2025年10月16日 木曜日

第266回(2025年10月) 難治性のSIBO、胃薬の見直しと運動で大部分が改善

 SIBO(=Small Intestinal Bacterial Overgrowth=小腸内細菌異常増殖症)についての問い合せが増え始めたのは、ちょうど新型コロナウイルスの流行が始まりかけた頃だったと記憶しています。SIBOは2000年代後半頃より医療者の間ではしばしば話題に上るようになった疾患で、確実に患者数は増えているのですが、検査法も治療法もはっきりしていないためになかなかとっつきにくい病気だと言えます。今年(2025年)になり、このSIBOに対する問い合わせがなぜか加速度的に増えていますので「はやりの病気」で取り上げることにしました。

 SIBO(通称「シーボ」と呼ばれます)は、病名が物語っているように「小腸内で」「細菌が異常増殖する」疾患です。ときどき「腸内にはたくさんの細菌がいて……」と考えている人がいますが、細菌が生息しているのは小腸ではなく大腸です。基本的に小腸には細菌はあまりいません。無菌ではありませんがあまり多くはないわけです。その小腸内で細菌が異常増殖すると、様々な不快な症状が出現します。

 まず「下痢」と「腹部膨満感」は必発です。腹部膨満感がさらに悪化して「膨隆」(自覚だけではなく我々が診察してもおなかが膨れている状態)を起こしていることもあります。患者さんによっては「おならが出すぎる」あるいは「げっぷが止まらない」と訴える場合もあります。さらに、下痢が続いた結果、体重が減っていることもあります。

 医学に詳しい人、あるいはすでに過敏性腸症候群の診断がついている人は「それって下痢型の過敏性腸症候群とどう違うの?」と思うかもしれません。たしかに、これらは似ていますし、SIBOに下痢は必発ですが、下痢と便秘を繰り返す人もいます。そして、過敏性腸症候群(=Irritable bowel syndrome 、以下「IBS」)も下痢と便秘を交互に繰り返すことがあります。

 ではどのように区別するのか。症状でいえば、まず「食後と排便で症状が増悪するか改善するか」を確認します。どちらかと言えばSIBOは食後に悪化し、IBSは排便で改善します。しかし例外も多々あり、これだけで診断できるわけではありません。げっぷが多ければSIBOの可能性が高くなりますが、SIBOの全例でげっぷがひどいわけではありません。腹部膨満感の苦痛が強ければSIBOを先に疑いますが、IBSで腹部膨満を訴える人もいます。結局のところ、自覚症状だけでSIBOかIBSかの鑑別をつけることはできないのです。さらに、診断する側としては非常に厄介なことに、IBSとSIBOを合併することも珍しくなく、一説では過半数は合併しているのではないかと言われています。

 では診断をつけるためにどうすればいいか。当院では腹部レントゲンを参考にしています。通常、典型的な(SIBOの伴わない)IBSであれば、小腸に異常はなく、大腸にガスが貯まっている像が得られます。他方、SIBOの場合はその反対に小腸ガスや小腸の拡張像が目立ちます。ただし、これらも決定的な所見となるわけではありません。

 SIBOの確定診断をつけるには小腸に細菌が異常増殖していることを確認するしかありません。そのためには内視鏡(胃カメラ)を挿入して小腸液を採取して、その液に細菌がどれだけ棲息しているかを調べなければなりません。他には「呼気テスト」と呼ばれる方法もあって、小腸内で異常増殖した細菌が発生するガス(水素やメタン)を呼気を採取して調べます。ただ、保険適用がなく日本では一部のクリニックが実施しているという噂を聞いたことがありますが、恐ろしいほど高額で(噂では10万円もするとか……)、また精度への疑問も指摘されています。大腸に存在する細菌が発生させるガスを拾ってしまいSIBOでないのにSIBOと判定されること(=偽陽性)が多く、その一方で、SIBOであってもガスが適切に検出されない例も多い(=偽陰性)という声もあります。結局のところ、SIBOに対して適切な検査があるとは言えないのが現状なのです。

