2026年10月18日 日曜日

2026年10月18日 乳児の感染症予防には母乳が有利

 「母乳の方が赤ちゃんの健康にいいですよ」という言葉は、母乳を出したくても出ない女性、あるいは(例えば向精神病薬など)母乳に移行する薬を手放せない女性を傷つけることになります。よって、あまり大きな声では主張しにくいのですが、診察室で質問されたときには「できるだけ母乳をあげるようにしましょう」と私は答えています。メールで相談を受けた場合もそのように案内していますし、読者が限られているメルマガでもそう伝えています。

 しかし最近は、母乳を広く勧めることが、母乳をあげられない女性を傷つけるよりもむしろ、そのような気配りがかえって母乳をあげられない女性に失礼になる場合も多いと考えるようになり、診察室やメルマガ以外でも正しい知識を伝えていくようにしています。

 すでに、今年の7月の医療ニュース「生まれるなら長男か長女が有利な理由は感染症」では、「母乳を6か月以上与えられた場合、疾患に罹患するリスクが大きく低下する」という研究を紹介しました。

 今回取り上げるのも「母乳は感染症の予防になる」という論文です。タイトルは、2026年10月に科学誌「Science Advances」に掲載された「母乳由来のポリクローナル分泌型IgAは、複数の呼吸器ウイルスに対して広範な抗ウイルス防御をもたらす(Polyclonal breast milk–derived secretory IgA confers broad antiviral protection against multiple respiratory viruses)」です。

 論文では、ヒト母乳プールから抽出したポリクローナル分泌型IgA製剤「LCTG-001」の試験結果が紹介されています。

 先に語句を説明します。「ポリクローナル」とは、定義としては「多数の異なる抗原に対する」という意味です。対義語が「モノクローナル」で、モノクローナル抗体といえば、1つの抗原(≒1つの病原体)に対する抗体(その病原体を攻撃する蛋白質)です。つまり「ポリクローナル抗体」は、様々な抗原(≒様々な病原体)を攻撃できる多数の抗体が混ざった物質と考えれば分かりやすいと思います。

 次にIgAについて。血中で病原体を攻撃する抗体がIgG抗体なのに対し、鼻や腸などの粘膜ではIgA抗体が主役となり、病原体の侵入口で感染を防いでくれます。

 よって「ポリクローナル分泌型IgA製剤」とは、「粘膜で待機して、多数の病原体とその場で戦ってくれる薬」と考えれば分かりやすいと思います。そして、その製剤の名前が「LCTG-001」と命名されている、というわけです。

 LCTG-001は、RSウイルス、アデノウイルス、インフルエンザA型ウイルスなど、臨床的に重要な呼吸器感染をもたらす複数のウイルスに対して抗ウイルス活性を示しました。また、新型インフルエンザ(高病原性H5N1亜型)にも免疫応答を呈しました。

 その夢のような万能薬LCTG-001が母乳に含まれているというわけです。

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 母乳からそんな夢みたいな成分が抽出できるなら、母乳が出ない女性は、製薬会社にその薬をつくってもらって赤ちゃんに投与すれば済む話では?と思えてこないでしょうか。たしかにその通りで、だからこそ現在製薬会社が母乳を集めてこの薬を販売できるように研究を続けているわけです。

 ただし、一般にポリクローナル抗体は高価です。ポリクローナル抗体として使用されている薬品で有名なものに、例えばB型肝炎ウイルスの免疫グロブリンがあります。これは1バイアル10万円近くします。LCTG-001の製品化が現実的になったとしても、まず母乳を集めるのにそれなりの費用がかかるでしょうし、製品として完成するにはまだまだハードルがあります。それに、今回この論文で報告されたのはマウスの実験の話です。今から数年以内に生まれてくる赤ちゃんには間に合いません。

