2013年6月15日 土曜日

2013年2月号 幕末時代の勉強法から学ぶこと

 近くにあっていつでも行けるからそのうち時間ができれば・・・と思っていて一度も訪れたことのない場所、というのは誰にでもあると思います。私にとってそのような場所のひとつが「適塾」でした。

 適塾は、幕末の蘭学者・医者であり教育者でもあった緒方洪庵(おがたこうあん)が、1845年からおよそ20年間住みこんで開いていた蘭学の私塾です。

 私が緒方洪庵に初めて興味を持ったのは、1995年、医学部の受験勉強をしていた頃でした。それまで緒方洪庵という人物についてはあまり詳しく知らなかったのですが、「倫理・政経」のセンター試験対策をしているときに参考書に登場していたことから関心が深まりました。

 幼少時に天然痘にかかったというエピソードもあり、その後医学を極め天然痘治療に貢献し日本の近代医学の祖ともいわれた緒方洪庵は、医学部受験を志す者なら知らないわけにはいきません。緒方洪庵は医師としてだけでなく、教育者としても歴史に残る人物で、適塾では日本全国の若者に蘭学を教えていました。

 適塾の塾生で最も有名なのが福沢諭吉でしょう。福沢諭吉は優秀な塾生たちのなかでも特に際立っていたようで、入塾するお金がなかったものの教科書を翻訳するなどの条件で住み込みの塾生になり、最年少の22歳で適塾の塾頭にまでなったそうです。しかし、血を見るのがダメだったようで、解剖は苦手で医学よりも蘭学を学んだ、とされています。

 話を適塾に戻しましょう。私が医学部の受験勉強をしているとき、その適塾は修復工事が完了しており今でも見学に行くことができる、と聞きました。そこで私は、医学部に合格することができたなら必ず訪問してみよう、と誓ったのです。

 しかしながら、訪れることを誓ったものの、いざ医学部に入学すれば勉強に忙しく、医師になってから訪れよう・・・、となり、医師になってからは、そのうち時間ができたら・・・、となってしまいました。このままでは、医師を引退してから・・・、と言い出しかねない、と思い、先日、木曜日の休診日、事務仕事が予定より早く終わったこともあって、念願の適塾訪問が実現することになりました。

 適塾は大阪のオフィス街のど真ん中に位置しています。駅で言えば淀屋橋と北浜の中間くらいにあり、どちらからでも歩いて行ける距離にあります。私は太融寺町谷口医院から歩いて行きましたが30分もかからないくらいでした。このあたりは近代ビルが立ち並んだ都心のオフィス街ですから、こんなところに今でも適塾が本当にあるのかな・・・、と思いながら歩いていると、突然貫禄のある木造家屋が目の前に現れました。まるで、幕末にタイムスリップしたような感覚にとらわれます。

 大阪という街は、都心のオフィス街であっても、明治時代くらいからそのまま残っているのではないか、と思わせるような古い家屋をときどき目にします。しかし、適塾はそのような古い建物のなかでも群を抜いて貫禄があります。品のいい白壁の町家風木造建築物、という感じです。

 訪問時にもらった資料によれば、この建物は1845年に緒方洪庵が購入したそうです。1964年には国の重要文化財に指定され、1980年に解体修復工事が完了し一般公開が開始されたそうです。250円の入場料を払えば、建物の中を見学することもできます。二階建てになっていて、一階は客座敷、教室、土間などと表示されていました。興味深いのは二階にあるふたつの部屋です。ひとつは「ヅーフ部屋」、もうひとつは「塾生大部屋」です。

 ヅーフ部屋とは、オランダ語の辞書「ヅーフ・ハルマ」の置いてあった部屋で、その辞書(ヅーフ辞書)も展示されています。説明文によると、ヅーフ辞書は適塾に1冊しかなく、塾生たちはこの辞書を奪い合うようにして勉強していたそうです。我々現代人の感覚でいうと、展示されていたその辞書はけっして分かりやすいわけではなく、単にオランダ語の横に日本語訳が書かれているだけで、色分けもなく、手書きであり、勉強するのがイヤになりそうです。

 しかし、当時蘭学を学ぶ者にとって、それがほとんど唯一オランダ語を知る手がかりだったわけですから、学生たちにとっては大変貴重なものだったに違いありません。いい参考書がみつからない・・・、などという悩みがどれだけ贅沢なものかということを実感させられます。

 もうひとつの部屋、塾生大部屋は、おそらく適塾を訪れる人にとって最も印象に残る部屋でしょう。塾生たちが自習をし、雑魚寝をしていた部屋なのですが、部屋に入った瞬間、視界に飛び込んでくるのは中央にある1本の柱です。この柱には無数の傷が付けられており、説明文によると、塾生たちが刀でつけた傷であり、血気盛んな若者たちが日夜激論を交わし、刃傷沙汰も日常茶飯事だった、とも言われているそうです。実際に刃傷沙汰があったのかどうかは分かりませんが、今でもその柱からは当時の”熱気”のようなものが伝わってきます。

 塾生たちに割り当てられたのは畳1畳もないくらいのスペースで、そこで着替えや机になるものを置いて勉強していたそうです。成績順にいい場所をとれたようで、成績が悪いと陽のあたらない暗いスペースしかもらえずに明かりを確保するのにも苦労したであろうことが想像できます。エアコンのきいた静かな部屋で「なんだか今日は勉強気分じゃないなぁ」などと言ってゲームに夢中になる現代の受験生とどれだけ違うかを考えさせられます。

 適塾には多くの資料が展示されていますが、私が最も惹かれたのは、ドイツの医学者であるフーフェランドが著し、緒方洪庵が訳したとされる『扶氏医戒之略』です。フーフェランドという人物は、過去のセンター試験に出題されたことはないかもしれませんが、高校生レベルの倫理学の資料集でも少し詳しいものであれば名前くらいは登場します。

 フーフェランドは医学者なのになぜ倫理学の教科書に出てくるのか、そして緒方洪庵も、日本史に登場するのは理解できるとして、なぜ倫理学でも取り上げられるのか、その理由が『扶氏医戒之略』にあります。

 『扶氏医戒之略』には、医師が守るべき戒めが12箇条にまとめられているのですが、これら12箇条のひとつひとつが、医療を実践する者にとって「医療倫理の真髄」とも呼べる程の優れたものなのです。医師のみならず、これから医学を学ぼうとする者にとっても、読めば魂が震えるくらいの感動があります。

 適塾で見た『扶氏医戒之略』は、文語調で書かれていますから読みやすくはないのですが、それでも充分に「医療倫理の真髄」が伝わってきます。例えば第1条には「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨とす」と書かれています。つまり、医師は人(患者さん)のために存在しているのであって、自分のために生活するべきでない、ということです。その次には、名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うべきである、と書かれています。

 第2条以降を簡単に紹介しておくと、「常に謙虚に診察すべき」、「医療費はできるだけ少なくすべき」、「他の医師を批判してはならない」、「詭弁や珍奇な説で世間に名を売るような行為は医師として最も恥ずかしいこと」など、まるで現在の医師を戒めるような内容です。また、「患者個人の秘密や最も恥ずかしいことすら聞かねばならないこともあり、医師は篤実温厚で多言せずに沈黙を守らなければならない」、と守秘義務についてこれだけはっきりと記されていることにも驚かされます。

 適塾を後にした私は、早速インターネット上でこの『扶氏医戒之略』の現代語訳を探しました(注1)。読めば読むほど身が引きしまる想いがします。これから私は仕事のスランプを感じる度にこの12箇条を読み返すことになるでしょう。

 そして、勉強のスランプに陥ったときは、改めて適塾を訪れて、あの「柱」の前に立ちたいと思います・・・。

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注1:『扶氏医戒之略』の現代語訳を下記に記します。医師、医学生のみならず、これから医学部を目指す人たちにも是非読んでもらいたいものです。また、患者として医師の診察を受ける人も読んでみてください。あなたの医師がこの12箇条にどれだけ忠実かを考えてみるのもおもしろいかもしれません。

1.人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である。安楽に生活することを思わず、また名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うことのみを願うべきであろう。人の生命を保ち、疾病を回復させ、苦痛を和らげる以外の何ものでもない。

2.患者を診るときはただ患者を診るのであって、決して身分や金持、貧乏を診るのであってはならない。貧しい患者の感涙と高価な金品とは比較できないだろう。医師として深くこのことを考えるべきである。

3.治療を行うにあたっては、患者が対象であり、決して道具であってはならないし、自己流にこだわることなく、また、患者を実験台にすることなく、常に謙虚に観察し、かつ細心の注意をもって治療をおこなわねばならない。

4.医学を勉強することは当然であるが、自分の言行にも注意して、患者に信頼されるようでなければならない。時流におもね、詭弁や珍奇な説を唱えて、世間に名を売るような行いは、医師として最も恥ずかしいことである。

5.毎日、夜は昼間に診た病態について考察し、詳細に記録することを日課とすべきである。これらをまとめて一つの本を作れば、自分のみならず、病人にとっても大変有益となろう。

6.患者を大ざっぱな診察で数多く診るよりも、心をこめて、細密に診ることの方が大事である。しかし、自尊心が強く、しばしば診察することを拒むようでは最悪な医者と言わざるをえない。

7.不治の病気であっても、その病苦を和らげ、その生命を保つようにすることは医師の務めである。それを放置して、顧みないことは人道に反する。たとえ救うことができなくても、患者を慰めることを仁術という。片時たりともその生命を延ばすことに務め、決して死を言ってはならないし、言葉遣い、行動によって悟らせないように気をつかうべきである。

8.医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである。たとえ命を救いえても生活費に困るようでは、患者のためにならない。特に貧しい人のためには、とくにこのことを考慮しなければならない。

9.世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。たとえ学術が優れ、言行も厳格であっても、衆人の信用を得なければ何にもならない。ことに医者は、人の全生命をあずかり、個人の秘密さえも聞き、また最も恥ずかしいことなどを聞かねばならないことがある。したがって、医師たるものは篤実温厚を旨として多言せず、むしろ沈黙を守るようにしなければならない。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である。

10.同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、外交辞令に努めるべきである。決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。他人の過ちをあげることは小人のすることであり、一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を損なうことになろう。医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。みだりにこれらを批判することはよくない。とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。その治療法を続けるかどうかについては、現在症状がないときは辞退した方がよい。

11.治療について相談するときは、あまり多くの人としてはいけない。多くても三人以内の方が良い。とくにその人選が重要である。ひたすら患者の安全を第一として患者を無視して言い争うことはよくない。

12.患者が先の主治医をすてて受診を求めてきたときは、先の医師に話し、了解を受けなければ診察してはいけない。しかし、その患者の治療が誤っていることがわかれば、それを放置することも、また医道に反することである。とくに、危険な病状であれば迷ってはいけない。

