2019年11月25日 月曜日
2019年11月25日 「海の近く」に住めば貧しくても心は安定
将来はどこに住みたいか、というのは多くの人が考えることで、回答は主に「都会派」か「自然派」に分かれると思います。慌ただしい都会を離れて自然に囲まれた田舎暮らしに憧れる人も少なくないようで、そういった特集を雑誌で見かけることもあります。自然に囲まれた生活をイメージすると「山」と「海」に大きく分けることができます。今回紹介するのは「海の近く」の生活です。ただし、「海に近い都市部」です。
医学誌『Health & Place』2019年9月号に掲載された論文「イングランドの成人における海との距離と精神状態。収入格差をやわらげる効果も(Coastal proximity and mental health among urban adults in England: The moderating effect of household income)」で述べられているポイントを紹介します。
・海岸から1km以内に住めば精神状態が改善する
・最も収入が低いグループにおいては「海の近く=良い精神状態」の関係が特に強かった
この研究の対象は「イングランド健康調査(Health Survey for England)」の参加者約25,963人です。都市部に住む成人における「海の近くに住むこと」と「精神状態」、さらに「収入」との関連が調べられています。
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このようなマイナーな医学誌を取り上げたのは私自身がこの論文のタイトルに魅かれたからです。以前『八月の鯨』という映画を観たとき、ストーリーは私にとってはあまり面白くなく退屈だったのですが、映画に登場する部屋から見える海のシーンがとても美しく「こんな家に住めたらどれだけ幸せだろう」と感じたことがあり、そのシーンだけがその後も私の心に中に何度も登場するのです。ちなみにこの映画は映画ファンの間では軒並み評価が高いようで、その海のシーン以外の良さが分からない私にはセンスがないそうです。
今回紹介した研究の興味深いところは収入との相関関係が調べられていることです。「低収入でも海を見れば幸せ」と極論することは危険でしょうが、「生きるヒント」になるかもしれません。
もうひとつ気になるのは、これが「都心部での調査」ということです。都心部の海と田舎の海では違いがあるのでしょうか。あるいは離島はどうなのでしょうか。いつかそんな研究が発表されるのを楽しみにしたいと思います。
参考:
「はやりの病気」第185回(2019年1月)「避けられない大気汚染」
「医療ニュース」2017年3月31日「大通り沿いに住むことが認知症のリスク」
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|2019年11月23日 土曜日
2019年11月23日 やはりサッカーも認知症のリスク
いまだに一般のメディアでは大きく取り上げられておらず世間の関心も高くなく、さらに医療者の間でもあまり話題にならないのですが、2014年頃から「CTE(慢性外傷性脳症)」のリスクについて私自身は日ごろの外来で患者さんに伝えるようにしています。また、このサイトを読まれた人たちから質問が寄せられることもあります。
これほど重要な疾患がなぜ世間で重視されないのか私には皆目見当がつきません。2016年にはCTEを取り上げたウイル・スミス主演の映画『コンカッション』が日本でも公開されたのですが、なぜか単館系での上映のみで期間も短くあまり話題になりませんでした。ちなみに、主演のウイル・スミスはゴールデングローブ賞で最優秀主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされています。
一方、海外ではCTEに関する研究が増えてきており一般のメディアも報道しています。今回は「やっぱりサッカーも危険だった」という研究を紹介しますが、その前にこのサイトでこれまで述べてきたことを簡単にまとめておきましょう。
・CTEは格闘技やアメリカンフットボールなどのコンタクトスポーツで脳震盪を起こすことが原因。
・NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)は当初アメリカンフットボールとCTEの因果関係を否定していたがその後認めるようになった。2015年4月時点で、CTEを発症した元アメリカンフットボールの選手5千人以上に対し、NFLは総額10億ドルを支払うことで和解した(「The New York Times」の記事より)。
