が多かったこともあり、外傷ではなく、高血圧や糖尿病の悪化など慢性期の疾患に対する治療が求められることが多いようです。このため、被災地に赴いた外科医のなかには、活躍の場がなく早々と引き上げた者もいたそうです。また、家族を亡くした喪失感や災害のシーンが蘇ることなどから「眠れない」「不安がとれない」といった症状が現れるケースが多く、心のケアも必要となっているようです。

 内科的な慢性疾患や精神症状は、かなり長期にわたりケアしていかなければなりません。現場に赴いた医師の感想で最も多いのは、「支援は長期にわたっておこなわれなければならない」というものです。

 医療面以外をみてみても、まず原発の問題の解決に相当時間がかかりそうですし、被爆については風評被害も含めて長期で取り組んでいかなければなりません。被災地の復興には、おそらく阪神大震災のときよりも時間がかかるでしょうし、電力の問題をどうするのか、日本経済はどうなるのか、・・・、と山積みされた問題はどれも長期的な視点から考えていかなければならないものばかりです。

 災害後の心理状態を少し学術的にみてみると、まず災害直後に「茫然自失期」という期間があり、その次に「ハネムーン期」と呼ばれる一種の躁(そう)状態のような心理となります。今回の震災では、「茫然自失期」から「ハネムーン期」への以降はすぐに起こり、国民全体あるいは世界中がハネムーン期になったように私は感じています。

 問題はここからです。ハネムーン期が終わると、今度は「幻滅期」と呼ばれる無力感に覆われる期間がやってくると言われています。被災地以外の人々からは次第に関心が薄れ、ハネムーン期には他人に対する思いやりと正義感から自然にできていた団結力も徐々に薄まっていくかもしれません。

 被災者の方々を支援するためには、「長期的な視点」が絶対に必要です。そして、現在の国内外の盛り上がりを風化させないためには、ひとりひとりが「自分に何ができるのか」を長期的に考えていかなければなりません。

 しかし、戦後最大の危機とも言われている今回の震災に対しては、ひとりひとりの考えだけでは充分ではありません。どうしても必要なのが「強力なリーダーシップ」です。

 では、誰がリーダーシップを発揮すべきか、ですが、これは首相以外にありません。首相が強いリーダーシップを発揮して国民をまとめていかなければこの国の明るい未来はない、と私は考えています。

 この点で私は、震災後のマスコミの報道や知識人のコメントなどに違和感を覚えています。なぜこの時期に首相を批判するような意見を掲載しなければならないのでしょうか。もしも与党や首相がマスコミの批判を気にして、思い切った政策がとれなくなったり、いつも世論を気にするようになったりすれば、結果として困るのは被災者ではないでしょうか。

 参考までに、私は特定の支持政党を持っておらず、選挙で投票する政党は一定していません。そして、ここ何年かの選挙では(詳細は伏せておきますが)少なくとも比例区に関しては民主党に投票していません。しかし、それでも今は菅首相にがんばってもらいたいと考えています。菅首相には世論やマスコミの報道を気にすることなく、信念を持って強いリーダーシップを発揮してもらいたいのです。

 「職場におけるリーダーシップ」というのは、私が関西学院大学社会学部を卒業(1991年)するときに書き上げた卒論のタイトルなのですが、実は今でも私はリーダーシップに関する勉強(というか単なる趣味ですが・・)を続けています。もちろん、学問としてのリーダーシップがそのままリーダーシップの実践につながるわけではありませんが、それでもどのような状況のときにどのようなリーダーシップが求められるか、ということに思いを巡らせることがしばしばあります。

 リーダーシップ論にはいろんなものがありますが、「危機的な状況のときには強いリーダーシップが求められる」という認識は共通しています。もう少し具体的に言えば、今回の震災のような危機的な状況のときは、「和気あいあい型」のリーダーではなく、「厳しい意見も言うことができる専制型」のリーダーが求められるのです。もちろん、その前提としてリーダーが人格者でなければなりませんが、民主的な選挙で国民が選んだ首相は人格者と考えるべき(考えなければならない)でしょう。

 菅首相は震災発生の翌日(3月12日)に「全身全霊、命がけで取り組む」と宣言していますから、何をどのようにやるのかをしっかりと国民に提示して、「みんな、ついてきてくれ!」というような態度を期待したいと私は考えています。

 もうひとつ、これはどのようなリーダーにも要求されることですが、リーダーは今後のビジョンを示す必要があります。人間は将来のビジョンがあれば少々の困難に立ち向かうことができます。そして、そのビジョンが仲間と共有されていれば、さらに頑張ることができます。

 太平洋戦争敗戦後、この国は驚くほどの勢いで復興が進み、戦争終了10年後の1955年には、国民1人あたりのGNP(国民総生産)が戦前の水準を超えました。そして翌年(1956年)の経済白書には「もはや戦後ではない」と記述され、これは流行語にもなりました。戦争終了から19年後の1964年には東京オリンピックが開催され、東京から大阪まで新幹線で移動できるようになったのです。

 この歴史を思い出せば、我々日本人は再び奇跡を起こせるのでは、と考えたくなります。そして、世間にはとにかく早い復旧を求める声も多いようです。しかし、私は個人的にはゆっくりと着実な復興でかまわないと考えています。特に被災者の心理状態を考えると、正常な状態になるには長い時間が必要になるからです。

 この国の首相には、強いリーダーシップを発揮し、国民みんなが共有できる着実でしっかりとしたビジョンを示してもらいたいと思います。そして、そのビジョンを踏まえた上で、国民ひとりひとりが自分に何ができるか何をすべきかを考えていくべきだと思います。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2011年3月号 スピリチュアル・ケア

スピリチュアルという言葉がちょっとしたブームになっているようで、最近よく耳にします。なんでも、巷にはスピリチュアル・カウンセラーなどと呼ばれる人もいるようですし、スピリチュアル・スポットと呼ばれるところに集まる人も増えているとか。

 そのようなスピリチュアル”ブーム”を受けてというわけではないのですが、先日あるプライマリケア関連の研究会で、「スピリチュアル・ケア」を目的とした勉強会がおこなわれたので参加してきました。

 講師は飛騨高山の千光寺の大下大圓(おおしただいえん)住職で、大下住職は、職業としての住職の他、大学の非常勤講師やクリニックでスピリチュアル・ケアワーカーとしても活躍されています。

 実は医療現場にいると、この「スピリチュアル」という概念を意識せずにはいられません。私は現在、病棟勤務から離れているため、死を目前としている患者さんに対する診察やケアから随分遠ざかっていますが、勤務医の頃には患者さんとしばしばスピリチュアルな話をしました。

 霊魂、あの世、来世、輪廻転生、死後の世界、などと聞けば、ハナから否定する人も多く、特に若い人たちの多くはこのような”非科学的な”モノの存在を嫌うのではないかと思います。実際、このようなモノを利用したインチキや詐欺が少なくないのも事実でしょう。

 私自身も、医学部の学生時代に学生とこのような話をした記憶がありませんし、また自分自身も毛嫌いしていたわけではないにせよ、こういったスピリチュアルなモノの存在を肯定していたわけでは決してありません。