馬場茂明著『聴診器』より

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2013年6月14日 金曜日

2013年1月号 「違和感」を大切にし「常識を疑う」ということ

 昨年(2012年)に読んだ本で一番良かったのは?、と尋ねられれば、私は迷わずジョン・キム氏の『媚びない人生』を挙げます。

 この本は、キム氏が慶応大学でおこなっているゼミの卒業生に対する「贈る言葉」を原点にまとめたもので、これから社会に旅立つ若者へのメッセージという趣の本です。しかし、内容は若者に限定したものではなく、私のような40代の者が読んでも共感する部分が多く、私個人としてはすべての人に読んでもらいたい、と感じている一冊です(注1)。

 キム氏は、韓国生まれで、家庭は決して裕福ではなく、小学生の頃からひとりで暮らさなければならなかったそうです。19歳のとき、日本の中央大学に国費留学し、アメリカ、ヨーロッパを含む3大陸5ヵ国で学ばれたそうです。 

 『媚びない人生』に書かれているすべての言葉に対し、私は無条件に同意するわけではありませんし、初めて聞くような内容でもないのですが、「すべての時間を学びの時間にする」、「従順な羊ではなく野良猫になれ」、「失敗しない人は絶対に成功しない」、「過去から見た今の自分が常に成熟した自分であるべきだ」、「人間の生きた価値はどれほど長く人生を生きたかではなくどれほど濃度の濃い人生を生きたかによって決まる」、などストレートな表現が胸にビシビシと突き刺さります。

 私は今年の年始の数日感、国内のある地方都市で休暇をとったのですが、最もやりたかったことのひとつが、この『媚びない人生』を熟読しなおす、ということで、実際に繰り返し読み耽りました。

 この本のなかで私が最も噛み締めた言葉は、「常識や前提は極めて社会的なものであり、物事を鵜呑みにする行為は自分を放棄する行為である」、という言葉です。別のところでは「違和感を大切にしなければならない」とも書かれています。 

 私は今年45歳になりますから、そろそろ人生真ん中あたり、なのですが、これまでの人生を振り返ると、節目節目で自分のとった行動の多くは「違和感」を覚えて「常識を疑った」ことから始まりました。

 高3の12月で偏差値40しかなく、受験代が無駄になるだけだ、と教師に言われたけれども希望する関西学院大学を受験したのは、<教師に受験校を決められるのはおかしいではないか!>という「違和感」が捨てられず、<常識を覆してやる!>という気持ちがあったからです。

 しかし、そこまでして行きたかった関西学院大学理学部での勉強に興味が持てず、代わりに社会学を勉強したくなった私は学内の社会学部に編入学ができるかどうかを尋ねに行きました。そこで言われたのが「一応、制度上はできることになってはいるが前例がないので無理でしょう」という言葉でした。<前例がないなら自分でつくればいいではないか!>と考えた私は、(その熱意が通じたのか)結果的には合格通知を手にすることができました。

 関西学院大学社会学部を卒業後、私は大阪のある企業に就職しました。英語がまったくできないのにもかかわらず海外事業部に配属されたため、最初の一年間は足手まといになっただけで会社に何の貢献もできず辛い体験がほとんどでしたが、2年目からは少しは仕事を覚えることができました。自分の書いた手紙でそれまでその会社とは取引のなかった中東のある国の企業と契約が取れたときの嬉しさは今でも覚えています。翌年には輸入品を国内市場に販売促進する仕事を与えられたのですが、このときもキャンペーンの企画やチラシの作成など自分で仕事をつくる喜びを感じることができました。何よりも当時の私は仕事を楽しんでいました。

 しかし、あるとき私の心にふと「違和感」がよぎりました。<このままでいいのだろうか・・・>という「違和感」です。せっかく安定した企業に就職できてやりがいのある仕事をさせてもらっているんだからそれで充分じゃないか・・・、私の心にもそのような気持ちがあったのは事実ですが、その一方で、<果たしてこのままで・・・>という気持ちが拭えきれず、結局私は学問の道に戻ることを決意しました。大学を卒業するときには大学院進学も考えていましたし、入社したときから、いずれ学問をまたやりたい、とは考えていたのですが、最終的にそれを決めたのは、私の心にあるとき芽生えて払拭することができなかった「違和感」だったのです。

 心に芽生えた「違和感」が人生を変えるエピソードはまだ続きます。母校の関西学院大学社会学部の大学院進学を志した私は、時間をみつけてある先生のところに通いだしました。本を紹介してもらい小論文の添削などもおこなってもらいました。当時の私が社会学を通して研究したかったのは、人間の感情、思考、行動などについて、だったのですが、しかし、こういったことを探求すればするほど、脳生理学、免疫学、分子生物学などの生命科学へと興味の対象が移っていったのです。そして私は医学部受験を決意しました。

 次に「違和感」が私の行動に影響を与えたのは、医学部の学生時代に(医学部以外の)友人・知人から言われたいくつかの言葉です。それらの言葉とは現在の医療や医師に対する問題点・疑問点であり、<ならばそういった問題を克服した医療を自分がやればいいではないか>と思うようになっていったのです。ちょうどその頃、自分に研究は向いていないということが分かりかけていたこともあり、研究から臨床への方向転換を決意したのです。

 研修医の頃、そのときは大学病院の皮膚科で研修を受けていたのですが、ある先生に言われた一言が私の心に「違和感」を芽生えさせました。皮膚腫瘍で入院していたある患者さんの尿の色が濃いことに気づいた私は、先輩医師にそれを報告し、尿の比重を測りたい、と言いました。すると、「皮膚科は皮膚だけみてればそれでええんや。君が尿がおかしいと思うんやったら内科か泌尿器科にでも紹介すればええやないか」、という言葉が返ってきたのです(注2)。単に「尿の色が濃い」だけでこちらが何もせずに紹介するのはおかしいと感じましたし、このときに私は既存の縦割りの専門医療というものに疑問を持ちました。そして<ならばどのような症状の患者さんも診られるようになるべきではないか>と考えたのです。

 私がタイのエイズホスピスを初めて訪れたとき、そこで目にした光景は、家族からも地域社会からも病院からも追い出され、行き場をなくした末期のエイズ患者さんたちでした。その施設で働いていた医師たちは欧米から来ていたボランティアの医師でエイズ専門医ではなくプライマリケア医でした。抗HIV薬が普及しだしてからはエイズ専門医も診療に関わりだしますが、エイズ専門医の仕事は主に適切な薬の選択にあり、実際に患者さんの声を聞き症状に対処するのはプライマリケア医です。私はタイのエイズ施設で欧米のプライマリケア医たちの診療を目にし、指導を受けました。

 先に述べた研修医時代の皮膚科での経験もあり、私は何らかの専門医ではなくプライマリケア医を目指すことを決意し、帰国後母校(大阪市立大学医学部)の総合診療部の門を叩きました。ちょうどその頃、全国的にプライマリケア(総合診療、家庭医療)が注目されだしていたのは予期せぬ偶然でした。しかし大学での研修だけでは不充分です。

 そこで私は、月曜日は病院の婦人科で研修、火曜日は整形外科クリニックでの外来見学、水曜日は皮膚科で・・・、というように日替わりで複数の医療機関に研修(修行)に出ることにしました。これらの多くは無給であり、そのような「前例のない」私の行動に対して同僚の医師たちからは不思議がられましたが、それが最も効率がよい研修方法であることを確信していた私は気に留めませんでした。

 このように、これまでの半生を振り返ると、進路の決定や変更には私の心に生じた「違和感」がきっかけとなっていて、とった行動は常識や前提に縛られないもの、もっと言えば常識や前提に刃向かうようなものです。こんな私は「従順な羊」ではないでしょう。ひとりで生きていく「野良猫」ほどかっこよくはないでしょうし、「過去から見た今の自分が常に成熟した自分」と言えるかどうかも疑問です。しかし、少なくともこれまでの人生に後悔はありません。

 キム氏は、『媚びない人生』のなかで「いつまでたっても学ぶだけの人は、それだけの存在で終わってしまう」とも述べています。私自身も学ぶだけでなく、「違和感」を大切にし「常識や前提を疑う」ことの大切さを他人に伝えていきたいと思います。

注1:この本が出版された直後にキム氏の学歴詐称が明らかとなり、自身もウェブサイト(下記URL)でこの点を謝罪されています。なかには、学歴詐称する者の言論など聞くに値しない、という声もあるようですが、私自身はそのようなことがあったとしても一読に値する良書だと感じています。
http://johnkim.jp/message.html

注2:このように書くと私はこの先生を嫌っているように思われるかもしれませんが、嫌っているわけではなくその反対で、この先生は今も私にとって皮膚科領域での尊敬する先生のひとりです。

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2013年6月14日 金曜日

2012年12月号 謎に包まれたままの女性医師の死亡

医師が選ぶ今年(2012年)の最大のニュースは、何と言っても山中先生のノーベル賞受賞だと思います。暗いニュースが多いなか、山中先生のノーベル賞受賞は、医師、研究者のみならず将来を担う多くの若者に夢を与えてくれました。

 私は毎年12月になるとその年を振り返るようにしています。10月に山中先生の受賞を聞いたとき、今年一番の出来事はこの嬉しいニュースに違いない、と感じていました。

 しかし、12月になった今、私が最も驚いているのは、11月半ばに伝わってきた「矢島祥子医師死亡事件の時効成立」という報道です。最初は「時効」という文字を見たときに「何かの間違いではないのか」と感じました。なぜなら、殺人事件の時効は2010年に廃止されたはずですし、矢島医師が死亡したのは2009年ですから、時効が有効だったとしても殺人なら時効成立までに25年間あるはずだと考えていたからです。

 それがなぜ3年で時効成立になるのか・・・。そして、矢島医師とはどのような医師だったのか・・・。まずはこの事件を振り返っておきたいと思います。

 2009年11月16日午前1時20分頃、大阪市西成区の木津川の千本松渡船場で矢島祥子医師(当時34歳)の遺体が釣り人により発見されました。遺書もなく、状況から少なくとも自殺ではないように思われますが、管轄の西成警察署は当初「自殺による溺死」と断定しました。

 西成署がどのような理由で自殺と断定したのか、報道からは伝わってきませんが、遺族は自殺という説明に納得がいかず、警察に捜査の申し入れをされたそうです。私が直接確認したわけではなくあくまでも「一部の報道」ですが、遺体にはアザや頭部のコブが複数みつかっており、これが事実だとすると、生きているときに暴行されたことを示唆しています。また、首に圧迫痕があった(つまり首を絞められた)、とする報道もあります。