 他の疾患においても、確定診断がつかなくても治療を開始する、という手があります。ではSIBOに対してはどのような治療があるのでしょうか。

 よく言われるのが、2019年のコラム「過敏性腸症候群に『低FODMAP食』は本当に有効なのか」で紹介した低FODMAP食です。このコラムではSIBOに対してではなく、IBSに対しての低FODMAP食についての報告や当院での経験を紹介しました。結論から言えば、当院での低FODMAP食によるIBSの治療成績はあまりよくありません。興味深いことに、低FODMAP食を開始した当初は症状が改善することが多いのですが、そのうちに効果がなくなっていきます。患者さんのなかには「低FODMAP食を続けるのはしんどいので、ときどき普通の食事を摂ってしまう。それが良くないのだと思います」と言う人もいます。しかし、これまで低FODMAP食を試みてきた患者さんたちをトータルで考えてみると、(あくまでも当院での事例のまとめに過ぎませんが)「低FODMAP食はIBSに長期的には有効でない」が結論です。

 それに、有効な人もいるのだとしても、先述した患者さんが実感したように、この食事療法を長期間に渡り継続するのは事実上不可能です。ヨーグルトや食物繊維が豊富な野菜(アスパラガス、キャベツ、タマネギ、ニンニクなど)、それにフルーツを生涯食べるな、と言われて納得できる人がどれほどいるのか、我々には極めて疑問です。コムギ製品や甘いものはいろんな観点からも避けた方がいいわけですが、これらも生涯食べるなと言われて同意できる人がどれだけいるでしょう。

 SIBOは小腸内に細菌が異常増殖しているわけですから「抗菌薬を使えばいい」という考えがあります。ただ、世界中でこれまでいろんな抗菌薬が試験されていますが、いい成績が出ているものはほとんどありません。唯一、リファキシミン(Rifaximin)(商品名は 「リフキシマ錠200mg」)という抗菌薬が有効とする話もありますが、日本ではこの薬剤は抗アンモニア血症に対してしか保険適応がなく、SIBOに使用するなら自費診療になります。薬価は1錠235.1円ですから、1日6錠が必要であることを考えると高すぎます。それに、診察や検査(レントゲンなど)を保険診療で、薬剤を自費診療で、というのは混合診療となってしまいますから、この薬を自費で処方するならそれまでの診察代や検査代が遡ってすべて自費請求されてしまいます。

 結局のところ、SIBOについては検査も治療も実施が困難か高額かのいずれかであり、医療者としてみればなんともとっつきにくい疾患なのです。しかし、医療者側が苦手な疾患なのだとしても、実際に困っている患者さんはいるわけです。

 ではどうすればいいか。まず、上述したように症状と腹部レントゲンからSIBOである可能性を疑います(ちなみに、SIBOを疑う患者さんに対しこれまで何度か超音波検査を試みましたが、有意な所見は得られませんでした。小腸ガスが見つかることはありますが、腹部レントゲンの方がはるかに有意な所見が得られます)。

 治療については、低FODMAP食は推薦せず(関心がある人には説明はします)、リファキシミン投与の話もせず(そもそも抗菌薬には様々なリスクが伴います)、別のアプローチをとります。まず初めにすべきは「胃薬の見直し」です。特に、PPI(プロトンポンプ阻害薬)と呼ばれる胃薬を使用している人に対してはできるだけ中止できるような対策を考えます。PPIについては本サイトでそのリスクを繰り返し指摘してきましたが、当院の経験でいえばおそらくPPIはSIBOのリスクにもなります。

 これは理論的にも理解しやすいことです。そもそも口から入る細菌はそのほとんどが胃酸により死滅します。にもかかわらず小腸で異常増殖するのはなぜか。それは「胃酸の量がふじゅうぶんで細菌が生き延びるから」に他なりません。そしてPPIはすべての胃薬のなかで最も胃酸分泌を減らす強力な薬剤です。エビデンスはありませんが、当院の経験上「PPIがSIBOの主要因ではないか」と思えるのです。