 ところが、医師となり、実際に死を目前としている患者さんや、死期が近いわけではないのだけれど病気になったことで死というものを考えるようになった患者さんと話していると、「スピリチュアルな概念を無視するわけにはいかない」ことに気づきました。

 例えば、私が研修医の頃に担当していたある高齢の女性患者さんは、「あの世に行って先に他界した主人に会いたい。あの世で主人とまた幸せに暮らせると思うと病気による苦痛にも耐えられる」と話されていました。また、ここまで直接的に「あの世」などという表現を使わないにしても、言葉の端々からそれらしい雰囲気が伝わってくるような話をされる方は少なくありません。

 スピリチュアルなものの存在を信じているのはもちろん日本人だけではありません。例えば、タイのチェンマイにハンセン病の患者さん専門の病院があるのですが、ここは全世界のキリスト教徒からの寄付金で運営されています。私はこの施設に過去3度ほど訪れ、患者さんだけでなく、医師、看護師、その他スタッフの方と話をしましたが、みんながスピリチュアルな観点から「幸福」というものを考えていることがよく分かりました。

 私が何度も訪問し、GINA設立のきっかけともなったタイのロッブリーにあるパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)は、エイズホスピスとしてすっかり有名になりましたが、施設自体は今もお寺で、何人もの住職の方がおられます。エイズを発症してこの施設に入所し、そして出家というかたちをとり僧侶になる患者さんもいます。

 キリスト教や仏教を含めた宗教を信じるほとんどの人が、程度の差はあったとしてもスピリチュアルなものの存在を信じているのは間違いありません。また、自分の経験から、日本人の多くの人々も、断定まではできないとしても、なんとなくスピリチュアルなものの存在を信じているという人が多いのではないかと感じています。私自身は、もしも「医師としてスピリチュアルなものの存在について話せ」と言われると、「分かりません」としか答えようがありませんが、個人的には「あってもいいんじゃないかな・・・」と感じています。ちなみに、私がたまに実家に帰ったとき、真っ先にすることは、仏壇に線香をあげること、です。

 現在の私の仕事の大半は、クリニックでの外来業務ですから、患者さんひとりあたりにかけることのできる時間はせいぜい10~15分程度です。慢性の病気を患っている人で月に1~2回来られたとしても、月あたりに話のできる時間は30分以内であることがほとんどです。この点が病棟勤務との違いで、病棟勤務であれば、毎日でもその患者さんのところを訪れて話をすることができます。

 ですから、外来での患者さんは、病棟の患者さんに比べると、距離が遠いままであることが普通なのですが、それでも医師・患者関係というのは、他の業種での関係とはまったく異なります。

 普段、会社の同僚や友達、あるいは家族にさえも言えないようなことでも、診察室の中でなら患者さんは医師に悩みを打ち明けることが多く、単に「痛い」「痒い」などだけでなく、心の悩み、そしてスピリチュアルな苦痛を訴えられることもあります。

 また、外来といえども、死を意識せざるを得ない疾患、例えばガンの術後やHIVで通院されている人もいますから、そういった患者さんのなかにはスピリチュアルな観点から話をされる方もいます。

 それに、最近では、特に大きな疾患を抱えていなくても、「就職が決まらない」「婚活が上手くいかない」などの背景から、下痢、動悸、めまい、不眠などが生じて受診される人もいます。彼(女)らのなかには、「生まれかわったら・・・」「運命の・・・」といった表現を使う人がいます。

 スピリチュアルな視点から話をするのは患者さんだけではありません。実は私の方も、「健康の神様の忠告かもしれませんよ」とか「恋愛の神様がみてくれていたのですね」などと言うこともあります。

 結局のところ、健康や病気に対するケアというのは、多少なりともスピリチュアルな観点から取り組まなければならない側面があるのではないかと今は考えています。ということは、医師という職業に従事している限り、どのような診療スタイルをとろうと、何らかのスピリチュアル・ケアができなければならないとも言えます。

 スピリチュアル・ケアの勉強会に参加して思い出した一人の患者さんがいます。それは私がタイのパバナプ寺で遭遇した20代半ばの女性で、すでにエイズ末期の状態でした。当時のタイでは抗HIV薬がまだ普及しておらず、エイズとは「死に至る病」だったのです。彼女は、同じ病棟の他の患者さんが次々と他界していくのを目のあたりにしていましたから、すでに食事が摂れなくなり歩けなくなった自分の死期が迫っていることに気づいていたはずです。しかし、彼女は死を受け入れることができませんでした。私が回診に行くと「早く病気を治して、早く歩けるようにして!」と毎日のように懇願するのです。このとき私が感じた無力感は本当に辛いものでした。彼女に対して、私は何も言えず、手を握ることすら偽善的な感じがしてできなかったのです。
 
 彼女はその後他界されましたが、もしも今私が彼女ともう一度対面したとして、何ができるのでしょうか。死を受け入れることのできていない末期の患者さんに私ができること・・・。今の私には答えがありません・・・。

 これから長い時間をかけてスピリチュアル・ケアについて学んでいきたいと思います。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2011年2月号 フェイスブックとタイガーマスク

2010年から2011年にかけてチュニジアで起こった反政府暴動は、政府に不満をもった若者の焼身自殺をきっかけに国内全土に一気に拡大し、最終的にはアリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊することとなりました。そして、ここまで一気に国民に情報が広がり、強い団結力が生まれたのは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サ-ビス)、なかでもフェイスブックによる影響が大きいと言われています。

 おもしろいインターネット上のコミュニティがあるから入らない?、知人にそう言われてmixiに私が入ったのは、たしか2005年だったと思います。しかし、結局私は一度たりともmixiを通して何かを発信することはありませんでした。もっと言えば、mixiというものに何も魅力を感じなかったというのが正直なところです。

 なぜmixiに興味が持てなかったかというと、元々私がパソコンの操作が苦手ということもありますが、それ以上に「匿名」というものに抵抗があったのです。匿名がイヤなら実名を名乗ればいいじゃないか、という意見もあるでしょうが、コミュニケートする相手がどんな人かよく分からないんだからせめて名前だけでも実名を出すべきだろう、と直感として私はそう思うのです。匿名だから言えることもある、という意見もあり、そういった考えも尊重すべきかもしれませんが、どうしても私には馴染めないのです。何か言葉を発するのならその言葉に責任を取らなければならない、無責任な発言はすべきでないし、匿名での発言は無責任化を加速させる可能性がある、というのが私の意見です。

 というわけで、私は「ネット社会の匿名性」というものに抵抗があり、SNSというものを利用した経験がほとんどありません。2チャンネルなどの掲示板も何度か見たことはありますが、実名のない無責任な発言にすぐに嫌気がさして、もう何年も見ていません。

 医師のみが利用できる掲示板もあり、こういったものはたまに見ることがありますが、やはり匿名での無責任な発言にうんざりしてしまうことがあります。ひどいものになると、医者同士のけんかの場になることもあり、見るに耐えられない、というのが正直なところです。