 つまり、これは自殺などではなく殺人ではないか、と遺族は(というより多くの関係者は)考えているわけです。それに、死体が発見されるまでの数日間の行動も自殺を示唆するようなものはなく、遺族や知人らが、警察が自殺と断定したことに、しかも比較的短時間で断定したことに不審感をもったのも当然です。

 報道されている情報によれば、事件数日前の矢島医師の行動にも不自然な点はなく、2日前には勤務先の診療所で深夜まで残業し、午前4時15分に診療所を退出しています。2日後に自殺をする人間がそんなに頑張って仕事をするでしょうか。

 この事件を聞いた医師のおそらくほとんど全員が「これは自殺ではない」と感じたと思います。なぜなら、医師であれば自殺をするにしてももう少しスマートな方法を選ぶだろう、と我々は直感するからです。例えば、ラクに死ねる薬と注射器を持ち出す、とか、局所麻酔をして痛みをとってから動脈を切るとか、そういうことを考えるはずです。なかには屋上から飛び降りて自殺した医師もいますが、川に身を投げて溺死という(中途半端な)方法を取るとは考えにくいのです。薬物を摂取して川にとびこんだのかもしれませんが、体内で薬物が検出されたという報道はありません。

 あまり知られていないことかもしれませんが、医師という職業は、自殺者が多い職業のトップに入ります。私と同じ医学部の同級生にも若くして自殺した医師がひとりいますし、どこの大学でもだいたい学年2~3年にひとりは若い命を自らの手で終焉させています。●●大学医学部の○年卒の△△医師が自殺した、という情報がときどき医師仲間から伝わってきます。どこの学部でも学年にひとりくらいは自殺があるんじゃないの?と思われるかもしれませんが、医学部の定員というのは一学年がせいぜい80人程度であることを考慮すると少なくないことがわかると思います。

 自殺の話があがると、どのようにして死んだのかということも同時に伝わってきます。そういうこともあって、我々医師は、医師が自殺をするならどのような方法をとるか、ということについてだいたい推測できるのです。方法だけではありません。なぜ自殺をしたのか、ということについても同志としての医師だから理解できる、ということもあります。

 しかし矢島医師の事件の場合、動機がまったく理解できませんし、死体の発見のされ方も自殺にしては極めて不自然です。自殺と断定できる確実な証拠がないのであれば、他殺、つまり殺人の可能性を考えて捜査がおこなわれるべきではないでしょうか。あるいは警察はこの死を事故とでも考えているのでしょうか。34歳の女性医師が誤って川に転落し溺死するなんてことがあるでしょうか。

 なぜこの事件が3年で時効を迎えるといったことが報道されたのか。それは、刑法で定められている死体遺棄罪の時効が3年だから、ということでしょう。しかし殺人罪の時効は2010年以降廃止されていますし、矢島医師の死亡した2009年には時効廃止が適応されないとしても、この事件が殺人なら時効成立まであと20年以上あるはずです。ということは、警察が殺人の可能性を否定しない限りは捜査を続けることは可能なはずだと思うのですが、警察は今もこの事件を積極的に捜査してくれているのでしょうか・・・。

 ここで矢島医師とはどのような医師だったかについて紹介しておきます。いくつかの報道によりますと、1975年群馬県高崎市生まれ、群馬大学医学部を卒業し、在学中にキリスト教の洗礼を受けられています。医学部卒業後は沖縄県立中部病院(昔から厳しい研修で有名な研修医に人気のある病院です)で研修を受けた後、大阪の病院で6年間勤務され、その後は西成区のあいりん地区にある診療所で勤務されていました。

 一部では「平成のマザーテレサ」とも呼ばれており、あいりん地区を中心に路上生活者の医療支援などに献身されていたそうです。事件が起こる前から、西成の路上生活者のみならず医療者の間でも有名で、真摯に路上生活者を支援する姿はマスコミに報道されたこともあるそうです。私が矢島医師の名前を初めて聞いたのは、NPO法人GINA(ジーナ)を立ち上げてしばらくした頃で、私などよりも困窮している人々のために遥かに尽力している話を聞いて、敬服する気持ちを持ったことを覚えています。いつかお会いして話を聞いてみたいと思っていました。

 なぜ矢島医師は殺されなければならなかったのでしょうか。お世辞にも治安がいい町とは言えないところですから、例えばひったくりやノックアウト強盗に合ったという可能性もあるでしょう。矢島医師が抵抗したために殴られてアザやコブができて、それでも抵抗をやめなかったために頸部が圧迫され窒息死し川に捨てられた、というストーリーです。しかしこのようないきあたりばったり的な殺人であれば、何らかの証拠が残されていたり、犯人に前科があったりして、比較的簡単に事件が解決するのではないでしょうか。

 気になるのは裏社会との関係です。例えば、矢島医師が診察している患者のなかで覚醒剤の常習者がいたとしましょう。おそらく矢島医師であれば、この患者が覚醒剤をやめる意思があれば警察に通報したりはしないでしょう。しかし、この患者が大量の覚醒剤を保持しておりそれを販売していることを知ってしまったとしたらどうでしょう。正義感の強い矢島医師はおそらく警察に通報することを考えるでしょう。

 あるいは(これはネット上で噂されているようですが)生活保護の不正受給の情報を矢島医師がつかんだ、という可能性はどうでしょう。その不正受給には闇社会の人間が関わっており、さらに(こうなるとフィクションの世界のようですが・・・)警察の上層部も関与しており、矢島医師がつかんでいる情報をにぎりつぶさないことには生活保護受給者だけでなく一部の闇社会の人間や警察にとって非常にマズイことになる、だからプロに殺害された・・・、というものです。

 犯人が逮捕されたところで矢島医師は戻ってきません。しかし、逮捕されないことには遺族の方のみならず、矢島医師にあたたかい言葉をかけられて病気を治してもらっていた多くの路上生活者の方々の無念が晴れることはありません・・・。

 私にできることはありませんが、警察の方々にこれからも捜査を続けていただくよう心よりお願いしたいと思います。

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2013年6月14日 金曜日

2012年11月号 就活に成功する人しない人

このコラムの7月号で、厳しい就職活動(以下「就活」とします)について取り上げました。就活の失敗が続き自殺を考える人が増えていることについても述べました。

 太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)の患者さんのなかにも、20代から40代、ときには50代の人で、就活で苦労しているという人がいます。また、就職は比較的簡単に決まるのだけれど長続きしない、という人も少なからずいます。

 一方、谷口医院では看護師や受付事務員などスタッフが10人近くいますから、私自身が人を雇用する立場に、つまり面接試験をする側の立場にいます。谷口医院は開院してからもうすぐ丸6年となり、それなりにたくさんの人(おそらく100人近くになると思います)を面接しています。

 今回は、どのような人が就活に成功しやすくて、どのような人が失敗をしやすいか、について私の経験から考えてみたいと思います。

 まず結論を言うと、「就活は<運>と<縁>で多くが決まる」、となります。7月号のコラムで、私は「結局のところ自分自身ががんばるしかない」と述べましたから、矛盾するようなことを言っているようにみえますが、これらは両方とも真実です。

 やりたい仕事があり、働きたい企業があるなら、それに向けて頑張ることはもちろん必要です。しかし、<運>と<縁>に左右されることがあるのも歴然とした事実です。ですから、もしも希望する企業に合格しなかったとしても、まず「落ち込まないこと」が大切です。「今回は運と縁がなかったんだ・・・」と考えるべきなのです。

 人材紹介会社のある社員から以前、次のようなことを聞いたことがあります。「A社は給料も高く従業員に優しい優良企業でなかなか<空き>がでない。だから(中途での)就職は難しい。しかし、たまにふと<空き>がでて求人がでることがある。そんなとき、たまたま就活をしている人がいればラッキーですよ。難関と思われているA社も、面接で聞かれることは普通ですから・・・。常識的な人であれば採用されますよ」、とその社員は話していました。

 私はこの意見がすとんと腑に落ちました。私もまったく同じような印象を持っているからです。谷口医院でも求人を出したとき大量の応募が来ますが、だいたい1週間から長くても10日程度で募集を締め切ります。そして、いつも、締め切った直後に連絡してくる人がいるのです。こういう人は、のんびりしすぎているというわけではなく、たまたま就活を始めた時期と谷口医院が募集を締め切る時期が一致していた、というだけの話です。谷口医院の募集は原則メールでの応募としており、私自身もほとんどのメールに目を通していますが、締め切った直後に応募してきた人に限って「会ってみたい」と思わせるプロフィールや志望動機が書かれているのです。もしもこの人があと1週間就活を始めるのが早ければ今頃は谷口医院のスタッフだったかもしれない、というわけです。こういうとき、私は「この人とは<縁>がなかったんだ」と考えるようにしています。

 就活は大変でしょうが、面接試験の選考をおこなう雇う側にも苦労はあります。雇う側としては、優秀な人が応募してくれるのはもちろん嬉しいのですが、もっと欲を言えば、優秀な人がひとりだけ応募しれくれれば尚ありがたいのです。しかし、実際は複数の優秀な人が応募してくれるために悩まされることになります。優秀な人たちには申し訳ないのですが、最終的な合格の理由となるのは、「(前職をすでに退職しているので)すぐに働ける」「家が近い」、など本人の実力とは何ら関係のないことが多いですし、「最終選考者のなかで一番早く応募してくれたこと」が採用の理由のひとつになることもあります。

 人材派遣(紹介)会社の人や企業の人事部の人、あるいは私と同じような立場の開業医と話をすると「雇ってみて働いてもらわないことには分からないことがたくさんある」という話題になります。言い換えると「面接でその人の本性や実力を見抜くことはできない」となります。ですから、雇う側としては、「面接時に常識とやる気を感じ取ることができればそれで合格」なわけです。巷には、就活成功マニュアルのような本が出ていて、受け答えの仕方から服装にいたるまで事細かく指南されているようですが、私の個人的な意見を述べれば、そのようなものは必要ありません。

 このように言うと、「それじゃあ、何度か面接を受ければ誰でもどこかには就職できるということですよね。でも実際は何社受けても受からない人もいますよ」という反論がくるでしょう。たしかに、いくら受けても合格しない人がいるのも事実です。ここからはこれについて述べていきます。

 就活に成功しないよくある例が「志望動機が分からない人」です。よく、履歴書をたくさんの企業に送っても面接までたどりつけない、という人がいますが、もしもあなたがそのように感じているなら履歴書に書いている志望動機を見直すべきかもしれません。「この履歴書の志望動機は何度も使いまわししているのだろう」、人事担当者にこのように思われれば面接にたどり着く可能性は極めて低くなります(注1、注2)。

