2023年4月23日 日曜日

2023年4月23日 やはりサッカーは危険

 久々にこの話題を取り上げましょう。日本のメディアではいまだにほとんど報道されていませんが、格闘技のみならず、サッカーやアメリカンフットボールなどのプレイヤーはCTE(慢性外傷性脳症)と呼ばれる認知症を伴う脳の障害を患いやすいことが分かっています。本サイトでは何度も繰り返し取り上げていて、今回も似たようなサッカー選手の報告を紹介したいと思います。

 今回は先に、過去の医療ニュース「サッカーは直ちにやめるべきかもしれない」のポイントを振り返っておきましょう。

・スコットランド人男性の元サッカー選手7,676人と、一般人23,028人が比較された

・7,676人の元サッカー選手のなかでCTEを発症したのは386人(5.0%)。対照群では366人(1.6%)。リスクは3.66倍

・最もリスクが低いゴールキーパーは1.83倍。最も高いのはディフェンダーで4.98倍

・キャリアが長いほどリスクは上昇し、15年以上のプロのキャリアを持つ選手ではリスクが5.20倍

 では今回の論文を紹介しましょう。医学誌「The Lancet Public Health」2023年3月16日号に掲載された論文「スウェーデンの男性サッカー選手の神経変性疾患: コホート研究(Neurodegenerative disease among male elite football (soccer) players in Sweden: a cohort study)」です。ポイントは次のようになります。尚、下記に登場する「神経変性疾患」は「CTE」とほぼ同じものと考えて差支えありません。

・スウェーデン人男性の元サッカー選手6,007人と、一般人56.168人が比較された

・6,007人の元サッカー選手のなかで神経変性疾患(neurodegenerative disease)を発症したのは537人 (8.9%)。対照群では3,485人 (6.2%)。リスクは1.46倍。認知症のリスクは1.62倍

・ゴールキーパーの神経変性疾患のリスクは1.07倍。ゴールキーパー以外の選手は1.50倍

・パーキンソン病のリスクはサッカー選手は32%低い

・サッカー選手の全死因死亡率は、対照群より5%低い

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 スコットランドの研究ではサッカー選手のCTEのリスクは3.66倍に上昇しているのに対し、今回のスウェーデンの研究では1.46倍と半減しています。

 ならば喜んでいいいのかと問われればそういうわけではもちろんありません。1.46倍でも大変な事態だと思います。双方の研究ともにゴールキーパーのリスクが低いのは他のプレイヤーと比べてヘディングをする回数が少ないからです。

 盛り上がっているサーカー熱を冷ますような意見になってしまいますが、こういう研究結果、もっと世間に周知されるべきではないでしょうか。そして、サッカーを代表とする物理的に頭を使うスポーツを子供たちに教えるときにはこういったことも教育すべきではないでしょうか。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2023年4月22日 土曜日

第236回(2023年4月) これからの性感染症対策~mpox, DoxyPEP, HIV~

 2023年3月下旬、肛門周囲にびらん(ただれたような状態)のある患者さんが受診し、診断はmpoxでした。この新しい(性)感染症は、感染性が桁違いに強く、この患者さんの場合は自らが疑ってくれていたので事なきを得ましたが、もしもそうでなかった場合は、(新型コロナウイルスの初期のように)谷口医院が「数週間の閉鎖」をしなければならなかったかもしれません。

 2021年より問い合わせが増えだした「DoxyPEP」。最近ますます希望者が増えています。しかし、この予防法は気軽におこなうべきではありません。

 依然感染者が減らないHIV。しかし、毎日飲む抗HIV薬は副作用がほとんどなくなり、しかも1日1錠が標準的な治療となってきています。さらに、2ヶ月に一度実施する注射薬も登場しました(当院ではまだ扱っていませんが)。しかし、治療が簡単になってきたとはいえ、生涯にわたり続けなければなりませんから感染はなんとしても防ぎたいものです。そして、それが可能なのが(PrEPと)PEPです。

 今回の「はやりの病気」は、最近の性感染症の注目すべき点を復習し、今後、感染を防ぐためにはどのようなことに気を付ければいいのか、感染したかもしれないときにはどうすればいいのかを述べていきたいと思います。