 私が情報収集によく利用するのは実名を前提としたメーリングリストです。毎日チェックするメーリングリストが3つほどあり、これらは大変有用な情報収集ツールとなっています。実名ですから、メッセージを発信する人もいい加減なことは書けないわけです。私自身がメーリンリストに対してメッセージを発信することは年に1~2度程度しかありませんが、自分の言葉には責任をとるつもりで文章を作成します。実名であれば、いつも「言葉の責任」を感じることができます。

 さて、フェイスブックに話を戻すと、フェイスブックの最大の特徴は実名が前提となっているということです。フェイスブックは元々アメリカの学生向けのSNSですが、2006年には一般公開され、日本では2008年から利用開始となっています。2010年にはアクセス数でグーグルを抜き、2011年現在全世界で5億人以上のユーザーがいると言われています。

 私自身は情報のやり取りに関して、発信は特定の個人に向けた通常の電子メールといくつかのメーリングリストで充分だと感じています。情報収集については、まず最も有用なのがネット配信のニュースです。インターネットのおかげで、世界中の新聞がほとんど無料で読めるのです。以前にも述べましたがこれこそが私にとってのインターネットの最大の魅力のひとつです。医学関連の情報については、ほとんどの医学誌が少なくとも論文の概要は無料で読めますし、最近は全文が無料で読めるようなものも増えてきています。これらに加えて、いくつかのメーリングリストで集まってくる情報があり、これでもう充分です。フェイスブックでしか得られない情報があるとは私には到底思えないのです。ですから、絶対にとは言いませんが、私は今後もフェイスブックを含めてSNSを利用することはないと考えています。

 話がそれましたが、フェイスブックに関して私が興味深く感じているのは、日本でのフェイスブックの普及率が極めて低い、ということです。Socialbakersというフェイスブックの国別の利用者を公開しているサイトによりますと、利用者が最も多いのがアメリカで人口の半分に近い約1億5千万人、2位がインドネシアで約3,500万人です。日本は49位で210万人、利用率(利用者/人口)ではわずか1.7%です。利用率は欧米では軒並み3割から5割以上、アジアでも、インドネシア14%、台湾51%、マレーシア38%、フィリピン23%、ですから、日本の利用者がいかに少ないかが分かります。

 なぜ日本ではフェイスブックがさほど普及しないのか・・・。もちろん様々な理由があるでしょうが、最大の要因は「実名公開が前提」ではないかと私は考えています。

 日本人というのは実名を出して物を堂々ということにとまどいがある、あるいは苦手意識を持っているのではないかと私は思うのです。そして、それを示すもうひとつの例がいわゆる「タイガーマスク現象」です。

 2010年12月25日、「伊達直人」を名乗る正体不明の人物から、群馬県中央児童相談所にランドセル10個が送られました。これが報じられると、同様の匿名の寄附行為が全国の児童福祉関連施設に対して次々とおこなわれるようになり、これが「タイガーマスク現象」と呼ばれるようにったのです。

 このブームともなった寄付行為に対して国民の大半は好意的にみているようです。おそらく匿名での寄附という行為にある種の美学が感じられるのでしょう。もしも、同じような寄附をした人が資産家やタレントであれば、どのように受け取られたでしょうか。資産家の寄附であれば、「寄附して当然、もっと出すべき」、企業やタレントであれば「売名行為じゃないの?」と思われるのではないでしょうか。

 名前を名乗らずに寄附をする、という行為が美しくみえるのは事実です。しかしこの美しさを強調しすぎれば、寄附という行為が非日常的な行為となり、簡単に気軽にできなくなってしまうことを私は危惧します。

 私はキリスト教徒ではありませんが、敬虔なキリスト教徒たちから、「わたしたちは小さい頃から寄附をするのが当然の習慣だった」という話を何度も聞いたことがあります。彼(女)らにとっては、寄附とは何も特別の行為などではなく日常的な行為のひとつにすぎないのです。

 タイの大半は仏教徒ですが、タイ人の多くはお寺に寄附(お布施)を気軽にします。この行為はタンブンと呼ばれ「徳のあること」とはされていますが、名前を伏せておこなうようなものではありません。タイのお寺で寄附をしてみれば分かりますが、小額であっても領収書を発行してくれます。おそらく、タイ人からみれば匿名での寄附にさほどの美学は感じないのではないかと思います。以前あるタイ人と匿名での寄附について話をしたことがあるのですが、そのタイ人は、「何か悪いことをして得たお金だから匿名で寄附するんじゃないの?」、と言っていました。仏教徒にとってもお布施(タンブン)は日常的な行為なのです。

 一方我々日本人は堂々と名前を出して寄附をすることに対して、後ろめたさではないにしても、恥ずかしさや照れくささのようなものを感じているのです。

 普及しないフェイスブックとタイガーマスク現象を、共に「匿名をよしとする日本人の性格」が原因と決め付けてしまうのは極端すぎるかもしれませんが、いかなる言葉に対しても、いかなる行為に対しても実名をだして責任を取る姿勢がもう少し重要視されるべきではないかと私は感じています。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2011年1月号 「与える」ということ

このコラムで毎年書いているように、私は年末年始に自分のミッション・ステイトメントを見直し、さらにその年の課題を決めています。課題は、昨年(2010年)は「仲間との時間を大切にする」、2009年は「周りを理解する」(これについてはコラムに書きませんでしたが)、2008年は「バランスをとる」、2007年は「貢献」、2006年は「勉強」、2005年は「奉仕」でした。

 昨年末から新春にかけての数日間、私は国内のある地方都市でほとんど何もせずにゆっくりと過ごしました。この、何もせずにゆっくりする、というのは私にとって「至福の時間」であり、その何もしないなかで、自分のミッション・ステイトメントを見直し、そしてその年の課題(テーマ)を考えます。1年間(2010年)に起こったいろんなことを思い出して、それらに対し反省と考察を加え、これからの目標や課題を吟味します。丸3日間ほどこの作業を続けていると、脳内が洗われてリフレッシュされるような感覚となり、一年間の疲れが取れていくように感じられます。

 そして、そのような脳内のリフレッシュを経て、決定された私の2011年の課題は「与える」です。

 誰もがそうであるように、私も実社会のなかではいくつかの”顔”があります。私の場合は、まず患者さんと向き合う医師であり、太融寺町谷口医院のリーダーであり、NPO法人GINA(ジーナ)の代表であります。

 2011年の課題とした「与える」は、その立場ごとに何をどのように与えるかが異なります。

 まず、医師として患者さんに自分ができる限りのことを与えたい、と考えています。診察・検査・投薬などだけでなく、食事・運動・禁煙などを踏まえた生活指導をおこない、さらに今年はセルフメディケーションに取り組んでいきたいと考えています。

 よく言われるように日本は完全な医師不足です。医師不足の結果、何が起こっているかと言うと、本当はじっくりと時間をかけて患者さんと話をしたいのだけれどそれができずに溜まる医師側のフラストレーションと、もっと話を聞いてほしいけれど医師が忙しそうにしているから言いたいことの半分も言えない患者さん側の不満がぶつかりあい、お互いの距離が離れたままでコミュニケーションの齟齬が生じているように私は感じています。