 例えば、医療機関を受けるのであれば、雇う側としては「なぜ(他院でなく)当院を志望しているのか」を知りたいわけです。先にも述べたように、その理由が「家が近いから」とか「勤務時間が自分の都合に合うから」とかはOKです。一方、「医療に興味があるから」とか「人と接する仕事がしたいから」では説得力が感じられないのです。「この人は履歴書を使いまわししているのだろう」と思われます。雇う側としては、「働いてみると最初に思っていたのと違った・・・」と思われて、早期退職されることを避けたいわけです。

 志望動機がはっきりしており「どうしてもここで働きたい」という気持ちがあれば、自然に熱意がでてきます。雇う側からみてその<熱意>は大変重要なポイントとなります。逆に熱意のない人にはこちらも興味がでてきません。例えば、面接に遅刻をしてくるとか、セーターなど普段着で来るとかは論外ですし(これらは実際にあった例です)、面接で質問をしても「どうせまた落とされるんでしょ・・・」と言わんばかりの受け答えに覇気がない人もいます。面接の際、必ずしも弁が立つ必要はありませんし、話し上手でなくてもまったくOKです。また、専門用語を知っている必要もなければ、むつかしい理論について解説する必要もありません。しかし、声が小さくあまりにも自信のなさそうな人に魅力は感じられないのです。

 ノーベル賞を受賞された山中先生は、大阪市立大学大学院の面接時に「ぼくは薬理のことは何もわかりません。でも、研究したいんです!通してください!」と声を張ったというエピソードを自伝(注3)で書かれています。同書によれば、後になって面接官の先生から「あのとき叫ばへんかったら落としてたよ」と言われたそうです。山中先生はとても謙虚な先生ですから、このエピソードは幾分差し引いて考える必要がありそうですが、就活をしている人にとっては示唆に富んだものだと思います。

 謙虚さがない人は面接では不利になります。過去の実績をアピールすることは大切ですが、「私の実力だと合格して当然です」という態度はいい印象を与えません。逆に、上に述べた山中先生のエピソードにもあるように、「これから一生懸命やります」という姿勢の方が重要なわけです。実際、「過去にこれだけの実績がありますからできますよ」という態度の人は、働いてみるとまるでダメということがしばしばあります。医療機関で言えば、ベテランの看護師が仕事ができるとは限りません。むしろ古い考え方に固執していて新しい考えについていけないということがよくあります。事務員なら、過去に大きな病院で働いていたとしても、それが小さなクリニックで通用するわけではありません。

 なんだか説教じみた話になってきましたが、まとめてみると、「常識的な態度で望めば就活を恐れる必要はない」のです。まず、なぜ(他ではなく)その企業(や医療機関)で働きたいのかをはっきりさせ、熱意と謙虚さをもって面接に望めば、あとは<運>と<縁>の問題、というわけです。

注1 例えば当院(太融寺町谷口医院)であれば、少しウェブサイトをみれば、待ち時間対策に苦労している、ということが分かるはずです。にもかかわらず志望動機に「ひとりひとりの患者さんにじっくりと向き合い心のこもった受付をしたい」などと書いてあれば、「この人は面接に望もうとしているクリニックのウェブサイトすらも見てないんだな・・」と思われます。そして書類選考で落ちることになります。もちろん<心のこもった受付>は大切なことですが、同時に<てきぱきと業務をおこない待ち時間対策に貢献したい>といった一文があればまったく印象が変わる、というわけです。

注2 最近、医療機関事務職応募の志望動機によく記載されているのが「以前自分が(もしくは家族が)医療機関を受診して受付の人に大変よくしてもらって・・・」というものです。このエピソードが書かれている履歴書が非常に目立ちます。何かの指南書に「医療機関を受けるならこのようなことを述べなさい」と書かれているのではないかと疑りたくなるほどです。本当にこのような体験を経て医療機関を目指している方には気の毒ですが、この文言は書かない方がいいかもしれません。しかし、自分の体験から希望する仕事に興味を持つようになった、というのは立派な志望動機ではあります。個人的な体験はできるだけ具体的に述べ(自分にしか書けないような文章にして)、なおかつ、なぜその医療機関で(他院ではなく)働きたいのかを訴えることができれば説得力がでてくると思います。

注3 『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社)より

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2013年6月14日 金曜日

2012年10月号 山中先生から学んだこととこれからも学びたいこと

ビジョンを持って楽しく研究しましょう。そして薬理学教室の美味しいコーヒーを一緒に飲みましょう。

 一字一句同じではないでしょうが、これは1999年の(たぶん)3月、大阪市立大学医学部の大教室の教壇で山中伸弥先生が我々学生に対して話された言葉です。

 2012年10月8日、ノーベル医学・生理学賞を受賞された京都大学の山中教授は、神戸大学医学部を卒業された後、大阪市立大学医学部整形外科に入局され、その後同大学薬理学教室に入られ、1996年から1999年11月まで薬理学教室の助手として、研究に教育にと活躍されていました。

 私が大阪市立大学医学部に入学したのは1996年、薬理学を学んだのは3回生のときですから、1998年4月から1999年3月までの一年間、薬理学の授業のうち何コマかは山中先生に教えてもらっていました。山中先生の講義は非常にむつかしく、配布されるプリントはほとんどが英語であり、私の苦手な分野だったこともあり、テスト勉強に苦しんだことを覚えています。ちなみに、当時、山中先生が大学医学部で講義されていたのは、(当然ですが)iPS細胞についてではなく、循環薬理学だったと記憶しています。

 当時の大阪市立大学医学部では、4回生の前半は講義や実習はなく、基礎医学系の研究室に入って特定のテーマについての研究をすることになっていました。2~4名くらいのグループに分かれ、それぞれのグループはどこかの基礎医学系の教室に所属し、指導教官の元で研究をおこなうことになります。

 例えば、第一解剖学教室では3つの研究班があり、3つの班の指導教官はA先生、B先生、C先生の3人で、各班の定員は2~4名、などと決められており、学生は希望する班を選ぶ、というわけです。基礎医学系の教室ですから、解剖学以外に、生理学、生化学、薬理学、細菌学、などがあります。山中先生は薬理学教室の3つの班の1つの指導教官だったと記憶しています。

 各学生がどの班を選択するかにあたり、オリエンテーションのようなものが開かれ、この場で各教室の指導教官の先生方が学生を前に、どのような研究ができるかを話します。せいぜい3~4ヶ月の研究ですが、学生からすれば初めての本格的な研究ができるわけですし、指導する教員の立場からしてもできるだけ優秀な学生に来てもらいたい(やる気のない学生には来てもらいたくない)わけですから、このオリエンテーションは双方にとって大切な場となります。

 冒頭で紹介した山中先生の言葉は、このオリエンテーションで話された最後の締めの言葉です。なぜ、私が山中先生の言葉を今でも覚えているのか、これは私にとっても不思議です。なにしろ、他の先生の言葉は一切記憶にないのですから。

 当時の私は、研究が自分に向いていないことをひしひしと感じており、医学部を続ける自信を喪失していました。入学当時は、臨床家を目指すのではなく基礎医学の研究をやりたいと考えていた私は、入学直後から必死に勉強していたつもりでしたが、どうも研究をおこなうにはセンスも能力もないのではないかということに気づき始め、それを確証するようになっていきました。

 この頃の私は、授業にはかろうじて出席していましたが、生活の中心はアルバイトになっていました。複数のアルバイトに精を出し、土日におこなっていたワゴンセールの販売では西日本全域の出張もこなしていました。複数のアルバイトをおこなうようになると、自然と知人が増えていきます。そのなかで、私はいろんな病気で悩んでいる人と知り合うこととなり、また、医療機関でイヤな思いをした、という人たちの話を聞くこととなり、こういった経験があって、研究ではなく臨床家として将来は患者さんと接していく道を選択することを決意しました。

 そんな当時の私にとって、基礎医学系の研究というのは「過去のもの」という感じがして取り組む気力が起こりませんでした。山中先生のエネルギッシュな話も、印象的だったとはいえ、当時の私には「無理だろう」という気持ちが先行したのです。しかし、何らかの基礎医学の研究班に入ってレポートを書かねば進級ができません。私が選択したのは公衆衛生学教室のある班で、研究内容は「老人ホームで入居者から話を聞いて統計処理をおこなう」というものでした。社会学部出身の私にとってこれは得意分野です。社会学のフィールドワークの感覚でできると感じ、実際に研究は特に苦労もなくできました。

 冒頭で紹介した山中先生の言葉はなぜかその後も心に残っていたのですが、その後先生を見かけることがないな、と感じていたら、その年の終わりには大学を辞められたと聞いて驚いたことを記憶しています。

 その後私は医学部を卒業し、研修医となり、研修後タイに渡り、帰国後は大学に戻り総合診療センターに所属することになり、臨床の道を進んでいきました。基礎医学の研究に対する未練がまったくなくなったわけではありませんが、自分に向いているのは基礎医学ではなく臨床であることをこの頃にはすでに確信していました。

 久しぶりに山中先生の名前を聞いたのは2006年でした。著明な医学誌『Cell』に「マウスのiPS細胞を確立した」ことを発表されたのです。iPS細胞については、いろんなところで解説されていますからここでは述べませんが、このときに私が感じたことは2つあります。まず先生の所属が京都大学になっていたことです。詳しい経緯は分からないけれど、おそらく京都大学の方から引っ張られて移られたのだろう、と感じました。もうひとつは、iPSというネーミングが、おそらくiPodをもじったのでしょうけれど、ユニークな山中先生らしいというか、山中先生が名づけたに違いない、と感じました。

 その後、山中先生は国内外の著名な賞を次々と受賞され、医学関連の雑誌やサイトだけでなく、全国紙の一面にも登場されるようになります。研究内容だけでなく、山中先生のパーソナリティや過去のエピソードなどにも触れている記事が増えてきました。そのような記事を目にするようになり、私にとって大変意外に感じられる一面もでてきました。

 それまでの私の山中先生に対するイメージは、エネルギッシュでユーモアのセンスに富んだアメリカ帰りの超エリート、というものでした。しかし、先生についてのエピソードを読んでみると、医学部卒業後は整形外科の臨床医を目指したが、手術に時間がかかり指導医から才能がないと言われ基礎医学(薬理学)に転向した。アメリカで研究をおこなったまではいいが、帰国後アメリカのように自由に研究できないことから「うつ」状態となり、研究を諦め臨床に戻ることをほぼ決意していた。そんななか、奈良先端科学技術大学院大学の公募に(引っ張られたのではなく)自ら応募して助教授に就任された、などと書かれています。

 つい最近知ったのですが、山中先生は若い世代に講演をされるときに「人間万事塞翁が馬」という故事を引き合いに出されることがあるそうです。私の山中先生に対する過去のイメージからはこの故事はマッチしないのですが、臨床家として苦労したこと、研究を半ば諦めかけたときに奈良先端科学技術大学大学院で道が開けたことなどを考えるとこの故事はすっと腑に落ちます。

 山中先生自身が話されているように、iPS細胞が人類に役立つようになるにはまだ時間がかかります。これからは今まで以上の苦労をなさるかもしれません。山中先生は今もスポーツマンでフルマラソンにも参加されているそうです。きっとこれからの研究も、マラソンのように、少々ライバルに抜かれても、調子が上がらずにしんどくなっても、「人間万事塞翁が馬」を思い出し、ビジョンを目標に進まれることでしょう。

 そんな山中先生から、これからも学ぶことがたくさんありそうです。

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2013年6月14日 金曜日

2012年9月号 トイレの使い方、間違ってませんか?