 そう考えると母乳というのは、母親が自分の赤ちゃんにあげるぶんには(母親がしっかり栄養を摂る必要があるため無料とは言いませんが)低コストで、しかも安全性の確立したポリクローナル抗体を含むスーパードリンクと言えるわけです。

 母乳は人工乳に比べ、アレルギー疾患を予防し、肥満リスクを低下させ、糖尿病や小児白血病のリスク低減にもつながると言われています。最近は人工乳がかなり栄養価に富むすぐれたものになってきていますが、やはり母乳にはかないません。どうしても母乳があげられない事情がある場合は止むを得ませんが、可能な限り母乳を検討すべきです。

 

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2026年10月18日 日曜日

第278回(2026年10月) 早い閉経は認知症のリスク、ホルモン補充療法が有効

 2026年4月の「はやりの病気」(「『ホルモン補充療法(HRT)は安全』が世界の見解に」)で取り上げたこともあり、更年期前後、あるいはそれ以上の年代の女性から、ホルモン補充療法(以下「HRT」)についての相談・質問が増えています。

 なかでも「ホルモン補充療法は危険だと思っていたけれどそんなに安全なのでしょうか」というコメントがよく聞かれます。もっとも、これは当然だと思います。上記のコラムでも述べたように、私自身が以前はHRTに反対していたのですから。

 最近、ますますHRTの有効性と安全性に注目が集まっています。まず、2026年8月に医学誌「Alzheimer’s & Dementia」に掲載された「閉経後女性におけるホルモン補充療法と認知症リスク:UK Biobankにおける反応性の高いサブグループの特定(Hormone replacement therapy and dementia risk among postmenopausal women: Identifying responsive subgroups in the UK Biobank )」の要点を紹介しましょう。研究の対象者は「UK Biobank」というデータベースに登録された閉経後女性183,450人で、平均追跡期間は13.3年です。

・HRTはあらゆる原因による認知症リスクを1割下げる

・外科的閉経(手術で卵巣の両側または片側を摘出)の場合、HRTは認知症のリスクを26%低下させる

・ApoEをε4保有者で保有する場合、HRTは認知症のリスクを13%低下させる

・生涯を通してエストロゲンの分泌量が少ない場合、HRTは認知症のリスクを16%低下させる

・46~56歳の間にHRTを開始した場合に、最大の恩恵が得られる

 閉経が早ければ、全般的認知機能とエピソード記憶の低下が速く、アルツハイマー病のリスクが上昇することは最近では周知の事実となってきています。最近の論文を紹介しましょう。同じく2026年8月に医学誌「JAMA Network Open」に掲載された「高齢女性における閉経年齢と脳萎縮(Age at Menopause and Brain Atrophy Among Older Women)」です。

 研究の対象者は「Religious Orders Study」および「Rush Memory and Aging Project」という2つのデータベースの登録された女性で、最長18年間追跡されています。解析対象は、認知機能データが得られた女性2,603名です。閉経年齢が早ければ、全般的な認知機能低下の進行が早く、エピソード記憶の低下が早く、アルツハイマー病の診断時期が早いことが分かりました。自然に閉経した場合よりも外科的閉経(手術で卵巣を摘出したことで起こる閉経)の場合に、より顕著であることも分かりました。

 似たような研究は他にもあります。2019年に医学誌「Neurology」に掲載された論文「医療従事者から成る多様なコホートにおける生殖可能期間と認知症リスク(Reproductive period and risk of dementia in a diverse cohort of health care members)」によると、初経年齢が13.0歳の場合と比較して、初経年齢が16歳以上であった場合は認知症発症リスクが23%、47.4歳未満で自然閉経した場合は19%、子宮を摘出していれば8%上昇していたことが分かりました。

 閉経前の卵巣摘出(両側の場合だけでなく片側摘出も)は、認知症のリスクを高め、摘出時の年齢が若いほど、また術後にホルモンを使用しなかった場合ほど、リスクが大きくなるとする報告もあります。閉経前に卵巣を摘出した全人数でみると認知障害または認知症のリスクが46%も増すとされています。