 医師側は理解を得られずにクレームを突きつけてくる患者さんをモンスター・ペイシェントと呼び、患者さん側は医師の不親切な態度から医療不信に陥り、それが発展すれば医事紛争になりかねません。もしも充分な時間があり、医師と患者さんがじっくりと話し合うことができれば、互いを理解できるようになり双方にとって満足いくようになるに違いありません。

 しかし、実際にはどこの医療機関でも、待ち時間が長く診察に充分な時間がとれない、というのが現実なわけです。そしてこの状況が改善される見込みはありません。ならば、患者さんができるだけ医療機関を受診しなくてもいいように、適切な予防をおこなってもらい、ある程度の医学的知識を持ってもらうようにセルフメディケーションをすすめていくのが得策です。

 健康上のことで気になることがあれば気軽に受診してくださいね・・・。私はこのように患者さんに言うことがしばしばありますが、例えば、同じような症状で何度も受診している患者さんに対しては、気になることがあれば”盲目的に”受診するのではなく、まず自分でできることがないかどうかを考えてもらいたいのです。そのために、患者さんによっては、ある程度高度な医学的知識まで伝授したいと考えています。

 医師として私が伝授したい(与えたい)と思うのは、患者さんに対してだけではありません。2010年は合計3人の研修医もしくはレジデントの医師が太融寺町谷口医院に研修に来られ、私はできる範囲で自分の知識や技術を伝授したつもりですが、これを今後も続けていきたいと考えています。

 次にクリニックのリーダーとして「与える」ことを実行したいと考えています。この場合は「与える」よりも「分かち合う」と言った方が適切かもしれません。自分が日々の診療のなかで感じている問題点を他のスタッフに共有してもらいたいと考えていますし、仕事の内容によっては業務そのものを委譲したいと考えています。例えば、看護師には薬の説明や電話問い合わせに対する対応をおこなってもらい、事務職にはこれまで私がひとりでやっていた事務作業などを譲渡したいと考えています。

 GINA代表としては、もちろんHIV/AIDS患者さんやエイズ孤児の支援というかたちで「与える」ということを実践したいのですが、残念ながら現地(タイ)を訪問する時間はほとんどありません。そこで、これまで通り寄附をおこない、現地の支援をサポートし、さらに「タイにボランティアに行きたい」という有志を探していきたいと考えています。すでに、今年タイにボランティアに行ってくれるという二人の学生と面談をしましたが、今後さらにこのような有志を募っていきたいと考えています。

 私の公的な3つの顔は、医師、クリニックのリーダー、GINAの代表、となると思いますが、実は数年前からもうひとつ地道に続けている行動があります。

 それは、勉強に対するアドバイスです。

 私は『偏差値40からの医学部再受験』など勉強に関する数冊の本を上梓しており、その関係で受験や勉強に関する相談メールがしばしば送られてきます。きちんとした相談に対しては、できるだけ返事をするようにしていますが、全員には返信できていません。(自分の名前を名乗り、きちんとした内容のものについては全例何らかの返答をしているつもりですが・・・)

 相談内容には同じようなものもあり、受験や勉強で悩んでいる人は相当いるのではないかと感じています。そして、以前別のところでも述べましたが、受験というのは何も医学部受験が特異なわけではなく、他学部の受験でも、各種資格試験でも、TOEICやTOFELでも、あるいは試験のないものでも勉強の要領や醍醐味には共通するものがたくさんあります。

 勉強に対するアドバイスをするといっても、具体的にどのようなかたちでおこなうかはまったく決めておらず「白紙」というのが正直なところですが、何らかのかたちで(例えばウェブサイトをつくるなどして)勉強のアドバイスを効率的におこなえる方法を模索したいと考えています。そして私が知る限りの勉強に関するアドバイスを「与える」のです。

 医師、クリニックのリーダー、GINA代表の3つの顔に加え、勉強アドバイザーとして私の持っているものを「与える」というのが私の課題になりますが、これら以外の立場からも「与える」ことを実践していきたいと考えています。例えば、私は大阪市立大学医学部附属病院総合診療センターの非常勤講師であり、日本医師会認定産業医であり、スポーツ医であり、大阪プライマリケア研究会の世話人でもあります。

 そして、もちろん忘れていないのが家族や仲間に与えるプライベートな時間です。昨年(2010年)の課題とした「仲間との時間を大切にする」は今年も継続したいと考えています。

 今年も多忙な一年になりそうです・・・。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2010年12月号 私が電話キライな理由

今に始まったことではないのですが、私は友人や知人から「なんで携帯にでないの?」と怒られることがしばしばあります。その理由は、携帯電話の電源を入れていないから、または携帯電話を持ち歩いていないから、なのですが、少し詳しく述べたいと思います。

 私は携帯電話というのは昔から好きではなく、「世の中から消えてほしい・・・」と思うことすらあります。

 元々電話はあまり好きでないのですが、電話嫌いが決定的となったのは医師になってからです。何しろ、医師になれば、特に研修医の間は、真夜中でも呼び出しは当たり前ですから、真夜中の携帯電話は「すぐに出勤せよ」という意味なのです。しかも夜中に呼び出され病院に行って、患者さんが落ち着いたので寮に戻るとすぐに別の患者さんの件で呼び出され、そうこうしているうちに朝になり・・・、ということもあるのです。もちろん朝からは通常の業務が待っています。

 私はNPO法人GINAの関係でしばしばタイに渡航しますが、実はタイに行って大変なのが電話の多さです。タイ人は日本人にも増して電話が大好きな国民といえば、タイをよく知る人なら納得されるでしょう。タイに渡航するときは、GINAの関係者だけでなく友人にも、タイに行くよ、と伝えておくのですが、着いた日から頻繁に電話が鳴ります。

 タイ人の変わっているところは、こちらが電話に出なければ何度でもかけなおしてくることです。日本人であれば、「相手が携帯を見ればこちらの番号が残っているんだから相手からのコールバックを待とう」と考えるでしょう。ところが、タイ人は何度でも、まさに文字通り何度でもかけてきます。初めのうちは、たまたま私の知人にそういうタイ人が多いのかな、とも考えたのですが、そうでもないのです。実際、タイの流行歌にも「何度も何度も電話しているのにどうしてあなたは出てくれないの・・・」という歌詞が出てきます。

 そんなわけで、勤務医の頃もタイに渡航しているときも、私にとって頭痛のタネのひとつが携帯電話だったのですが、太融寺町谷口医院(開業当初は「すてらめいとクリニック」)を開業した当初は、クリニックの電話に悩まされました。

 夜間に普段診ている患者が急変することもあるんだから開業医は患者からの電話をいつでも取れるような状態にしておかなければならないだろ!、とキビシイ意見をお持ちの方もいますが、実際にひとりの医師が24時間ですべての患者さんからの電話に対応するのは相当困難です。