 次にすべきことは運動です。そもそも食べたものがなかなか大腸までたどり着かないから食事に混入している細菌が小腸で異常増殖してしまうわけです。ならば、腸管を速やかに動かして食べたものはさっさと大腸に送り込んでしまえばいいのです。小腸の”仕事”は膵液(膵臓から分泌)と胆汁(胆嚢から排出)に加え、小腸自身もアミラーゼ、ペプチダーゼ、リパーゼといった消化酵素を分泌して食べたものを大腸に送り込むことです。SIBOはこの動きがスムーズでなくなったことが原因で生じると考えられるわけです。ならば運動、とりわけジョギングが有効です。リズミカルに腸管に届けられる着地時の振動が腸管の動きを促すからです。

 SIBOで悩んでいる人は少なくなく、それ以前にきちんと診断がつけられていない人も大勢います。しかし、診断を待つまでもなく、まず(使用していれば)胃薬を見直し、そして運動を継続すれば、かなりの患者さんが改善するのは当院の経験上間違いありません。 

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2025年10月16日 木曜日

2025年10月17日 カリフォルニアでは「超加工食品」が学校給食禁止に

 超加工食品の危険性(と”魅力”)を詳しく紹介したのは「はやりの病気」2025年1月の「『超加工食品』」はこんなにも危険」でした。このコラムでは、超加工食品が、体重を増やし、寿命を縮め、不眠やうつを加速させ、認知症のリスクを上げることなどについて、エビデンスを示しました。また、コロンビア、ブラジル、カナダ、ペルーなどでは国を挙げて超加工食品を制限するよう取り組んでいることも紹介しました。

 他国をみてみても、例えば英国にはいわゆる「砂糖税」があります(超加工食品の多くに砂糖が使われています)。仏国では「ニュートリ・スコア(Nutri-Score)」と呼ばれる食品へのラベル貼付がおこなわれています。有害な超加工食品には赤のラベルが、加工されていない栄養に富んだ優秀な食品には緑のラベルが貼られているのです。仏国でこの制度が導入されたのは2017年、現在はベルギー、スペイン、ドイツなどにも広がっていると聞きます。

 この流れは世界で加速しています。報道によると、カリフォルニアのGavin Newsom州知事が「2035年までにすべての学校で超加工食品の給食での提供を段階的に廃止することを義務付ける」法案に署名しました。ガイダンスが各学校に配布され、2029年から段階的に廃止される予定です。

 また、同州ではすでに昨年、合成着色料6種類(赤色40号、黄色5号、黄色6号、青色1号、青色2号、緑色3号)を学校給食から禁止する法律が生まれ、2027年から施行されます。これら着色料は児童の神経疾患の原因になるとされています。これら6種の着色料のなかで最も有名なのはおそらく赤色40号でしょう。ドリトス、ゲータレード、スキットルズなどに含まれると聞いています。そして、赤色40号は児童や十代の若者の活動過多やイライラを悪化させる可能性があることが示されています。ちなみに日本では黄色6号は未認可ですが、他の着色料は量的制限はあるものの日常の食品で使われています。

 尚、The Telegraphによると、カリフォルニアの超加工食品の給食禁止は政治的な背景があるようです。いわゆる「MAHA運動」を推奨するロバート・F・ケネディ・ジュニア保健長官は今年8月までに超加工食品対策を講じると約束していましたが、先月発表された最新の報告書には超加工食品対策がはっきりと示されていませんでした。そこで、民主党に所属するGavin Newsom州知事は「カリフォルニアでは、以前から子供たちの健康を守るための対策に取り組んできた」と強調したかったようです。

 

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2025年10月16日 木曜日

2025年10月16日 その後のNDM-1とグラム染色の必要性

 最近は「昔から谷口医院のコラム、欠かさず読んでいます」と言われることが増えているのですが、では「NDM-1」を覚えている人はどれくらいいるでしょうか。NDM-1を取り上げたのは今から15年前の2010年9月。今から15年以上前の「はやりの病気」の「NDM-1とアシネトバクター」で、紹介したのはその一度きりです。今回はそのNDM-1が大変なことになっている、というニュースです。

 NDM-1の正式名は「New Delhi metallo-β-lactamase 1」で、NDM-1とは酵素の1種です。名前に地名が入っているのは最初に発見されたのがニューデリーだからです。この酵素はカルバペネムを含む強力な抗菌薬を分解します。つまり「強力な抗菌薬でも死滅しない酵素及びこの酵素をもつ細菌」がNDM-1と呼ばれるようになったのです。ただし、細菌は「-1」を付けないことが多く、単に「NDM」と呼ばれることが増えてきました。よって、ここでもNDMとします。