 まずはmpoxをみていきましょう。ややこしい名前について先にまとめておきましょう。この疾患は当初はmonkey pox(日本語はサル痘)でした。しかし、「サルに失礼」という声が世界中から寄せられたために、WHOはmpox(Mpoxではなくmpox)に変更しました。このとき、日本では「M痘」になると報道されたのですが、結局厚労省は「エムポックス」としたようです。ややこしいのでここではmpoxで通します。

 mpoxには現時点で特効薬がありません。治験中の薬はありますが、一般の医療機関で処方できるようになるのはまだ当分先の話です。となると、ワクチンに期待したいところですが、このワクチンが非常に複雑です。結論からいえばあまり有用ではありません。解説しましょう。

 mpoxのワクチンは生ワクチンと不活化ワクチンがあります。生ワクチンはmpoxではなく天然痘のワクチンです。これがmpoxにも効くのではないかと考えられているのです。しかし、仮に効いたとしても「禁忌(接種できないケース)」が多くて使い物になりません。そもそもmpoxの最大のリスク因子は「HIV陽性」です。しかし、生ワクチンはそのHIV陽性者に接種できないのです。これは抗HIV薬を服用していてウイルスが血中から検出されない場合でも、です。

 次に、生ワクチンはアトピー性皮膚炎を含む慢性湿疹を患っているか、または過去に患っていた場合も禁忌となります。しかし、(mpoxのように)皮膚から皮膚に感染する感染症は、アトピーなどの炎症があればうつりやすいのです。皮膚のバリア機能が損なわれ感染症に対して脆弱になるからです。

 ということは、生ワクチンは最大のリスク因子であるHIV陽性者に使えず、また、皮膚感染を起こしやすい湿疹のある(あった)人にも接種できないわけです。ハイリスク者に使えないワクチンではどうしようもありません。

 不活化ワクチンは有効で、実際、米国はハイリスク者に集中してワクチンを(無料で)接種したことで短期間でmpox対策に成功しました。このワクチン、本来は1瓶が1回用なのですが、なんと米国政府は1瓶を5分割して5人に接種したのです。従来の筋肉注射ではなく皮内注射で接種しました。このような接種方法は標準的でないことから、ワクチンの製造会社(デンマークのBavarian Nordic社)からは、一時は「米国との取引をやめる」と言われたものの米国は強引に押し通しました。このやり方には賛否両論があるでしょうが、結果として米国がmpox撲滅にほぼ成功したのは事実です。

 一方、日本は不活化ワクチンどころか、(あまり役立ちそうにない)生ワクチンでさえ供給不足です。例えば、すでに感染者の診察をして、今後も診察することになるであろう私でさえ、現在の規定ではワクチン接種を受けることができないのです。

 ワクチンが使えないなら他の予防が重要になります。そして、mpoxは感染力がものすごく強いのは間違いありません。感染者の報告では、ゲイの男性が性行為を通して、というケースが多いのは事実ですが、例えばパーティで皮膚と皮膚が触れただけで感染したストレートの男性や女性の報告もあります。米国では家庭内での小児への感染も報告されています。国立国際医療研究センターによると、複数の男性と性行為をもった30代女性や、初対面の女性と性行為をもった40代の男性らの感染も報告されています。つまり「ゲイに多いのは事実でもゲイの感染症ではない」のです。要するにHIVと同じです。

 ではどのように予防すればいいのでしょう。ECDC(欧州疾病予防管理センター)によると、ベッドリネンなどに付着したウイルスは、数カ月からなんと数年間にもわたって感染性を維持することがあります。ということはmpox陽性者に触れたものに触れば感染の可能性が出てくる、ということになります。

 皮膚にウイルスが触れただけではそう簡単には感染しないでしょうが、そこに傷や炎症があればリスクが出てきます。ということは、傷や炎症がある部分は露出しないようにして、かつ手洗いをマメにすればOKです。mpoxはアルコールで死滅しますが、アルコールを使い過ぎないようにして流水下での手洗いをメインにするようにしましょう。アルコール使用で手荒れが起こればそちらの方がリスクとなるからです。

 そして、言うまでもなく「初対面の人との性行為」はリスクとなります。ロマンスは突然生まれることも多いわけですが、mpox感染のリスクが背負えるかどうかは充分に考えなければなりません。