 開業してから1年間くらいは、交通費の節約と諸業務を効率的にこなすために私はクリニックで寝泊まりをしていました。風呂は近くの銭湯に行き、銭湯が休みの日は、身体は水でしぼったタオルで拭いて、頭は冷たい水道水で直接洗っていました。こういう話をすると、「大変だったんですね」と言われることがありますが、一番大変だったのは真夜中に鳴る電話です。

 たしかに、ふだん診ている患者さんが急変したときに電話にでるのは当然なのですが、当院は若い患者さんがほとんどで、急変というのはほとんどありません。ときどき、喘息で診ている患者さんが夜間に発作を起こす、ということはありますが、これは救急車を呼んでもらうのが最善です。(日頃から発作を起こす可能性のある患者さんにはそうするように話をしています) また、普段は風邪やじんましんで診ている患者さんが突然の腹痛を起こしたときなどは、私の元に電話をするより直接救急病院を受診するか、よほどひどければ救急車を呼ぶのが適しています。

 当時、私のところに深夜によくかかってきていた電話は、「眠れない・・・」「わけもなく不安になってきた・・・」「熱がでてきたような気がする・・・(熱がでたわけでなはい!!)」などです。

 たしかに私は日頃診察室で、「健康上のことで気になることは何でも言ってくださいね」と話していますが、真夜中でも電話してください、とは言った覚えがありません。話をよく聞くと、眠れなかったり不安感が強くなったりすることにはそれなりの理由があることもあり、患者さんの気持ちが分からない訳ではないのですが、真夜中に何度も起こされると、こちらの疲労度が限界を超えてしまいます。

 さらに、当院に一度もかかったことがないという患者さんからも電話がありましたから、今思うとあの頃は本当に大変でした。しかも住んでいるところが、東京とか、なかには北海道からなんていうのもありましたから、いつのまにか「(当時の)すてらめいとクリニックは深夜の悩み相談室」という噂があったのか、と疑いたくなります。

 開業しておよそ1年がたった頃、私が利用していた深夜にも開いている銭湯が閉店となり、クリニックでの寝泊まりでは風呂に入れなくなったため、クリニックの近くに仮眠のとれる風呂付のアパートを借りました。これで、銭湯の開いている時間を気にしなくてよくなった、とほっとできましたが、それ以上に安堵感を得たのは、もう真夜中の電話に出ずに済む、ということでした。そんなに嫌ならクリニックの電話に出なければいいんじゃないの、と思われるかもしれませんが、鳴っている電話を無視するにはかなりの勇気がいるものです。現在は、診察終了後は留守番電話をセットしています。携帯電話の番号を患者さんに伝えることは原則としてありません。

 ところで、クリニックを開業している医師のなかには、すべての患者さんに「いつでも電話してくださいね」と言って、クリニックのものだけではなく自分の携帯電話の番号も教えている医師がいます。

 私はこういった先生方に頭が上がりません。先日、このような対応をされている先生に話を聞いてみたのですが、「実際に夜中に電話がかかってくることなんてほとんどないよ。夜中に息を引き取ったときでさえ、電話をしてくるのは朝になってからのことが多いよ」、と言われました。一方で、開業1年目のときの私は、「24時間対応」などと一言も言った覚えがないのに頻繁に電話で起こされていたのです。

 さて、そんな電話恐怖症の私は普段どうしているかというと、最近は携帯電話の電源を切っています。ただし、突然電話をかける必要がでてきたときには携帯電話は便利な代物ですから、こちらからかけるときだけ電源を入れます。そして用が済めば再び電源を切ります。

 よく考えると、私はなんて自分勝手な人間なのでしょう・・・。

 けれども、これは言い訳ですが、私はパソコンの電子メールは頻繁にチェックし、原則24時間以内には何らかの返答をするようにしています。これは患者さんからの問い合わせに対しても同様です。また、一度も当院を受診したことのない方からの健康に関する問い合わせにも迅速に対応するよう努めています。

 電子メール(携帯のではなくパソコンの)なら、相手の都合を考えずにメールを送信できますし、見たいときに見ることができますし、内容を保存して後で参照することもできますし、私はコミュニケーションの大部分をパソコンの電子メールで済ませようとしています。

 もしも誰もが携帯電話を持たなくなり、基本的なコミュニケーションをすべてパソコンの電子メールにしたら、誰もが効率的に仕事や日常の雑務をこなせて時間が有効に使えるのではないでしょうか・・・。

 ふと、顔を上げて周りを見渡すと、多くの若い人たちが楽しそうに携帯電話で話をしています。今日はある学会がこのホテルでおこなわれているのですが、休憩時間を利用して私はロビーでノートパソコンを広げているのです。

 若い人たちが楽しそうに携帯電話で話をしているそのすぐ近くで、私は5分、10分単位でスケジュールを確認し、合間にこのようなコラムを書いているのです。(コラムを書くのは息抜きになっていいのですが・・・) 今日は学会終了後、大阪に戻って前日のカルテをチェックして、先週の検査結果とレントゲンを見直して、家に帰り食事ができるのは22時頃で、明日は午前4時半に起きて・・・。

 私が電話キライなのは生活にゆとりがないことの証なのかもしれません・・・。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2010年11月号 自伝から得る勇気

批評家の上野俊哉氏が、最近『思想家の自伝を読む』という本を上梓されました。ある雑誌でこの本についての紹介があり、そこにはたしか、「自分探しのような無意味なことをするのではなく、自伝を残した思想家から多くを学ぶべきであることを若者に説いたメッセージ」のようなことが書かれていました。「自分探し」はともかく、私自身も日頃から、自伝を読んで勇気付けられることが多いので、この雑誌のコメントはすっと腑に落ちました。

 そこで、早速この本を買って読んでみたのですが、内容は決して簡単ではありません。寝転びながら読んですーっと中身が頭に入ってくるようなものではなく、思想家の考えることですから、部分によってはかなり難解で私はこの本の内容が著者の意図が伝わるほど理解できたのか自信がありません・・・。

 しかし、「自伝を読む」ということに関しては、おそらく私は世間の平均よりも興味を持っています。自伝を書いているほとんどの人は、初めから成功者であったわけではなく、想像を絶するような苦労をしていることが多いのです。貧困や苦労のなか、懸命に努力を重ね、ついに夢を実現する、といったストーリーはときに感動につつまれます。

 もっとも、私は子供の頃から自伝が好きだったわけではありません。おそらく周囲の大人からは、エジソンやリンカーンなどを読むように言われたこともあったと思うのですが、私の記憶にはほとんど何も残っていません。(だからたぶん読んでいないのでしょう)

 子供の頃に読んだ自伝をひとつあげるとすれば、王貞治選手の自伝(自伝ではなく他人が書いたものだったかもしれません)です。プロ入りして26打席無安打で苦労を強いられた、というところに感銘を受け、「そうか、王選手もそんなに苦労をしていたのか・・・」と感じた記憶があります。

