マンスリーレポート
2013年2月号 幕末時代の勉強法から学ぶこと
近くにあっていつでも行けるからそのうち時間ができれば・・・と思っていて一度も訪れたことのない場所、というのは誰にでもあると思います。私にとってそのような場所のひとつが「適塾」でした。
適塾は、幕末の蘭学者・医者であり教育者でもあった緒方洪庵(おがたこうあん)が、1845年からおよそ20年間住みこんで開いていた蘭学の私塾です。
私が緒方洪庵に初めて興味を持ったのは、1995年、医学部の受験勉強をしていた頃でした。それまで緒方洪庵という人物についてはあまり詳しく知らなかったのですが、「倫理・政経」のセンター試験対策をしているときに参考書に登場していたことから関心が深まりました。
幼少時に天然痘にかかったというエピソードもあり、その後医学を極め天然痘治療に貢献し日本の近代医学の祖ともいわれた緒方洪庵は、医学部受験を志す者なら知らないわけにはいきません。緒方洪庵は医師としてだけでなく、教育者としても歴史に残る人物で、適塾では日本全国の若者に蘭学を教えていました。
適塾の塾生で最も有名なのが福沢諭吉でしょう。福沢諭吉は優秀な塾生たちのなかでも特に際立っていたようで、入塾するお金がなかったものの教科書を翻訳するなどの条件で住み込みの塾生になり、最年少の22歳で適塾の塾頭にまでなったそうです。しかし、血を見るのがダメだったようで、解剖は苦手で医学よりも蘭学を学んだ、とされています。
話を適塾に戻しましょう。私が医学部の受験勉強をしているとき、その適塾は修復工事が完了しており今でも見学に行くことができる、と聞きました。そこで私は、医学部に合格することができたなら必ず訪問してみよう、と誓ったのです。
しかしながら、訪れることを誓ったものの、いざ医学部に入学すれば勉強に忙しく、医師になってから訪れよう・・・、となり、医師になってからは、そのうち時間ができたら・・・、となってしまいました。このままでは、医師を引退してから・・・、と言い出しかねない、と思い、先日、木曜日の休診日、事務仕事が予定より早く終わったこともあって、念願の適塾訪問が実現することになりました。
適塾は大阪のオフィス街のど真ん中に位置しています。駅で言えば淀屋橋と北浜の中間くらいにあり、どちらからでも歩いて行ける距離にあります。私は太融寺町谷口医院から歩いて行きましたが30分もかからないくらいでした。このあたりは近代ビルが立ち並んだ都心のオフィス街ですから、こんなところに今でも適塾が本当にあるのかな・・・、と思いながら歩いていると、突然貫禄のある木造家屋が目の前に現れました。まるで、幕末にタイムスリップしたような感覚にとらわれます。
大阪という街は、都心のオフィス街であっても、明治時代くらいからそのまま残っているのではないか、と思わせるような古い家屋をときどき目にします。しかし、適塾はそのような古い建物のなかでも群を抜いて貫禄があります。品のいい白壁の町家風木造建築物、という感じです。
訪問時にもらった資料によれば、この建物は1845年に緒方洪庵が購入したそうです。1964年には国の重要文化財に指定され、1980年に解体修復工事が完了し一般公開が開始されたそうです。250円の入場料を払えば、建物の中を見学することもできます。二階建てになっていて、一階は客座敷、教室、土間などと表示されていました。興味深いのは二階にあるふたつの部屋です。ひとつは「ヅーフ部屋」、もうひとつは「塾生大部屋」です。
ヅーフ部屋とは、オランダ語の辞書「ヅーフ・ハルマ」の置いてあった部屋で、その辞書(ヅーフ辞書)も展示されています。説明文によると、ヅーフ辞書は適塾に1冊しかなく、塾生たちはこの辞書を奪い合うようにして勉強していたそうです。我々現代人の感覚でいうと、展示されていたその辞書はけっして分かりやすいわけではなく、単にオランダ語の横に日本語訳が書かれているだけで、色分けもなく、手書きであり、勉強するのがイヤになりそうです。
しかし、当時蘭学を学ぶ者にとって、それがほとんど唯一オランダ語を知る手がかりだったわけですから、学生たちにとっては大変貴重なものだったに違いありません。いい参考書がみつからない・・・、などという悩みがどれだけ贅沢なものかということを実感させられます。
もうひとつの部屋、塾生大部屋は、おそらく適塾を訪れる人にとって最も印象に残る部屋でしょう。塾生たちが自習をし、雑魚寝をしていた部屋なのですが、部屋に入った瞬間、視界に飛び込んでくるのは中央にある1本の柱です。この柱には無数の傷が付けられており、説明文によると、塾生たちが刀でつけた傷であり、血気盛んな若者たちが日夜激論を交わし、刃傷沙汰も日常茶飯事だった、とも言われているそうです。実際に刃傷沙汰があったのかどうかは分かりませんが、今でもその柱からは当時の”熱気”のようなものが伝わってきます。
塾生たちに割り当てられたのは畳1畳もないくらいのスペースで、そこで着替えや机になるものを置いて勉強していたそうです。成績順にいい場所をとれたようで、成績が悪いと陽のあたらない暗いスペースしかもらえずに明かりを確保するのにも苦労したであろうことが想像できます。エアコンのきいた静かな部屋で「なんだか今日は勉強気分じゃないなぁ」などと言ってゲームに夢中になる現代の受験生とどれだけ違うかを考えさせられます。
適塾には多くの資料が展示されていますが、私が最も惹かれたのは、ドイツの医学者であるフーフェランドが著し、緒方洪庵が訳したとされる『扶氏医戒之略』です。フーフェランドという人物は、過去のセンター試験に出題されたことはないかもしれませんが、高校生レベルの倫理学の資料集でも少し詳しいものであれば名前くらいは登場します。
フーフェランドは医学者なのになぜ倫理学の教科書に出てくるのか、そして緒方洪庵も、日本史に登場するのは理解できるとして、なぜ倫理学でも取り上げられるのか、その理由が『扶氏医戒之略』にあります。
『扶氏医戒之略』には、医師が守るべき戒めが12箇条にまとめられているのですが、これら12箇条のひとつひとつが、医療を実践する者にとって「医療倫理の真髄」とも呼べる程の優れたものなのです。医師のみならず、これから医学を学ぼうとする者にとっても、読めば魂が震えるくらいの感動があります。