 次に、HRTの「限界」もみておきましょう。閉経前後にHRTを開始した場合、心血管疾患の予防になることが指摘されています。ところが、International Menopause Society (=IMS=国際更年期学会)によると、「閉経から10年以上経過した後に開始した場合には心血管系疾患に対する効果は認められない」とされています。

 「危険性」も確認しておきましょう。まずは「血栓症」について。2019年に医学誌「BMJ」に掲載された有名な論文「HRTの使用と静脈血栓塞栓症のリスク:QResearchおよびCPRDデータベースを用いた研究(Use of hormone replacement therapy and risk of venous thromboembolism: nested case-control studies using the QResearch and CPRD databases)」をみてみましょう。

 研究の対象者は1998年から2017年の間に静脈血栓塞栓症と診断された40~79歳の女性80,396人です。対照グループは年齢などの条件を合わせた391,494人の女性です。HRTの内服(経口投与)の場合、HRTを実施すると、実施していないグループと比較して、静脈血栓塞栓症のリスクが58%増加することが分かりました。

 他方、貼付薬(経皮製剤)の場合、リスクとは関連していませんでした。

 血栓とならぶもう1つのリスク「乳がん」をみてみましょう。英国の女性向け健康情報提供団体「Women’s Health Concern」(=WHC)は、2024年11月に公開されたNICE(=National Institute for Health and Care Excellence=英国国立医療技術評価機構)のガイドライン(NG23)「更年期:特定と管理(Menopause: identification and management)」の改訂版を受け、50~59歳の乳がん発症リスクを比較しています。各リスクが、女性1,000人あたりどれだけ発生率に差を及ぼすかを分かりやすくグラフにまとめています。今後5年間で乳がんを発症する女性の推定人数の比較です。

 HRTの使用や低用量ピルの使用はたしかに乳がんのリスクを上昇させますが、BMI30以上の肥満に比べればかなり小さいと言えるでしょう。飲酒がHRTよりもハイリスクであることも分かります。運動による乳がんリスクの減少率はHRTを上回るようにみえますから、「HRTでリスクがやや上昇するけれど運動でカバーする」という考えは理に適っています。

 他方、HRTの危険性が気になる研究もあります。2019年に「The Lancet」に掲載された「閉経後HRTの種類・開始時期と乳がんリスク(Type and timing of menopausal hormone therapy and breast cancer risk: individual participant meta-analysis of the worldwide epidemiological evidence)」です。

 調査対象は1992年1月1日から2018年1月1日までの期間中に公表されている情報源から抽出した、閉経後に乳がんを発症した108,647人です。このうち55,575人(51%)がHRTを使用した経験がありました。発症時の平均年齢は65歳で、膣錠以外のすべてのHRT(内服、貼付薬、ジェルなど)において、乳がんリスクの上昇が認められました。このリスクは使用期間が長くなるほど増加し、エストロゲン単独製剤よりも、エストロゲン・プロゲストゲン併用製剤の方がリスクが大きいことが分かりました。

 「エストロゲン単独製剤よりも、エストロゲン・プロゲストゲン併用製剤の方が乳がんのリスクが大きい」と言われても、子宮がある女性がエストロゲン単独製剤を使うと子宮体癌のリスクが大きく増加します。よって、原則としてエストロゲン・プロゲストゲン併用製剤を使用すべきです。

 冒頭で述べたコラムで紹介した米国FDAが2026年2月に公表したページでは、乳がんに関するリスクが、FDAが定める最重要警告「boxed warning」から削除されていますが、家族歴がある場合、肥満や飲酒など他の乳がんのリスクがある場合などには、HRTには慎重になった方がいいでしょう。

 他方、血栓のリスクは内服を避けて貼付薬にすることで避けられそうです。そのあたりも含めて総合的な判断が必要になります。

 