 NDMはときどき論文や海外のメディアでは取り上げられているのですが、これまではそれほど目立っていませんでした。しかし、2025年9月23日、米国CDCが驚くべき報告をおこないました。

 「米国ではNDM産生カルバペネム耐性腸内細菌(NDM-producing carbapenem-resistant Enterobacterales )が2019年から2023年の間に460%以上も増加している」というのです。

 「NDM産生カルバペネム耐性腸内細菌」とは、「NDMを産生して、カルバペネム系抗菌薬が効かない、腸内に棲息する細菌」のことを指します。この条件を満たせばいいわけですから、その細菌が大腸菌であってもクレブシエラであっても、あるいはサルモネラであっても当てはまります。

 カルバペネム系抗菌薬(注射薬ならイミペネム、メロペネム、ドリペネム。内服ならオラペネム)は極めて強力な抗菌薬で、ペニシリンやセフェムなどのよく使われる抗菌薬が無効な細菌にも効く、いわば「最後の砦」とも呼べる抗菌薬です。近年カルバペネムが効かない細菌が問題になっているのですが、そのなかでも「NDM産生カルバペネム耐性腸内細菌」の急増が深刻化しているのです。

 15年前のコラムでは、この細菌が「スーパー細菌(superbug)」と呼ばれていることを紹介しました。現在は、むしろ「悪夢の細菌(nightmare bacteria)」という別名が広がっています。

 「カルバペネム耐性菌」の定義は「カルバペネムに耐性のある細菌」ですから「NDMを持たないカルバペネムに耐性のある細菌」も含みます。2023年には米国23州で4,341件のカルバペネム耐性菌が発生し、そのうち1,831件が「NDM産生型」でした。研究者らは感染者の死亡者数を明らかにしておらず、これを報告した論文からは死亡率が分からないのですが、有効な抗菌薬が存在しないわけですから極めて高いことが予想されます。

 NDM産生型カルバペネム耐性腸内細菌は誰にでも感染し重症化する可能性があります。例えば、15年前のコラムでも紹介したアシネトバクターであれば、免疫能が正常であれば通常は自然に治ります。よって「薬剤耐性のアシネトバクター」と言われてもそもそも健常人がアシネトバクターで重症化することはまずありません。一方、NDM産生型カルバペネム耐性腸内細菌はときに健常人も重症化することのある大腸菌やサルモネラでも起こり得ます。例えば、病原性の高い大腸菌(O-157など)がNDMを持ったとすれば健常人でも助からない可能性があります。米国では4年間で460%も増加したのなら、日本でもこれから問題になっていくでしょう。

 薬剤耐性菌は今に始まった問題ではありません。医療プレミア「「あなたと家族と人類」を耐性菌から守る方法」で紹介したように、2014年の時点で「2050年には薬剤耐性菌関連死亡が年間1000万人に膨れ上がり、がんによる死者数を超えて、世界の死因第1位になる」と予測されていたのです。

 2025年10月13日、WHOがショッキングな報告を発表しました。世界中の細菌感染症の6分の1が一般的な抗生物質に耐性を示している、つまり「細菌感染の6分の1は抗菌薬を用いた通常の治療では治癒しない」と警告したのです。「通常の抗菌薬が効かない」というレベルですから、カルバペネムを代表とする「強力な抗菌薬」を使用すれば治癒するかもしれませんが、このような細菌感染が増加すれば「強力な抗菌薬」が効かずに、NDM産生型カルバペネム耐性腸内細菌のような「悪夢の細菌」が増加することになるでしょう。