 このコラムで取り上げているのは基本的には「医療」のことで、それ以外では私が受験に関する書籍を上梓している関係から「勉強」のこと、さらに「自己啓発」のことなどです。社会支援やボランティアに関する話題は取り上げたことがありますが、医療に関係のない時事問題や社会問題などについてはほとんど触れたことがありません。

 そしてこの方針はこれからも続けていくつもりです。しかし今回は、どうしても言っておきたいことがあるのでそれについて述べたいと思います。実は私はこのことを、いずれ大勢の方に関心を持ってもらわなければならない、と、もう10年以上前から感じていました。

 これまで私がこのことをここに書かなかったのは、私がこのようなことを言う立場にはないだろうと感じていたことと、いずれこのことを話すのに適切な位置にいる人が訴える日がくるのではないかと期待していたからです。

 しかし、私が大勢の人に知ってもらう必要性を感じてから10年以上経過した今でも、このことを取り上げる人は(私の知る限り)いません。

 ではもったいぶらずに述べていきましょう。私が大勢の人に伝えたいこととは、「海外でのトイレの正しい使い方を本当に知っていますか」、ということです。もう少し具体的に言いましょう。私は世界中のトイレを知っているわけではありませんので、私が言いたいのはアジアのトイレについてです。結論を言えば次のようになります。

 日本以外のアジアでは、ほとんどの場所でトイレットペーパーを流してはいけない。

 日本人であれば、トイレットペーパーを流すのが常識ですが、これは日本以外のアジアでは「非常識」なのです。そのため、海外のホテルやレストランで日本人がトイレでトイレットペーパーを水と一緒に流して詰まらせて大変なことになった、という話がよくあります。私が改めてこのようなことを主張しなくても、アジアに旅行したことのあるほとんどの人にとってはすでに「常識」になっているでしょうが、残念ながらこの「常識」が守れていない人が少なくないようなのです。

 以前台湾のあるホテルで用を足そうとロビーにあるトイレに入ったときに驚いたことがあります。「紙を流さないで!」と日本語で書かれた張り紙がいくつもトイレの壁に貼られていたのです。これはすなわち、紙を流してトラブルを起こす日本人が後を絶たないことを示しています。ちなみに、このトイレには英語の張り紙もありましたが日本語ほど派手には書かれていませんでした。おそらく紙をトイレに流すなどといった「非常識」なことをするのは欧米人ではなく圧倒的に日本人に多いということでしょう。

 では、台湾では使用したトイレットペーパーをどうするのかというと、隅の方に置いてあるゴミ箱に入れます。ですから、その箱を覗くと、前の人が使用したトイレットペーパーが捨てられていて、紙には臭そうな便がびっしり付着……、ということもあります。もし、「そんな不潔なトイレで用を足せない……」と感じる人がいるなら、その人は海外(アジア)には行かない方がいいでしょう(注1)。

 このようにお尻を拭いた紙を箱に捨てなければならないのはもちろん台湾だけではなく、日本以外のアジアではどこも同じです。韓国では空港や高級ホテルでは紙を流してもかまわない、という話も聞いたことがありますが(注2)、少なくともソウルの普通のレストランでは流せませんし、ファストフード店でもご法度です。しかし、このルールを知らずに(あるいは知っていても無視して)紙を詰まらせてトラブルとなるケースが少なくないそうです。

 タイやマレーシア、フィリピンなどでは、少し高級なところでは便器の横に小さなシャワーのようなものがついています。用を足した後、そのミニシャワーでお尻を洗浄するのです。そして備え付けの紙でお尻を拭いて、その紙をゴミ箱に入れるようにします。

 こういった地域では紙がない場合もあります。紙がなければ手でお尻を拭かなければなりません。手でお尻を拭くことには抵抗のある人もいるでしょうが、しっかりとシャワーをして便を洗い流しておけば案外簡単にできるものです。(それでも手でお尻を拭くことができない、という人は、アジア旅行はかなり制約されたものになることを覚悟しなければなりません)

 このミニシャワーはいつも常備されているとは限りません。というより、ホテルや空港、高級レストランなど、限られた施設にしかこの便利なミニシャワーはありません。タイやフィリピンでの一般的な方法は、トイレの中に水を貯めている水がめのようなものがあり、そこにおかれている小さな洗面器のような容器を右手で持ち水がめから水をすくい、容器に取った水を左手で少しずつお尻にかけていきます。そしてそのまま左手でお尻をふきます。

 おそらく、この方式で初めから何の戸惑いもなく用を足せる日本人はそれほど多くないでしょう。しかし、これが現地での「標準式」トイレのルールなのです。紙を持参すればいいではないか、と考える人もいるでしょうが、このようなトイレにはゴミ箱が置いてありませんから、自分のものとは言え便が付着した使用済みのトイレットペーパーを持ち歩くのはかえって大変だと思います。

 私が初めてこのトイレの体験をしたのは、タイのある地方都市のデパート内でした。デパートですから、トイレにミニシャワーくらい付いているだろうと考えていたのですが、そのトイレは「標準式」トイレでした。この県で最も人が集まりそうなバスターミナル付近にあるデパートでこのトイレですから、おそらくこの地域にはミニシャワーがついているトイレは皆無でしょう。私は用を足した後、右手で容器を持ち水がめから水をすくい、恐る恐る左手でぴちゃぴちゃとお尻に水をかけてみました。しかし水は上手く肛門に命中しません。そのうちに床が水浸しになってしまい、それ以上水をかけるのをあきらめてそのまま左手でお尻を拭きました。すると、左手指の先端に伝わってきたのはぬるっとした感触で……。苦労したのに水は肛門に届いていなかったのです……。

 今では私はこの「標準式」タイ式トイレに何の抵抗もなくなっています。ミニシャワーがついていればそれを使いますが、なくても苦痛にならなくなりました。しかし私はこんなことを自慢したいのではありません。問題は、「現地のトイレのルールを知らずに紙を詰まらせてしまう日本人が後を絶たない」という現実です。

 先月(2012年8月)も私はタイに渡航したのですが、チェンマイのホテルの従業員と話しをしているとこの話題になりました。やはりトイレの紙でトラブルを起こすのは日本人だそうです。

 けれども、紙を詰まらせた日本人の立場からすれば「そんなこと知らなかったし、今まで誰も教えてくれなかった!」となるわけです。この問題を解決するには、海外(アジア)のトイレのマナーを誰かが教えることが必要です。そう思って、いくつかの旅行会社や旅行関連の書籍を発行している出版社のウェブサイトを見てみたのですが、残念ながらトイレのルールについて解説したものはみつかりませんでした。

 ならば学校で教えればどうでしょう。小学校の社会の授業で「世界のトイレのルール」というタイトルで講義をおこなうのです。実習も入れるべきでしょう。ミニシャワーまで取り付けた簡易トイレを用意するのは簡単でないかもしれませんが、きっと生徒たちは興味をもち、さらに世界に関心が持てるのではないかと思うのですが……。

 それから、どなたか「世界トイレ辞典」のようなものを作ってもらえないでしょうか。例えば、中国の地方に行くと、今でも壁のないトイレが普通にありますし、ネパールの奥地では、トイレで大便をするとどこからともなくブタがやってきてすぐに便を食べてしまうそうです。このようなことも含めた「世界トイレ辞典」、出版されれば直ちにベストセラー……、とはいかないでしょうか。

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注1 日本ではなぜ紙を流せるのか、というと下水道が発達しているからです。また汲み取り式なら紙は便と一緒に捨てることができるでしょう。しかし、日本でも場所によっては紙を流してはいけません。私は以前北アルプスに建てられたある山小屋でトイレを借りたことがあるのですが、その洒落た山小屋ではトイレもたいへんきれいに掃除されていました。そしてその壁に貼られていた張り紙には「紙は流さないでください」とあり、アジアのトイレでみるのと同じようなゴミ箱が置かれていました。

注2 他にもアジアでも高級な施設では紙を流してもかまわないところがあるかもしれません。私自身はアジアではどこでも紙を流しませんが、何度か「大便をしたときに紙を流してもいいですか」とホテルの従業員などに尋ねたことがあります。しかし、これを英語で表現するのが思いのほか困難でした。流すは「flush」でいいと思うのですが、私の発音が悪いこともあってなかなか通じません。そこで「wash out」「drain」「run off」「throw away into the basin」などと言ってみるのですが、最終的にはジェスチャーが一番通じました……。

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2013年6月14日 金曜日

2012年8月号 簡単でない守秘義務の遵守

2012年7月12日、医療者の守秘義務に対し一石を投じる興味深い判決がでました。今回は守秘義務について検討してみたいのですが、まずはこの事件について簡単に振り返っておきたいと思います。報道をまとめると以下のようになります。

 

 

 この事件に関して医師が書き込みをおこなうサイトをみていると、この看護師がおかした罪は許されるべきでないという意見の他に、看護師の軽率な行動にまで医師に管理責任を求めるのは酷すぎるではないか、という意見が目立ちます。

 看護師が業務上知りえたことを自分の夫に話すのは職業人として失格ですが、果たして現実の問題として、院長がここまで責任を負えるでしょうか。院長が職員全員の家族の会話を監視することなどできるわけがありません。「そんなとんでもない看護師を採用した院長が悪い」という意見もあるでしょうが、面接のときにそこまで見抜くことは現実的には不可能です。

 どこの医療機関でも守秘義務については徹底しています。ちなみに太融寺町谷口医院では、ミッション・ステイトメントの第2条を「すべての受診者のプライバシー遵守を徹底し、クリニックで知り得た情報は院外に持ち出さない」と定めており、ミッション・ステイトメントは開院以来何度も全員参加の会議で見直していますが、その度に守秘義務遵守の重要性をスタッフ全員で再認識しています。