適塾で見た『扶氏医戒之略』は、文語調で書かれていますから読みやすくはないのですが、それでも充分に「医療倫理の真髄」が伝わってきます。例えば第1条には「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨とす」と書かれています。つまり、医師は人(患者さん)のために存在しているのであって、自分のために生活するべきでない、ということです。その次には、名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うべきである、と書かれています。
第2条以降を簡単に紹介しておくと、「常に謙虚に診察すべき」、「医療費はできるだけ少なくすべき」、「他の医師を批判してはならない」、「詭弁や珍奇な説で世間に名を売るような行為は医師として最も恥ずかしいこと」など、まるで現在の医師を戒めるような内容です。また、「患者個人の秘密や最も恥ずかしいことすら聞かねばならないこともあり、医師は篤実温厚で多言せずに沈黙を守らなければならない」、と守秘義務についてこれだけはっきりと記されていることにも驚かされます。
適塾を後にした私は、早速インターネット上でこの『扶氏医戒之略』の現代語訳を探しました(注1)。読めば読むほど身が引きしまる想いがします。これから私は仕事のスランプを感じる度にこの12箇条を読み返すことになるでしょう。
そして、勉強のスランプに陥ったときは、改めて適塾を訪れて、あの「柱」の前に立ちたいと思います・・・。
************
注1:『扶氏医戒之略』の現代語訳を下記に記します。医師、医学生のみならず、これから医学部を目指す人たちにも是非読んでもらいたいものです。また、患者として医師の診察を受ける人も読んでみてください。あなたの医師がこの12箇条にどれだけ忠実かを考えてみるのもおもしろいかもしれません。
1.人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である。安楽に生活することを思わず、また名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うことのみを願うべきであろう。人の生命を保ち、疾病を回復させ、苦痛を和らげる以外の何ものでもない。
2.患者を診るときはただ患者を診るのであって、決して身分や金持、貧乏を診るのであってはならない。貧しい患者の感涙と高価な金品とは比較できないだろう。医師として深くこのことを考えるべきである。
3.治療を行うにあたっては、患者が対象であり、決して道具であってはならないし、自己流にこだわることなく、また、患者を実験台にすることなく、常に謙虚に観察し、かつ細心の注意をもって治療をおこなわねばならない。
4.医学を勉強することは当然であるが、自分の言行にも注意して、患者に信頼されるようでなければならない。時流におもね、詭弁や珍奇な説を唱えて、世間に名を売るような行いは、医師として最も恥ずかしいことである。
5.毎日、夜は昼間に診た病態について考察し、詳細に記録することを日課とすべきである。これらをまとめて一つの本を作れば、自分のみならず、病人にとっても大変有益となろう。
6.患者を大ざっぱな診察で数多く診るよりも、心をこめて、細密に診ることの方が大事である。しかし、自尊心が強く、しばしば診察することを拒むようでは最悪な医者と言わざるをえない。
7.不治の病気であっても、その病苦を和らげ、その生命を保つようにすることは医師の務めである。それを放置して、顧みないことは人道に反する。たとえ救うことができなくても、患者を慰めることを仁術という。片時たりともその生命を延ばすことに務め、決して死を言ってはならないし、言葉遣い、行動によって悟らせないように気をつかうべきである。
8.医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである。たとえ命を救いえても生活費に困るようでは、患者のためにならない。特に貧しい人のためには、とくにこのことを考慮しなければならない。
9.世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。たとえ学術が優れ、言行も厳格であっても、衆人の信用を得なければ何にもならない。ことに医者は、人の全生命をあずかり、個人の秘密さえも聞き、また最も恥ずかしいことなどを聞かねばならないことがある。したがって、医師たるものは篤実温厚を旨として多言せず、むしろ沈黙を守るようにしなければならない。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である。
10.同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、外交辞令に努めるべきである。決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。他人の過ちをあげることは小人のすることであり、一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を損なうことになろう。医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。みだりにこれらを批判することはよくない。とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。その治療法を続けるかどうかについては、現在症状がないときは辞退した方がよい。
11.治療について相談するときは、あまり多くの人としてはいけない。多くても三人以内の方が良い。とくにその人選が重要である。ひたすら患者の安全を第一として患者を無視して言い争うことはよくない。
12.患者が先の主治医をすてて受診を求めてきたときは、先の医師に話し、了解を受けなければ診察してはいけない。しかし、その患者の治療が誤っていることがわかれば、それを放置することも、また医道に反することである。とくに、危険な病状であれば迷ってはいけない。
馬場茂明著『聴診器』より
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