 なぜ薬剤耐性菌がこんなにも増えるのか。よく指摘されるように「不要な抗菌薬の使用」です。通常、抗菌薬を処方するのであればグラム染色をおこない、その細菌がグラム陽性菌か陰性菌であるかを確定しなければなりません。上記WHOの報告でも言及されているように、現在耐性菌がより深刻なのはグラム陽性菌ではなくグラム陰性菌の方です。よって、抗菌薬を投与するなら、最低でもターゲットとするその細菌はグラム陽性菌なのか陰性菌なのかを確定しなければならないはずです。こんなこと、医師であれば誰でも学んでいるはずなのですが、なぜか他院から谷口医院に移ってくる患者さんたちは「前の医者ではグラム染色などされたことがなく、いつも〇〇が出されます」などと言います。そして、驚くべきことに、その〇〇がアベロックス、グレースビット、ラスビック、ジェニナック、スオードなど、谷口医院では年に1~2回程度しか処方しない極めて強力な抗菌薬であることが多いのです。

 これでは薬剤耐性菌が増え続けるのも無理はありません。他の医者の悪口は言いたくありませんが、こと抗菌薬の処方に関しては首をかしげざるを得ません……。

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2025年10月5日 日曜日

2025年10月 私が安楽死に反対するようになった理由(前編)

 前回述べたように、私は以前から自殺を奨励こそしないものの、人間には「自殺の自由」があって然るべきだ、と考えていました。医師になってから、というより2007年に谷口医院を開院してからは、多くの若者から、そのうちに若者だけでなく中年男女から、そして最近は高齢者からも自殺の相談をされるようになってきました。

 他方、親や子供、あるいはパートナーなど身近な人に自殺をされた、という患者さんも少なくありません。「ある日家に帰ると、風呂場で母親が首を吊って死んでいた」、「喧嘩別れしたカレシがそのまま勢いでビルから飛び降りた」、「娘が海外で自殺したことを現地の警察から知らされた。自殺の理由は今も分からない」など、身近で大切な人を失った悲しみを聞く経験も積み重なってきました。

 残された人は「大切な人が自殺した」という事実を受け入れなければならないものの、この悲しみはとても背負いきれるものではありません。もちろん「愛する人が病気や事故で他界した」ときの辛さも絶筆に尽くしがたいものですし、比較することに意味はないわけですが、それでも「大切な人が自殺した」悲しみは生涯消えることはありません。

 数年前から、少しずつ「安楽死」に関する相談を、それは世間話的な軽いノリのものから深刻な相談まで、聞く機会が増えてきました。患者さんがそのような話をするきっかけは様々ですが、最終的には「安楽死を希望している。先生(私のこと)に力になってほしい」という内容に収斂していきます。

 話を進める前に、ここで似た言葉の「尊厳死」と「安楽死」の違いを整理しておきましょう。

 尊厳死を英語にすれば「death with dignity」(他にも様々な表現がありますがこの表現が代表的だと思います)。「尊厳」という日本語が分かりにくいならdignityを「品格」と訳せばいいかもしれません。つまり、尊厳死とは「品格ある死」のことです。イメージとしては、「人工呼吸をつけない」「点滴をしない」など「延命治療を中止し、自然な死を迎えることを選択する行為」です。

 他方、安楽死の英語は「mercy killing」つまり「慈悲的な(mercy)」という形容詞はついていますが列記とした「殺人(killing)」です。「品格ある死」と「殺人」がまったく異なる概念であるのは明らかでしょう。人の殺し方には様々な方法がありますが、銃殺や絞殺などによる安楽死はもちろんありません。基本的には心臓が止まる薬を投与して、痛みの伴わない方法でその人を「死に導く」方法がとられます。

 安楽死が認められている国として最も有名なのはスイスでしょう。なにしろ合法化されたのが1942年と”歴史”があります。ただし、スイスでも医師が毒薬を投与するのは違法であり、希望者が致死薬を服用するのを見守るのが医師の役割です。言い換えれば「自殺ほう助」です。具体的には「毒薬が入ったドリンクを患者自身が飲み干すのを見守る」「毒薬が入った点滴のクレンメ(スイッチのようなもの)を患者自身が動かすのを見守る」といった感じで、目の前の患者が自ら体内に毒を注入するのを見届けるのが医師の役割です。

 これに対し、医師自らが致死薬を投与する方法は「積極的安楽死」と呼ばれ、実施している国ではおそらくカナダが最も有名だと思います。欧州ではオランダとベルギーで積極的安楽死がおこなわれています。最近はスペインでも一部実施されていると聞きます。他にはニュージーランド、コロンビアでも報告があります。カナダで積極的安楽死が合法化されたのは2016年とまだ10年も経っていないのにもかかわらず、全死因に対する積極的安楽死の割合が4.7%にも上昇しています。従来、安楽死の適応となるのは死期が短い不治の病に苦しめられている人だけですが、カナダではそういった終末期でなくても積極的安楽死が認められていることは特筆に値します。