 しかし、本当にスタッフ全員が「職場で知りえた情報を誰にも言わずに墓場まで持っていく」ことを保証できるものはありません。この事件の被告人の職種は看護師ですが、事務員もパートもアルバイトも同じ意識を持たねばなりません。守秘義務というのは職種によって規定されている法律(注1)が異なるのですが、患者さんの立場に立てば、医療機関に働く者がどのような立場であったとしても自分の「秘密」を他者に知らされては困るわけです。

 ですから、医療機関のトップに立つ者は、職種に関係なくスタッフ全員に守秘義務の重要性を理解させる義務があるのは間違いありません。けれども、スタッフがこの義務に違反したときに院長が有罪にされるとなると問題が生じます。なぜなら、これで院長が有罪になるなら、その医療機関で働いていた者は院長をゆすることが簡単にできてしまうからです。

 例えば、職場を辞める前に、ガンを患って余命の告知が済んでいない患者の情報を控えておいて、院長に「あの患者の余命をばらされたくなければ言うことを聞きなさい」と脅迫することが簡単にできます。もちろんこんなことをすれば脅迫罪に問われますが、ばらされれば守秘義務違反に問われ罰金を払わされ、報道されるリスクを考えると、このような脅迫に屈する医師もでてくるかもしれません。ばらした本人も罪になるではないか、という意見もあるでしょうが、一般事務員であれば罪に問える法律がせいぜい個人情報保護法くらいですし、有罪となったとしてもたいした罰は受けないでしょう。

 この事件の最大の問題は、言うまでもなく、この看護師があまりにも非常識でプロ意識が微塵もないことです。守秘義務を守れない看護師は二度と医療の現場に戻るべきではありません。しかし、我々医療者であればこの看護師を「最悪の看護師」と瞬間的に判断しますが、果たして一般の人々からはどのように思われるのでしょう・・・。

 大分の事件と離れて、次のような状況を想像してみてください。

 

 さて、これを読んだあなたはどう感じたでしょうか。「A子がB男にC氏のことを話すのは当然でしょ」、そのように感じた人も少なくないのではないでしょうか。しかし、このケースでも守秘義務違反となります。大分の事件は余命を知らされていない難治性疾患、このケースは単なる骨折で、ことの重要性が違うようにみえるかもしれません。しかし、次のようなことがあればどうでしょう。

 

 ここでは極端な例をつくりましたが、このようなことは起こらないとも限りません。医療機関で働く者は、職種が何であれ、職場で知りえた患者さんの情報は、それは「受診した」ということも含めて、文字通り墓場まで持っていかなければならないのです。

 守秘義務を遵守するというのは実は簡単ではありません。実際、医療機関で働く者が守秘義務違反を犯していることを私は過去に何度か目の当たりにしています。例えば、私が医学生の頃、ある病院で受付をしている女性は、プロのスポーツ選手が怪我をしてその病院に受診した、という話をしました。彼女からすれば私が医学生だから話していいと思ったのかもしれませんが、これも明らかな守秘義務違反です。(ただし、例外として「公益性が守秘義務に優先する」という理由で守秘義務違反が問われないこともあります。詳しくは下記参考のコラムを参照ください)

 守秘義務についてきちんと教育を受けていないと、このように有名人が受診したときに誰かに話したくなってしまうことがあります。もうひとつ守秘義務を犯しやすいのは、先のエピソードのA子のように共通の知人が受診したときです。私が何度か「しっかり守秘義務を守らなければ・・」と意識の整理をしたことがあるのは、同級生が受診したときです。久しぶりに同級生と再会した場所が診察室だったとき、その同級生は軽い気持ちで軽い症状で受診しているかもしれませんが、診察をすすめていくなかで重大な病気が見つかる可能性もないことはないわけです。ですから、私は同級生を含めて知り合いが受診したときには「あなたが受診したことは誰にも言わない、ということをこの時点でよく理解してください」と話すようにしています。

 もしもこれを読んでいるあなたが医療機関で働いていて、A子の行動を「理解できる」と感じたならもう一度守秘義務について熟考すべきでしょう。

 また、これを読んでいるあなたが医師や看護師を目指している、あるいは受付や医療事務も含めて医療機関で働くことを考えているならば、守秘義務を遵守できるかどうか、よく考えてみてください。

注1:守秘義務については、医師(と薬剤師)は刑法134条第1項で、看護師(と准看護師)は保健師助産師看護師法第42条の2で定められています。受付や医療事務には個人情報保護法くらいしか適用される法律はないと思います。

参考: メディカル・エッセイ第56回(2007年9月) 「阿部首相と朝青龍と医師の守秘義務」

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2013年6月14日 金曜日

2012年7月号 就活に失敗しても死なないで!

最近、就職活動で失敗したことを苦にして自ら命を絶つ若者が急増しているそうです。警察庁によりますと、2011年は就職活動に失敗した大学生など150人が自殺をしており、これは2007年の2.5倍になるそうです。

 太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)にも「就活がうまくいかない・・・」と嘆いている患者さんは少なくありません。谷口医院を受診している若い患者さんは、皮膚疾患やアレルギー疾患が比較的多く、喘息、アトピー性皮膚炎、じんましんなどが代表的な疾患ですが、こういった疾患では、悩みがあると症状が悪化することがしばしばあります。

 就活がうまくいかない、というのは当然強いストレスとなり、疾患の症状がよくならず、皮膚疾患であれば、それが見た目の印象が悪化することにつながりますから、そうなると面接自体がますます強いストレスとなってしまいます。

 谷口医院の患者さんのなかには、就活に失敗して自殺、という人はいませんが(と思いますが)、就活に失敗して精神的にしんどくなってきて、抑うつ状態や不眠に悩まされる、といった人は少なくありません。そして、これは10代、20代の若者だけではなく、30代、40代、なかには50代で仕事が見つからずに精神的に苦しんでいる人もいます。

 就活がいかに大変か、という話を診察室で聞いても、私自身が彼(女)らにできることは何もありません。なかには、日頃の就活の悩みを一気に話されて、「話を聞いてくれてありがとうございました。すっきりしました。明日からまたがんばります」、と言われる人もいますが、もちろんこの患者さんがやる気になったのは、私が医師としてすぐれているからではありません。

 目の前の患者さんの就活を応援したい、という気持ちはありますが、医師としてできることなどほとんど何もありません。あまりに抑うつ状態が強い人や、眠れない人にはそれなりの薬を処方することがありますし、あまりにも緊張が強くて面接がうまくいかないという人(「社会不安障害」という病名がつくことが多い)には、速効性のある不安を和らげる薬を「面接の30分前に飲んでみてください」と言って処方することもありますが、そういった薬を服用した結果、合格したとしても、それは医師が就活の手伝いをした、ということにはなりません。

 就活を成功させるには、結局のところ自分自身ががんばるしかないのですが、私は医師としてではなく、これまでアルバイトも含めれば数多くの「就活」をした者として助言させてもらいたい、と考えています。

 これは「自慢話」と捉えないでほしいのですが、私はアルバイトも含めて就職試験や面接を受けて不合格になったことは一度もありません。しかしこれは私が優秀だからではなく当然のことです。私が関西学院大学社会学部を卒業したのは1991年で、誰もがほとんどどこにでも就職できた、いわゆる「バブル組」です。当時は、就職説明会は一流ホテルの立食パーティが当たり前で、就職が決まれば(他社に目移りしないようにする目的で)入社前に海外旅行に招待する会社や、なかには、新入社員に新車1台プレゼント、などという会社もあったくらいですから、就活で悩むなどという人はほとんど皆無だったのです。

 関西学院大学在学中と大阪市立大学医学部在学中におこなったアルバイトでも面接で落とされたことは一度もありません。しかしこれも当たり前の話で、私がこれまでおこなってきたアルバイトというのは、例えば、ワゴンセールの販売員とか、旅行会社の添乗員とか、あるいは水商売や飲食店のスタッフといった「すぐに辞める人は大勢いるが簡単に採用される仕事」が大半だったからです。

 医師になってからは、アルバイトも含めると10以上の医療機関で働いてきましたが、これだけ医師不足の世の中では、ほとんどの医療機関では不合格になる方がおかしいのです。

 ですから、私がこれまで就活で苦労をしたことがないのは、単に「運がいい」からにすぎません。現在就活で悩んでいる人からは「そんなあんたに何がわかる?」と言われるでしょうし、何を言っても説得力がないことは分かっていますが、それでも、どうしてもひとつだけアドバイスしたいことがあります。それは「成功者の話を聞いてみてください」というものです。

 もちろん私自身の場合は、単に運がよかっただけであり、私は「成功者」とは呼べません。しかし、私は10代の頃から、「成功者の話を聞く」ことが大好きでした。話を聞く、と言っても直接成功者に会いに行くわけではありません。

 私が最初に成功者たちの話を聞いたのは高校1年生のときに読んだ「大学合格体験記」でした。成績はまったくダメで、志望校の関西学院大学はE判定しかでなかった私が現役で合格できたのは数多くの合格体験記を読んでいたからに他なりません。合格体験記には、周囲から到底不可能と考えられていたけれども難関大学に合格した、というサクセスストーリーが集められています。こういった話を高1のときから読んでいた私は、いつのまにか「奇跡の合格は当然のこと」と認識するようになっていたのです(注1)。

 以前このコラム(下記参照)でも述べたことがありますが、私は自伝を読むのが好きです。私の毎朝の楽しみは日経新聞の最後のページに毎日連載されている「私の履歴書」を読むことで、これがたまらなく面白いのです。最近のものでいえば、2012年5月は桂三枝さん、6月は物理学者の米沢富美子先生でした。桂三枝さんは、若い頃からアイドルのような存在でしたから順調に人生が展開したのかと思いきや、苦労した浪人生活や、長期間精神状態が良好でなかった時期(それもけっこう長期間)もあり、そういった苦難の克服や落語に対する努力の話は感動を覚えます。米沢先生は、生まれながらの天才ですが、泳げないのに水泳部に入部して長距離の泳ぎに成功したこと、ガンを克服したこと、多忙極まる中で母親として立派に子育てをされたこと、物理学界という男性社会のなかで研究成果をあげいくつもの組織を作り上げたこと、などのエピソードを読めば勇気を与えられます。

 テレビ番組「カンブリア宮殿」2012年6月28日は稲盛和夫氏がゲストでした。私は20年以上前から稲盛氏のファンなのですが、この日も大きな感動を与えてくれました。京セラの全社員がいつも読んでいる「京セラ・フィロソフィ」は有名ですが、JALでも「JAL・フィロソフィ」を製作し全社員に配布されたそうです。JALの全社員は「JAL・フィロソフィ」をバイブルとし、社員が一丸となり、わずか2年でいったん倒産したJALが黒字になったのです。稲盛氏がJALの会長に就任されてから、空港でのJAL職員も機内の客室乗務員も態度が変化した、と感じている人も少なくないのではないでしょうか。