 次いでDoxyPEPの話をしましょう。この”治療法”の問合せをしてくるのは、ほとんどはゲイの西洋人なのですが、最近少しずつ日本人(やはりゲイ)からも増えてきています。ということは、日本人のストレートの男女からの問合せもそろそろ始まる頃だと思います。DoxyPEPとは、抗菌薬ドキシサイクリン(DOXY)200mg(100mg2錠)を性交後72時間以内に一度だけ内服する方法で、クラミジア、梅毒、淋菌を、それぞれ90%、80%、50%防ぐことができるとされています。ただ、医療ニュース「DoxyPEPを過信するべからず」で述べたように、耐性菌を生み出すリスクもありますから、この方法に頼ってリスクのある性行為を持つべきではありません。

 HIVについては谷口医院を開院した2007年に比べると治療のやりやすさには雲泥の差があります。当時から抗HIV薬はありましたが、副作用がつらくて、できるだけ内服開始を遅らせるのが目標でした。ところが、最近は1日1錠のみの内服で済み、内服を続けられないような副作用はほとんどありません。最近は(谷口医院では実施していませんが)2ヶ月に一度だけ注射すればOKの注射薬も登場しています。

 そして後発品を用いたPEPができるようになったことがかなり大きいと言えます。以前は先発品でしかできませんでしたからPEPを実施しようと思えば30万円近く必要でした。それが現在は後発品が使えますからその6分の1以下の費用でできるようになったのです。それでも依然安くはありませんが、「安心が買える」わけですから非常に有用な治療法です。

 性感染症の予防で最も大切なことは「誠実な相手と交際する」ですが、長い人生の間にちょっとリスクのある行為に及ぶこともあるかもしれません。以前なら、そういう状況を想定して、1)B型肝炎ワクチンの接種と抗体形成の確認、2)コンドームの使用、3)ワクチンでもコンドームでも防げない感染症の検査、の3つが重要でした。

 ところが現在はmpoxという厄介な感染症が加わりましたから、しばらくの間(少なくともmpoxがおさまるまでの間)、リスクをとることを避け、誠実なパートナーを見つけるのが最も優れた対策と言えるでしょう。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2023年4月16日 日曜日

2023年4月13日 DoxyPEPを過信するべからず

 谷口医院に初めてDoxyPEPの問合せがあったのはたしか2021年だったと記憶しています。その後少しずつ質問が増えてきています。この質問をするのはこれまでは100%ゲイの外国人(全員が西洋人)でした。しかし、一流の医学誌「New England Journal of medicine」に論文が掲載されたことから、今後日本人の患者さん(患者ではありませんが)からの質問が増えることが予想されます。

 本稿の結論は「DoxyPEPを過信しないで」です。順に説明していきましょう。まずは「DoxyPEPとは何か」を確認しておきましょう。

 PEPはPost Exposure Prophylaxisの略で、日本語では「曝露後予防」と呼びます。何らかの病原体に触れてから使用する薬剤のことです。代表は犬に噛まれてから注射する狂犬病ワクチン、施設でインフルエンザが発生してから内服する抗インフルエンザ薬のタミフル、などですが、性感染症でいえばHIVのPEPが有名です。

 DoxyPEPで防ぐことができるのは、梅毒、淋菌、クラミジアの3つです。1種の薬で3つの感染症が防げるならお得な気がしますが、実際はそういうわけではありません。成功率が100%からはほど遠いからです。

 HIVのPEPの場合、(ほぼ)100%成功します。少なくとも当院では100%成功しています。ですから、針刺し事故、性暴力の被害、性交時のアクシデント(コンドームが破損するなど)などがあれば積極的に実施すべきです。リスクが低かったとしても、「もしもHIVに感染していたらどうしよう……」という不安感を払拭できるのは大きなメリットです。

 ところがDoxyPEPの場合、最近(2023年4月6日)医学誌「The New England Journal of Medicine」発表された論文「細菌感染を予防する曝露後ドキシサイクリン(Postexposure Doxycycline to Prevent Bacterial Sexually Transmitted Infections)」によると、クラミジア、梅毒、淋病に感染するリスクが、それぞれ90%、80%、50%下がることが分かりました。