 私が自伝に興味を持つようになったのは社会人になってからです。きっかけは、すごく単純な話で、日経新聞の最後のページに連載されている「私の履歴書」です。「私の履歴書」は、経済人、政治家、学者、芸術家などが1ヶ月に渡り自伝を連載します。私は日経新聞を1991年から購読していますが(医学部時代と研修医時代は新聞代が払えなくて中断していましたが)、「私の履歴書」は私が最も楽しみにしている記事のひとつです。

 最近では、オービック創業者の野田順弘氏と哲学者の木田元先生のものが特に面白く、私は毎朝、日経新聞を手にすると真っ先に「私の履歴書」を読んでいました。

 野田氏は奈良県出身で、貧しい家庭に育ち苦労を重ねます。大阪の百貨店に就職しますが、コンピュータに未来を感じ転職します。やがて事業をおこしますが、すべてが順調に進んだわけではなく、手痛い裏切りにも合い、いくつもの苦しみを経て現在のオービックへとつながるのです。

 木田元先生は著名な哲学者で、私が社会学を学んでいた頃に著書を読んだことがありますが、難解すぎてほとんど理解できませんでした。だからきっと、勉強一筋の堅い人なのだろうと思っていたのですが、「私の履歴書」を読むとそれが全然違うのです。敗戦直後の混乱期に10代を過ごされるのですが、闇屋に米などを売り生計を立てられていたそうです。1つエピソードを紹介すると、米を売りにいくため汽車に乗らなければならないのですが、当時の汽車は乗客があふれ普通に乗ることはできません。みんなが窓から乗り込もうとするのですが、それでも重い荷物を持ってスペースを確保するのは困難です。そこで木田先生は、日本人は誰も乗ろうとしない朝鮮人が占領している車両に、朝鮮人から袋叩きにされながらも窓から乗り込んでいくのです。メルロ・ポンティやハイデガーに関する極めて難解な書物を上梓されているあの木田先生がまさか・・・、と大変興味深いものでした。

 「私の履歴書」は著者が自分自身のことを書いているわけですから、当然今生きている人が書くことになります。一方、私が小学生の頃に興味を持てなかったエジソンやリンカーンは大昔の人の自伝です。時代背景が異なるのだから子供がそのような本を読んでも興味を持てないのは当然ではないか、というのは私の言い訳ですが、今生きている人の話の方が文章からその情景が想像しやすいだけに、読みやすいのは当然なのです。

 さて、「私の履歴書」は好評だった人物のものは単行本や文庫本として刊行されています。私が何度も読み返し、読む度に勇気付けられているのが、松下幸之助の『夢を育てる』、本田宗一郎の『夢を力に』、稲盛和夫氏の『ガキの自叙伝』です。この3冊については、すべての日本人ができるだけ若い頃に読むべきだと私は思っています。

 海外ではリチャード・ブランソンの自伝を気に入っています。ヴァージンレコードやヴァージン航空創業者のリチャード・ブランソンは、読み書きの障害があるため勉強ではハンディキャップを背負い、ハイスクールを中退、その後貸しレコード屋を始め、いくつもの至難を乗り越えていきます。特にヴァージン航空設立の過程で、ライバル社であるブリティッシュ・エアウエイズから様々な嫌がらせを受けても決して屈しないところが感動を呼びます。これも是非多くの人に読んでもらいたいと感じています。

 最近読んだ自伝では、作家・山崎朋子さんの『サンダカンまで』という自伝が印象に残っています。山崎氏は、戦争で軍人だった父親を失い、母親と妹と共に大変貧困な幼少時代を過ごされます。女優を目指していた彼女は、東京にでて貧乏な暮らしを続けながらも雑誌のモデルの仕事も始めていました。ところが当時つきまとわれていた男性に夜道で待ち伏せされ、顔面を7箇所もナイフで切り裂かれます。女優やモデルの道はこれで断たれました。その後、女性史研究家として活動され、日本婦人問題懇話会という言わば当時のフェミニストの大御所が集まっていた会に参加します。そこで、顔の傷について信じられないようなひどい仕打ちをうけるのです。この部分は大変印象深いので著書から引用したいと思います。

 一介の主婦のわたしからすればそれこそ仰ぎ見なければならぬような社会的キャリアの女性が、突如、わたしの方を向いて、
「山崎さん、あなたのお顔のその傷は、どうして附いたの? 化粧で分からないように工夫してるみたいだけど、幾つあるの?」
 そう問いかけながら、右手を伸ばし、人差し指で、傷痕をひとつずつなぞり始めた。そして七箇所をすべてなぞり終えると、
「あなたは、長く伸ばした髪をいつでも左側に垂らしていて、だから左頬はかくれているけど、こっちにはもっと大きな傷痕があるんじゃないの?」
 と言いつつ・・・

 この「仰ぎ見なければならぬような社会的キャリアの女性」は、名前は伏せられていますが、本文をよく読むと誰かが分かります。その人は後に大臣にまでなった大変著名な人物です。

 雑誌のモデルをしている女性が、顔面をナイフで7箇所も傷つけられたのです。モデル生命が絶たれただけでなく、女性であるが故に傷痕に対し差別的な扱いを数知れず受けてきたに違いありません。その傷痕に対して、よりによってフェミニストの大御所である女性からこんなにもひどい言葉を吐かれ、傷痕を指でなぞられたのです。この出来事を山崎氏は、「忘れようにも忘れられず、消そうといくら努めても消えない記憶」と表現されています。
 
 山崎氏は、その後『サンダカン八番娼館』という本を上梓され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞され、この本は映画化もされました。しかし、氏はこのベストセラーで有名になりましたが、テレビ出演などはほとんど断っていたそうです。(この理由はここでは述べませんが顔面の傷痕とは関係ありません)

 自伝にはフィクションにはないドラマがあります。感動があります。自分はなんて些細なことで悩んでいるんだ・・・、とか、こんなことでくじけてはいけない・・・、とかそういった気分にもなり勇気付けられます。

 これを書きながらも、私は明日の「私の履歴書」を楽しみにしています。今月(2010年11月)連載されている三菱重工業の西岡喬氏の自伝が日を重ねるに連れておもしろくなってきているからです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2010年10月号 街ではなく山を目指すということ

このところ、有意義なセミナーや学会・研究会などが多く、木曜日や日曜日はそういったイベントに時間を費やすことが多くなってきています。前回のマンスリーレポートでは、8月末の日曜日に「日本アレルギー学会専門医セミナー」に出席したという話を述べましたが、9月の第1日曜日は「PIPC」といって、主にうつ病や不安神経症など精神疾患に関するセミナーに出席しました。

 PIPCとは、「Psychiatry in Primary Care」の略で、文字通りプライマリケアに従事する医師が精神疾患を診ることができるようになるための教育訓練システムのことです。今回大阪でおこなわれたPIPCのこのセミナーは、ロールプレイングやグループ討論などもたくさん盛り込まれた、言わば「参加型」と呼ぶべきもので、大変勉強になるものでした。