 夢を語ることがカッコ悪い、あるいは、どうせ夢なんかみてもかないっこないんだから<終わりなき日常>にまったり生きる方がいい、などと言われることがありますが、私はそうは思いません。些細なことでもかまわないから何歳になっても夢を語るべきではないか・・、と、そのように考えています。そのように考えていたところ、日本・中国の双方で活躍されている加藤嘉一氏が、「ダイヤモンド・オンライン」の連載コラム『だったら、お前がやれ!』のなかで<夢>について取り上げていました。加藤氏は、東京の繁華街で道行く人を呼び止めて「あなたの夢は何ですか」とインタビューをして、それを記事にまとめています。この様子はビデオでも見ることができてなかなか興味深いと思います(注2)。

 加藤氏については以前このコラムで紹介したことがありますが(下記参照)、まだ20代だというのに考え方が大変魅力的です。その加藤氏なら、就活で悩んでいる若者に対し、「近くばかり見ているな。外を見ろ。自殺なんか考える前に中国に行き、生きることに必死になっている同世代を見てみろ。そしてそんな状況のなかで自分を磨け!」とアドバイスされることでしょう。

 就活に失敗し続け心が病んでいるときにこのような言葉を聞いても、「自分とは別世界だ・・・」と感じる人もいるかもしれません。しかし、そのような人でも、成功者の話を聞くことはできます。例えば、100社で不合格となったけれど101回目の就活で成功した、という人もいるかもしれませんし、加藤氏のように中国の大学に行って成功した人、アルバイトから正社員になった人(吉野家の安部修仁現社長と次の社長の河村泰貴氏、ブックオフの橋本真由美社長はいずれもアルバイトから社長にまでなっています!)などの体験談は、現在就活に苦労している人たちにも勇気を与えてくれるに違いありません。

 問題は、そのような体験談を誰がどうやって集めるか、ですが、どなたか「就活成功体験記」のサイトを製作・運営してくれないでしょうか・・・。きっと大勢の方に感謝されると思うのですが・・・。 だったらお前がやれ! 加藤氏にはそう言われるかもしれません・・・。

注1 もう絶版になっていると思いますが、私自身も「すべてE判定から関西学院大学に現役合格」という体験を、エール出版社の合格体験記に載せたことがあります。

注2:加藤嘉一氏の「だったら、お前がやれ!」は下記のURLで読むことができます。
http://diamond.jp/category/s-omaegayare

参考:マンスリーレポート
2010年11月号 「自伝から得る勇気」
2010年6月号 「「朝活ブーム」がブームでなくなる日はくるか」 (加藤嘉一氏について触れています)

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2013年6月14日 金曜日

2012年6月号 酒とハーブと覚醒剤

2012年5月21日、福岡市の高島宗一郎市長は、福岡市役所の全職員約9,600人と教員を対象に、外出先での飲酒を1ヶ月間自粛するよう求める通知を出し、これが物議をかもしました。世論調査や評論家のコメントなどをみても、「発想が稚拙だ」「やりすぎだ」「単なるパフォーマンスだ」「周囲の飲食店への影響を考えているのか」など批判的な意見が多いようです。

 もっとも、高島市長がこのような前代未聞の異例の処置をとったのは、福岡市で飲酒にからんだ不祥事が相次いでいたからです。2006年には市職員(当時)の飲酒運転で3人の児童が死亡するといういたましい事故があり大変な問題となったわけですが、その後も福岡市では飲酒に関連した事件が後を絶っていません。今年(2012年)に入ってからも、2月には消防士が飲酒後に盗んだ車を運転して逮捕され、4月には市立小学校教頭が酒気帯び運転で摘発されています。5月18日には酔った市職員2人が暴行と傷害容疑で捕まり、この事件で高島市長は「飲酒自粛宣言」を決意したようです。

 私自身の考えを述べれば、世間の大方の見方とは異なり、高島市長の対策を支持したいと思います。たしかに、強制力をもたない通知ですし、日頃から問題を起こすことなく行儀よくお酒を楽しんでいる人からみればいい迷惑でしょう。

 しかし、飲酒自粛宣言をおこない、世間の飲酒に対する関心が高まったのは事実であり、マスコミが福岡市のこの事態を報道する度に、上に述べた2006年の悲惨な事件が思い起こされることにもなり、改めてアルコールの恐ろしさを社会が認識することができるわけです。

 福岡市で飲酒自粛宣言が通達された直後の2012年5月24日、小樽商科大学のアメフト部が主催する花見で飲酒を強要された19歳の男子学生が死亡したという事件が発表されました。この花見は5月7日におこなわれ、男子学生の異変に気づいた仲間が救急車を要請しましたが、救急隊の到着時にはすでに心肺停止の状態だったそうです。

 この事件が報道されたとき、私は以前知人のタイ人から聞いた言葉を思い出しました。

 タイ人にとって桜というのは一生に一度見ることができるかどうかという幻の花だそうです。タイには桜はありませんし、一般のタイ人からすれば日本に行くなんていうのは夢のまた夢ですから、桜は美しい日本の象徴になっているそうなのです。(桜の他には、雪を生涯一度でいいから見てみたい、というタイ人も多いようです)

 さて、私の知人のそのタイ人は、日本に行く機会に恵まれ、しかも桜のシーズンに行けることになり花見を大変楽しみにしていたそうです。しかし、実際に行ってみると、桜は確かにきれいなのですが、花見にきている日本人のだらしなさに辟易としたそうです。一般のタイ人からみれば、日本人というのはまだまだ勤勉で礼儀正しいというイメージがあるそうなのですが、その光景をみて日本人に対する見方も変わったと彼女は言います。大声をだして喧嘩をしている中年男性、酔っ払って何やらわめいている若い女性、なかには嘔吐している者もいて大変驚いたそうです。

 私自身も特に20代の頃は飲酒で失敗したことが多く、ここには書けないこともあるくらいで、他人に「飲酒は控えましょう」などとは言えた義理ではないことは認めますが、それでも、今の日本人のアルコールに対する甘すぎる考え方は見直さなければならないと日々痛感しています。

 私の知人のタイ人のコメントを思い出しても痛烈にそれを思いますし、以前勤めていた病院の夜間の救急外来には、急性アルコール中毒で搬送されてくる患者さんも多かったのですが、飲酒に伴う醜態をたくさん見ることになりました。実際に飲酒で亡くなる事故(事件)も少なくないわけですから、われわれはアルコールの怖さを改めて考えるべきだと思います。

 アルコールと同様に最近問題視されているのがいわゆる脱法ハーブです。渋谷やアメリカ村といった若者の集まる街には「ハーブあります」などという看板がかかげられていて、そのショップでは簡単に脱法ハーブが買えるそうです。「ハーブ」というと聞こえはいいですが、なかには覚醒剤と同じような成分のものもあり、大変危険です。

 この脱法ハーブに伴う事故(事件)が相次いでいます。例えば今年(2012年)2月には名古屋で24歳の男性がハーブ吸入後に暴れて嘔吐物を喉につまらせて窒息死する、という事件がありました。5月には脱法ハーブを吸入した大阪の26歳の男性が危険運転をおこない二人の女性をはねる、という事件もありました。東京では今年(2012年)1月~5月の脱法ハーブでの救急搬送が2011年の20倍にもなる、という報道もあります。

 脱法ハーブのというのは、違法薬物と化学構造がわずかに異なることで「違法」とされないものであり、大変危険なものもあります。幻覚をみたり、パニックに陥ったり、衝動的に自分や他人を傷つけてしまうこともあります。

 私は、NPO法人GINAの関係で、覚醒剤で人生を台無しにしてしまった人たちをたくさんみてきました。きっかけは針の使いまわしでHIVに感染した人たちに話を聞きだしたことですが、その後HIV感染の有無に関係なく、日本人も含めて覚醒剤に依存している人たちの話を聞くことになりました。そこで分かったことのひとつは「日本ほど覚醒剤に寛容な国はない」ということです。タイで知り合ったある日本人の元ジャンキーは、「日本に帰ると覚醒剤に手を出してしまうから帰れない」と言っていました。日本ほど覚醒剤が簡単に手に入る国はないそうなのです。

 実際、医師をしていると(老若男女問わず)覚醒剤依存症の人たちがいかに多いかを痛感させられます。若い人たちは、覚醒剤とは呼ばず、スピードとかエスとか呼び、まるでサプリメントのような感覚で吸入(もしくは内服あるいは注射)しています。そもそも日本は世界で唯一覚醒剤(ヒロポン)が合法であった国でありますが、いまだにこの悪しき慣習から抜け出せていないのです。ちなみに、サザエさんの初期に、近所の家に預けられたタラちゃんがその家のテーブルに置いてあったヒロポンを飲んでハイテンションになってしまう、という話があります(注1)。

 覚醒剤には(おそらく)世界一甘い日本ですが、大麻に関しては”微妙”です。覚醒剤と同様、大麻も日本で簡単に入手できるそうですが、日本の特徴は覚醒剤と大麻の「垣根」がほとんどないということです。大麻も違法であり容易に手を出すべきではありませんが、欧米やオーストラリア、アジアの若者と話をすると、彼(女)らの多くが大麻をそれほど悪いものと考えていないことが分かります。しかし(良識のある?)彼(女)らは、覚醒剤は絶対にNG、と言います。つまり、大麻の危険性と覚醒剤のそれとがまったく異なることをよく理解しているのです。なかには、「アルコールやタバコは身体に悪いからやらない。健康のことを考えて私は大麻しかやらない」という人までいます。

 一方、日本人にはこの「感覚」がほとんどありません。例えば『週刊文春』は最近女優Sが大麻に依存していたことをスクープして話題を呼んでいますが、記事を読んでみると、覚醒剤使用で2009年に逮捕された女優Sや、同じく2009年にMDMAで逮捕された俳優Oと同じような扱いで文章が書かれています。私は大麻の女優Sを擁護するつもりは一切ありませんが、これを読めば「大麻と覚醒剤は”同じように”危険なもの」という印象を読者に与えかねません。

 周知のように大麻は一部の国では合法ですし、禁止の国であっても、例えばカリフォルニアでは医療機関を受診し希望すれば、実質誰でも大麻を処方してもらうことができます。また、海外では一部の難治性の病気の治療に積極的に大麻を使用することもあります。

 大麻を条件付けで合法にすべき、という意見は昔からあり、これは改めて検討すべきですが、議論には相当な時間がかかるでしょう。我々が直ちにすべきことは、アルコール、脱法ハーブ、そして覚醒剤の危険性を改めて認識することです。そのときに、これらに比べて危険性の低い(注2)大麻を同列に論じると事の本質が見えにくくなる、ということもきちんと理解すべきです。