 これら3つの感染症は治療すれば治る病気です。この点がHIVとの大きな違いです。ならば、「まずDoxyPEPを実施して感染していれば治療をすればいいではないか。だからDoxyPEPは有用だ」という意見もあるでしょう。

 もちろん、性暴力の被害や予期せぬアクシデントのときにDoxyPEPを実施するのはいい方法だと思います。しかしながら、この方法に頼って無防備な性行為をするようなことは避けなければなりません。成功率が100%でないから、という理由だけではありません。気軽にDoxyPEPを実施し、それを繰り返すようになればそのうち「耐性菌」が生じるリスクがあります。

 Doxyという抗菌薬は性感染症の領域で言えば、いわば「切り札」的な存在です。その切り札が効かなくなってしまえば、次に打つ手がなくなってしまいます。

 リスクのある性交渉には充分注意をしてください。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2023年4月10日 月曜日

2023年4月 「幸せはお金で買える」という衝撃の結末

 2017年4月のマンスリーレポート「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で、「年収が75,000ドル(約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても幸福感は増えない」という説を紹介しました。

 これは科学誌『PNAS』に2010年に掲載された、ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」に書かれていることです。ノーベル経済学賞受賞者が「幸せはお金で買えない」と言ったわけですから、この説には説得力があります。

 そのときのコラムで私は「タイの酔っ払いと日本のビジネスマン」の逸話を紹介し、金儲けにどれだけの意味があるのか、について問題提起をしました。

 今から2年前の2021年4月のマンスリーレポート「幸せに必要なのはお金、それとも愛?」では、カーネマンの説を真っ向から否定した『PNAS』の論文を紹介しました。この論文の著者はマシュー・キリングスワース(Matthew A. Killingsworth)。論文のタイトルは「年収75,000ドルを超えたとしても幸せは収入に連れて上昇する (Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year)」。タイトルから分かるように、明らかにカーネマンの「75,000ドル限界説」に対抗しています。

 この論文では、あまりにもクリアカットにカーネマン説を否定しているのが出来過ぎているように(私には)見えること、谷口医院の患者さんを観察して気付いたことは「幸せの最優先事項はお金ではなく仲の良いパートナーの有無だ」という私見を述べました。

 カーネマンの「収入75,000ドル限界説」、キリングスワースの「幸せ収入限界なし説」のどちらが正しいのか。そのコラムを書いた2年前には、私はカーネマンを支持していました。2つのコラムで取り上げた、タイの酔っ払いの話、谷口医院の患者さんのエピソードなどから、「(貧乏はよくないとしても)収入の大きさで幸せかどうかが決まるわけではない」と確信しているからです。

 ところが、です。カーネマン対キリングスワースのこの対決、最近、あっさりと決着がつきました。その結果は、キリングスワースに軍配が上がりました。つまり、「人はお金があればあるほど幸せになる」という結論になったのです。

 その結論を導いた論文を掲載したのはやはり科学誌『PNAS』。2023年3月1日号に掲載された論文のタイトルは「収入と精神的幸福: 対立が解決(Income and emotional well-being: A conflict resolved)」です。

 この論文の著者は、驚くべきことに、なんとカーネマンとキリングスワース。つまり敵対する二人が共同研究をして論文を発表したのです。論文のなかで、この研究は「adversarial collaboration(敵対的協力)」と呼ばれています。つまり、まったく正反対の意見を持つ二人が協力して同じ課題に取り組んだ研究ということです。

 そして、その結果が「お金はあればあるほど幸せになり、(75,000ドルなどの)限界はない」とするものでした。つまり、カーネマンの完全なる敗北です。論文では敗北という言葉が使われているわけではありませんが、カーネマンは自分自身の説を取り下げて、キリングスワースが以前から主張している「幸せ収入限界なし説」を支持したわけです。

 この研究を少し詳しく紹介しましょう。まず、研究の対象者は米国在住の18~65歳の就労者33,391人です。「幸福度」は、1日3回、数週間にわたり、スマートフォンによる報告で計測されました。「今、どんな気持ちですか?」という質問に対し、「非常に悪い」から「非常に良い」までの範囲で回答します。