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2026年10月1日 木曜日

2026年10月1日 米国、若年者の脳梗塞が急増。原因は大麻か

 米国では、20歳から54歳の脳卒中発症率が、1993年から2020年の間にほぼ倍増していることが分かりました。医学誌「Neurology」2026年9月23日号に掲載された「若年者の脳卒中 集団ベースの研究における経時的な発生率、30日症例致命率、および危険因子(Stroke in the Young Incidence, 30-Day Case Fatality Rates, and Risk Factors Over Time in a Population-Based Study)」を紹介します。

 この研究では、米国の5つの地域での20歳~54歳の脳卒中発症者を経時的に調べたデータが解析されています。対象期間は1993年~2020年です。この期間中に初回脳卒中発症例が2,076例特定されています。調査開始時の1993年から1994年においては、人口10万人・年あたり33.90人でしたが、2020年には62.18人と大幅に上昇していることが分かりました。

 一方、高齢者では脳卒中発症率が低下していました(1993年から1994年は人口10万人・年あたり618.78件、2020年は453.04件)。

 脳卒中には、脳梗塞、脳出血、くも膜下出血があります。このなかで増えているのが脳梗塞で、1993年から1994年の10万人・年あたり23.8人から、2020年には47.3人と約2倍に増加していました。他方、脳出血、くも膜下出血は減少しています(それぞれ27.5%→21.2%、27.9%→18.6%)。

 もうひとつ興味深いのは、若年者の脳梗塞は大幅に増加しているものの、救命率は向上していることです。発症30日以内の致命率は、1993年から1994年が11.7%だったのに対し、2020年には9.4%へ減少しています。

 では、なぜ若年者の脳梗塞が増えたのか。論文によると原因は4つ。高血圧、糖尿病、心房細動、薬物等の使用です。この論文を報道したCNNによると、具体的には、高血圧が原因の脳梗塞は47%→60%と増加、糖尿病は19%→26%、心房細動は1%→6%、薬物使用は5%→40%です。

 最も大きく上昇しているのは薬物使用で8倍にもなります。CNNと同様、この論文を紹介しているHealth Dayは、薬物のなかでも「大麻による影響が最も大きい」としています。

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 この論文だけで、「若者の大麻使用が増加 → 脳梗塞増加」と断定できるわけではありませんが、可能性は多いにあるでしょう。そして、日本でも若年者の大麻使用者が大幅に増えています。私の肌感覚で言えば、見つかっていないだけで、実際には確実に、しかも大きく増加しています。米国は(多くの地域で)大麻が合法であり、また違法の州であっても調査で大麻使用を認める人たちが多いのに対し、日本では大麻取締法の存在が大きいですから、使用者の多くはそれを隠し、調査では正直に答えません。

 日本でもこれだけ大麻使用者が増えている現状に鑑みると、米国と同じように若年者の脳梗塞が増加していくのではないでしょうか。尚、オランダ、フランスにも若年者の脳梗塞が増加しているとする報告があります。

 救命率が上昇したのは喜ばしいことですが、脳梗塞は何らかの後遺症を残すことが多く、若年時に発症するということは、残りの長い人生を障害を抱えて生きていかねばならないことを意味します。

 

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2026年10月1日 木曜日

2026年10月 認知機能低下が進む時、友人の傍での自殺は許されるか

 あらかじめ予想していたことではあったのですが、1年前のマンスリーレポート「私が安楽死に反対するようになった理由(前編・後編)」で、安楽死に反対するという意見を公開したところ、反対意見が相次いで寄せられました。私が「反ワク」呼ばわりされて大量の誹謗中傷メールが届いた2021年の夏に比べれば比較にならないほど穏やかなのですが(尚、私は新型コロナワクチンに反対しているわけではなく、私自身は初回から毎年接種しています。「未知のワクチンには注意が必要」と述べただけなのですが、当時の世論は私を「反ワク」と糾弾しました)、「安楽死は本人が決めるものだ」「どのように死ぬかを決めるのは個人の自由だ」、あるいは「あんたは医者のくせに本当に苦しんでいる患者を知らないのか?」というややけんか腰のコメントもありました。