 もっとはっきり言うと、脱法ハーブや覚醒剤はもちろんですが、アルコールも大麻以上に危険な薬物になり得る、ということを認識すべきなのです。

注1:この話は『サザエさん うちあけ話似たもの一家』(朝日新聞社)に掲載されています。ハイテンションになったタラちゃんをみた周りの大人たちが「そ~ら、ゆううつがふっとんだよ」と言い、タラちゃんを迎えにきたサザエさんは、「はじめてですワ。(タラちゃんが)こんなにはしゃいだこと! ありがとうございました」とお礼を言い、帰り道ではタラちゃんに「ほんとによかったネ」と言っています。

注2:「大麻はアルコールより危険性が低い」と言ってしまうのは乱暴かもしれませんが、身体依存、精神依存ともより依存性が高いのはアルコールとされていますし(異論もありますが)、例えばアメリカでは、アルコールがハードドラッグの入り口になることが多いのは事実です。下記コラムも参照ください。

参考:GINAと共に
第53回(2010年11月) 「大麻合法化を巡る米国と覚醒剤に甘すぎる日本」
第34回(2009年4月) 「カリフォルニアは大麻天国?!」        
第29回(2008年11月) 「大麻の危険性とマスコミの責任」      
第13回(2007年7月) 「恐怖のCM」

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2013年6月14日 金曜日

2012年5月号  セルフ・メディケーションのすすめ~薬を減らす~

 忙しくて医療機関を受診する時間がない人は、その症状が軽症であれば、薬局で薬剤師に相談して薬を使うようにしましょう。そして、それができるひとつの疾患が(軽症の)花粉症ですよ、という話を前回しました。

 セルフ・メディケーションの定義については諸説ありますが、おおまかにいえば「(医療機関に頼るのではなく)自分自身で健康を管理し、可能であれば薬局の薬などで病気を治す」となると思います(注1)。

 ですから、セルフ・メディケーションの主要な柱のひとつが「処方箋なしで入手できる薬(OTC)を薬局で買って有効に使う」というものです。しかしこれは、「薬に詳しくなりましょう」とか「困ったときにはまず薬剤師に尋ねましょう」と単純に言って解決するようなものではありません。

 なぜなら、薬というのは「原則として使わない方がいい」からです。もちろん、必要なときには適切なタイミングで適切な量の薬を用いるべきですが、どんなときにも薬は最小限にすることを考えなければなりません。「何かあっても薬があるから安心・・」というのは安直すぎる考えです。

 我々医師も薬の処方を最小限にすることを常に考えています。しかし、にもかかわらずたくさんの薬を飲んでいる患者さんが少なくないというのが現実です。というわけで、今回お話したいのは、「薬を減らしていくことを考えましょう」というものです。けれども、その話をする前に、なぜこんなにも薬の処方量が多いのか、を考えていきたいと思います。

 薬の処方量が多い(多すぎる)のは医師に責任があります。たしかに、「患者さんが薬をほしがるから・・・」という理由はありますが、ほしがる薬をそのまま処方するのであれば医師がいなくても薬局があれば事足りるわけで、いかに処方を少なくするかが医師の腕のみせどころのひとつです。

 では、なぜ処方薬が増えてしまうのかというと、その最大の理由は「薬を処方しないことが医療の差し控えと思われかねないから」というものです。つまり、薬を処方しなければ治療を放棄していると捉えられるのではないか、という懸念が医師の側にあるのです。実際、「今のあなたの状態に薬は必要ありません」と言うと納得されない患者さんがいます。ある医師は、「えっ? お金払うのあたしですよね」、と患者さんから言われて大変驚いたそうです。

 しかし、これは患者さんとじっくり話をすることで解決できることが多いのも事実です。ですから、充分な時間をかけて患者さんと話をすれば、なぜ薬を安易に使うべきでないか、ということもほとんどの場合はわかってもらえます。「とにかく薬をください」と強く主張する患者さんも、よくよく話を聞いてみれば、それは病気に対する不安が強いためで、薬を飲めばその不安が解消できるのではないか、と考えているという場合も多いのです。ですから、私の場合は、「すぐには無理だとしても将来的には薬を減らしていきましょうね」、ということを患者さんとまずは話すようにしています。(注2)

 さて、どのような薬をやめていくべきか、ですが、覚えておかなければならないのは「自分の判断で薬を減らさない」ということです。薬によっては、何があっても絶対に飲まなければならないものもあれば、調子がよければ自分の判断で減らしていいものもあります。また、自分の判断で増やしていいものもあります。私の経験上、これが理解できていない患者さんが非常に多いのです。もちろんこれは説明不足の医師の責任ですが、患者さんの側からみても、「この薬は調子がよくなっても飲まなければいけないのか、やめてもいいのか」、ということはあらかじめ確認しておくべきです。

 処方箋や薬の手帳には例えば「1日2回朝夕食後」と書かれていますが、これだけで納得してはいけません。絶対に飲まなければならないのか、やめてもいいのか、の確認も必要ですし、食事を抜いてしまったときはどうするのか、無理にでも何か食べた方がいいのか、水だけで飲んでもいいのか、なども確認しておかなければなりません。頭痛もちの人なら普段飲んでいる頭痛薬との飲み合わせは大丈夫か、ということも理解していなければなりません。

 減らしたい薬があれば、あるいは全体として減らしていきたければ医師に相談するようにしましょう。薬を減らしたいのは医師も同じですから、適切なアドバイスがもらえるはずです。

 私が日々患者さんをみていて減らしたいなと感じる薬の代表が生活習慣病、すなわち、高血圧、高脂血症、糖尿病、高尿酸血症などの薬です。なぜ、減らす(もしくは止める)ことを考えるかというと、これらは生活習慣を改善することで不要になることもしばしばあるからです。症例によっては、「この薬は飲み始めると基本的には一生飲まなければなりません」と話して処方するものもあり、生活習慣病が遺伝的な要因が強い場合はたしかにその通りになるのですが、文字通りの”生活習慣”病であれば、運動や食事の見直しで薬が不要になることが多いのもまた事実なのです。

 生活習慣病の薬以上に、減らしたい!、と思うのが精神症状に対する薬です。太融寺町谷口医院にも、不眠、不安、うつ、イライラなどで通院されている患者さんは少なくありません。こういった症状に対しても、もちろん必要であれば薬を使うべきですが、その量と飲む期間には充分注意しなければなりません。なぜなら、こういった症状に対して用いる薬のなかには依存症をつくるものも少なくないからです。例えば、ニコチン依存症の人がニコチンが切れてイライラしているときにタバコを吸うと落ち着けるのと同じように、抗不安薬がないと不安やイライラが消えないような状態になってしまうことがしばしばあります。いわば精神症状に対して用いる薬による薬物依存症ができあがってしまうのです。

 2000年代になって、抗うつ薬を中心とした精神疾患に用いる薬が急激に増えているというデータがあります。これをどのように捉えるか、ですが、「これまで医療機関を受診することをためらっていた人も受診できるようになったからいいことだ」とみる向きもあります。しかし、この考えが正しいとすれば、社会からうつ病や不安神経症などの精神疾患が減少し、自殺者も減っていなければなりません。しかし実際は、言わずもがな・・・、です。

 誤解を恐れずに言うならば、社会全体が精神症状に対して過敏になりすぎて、安易に薬をほしがる人と安易に薬を処方する医療機関が増えているのではないか、という見方を私はしています。たしかに、必要な場合には薬を用いるべきであり、「それくらいは気合いで乗り切れ!」などと言ってはいけません。しかし、最近の患者さんのなかには、「自分はPTSDです」「親のせいでアダルトチルドレンになりました」「ADHDだから仕事ができないんです」「自分は発達障害なのに営業職につかされている」「うつは励ましてはいけないのに上司にがんばれと言われて困っている」などと語る人があまりにも多いように思えます。また、医師の側も、「本当に薬が要るのか・・・」と思わざるを得ない処方をしていることも(正直に言えば)あります。(注3)

 もちろんいくつかの症例では薬が有効となることもあるでしょう。しかし、大半のケースでは、薬ははじめから不要、あるいは少量を短期間のみ、にしておくべきです。特に、原因のはっきりしている精神症状に対しては、薬が解決してくれるわけではありません。私は、以前あるうつ病の患者さんに、「前の病院ではうつ病と診断されたけど、自分がこうなったのはリストラされて仕事がないからであって、処方された薬は何も利かなかった。仕事をもらえるならすぐに元気になる」と言われたことがありますが、これは正しいでしょう。また、別のある患者さんは、もっと率直に「(薬でなく)金をくれたらうつは治る」と言っていました。

 現在薬をたくさん飲んでいる人は、いずれ量を減らしていき最終目標はゼロ、ということを改めて考えてみるべきです。医師も同じことを考えているわけですから、しっかりと話をしてみてください。

 セルフ・メディケーションでは「薬を飲むこと」以上に「薬を減らすことを常に考えること」が重要なのです。

注1:セルフ・メディケーションの定義で最も普遍的なのはWHOが定めているものかと思われます。興味のある方は下記URLを参照ください。
http://apps.who.int/medicinedocs/en/d/Js2218e/1.html

注2:「医療機関はたくさん薬を処方すれば儲かるから処方するのではないか」と考えている人がいますがこれは完全な誤解です。そもそも医師の使命は(本文で述べているように)いかに薬を減らすか、ということにありますし、経営的な観点からみても薬を処方して利益がでるわけではありません。ほとんどの薬は利益が1%未満であり、例えば1錠100円(3割負担で30円)の薬があったとすれば医療機関の利益は1円未満です。在庫のリスクと仕入れの手間を考えれば赤字になることはあっても利益はでません。薬の利益がゼロでも「処方料」と「調剤料」というものが算定されますが、これらの合計は「処方箋発行料」よりも安いのです。すなわち、医療機関から経営的観点で考えれば、院内処方を中止し院外処方にして処方箋を発行するのが最も利益になるのです。そして「処方箋発行料」は薬の量が少なくても多くても同じです。ですから、結局のところ、院内処方であっても院外処方であっても「処方薬が多ければ医療機関は儲かる」ということはありえないのです。

注3:私は前医の診察を見ていないので前医を非難することはできません。ですから、「そのときにはその薬が必要だった理由がある」、とは思います。しかし、患者さんの方が薬の必要性を感じていないのに続けて薬が処方されていて、なぜ必要なのかの説明もなされていないということもしばしばあります。患者さんの側からすれば「できるだけ薬を減らしたい」と思っているのですが、医師は「わざわざ病院まで来ているんだからこの患者も薬を求めているに違いない」と思い込んでいるのかもしれません。

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