 その結果、論文のグラフBを見ればあきらかなように、年収と幸福度(Experienced Well-Being)はほぼ正比例の関係となりました(私にはちょっとできすぎた結果のようにみえます……)。このグラフが正しいなら、人(米国人)は年収75,000ドルどころか、少なくとも50万ドル(約6千万円)までは収入が多ければ多いほど幸せと感じる、ということになります。尚、50万ドル以上の年収の対象者は少なすぎて解析できなかったようです(そりゃそうでしょ)。

 この研究ではもうひとつの特徴が示されています。それは、「対象者の約2割は年収10万ドルを超えるとそれ以上幸福度が上がらない」ということです。論文ではこの2割の人たちが「不幸な少数派(unhappy minority)」と呼ばれています。論文のFig.2が示しています。著者らによると、この2割の人たちは収入が増えても気分が改善しない否定的な「悲惨な経験」があるそうで、その経験とは、失恋、死別、うつ病など、とのことです……。

 ノーベル賞受賞者らが執筆したこの論文、学術的な価値はあるのでしょうが、ちょっと強引ではないでしょうか。この論文が正しいとすれば、年収が増えても幸福度が上がらない人は、全員が「不幸な少数派」の烙印を押されることになります。例えば、「お金はほどほどには必要だけれど愛情の方が大切」とか「年収は平均を少し超えるくらいだけれどやりがいのある仕事をしているから幸せ」と考えている人たちの存在がないものとされています。

 この論文の結論を一言でまとめれば「お金はあればあるほど幸せ。そうでないと考える人は皆、不幸な者たちで、失恋から立ち直れなかったりうつ病を患っていたりする」と言っているわけです。

 提唱者であるカーネマン自らが否定したことになりますから「幸福は年収75,000ドル限界説」は、この論文が発表された2023年3月1日をもって消失したと考えなければなりません。

 こここからは私見を述べます。75,000ドルが妥当かどうかは別にして、私自身はカーネマンとキリングスワースのこの研究の結論を肯定しません。そもそも、この結論、経済学の原理に反しないでしょうか。私は経済学にはまったく詳しくありませんが(関西学院大学時代、「経済学」の単位を落としたほどです……)、収入と満足度はいわゆる「diminishing marginal utility(限界効用逓減)」で説明すべきものではなかったでしょうか。これは、「最初の頃は満足度が上がる(効果があがる)けれど、そのうちにありがたみがなくなって最初ほどの満足度(効果)が得られなくなる」とする現象で、グラフでいえば、最初は急激な傾きで、そのうちにその傾きがなだらかになっていきます。

 谷口医院を閉院せざるを得なくなり、私自身の今後の身の振り方は依然未定ですが、幸いなことに(と言っていいのかどうかわかりませんが)、いくつかの病院から「うちで働きませんか?」というオファーをいただきました。年収は谷口医院で働くよりもアップしそうなオファーです。一般に開業医は勤務医より高収入と思われていますが、私自身は谷口医院でそんなにもらっていませんでした。しかし、大切なのはお金ではないのです。

 もちろん、例えば「やりがいのある年収200万円の仕事と、いやなこともある年収1千万円の仕事」なら後者をとるでしょう。ですが、ある程度の収入が得られるなら(例えば日本人の平均くらいの収入があるなら)、私ならやりたい仕事を選びます。

 私が医師6年目(正確には5年目の終わり)という早い段階で開業したのは、勤務医ではできないことをやりたかったからです。大学で総合診療部の外来をしていた頃もやりがいがなかったわけではありませんでした。しかし、大学病院ですから、診断がついて解決すればそれで患者さんとの関係を終わりにしなければなりません。「困ったことがあればいつでも相談してください」ではなく、「次からは何かあれば近所の診療所を受診してください」と言わねばならなかったのです。ですが、その頃にはすでに「診てもらえるところがない」と悩んでいる患者さんの存在を私はたくさん知っていました。「いつでも誰でもどんなことでも受診できる診療所がないのなら自分でつくるしかない」と考えて開業に踏み切ったのです。

 それを16年以上やってこられた自分は幸せだったと思います。閉院は避けられませんが、今診ている患者さんたちを見捨てることが私にはどうしてもできません……。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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