 そのコラムでも述べたように、過去の私は、安楽死どころか「自殺の自由」も認められるべきだ、という考えをもっていました。その考えが変わったきっかけは「人間には生まれてこない自由はない」に気付いたことです。「生まれてこない自由がないのは自明なのだから、自殺する自由もなくて当然だろう」と考えるようになったのです。ただし「条件」をつけています。そのコラムでも述べたように、「自殺(安楽死)を希望していて、死んでほしくないと考える人が世界に一人もいないこと」という条件を満たすのであれば、自殺や安楽死が許されるのではないかという考えは今も持っています。

 ただ、そのような人は実際に存在するでしょうか。私がその人の主治医であれば、私自身がその人に自殺や安楽死で生涯を終えてほしくありません。私以外にも、少なくともカトリック教徒の人たちがその人に関わっていればやはり自殺や安楽死に反対するでしょう。私自身はキリスト教徒ではありませんが、他者の殺人に手を貸すことはできませんし(安楽死は英語でeuthanasiaと呼び、これは専門用語というよりは日常的に使われる単語ですが、mercy killing、つまり「慈悲ある殺人」と呼ばれることもあります)、人為的に死を早める行為には賛成できません。

 そういうわけで、自殺または安楽死を望んでいるという人に対して、私は「死は自然なものであるべきで、自ら終わらせる自由はないとする考えをどう思いますか」と聞いてみたいのですが、もしも、この人の認知機能が低下している場合はどうすればいいのでしょうか。現行の法律で安楽死が認められている国であっても「本人の意思」は必要です。認知機能が低下して意思が確認できないときは対象外となります。ですから、安楽死を希望するのなら認知機能が低下する前に意思を表明していなければなりません。

 では、認知機能が日ごとに低下していくことを感じている人が、最低限の認知機能を保っているうちに終わらせたいと考えたときはどうすればいいのでしょうか。2026年4月にThe New York Timesに掲載された興味深い記事「あなたの傍で人生を終えてもいいですか?(May I End My Life With You?)」を取り上げて検討したいと思います。まずはこの記事(というかコラム)を簡単にまとめてみます。

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2023年12月中旬、Beth Mazurという名の中年女性が筆者(おそらく同世代の中年女性)の住むサンタフェにやってきました。筆者と夫のJohnは、ちょうど家の横に小さなゲストハウスを建てたばかりでBethを歓迎しました。筆者とBethが過去に会ったのはほんの数回、しかも短時間でした。Bethの滞在予定は5日間でしたが、その5日間が終わる頃には、Beth、筆者、Johnの3人はすっかり仲良くなり、筆者はクリスマスまでそのまま滞在するよう提案しました。Bethは猫のLao、犬のRooともすっかり仲良くなっていました。

Bethと筆者の出会いは12年前に遡ります。あるオンラインの患者グループがきっかけでした。Bethも筆者もME/CFS(筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群)と呼ばれる難治性の慢性疾患に罹患していたのです。Bethはマサチューセッツ工科大学卒業でコンピュータの科学者、筆者は科学ジャーナリストという背景もあり、二人は気が合ったのかもしれません。BethはME/CFSの患者団体を設立し精力的に活動を広げ、筆者は科学ジャーナリストとしてME/CFSに関する記事や書籍を上梓していました。

Bethがゲストハウスに滞在している間、筆者はBethの痛みの部位をマッサージするようにしていました。同じ疾患に罹患しているわけですから、どの部位がどのように痛み、どのようなマッサージが効果的なのかがよく分かるのです。滞在中、Bethの様態が悪化したわけではなく、筆者と二人でスパに出掛けることもありました。