・病理解剖の研究によれば、元アメリカンフットボール選手の87%がCTEだった(医学誌『JAMA』2017年7月25日号の論文より)。
・コンタクトスポーツ経験者の3割以上がCTEになることが、米国の脳バンク(ブレインバンク)に集められた脳の検体から明らかとなった(医学誌『Acta Neuropathologica』2015年3月の論文より)。
・米国小児科学会(AAP)のスポーツ医学・フィットネス委員会(COUNCIL ON SPORTS MEDICINE AND FITNESS)は「未成年が格闘技をおこなうのなら非接触型にしなければならない」と勧告した(医学誌『Pediatrics』2016年12月号の論文より)。
・サッカーでヘディングをよく行う選手は、あまり行わない選手に比べて脳震盪を起こす可能性が3倍以上となる(医学誌『Neurology』2017年2月1日号の論文より)。
・イングランドの元ストライカーJeff Astle氏が若くして認知症を発症し2002年に59歳の若さで他界した(報道は「The Telegraph」)。
・オバマ元大統領は「もし自分に息子がいたとすれば、フットボールの選手にはさせない」と発言した(「The Newyorker」より)。
ここからが今回の研究の紹介です。結論を言えば「サッカー選手は認知症になりやすい」です。医学誌「New England Journal of Medicine」2019年10月21日号(オンライン版)に「元サッカー選手の神経変性疾患による死亡率Neurodegenerative Disease Mortality among Former Professional Soccer Players」というタイトルの論文が掲載されました。
研究の対象はスコットランドの元プロサッカー選手7,676例。対照には同年代の一般住民23,028例が選ばれています。追跡期間の中央値は18年以上で、その間に元サッカー選手1,180人(15.4%)、対照群3,807人(16.5%)が死亡しています。ポイントは次の通りです。
・全死因の死亡率については、70歳までは元サッカー選手が一般人よりも低かった。しかしその後は逆転している。
・元サッカー選手の神経変性疾患による死亡率は一般人の3.45倍。
・元サッカー選手のアルツハイマー病での死亡率は一般人の5.07倍。
・元サッカー選手は一般人よりも虚血性心疾患による死亡率は20%低い。
・元サッカー選手は一般人よりも肺がんでの死亡率は47%低い。
・元サッカー選手は一般人よりも認知症関連の薬の処方頻度が高い。
・ゴールキーパーはゴールキーパー以外の選手と比べて認知症薬の処方頻度は59%低い。
これらをまとめると、「サッカーをすれば心臓と肺が強くなるが、神経の病気のリスクが高くなる。特にアルツハイマーのリスクが高い。その原因はヘディングをするからだ」、となります。
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これまでアメリカンフットボールによるCTEの研究がたくさん米国でおこなわれているのは米国ではサッカーの人口が少ないからでしょう。一方、スコットランドではサッカーが国民的スポーツです。今後欧州の他の地域や南米でもサッカーとCTEを結びつける研究が出てくるかもしれません。しかし、それを待つのではなく、この時点で我々は、そして我々の子供はコンタクトスポーツを続けていいのか、という問題を真剣に考えるべきではないかと私には思えます。
今年の盛り上がりに水を差すようですが、それはラグビーでも同様です。
はやりの病気
第137回(2015年1月)「脳振盪の誤解~慢性外傷性脳症(CTE)の恐怖~」
医療ニュース
2017年8月30日「アメリカンフットボールの選手のほとんどがCTEに!」
2017年3月6日「ヘディングは脳振盪さらに認知症のリスク」
2016年12月26日「未成年の格闘技は禁止すべきか」
2016年10月14日 「コンタクトスポーツ経験者の3割以上が慢性外傷性脳症」
2015年5月9日「脳振盪に対するNFLの和解額が10億ドルに」
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|2019年11月20日 水曜日
第195回(2019年11月) 本当はもっと多い(かもしれない)腸チフス
数年前から複数のメディアから取材を受けることが多い感染症が「梅毒」です。「梅毒が急増している」と言われ、たしかに統計上もそのようになっています。しかし、実感としてはそんなことはなく「梅毒は昔から珍しくなかった」というのが、私が言い続けているコメントです(例えば、毎日新聞「医療プレミア」「再考 梅毒が「急増している」本当の理由」)。