 このサイトでも何度か述べたことがありますが、患者さんとの距離が近くなればなるほど、それだけ患者さんの「心の病」が発見されることが多くなってきます。「心の病」は一筋縄では解決できず、患者さんごとに対応が異なってきます。そもそも患者さんは別に「病」と思っているわけではないけれど、医師の目からみれば「病」ということもありますし、その逆に患者さんは「病」と考えているけれど、我々の目からは正常範囲にしか見えないこともあります。今回のPIPCのセミナーでは、そんな複雑な「心の病」に対し、アプローチの仕方から治療法についてまで幅広く勉強できたように感じています。

 9月の第2日曜日は、大阪で皮膚科関連の学会があったため参加してきました。これもまた、いくつかのシンポジウムや演題発表は非常に興味深いものでした。この学会は土日に開催されていたのですが、土曜日は診察を休むことができず、学会に参加できたのは日曜日だけとなりました。しかし、それでも珍しい症例の発表を聞くことができ、また日頃の治療の工夫などを勉強することができました。

 10月3日には、漢方薬のセミナーに行ってきました。私は以前からある程度積極的に漢方薬を処方していますが、漢方薬を処方すれば100%の症例で効果テキメン、というわけではなく、西洋薬は一切効かなかったのに漢方薬が劇的に有効だった!、という例もありますが、その逆に何種類かの漢方薬を使ってみたけど効果ははっきりしない・・・、という症例もあります。

 今回私が参加した漢方のセミナーのタイトルは『不定愁訴の漢方治療』というものです。「不定愁訴」とは、「疲れがとれない」「頭痛が続く」「めまいがする」「イライラする」など、血液検査や画像検査をしても異常のでない「なんとなく体調が悪い・・・」といった症状のことです。「なんとなく・・・」といっても、悩んでいる患者さん本人は相当深刻であることも多く、放っておくわけにはいきません。しかし、西洋医学では「検査に異常がないから薬なしで様子をみましょう・・・」となってしまい、これでは解決になりません。不定愁訴に漢方薬がいつも有効というわけではありませんが、私は日頃、この不定愁訴を有している患者さんを診る機会が多いため、今回のセミナーは大変勉強になりました。

 このようにクリニックが休診となる木曜日や日曜日にはセミナーや勉強会、学会、研究会などが盛んに開催されるため、医師という職業をしているとなかなか休暇がとれません。ここ3ヶ月程は、自分自身が発表する学会や研究会はありませんでしたが、10月、11月、12月とそれぞれ研究会の発表や講演依頼が毎月1件ずつ入っています。これら発表の準備にもそれなりの時間がかかりますし、事務的な仕事や自分自身でおこなう勉強は診療のない休診日におこなうことになりますから、丸一日休める日などというのは年に数日しかないのです。

 さて、そんななかで私は9月19日の日曜日、久しぶりの休暇をとりました。そして医学部時代の同級生のN君とふたりで山登りをおこないました。N君も医師ですから、時間の確保は簡単ではありません。実は、この山登りの計画は昨年末に立てていました。スケジュールというのは空いていても、数ヶ月前に突然仕事の依頼をされたりすることもありますから、昨年末に山登りの話がでたときも「では夏ごろに予定を決めようか」ではなく、「今から日程だけは決めておこう」ということになったのです。「さすがに10ヵ月先であれば他に予定が入っていないから9月19日は今のうちにおさえておこう」、としたわけです。

 2010年9月19日、この日は朝から快晴で気温も暑すぎない、山登りにはうってつけの天気となりました。ただし、「山登り」といってもそんなに難易度の高い山ではなく、登ったのは武奈ヶ岳(ぶながたけ)という滋賀県にある標高1214.4mの山です。

 山登りは私にとって2回目のイベントです。1回目は医学部の学生の頃、やはりN君に連れて行ってもらいました。このときは槍ヶ岳(やりがたけ)という北アルプスにある標高3,180mの山に登り途中でテントを張って1泊しました。当時はまだ20代でしたから体力もありましたが、今回はすでに40歳を超えています。N君は私よりは若いですが、医師になってからさほど運動をしていないらしく体力に自信がないと言います。そこで、今回は日帰りで行ける武奈ヶ岳程度が適切だろう、となったわけです。

 武奈ヶ岳はどのルートで登るかによって難易度がまったく変わってきます。ほとんどハイキングと変わらないような普通の山道を歩くだけで山頂まで行けるコースもあれば、沢登りに近いような感じで、それなりに危険が伴うようなルートもあります。今回選んだのは、行きのルートにはやや難易なコース、帰りは平易なコースです。ちょうど東から登って西に降りるような感じで、滋賀県から登って下山したところは京都府でした。

 それにしても山登りがこんなに気持ちがよかったとは・・・。たしかに天候に恵まれたという要因もありましたが、それを差し引いても充分に楽しめたと思います。これまで、自分が若い頃は、槍ヶ岳に登ったときでさえ、「時間をみつけて山を目指すことを優先する」という発想はありませんでした。しかし、今回武奈ヶ岳に登ったことをきっかけに、この山登りという行動が長い趣味になりそうだな・・・、そのように感じたのです。

 これまでの人生は、私の趣向は「山を目指す」ではなく「街に出かけよう」というものでした。高校まで田舎で育った私は、18歳で都会にでるとすっかり街の虜となってしまいました。正直に言って「自然」などというものにはたいして魅力を感じずに、人の集まるエキサイティングな場所が好きでした。学生の頃にしていたアルバイトは水商売が中心でした。(さすがに医学部時代には水商売はできず塾講師が中心となりましたが・・・)

 一方、N君は医学部に入学する前は京都大学で別の勉強をしていましたが山岳部に入っていたそうです。N君は、私と異なり、20歳前後の頃から街ではなく山に魅せられていたと言います。

 本格的に山を愛する人たちからすれば、私などは「ミーハーな中年デビューしたにわか山登りファン」に見えることでしょう。けれども、他人がどう思うかは関係ありません。これからの人生、言わば「人生の後半」は、「街」ではなく「山」を目指そう・・・。そのようなことを考えながらその日私は帰路につきました。

 N君とはすでに来年のスケジュールの話をしています。なんとか時間を確保して、できれば1泊してアルプスを目指したい・・・、今の私の一番の楽しみは来年の登山をイメージすることです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2010年9月号 私がアレルギー疾患に取り組んだ理由

2010年8月29日、私は「第38回日本アレルギー学会専門医セミナー」に参加するために東京に行きました。このセミナーは、アレルギーの各疾患の専門の先生が講師をつとめ、様々なアレルギー疾患がトータルで勉強できるように工夫された、大変有意義なセミナーです。

 アレルギー疾患というのは実に興味深いのですが、その最大の理由は、「全身性の疾患であり、なおかつ各臓器に特徴的な症状が現れる」ということだと私は考えています。

 アレルギー疾患の代表は、気管支喘息、アトピー性皮膚炎、花粉症、じんましん、(アレルギー性の)咳、・・・、など多岐に渡ります。さらに、アレルギーを「免疫異常の疾患」と広義でとらえると、関節リウマチや膠原病なども含まれます。また、これらの疾患は老若男女を問わず罹患します。そのため、アレルギー疾患をみる医師というのは、内科医、呼吸器科医、小児科医、皮膚科医、耳鼻科医、眼科医、整形外科医、膠原病内科医・・・と、これまた多岐に渡ります。