 オランダでは2024年に約1万人が安楽死で命を落とし、これは前年比10%の増加、国内総死亡者数のなんと5.8%を占めます。しかも、16歳から18歳のうつ病を患う自閉症の少年も含まれていて、これはさすがに国内外から批判の声も集まっています。

 安楽死で必ず出てくる議論が「終末期以外の人にも認められるか」で、誰もが納得する答えがないのにもかかわらず、カナダやオランダではすでに実行されているのです。

 この議論でよく引き合いに出されるのが、仏国の映画監督リュック・ゴダール氏の安楽死です。ゴダール氏は2022年9月、スイスで安楽死を遂げました。当初ゴダール氏の安楽死は「特に病気がないけれど人生に疲れたから」あるいは「人生でやり残したことがないから」などと報道されましたが、実際にはこれは誤りで「multiple invalidating illnesses(複数の障害を伴う病気)に罹患していた」と、本人の弁護士により発表されました。

 さて、実際の問題として、私の立場で谷口医院の患者さんから「安楽死に協力してください」と言われればどうすべきでしょうか。日本では違法ですし、カナダやオランダでは外国人は現時点では対象外です。スイスでは外国人も可能ですが「治癒する見込みのない疾患に罹患していること」が条件ですから、単に「生きることに疲れたから」では安楽死の対象となりません。ですが、この先法律が変わる可能性もあるでしょうから、ここでは「希望すれば外国籍であっても、そしてどんな理由であっても安楽死ができる国がある」と仮定しましょう。

 以前私は、自身が引退した後に「安楽死希望の人の海外渡航にアテンドするボランティア」をしようと考えていました。その人の片道の飛行機代と現地のホテル代は自分で出してもらって、私自身の往復の飛行機代とホテル代は私自身が出して、書類作成や現地でのアテンドや通訳は私自身が無償でおこなうことを考えていたのです。引退前に安楽死を希望する人からの申し入れがあった場合は、私自身が無償で書類作成や現地の安楽死を担当する医師とのやり取りをして、一人で渡航できる人には一人で行ってもらい、一人では自信がないという人には通訳のアルバイトを探して安楽死目的の渡航に付いていってもらうことも考えていました。

 そして、実際そのようなリクエストをする人たちがチラホラと出てきました。もっとも、彼(女)らは現時点では差し迫って「一刻も早く安楽死を遂げたい」と考えているわけではありません。「いずれそのときが来れば、先生(私のこと)お願いしますね」という感じで話をされるのです。

 元々「自殺の自由」が認められるべきだと私は長い間考えていました。自殺の自由を認める立場でありながら安楽死に反対するのは、理論的に一貫性を欠いています。安楽死も広義には自殺の一種だからです。厳密には安楽死(=mercy killing)は狭義の自殺とは呼べず、広義には殺人になるかもしれませんが、死にたい意思を遂行する、という意味で同じ類のはずです。ですから、「あなたは安楽死に賛成ですか反対ですか」と問われれば、私はこれまで何のためらいもなく「賛成」の立場を表明していました。

 では、いよいよ谷口医院の患者さんから「先生、そろそろXデイが近づいてきました。準備に入りましょう」と言われれば、具体的にはどのようなことから始めればいいのでしょうか。それを考え始めると、まず脳裏をよぎるのは、その患者さんが自身の家族に、もし家族がいなければ友人に対して、「どのように別れを告げるか」です。安楽死を実行するなら先に「お別れの挨拶」をしなければなりません。ですが、「わたし、そろそろ安楽死しますね。谷口先生に現地に連れていってもらいます。今まであなたには本当にお世話になりました。ほな、さいなら」と言われて、「いってらっしゃい!」と笑顔で送り出せる人がいるとは思えません。早くも私の”計画”は挫折してしまいました。

 では、安楽死はまったく身寄りのない人に限定すればいいのでしょうか。

 次回に続きます。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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