クリスマス直前の冬至の夜、3人で焚火を囲んで話し込みました。その翌朝、筆者のもとにBethからメールが届き、Bethの認知機能の検査結果が添付されていました。ある項目ではBethの成績は下位1パーセントタイル、つまり最下層に位置付けられていました。そのメールを読んでいるとき、FedExの配達員がドアをノックしました。Bethが注文したチョコレートでした。そして配達員が奇妙なことを口にしました。「あそこで誰かが横たわっているのを知っていますか?」

Bethは凍った小川のそばに横たわっていました。周囲には何かの残滓がこびりついた空のグラスが置かれていました。変わり果てたBethを見つけた直後、筆者に次のメッセージが届きました。その時間に送信されるよう設定されていたのです。

「どうかご自身を責めたり、心を痛めたりしないで。私にとって昨日の夜はこれ以上ないほど満ち足りた、かけがえのない最後のひとときだったの。RooもLaoもそばにいてくれて、一緒に寄り添い、優しさを紡いでくれたのよ(Please don’t feel bad in any way ? I cannot imagine a better last evening. Even Roo and Lao joined in the nurturing.)」

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 筆者はBethの自殺を受け入れたのでしょうか。この点について記事でははっきりとは書かれていませんが、「彼女の選択に賛成か反対かに関わらず、それを受け入れ、彼女の死後に彼女が築いたコミュニティを大切にすることこそが、彼女への愛の形なのだ」と筆者は述べています。Bethの死を受け入れ、これからもBethへの「愛」を示し続けることを誓っているのです。

 ですが、これをハッピーエンドと捉えていいのでしょうか。そして、死後Bethの気持ちを受け入れたからといって、自宅のすぐ近くで親友(と呼んでいいでしょう)が自殺を遂げたことは間違いなく、筆者及び夫のJohnの記憶から消えることはありません。筆者やJohnは、例えば「なぜあの夜Bethがゲストハウスで眠りについたことを確認しなかったのだろう」、あるいは「自分たちにBethのために何かできることがあったのではないだろうか」などといった自責の念に苦しむことはないでしょうか。

 一方で、認知機能が落ちていくBethの気持ちも理解しなければなりません。Bethはあの夜、焚火の前で筆者に対し「もし自分の人生を終わらせてしまえば、愛する人たちをどれほど傷つけることになるかは分かっているつもり。でも、それじゃああたしはただ他人のために生きているだけ……」と述べています。

 Bethは「愛する人たちを傷つけること」を選択しました。しかし、認知機能が落ちていく自分の姿に耐えることができず絶望していました。「それでも生きる」という選択は死ぬことよりも遥かに辛いはずです。そんな「死ぬことよりも遥かに辛いこと」に耐えなければならない人を目の前にしたときに「それでも死なないで」と言えるかどうか……。

 安楽死の議論では、「激烈な痛みに耐えなければならないなら早く死にたいと考える患者の希望を聞くべきだ」という意見がでます。しかし、この問題はかなりの部分で「強力な鎮痛と鎮静」をかければ対処できます。単に痛みを取るだけではなく、強力な鎮静(heavy sedation)をかけて意識レベルを落とすのです。意識がなければ生きていることにはならないではないか、とする意見もありますが、目の前に横たわる大切な人が呼吸をして心臓が動いていて皮膚が暖かければ生きていることを実感できるという人も少なくないでしょう。

 一方、「認知機能が衰えていく辛さ」に対しては、鎮痛も鎮静も効果がありません。大切な人がそのような状態になったとき「それでも私のためでもいいから生きていて!」と言う人もいるでしょうが、「あなたがそこまで言うなら先に逝ってらっしゃい」と考える人もいるかもしれません。その場合、安楽死は認められるべきでしょうか。私は現在安楽死にも自殺にも反対の立場ですが、この状況でも反対し続けるべきかについては結論が出せていません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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