 よく知られているように、例えばアトピー性皮膚炎がある人は、気管支喘息や花粉症も持っているケースが多いですし、花粉症のシーズンになると、鼻水に苦しめられると同時に、目が痒くなり、咳がでて、皮膚までかゆくなる、という人も珍しくありません。

 複数のアレルギー疾患をもっているとき、既存の縦割り医療(皮膚科なら”皮膚”だけ、呼吸器内科なら”呼吸器”だけというように特定の臓器しかみない医療)であれば、何人もの主治医をもたなければならない、ならばプライマリケア医がすべてのアレルギー症状を診るべきではないか、少なくとも初期診察にあたるべきではないか・・・。大学の総合診療科に入ったばかりの頃、私はそのように考えてアレルギー疾患を積極的に勉強しようと考えていました。

 しかし、アレルギー疾患、それもよくある 病気(common disease)としてのアレルギー疾患をトータルで勉強するにはどこに行けばいいのだろう・・・。アレルギーを総合的に勉強する大切さに気付いたものの、私はどこに行けばいいかわからず実行にうつすことがなかなかできませんでした。

 そんななか、偶然にもアレルギーを総合的に診察されている大変高名な先生と知り合うことができました。この先生と出会えたことは私にとって本当に幸運だったと思います。

 当時の私は医学部卒業後2年間の基礎研修を終了し、タイでの医療ボランティアを終え、大学の総合診療科に入局させてもらったとはいえ、まだまだ一人前に臨床をおこなえるような実力はなく、気持ちは研修医のままでした。勉強になる、と思えばどこへでも出かけていた私は、複数の医療機関で研修を受けたり見学に行ったりしていました。そんななか、皮膚科の勉強を希望していた私は、以前からお世話になっていたある先生からK先生(実名をだして迷惑がかかってはいけませんのでここではK先生としておきます)という高名な先生を紹介してもらったのです。

 早速私はK先生に手紙を書き、皮膚科の勉強(修行)をさせてほしいとお願いしました。幸にもK先生は快く引き受けてくださり、それから1年以上の間、週に一度ペースでK先生の外来を見学させていただくことになりました。そして、そのK先生が単に皮膚疾患を診るだけでなくアレルギーを総合的に診察されていたのです。実際、K先生は日本アレルギー学会の「指導医」という資格をお持ちでした。K先生の下で勉強させてもらった私は本当に幸運だったと思います。高名な皮膚科の大御所の先生から皮膚疾患だけでなくアレルギー疾患を学ぶこともできたのですから。

 K先生は非常に高名な先生なのですが、私は先生の診療を見学させていただいて「驚き」と「感動」の連続でした。私が診てまったく診断がつけられないような疾患に対して、ご自身の経験と豊富な知識から、すぐに正しい診断を導かれます。これは、私が未熟だからというのが最たる理由ではありますが、それだけではありません。実際、他の医療機関で診断がつかずに、他院からの紹介状を持参してくる患者さんやK先生の噂を聞いて遠くからやって来られる患者さんが少なくなかったのです。

 しかしK先生の尊敬すべき点は、迅速に正しい診断を導かれる、ということだけではありません。驚くほど絶え間ない探究心を持っておられることも私にとって衝撃的でした。K先生は私の父親と同じ年齢です。にもかかわらず新しい論文や教科書(もちろんいずれも英語)を積極的に読まれ、海外の学会にも毎年参加され、さらに新しい手技も学ばれているのです。リタイヤ後の人生を楽しむことに専念してもいい年齢なのに、です。

 ある日、K先生は私に一冊の教科書をみせてくれました。先生が読まれているというその教科書は、新しく出版された洋書で、関節リウマチのレントゲンの読み方について書かれた分厚いものでした。このときどれだけ私が驚いたかは、医師以外の人には伝わりにくいと思いますが、日本の皮膚科医のなかでリウマチのレントゲンの読み方を最新の英語の教科書を使って勉強している医師はおそらく他にはいないのではないでしょうか。私はK先生の探究心の深さと学問に対する真摯な態度に深い感銘を受け、この感銘はその後の私の勉強に対する姿勢に影響を与え続けています。

 さて、冒頭で紹介しました日本アレルギー学会専門医セミナーは、大変有用なものであり、基礎的な事項を再確認できたことに加え、新しい学術的知識や新しい検査法、さらに治療についてまで学ぶことができました。学術的な要素が強いセミナーでしたから、「明日からすぐに実践できる検査や治療」がそれほどあったわけではありませんが、それでも患者さんへの説明や薬剤の選択に今回のセミナーが役に立ったことは間違いありません。

 太融寺町谷口医院にアレルギー疾患で受診されている患者さんは、なかには「鼻炎だけ」という人もいますが、多くは、「アトピーもあって、喘息は落ち着いていたけど最近風邪をひいたときに咳が長引くようになって、食べ物でもあやしいものがあって、原因はよく分からないけどときどき口の周りがあれて、花粉症は昔は春だけだったのに最近は年中調子がおかしくて目のかゆみが完全にとれずに・・・」、といった感じの複数のアレルギー症状(またはアレルギーを疑う症状)で悩んでいる人が多いのが特徴です。

 さらに、「アレルギー疾患だけでなくて、健康診断で血圧が高いといわれた。最近なんだか疲れがとれずに眠れなくて胃が痛くて夜中に足がつって・・・」、などと多彩な症状を訴える患者さんも少なくありません。

 この逆のパターンもあります。つまり、元々は高脂血症や慢性胃炎、頭痛などといった症状で通院していた患者さんが、「少し前までは花粉症っぽいな、と思っていた程度だったけど、最近は季節に関係 なく、くしゃみと鼻水に悩まされている。なんとかなりませんか?」、といったことを訴えるケースです。

 たしかに、思い出してみれば、何らかのアレルギー疾患を有している人は日本でも国民の3~4割と言われていますから、医療機関を風邪や腹痛、生活習慣病などで受診している人がアレルギー疾患を持っていることはいくらでもあり得るのです。

 そう考えると大学の総合診療科に入局したばかりの頃に私が感じていた「プライマリケア医はアレルギー疾患を診るべき」という考えは、やはりそれなりに正しいのではないかと思われます。私は一度、プライマリケア関連の研究会で『プライマリケア医が担うべきアレルギー疾患』というタイトルで発表をおこなったことがありますが、このような発表をこれからも続け、特に若いプライマリケアを目指す医師にアレルギー疾患の重要さを訴えていきたいと考えています。

 K先生から学んだことを後輩医師に伝えるなどということは、私の器が小さすぎてできませんが、プライマリケア医がアレルギー疾患に取り組むことがなぜ重要なのか、という点については後輩医師たちに一生懸命伝えていきたいと考えています。

 私がアレルギー疾患に取り組んだ理由、それは「プライマリケア医はアレルギー疾患を診るべき」と考えたからでありますが、それが実現できたのはK先生のおかげであることは間違いありません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

月別アーカイブ