実際、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)では梅毒の新規感染者は過去13年間で大きな推移はあまりありません。ただし「内訳」は大きく異なっています。オープンした2007年から2014年頃までは、梅毒の診断がつくケースの大半が「他院では治らなかった皮疹」で受診、というケースです。他には「原因不明のリンパ節腫脹」「長引く咽頭痛」などから診断がついたこともありましたが、圧倒的に多いのが皮疹です。なかには大学病院で生検(皮膚の一部を切除する検査)までおこなわれて結局診断がついていないという症例もありました。
一方、最近梅毒の診断がつくのは、保健所などの無料スクリーニング検査で「疑いがある」と言われて谷口医院を受診したというケースです。梅毒は自然治癒もありますし、別の理由で抗菌薬を処方されてしらない間に治っていたということもよくあります。以前、どこかの政治家が「梅毒が増えているのは中国人が持ち込んだからだ」と発言して問題になったことがあります。そのような事実が確認されたわけではありませんし、もしもこのような事実があるなら梅毒以外の性感染症も増えているはずです。梅毒だけが”統計上”増えているのは昔からあったものが見逃されていただけだ、と考える方がずっと自然です。
さて、今回お話したいのは梅毒ではなく「腸チフス」です。この感染症は梅毒より遥かに少ないのは事実ですが、実はそれなりに多いのではないか、というのが、私が考えていることです。その理由を述べる前に腸チフス全体のおさらいをしておきましょう。
腸チフスはチフス菌と呼ばれるグラム陰性桿菌(グラム染色でピンクに染まる長細い菌)で、主に食べ物を介して口から感染します。インドやパキスタンといった南アジアでの感染が最も多く、日本人が現地で感染することも珍しくありません。かつての日本でも猛威を振るい太平洋戦争の頃は年間数万人が罹患していたそうです。その後抗菌薬の普及により90年代にはパラチフス(注1)と合わせて年間100人程度で推移しています。その大半が海外で感染し帰国して発覚というパターンです。
しかし2014年に集団感染が報告されました。医療ニュース2014年10月6日「東京のカレー屋で腸チフスの集団感染」で紹介したように、東京のカレー屋で8人の男女が食中毒症状を訴え、そのなかの6人からチフス菌が検出されたのです。保健所の調査により、最終的には合計18人がこのカレー屋の料理で感染していたことが分かりました(注2)。インドに帰国していた従業員が現地で感染し、日本に戻ってきて調理した生サラダにチフス菌が混入したものと当局は推定しました。尚、当事者のインド人は無症状だったそうです。
この食中毒事件を「稀な事件」と捉えていいでしょうか。私の答えは「否」であり、たとえ海外渡航しなくても日本人にもリスクはあると考えています。したがって、まず自分自身を守らなければならないと判断し、私自身がワクチンを接種しました。といってもこのワクチンは日本では認可されていませんから、タイ渡航時に知人の医師が勤務する医療機関で接種しました。
「日本人にもリスクがあり、実際には感染者数がもっと多い」と私が考える理由を述べていきます。
まずひとつめに「感染しても気付いていない人」がそれなりにいます。実際、件のカレー屋のインド人は自分自身が感染したことに気づいていなかったわけですし、当局のこの調査でさらに無症状病原体保有者が1名確認されています。
次に「感染しても軽症で済む人」がそれなりにいます。軽症の人は医療機関を受診しませんから、感染して軽い症状が出たが自然に治癒した、もしくは症状がとれて保菌者となった、という人がそれなりにいるはずです。
その次に考えられることとして、「それなりの症状が出て医療機関を受診したけれども正確な診断がつかなかった。しかし抗菌薬が処方されて結果的に治った」という例もかなりあると私はみています。これはちょうど冒頭で述べた梅毒と同じで、実際の臨床現場では「とりあえず抗菌薬が処方されて診断がつかぬまま治った」というケースがかなりあるのです。ちなみに、私自身は「安易に抗菌薬を使うな。抗菌薬を処方するのは原因菌が特定されたかまたは強い根拠を持って推測できるときだけにしなければならない」と医療者に対して言い続けています。
まだあります。通常下痢や発熱が生じると患者さんも我々医師も食中毒の可能性を考えますが、下痢が起こらなかったときはどうでしょう。腸チフスは高熱と皮疹が出ても必ずしも下痢が起こるとは限りません。便秘となることもあります。このような状態で食中毒を、さらに腸チフスを疑うことができるでしょうか。
海外渡航歴のない国内発症例はどれくらい報告されているのでしょうか。国立感染症研究所の報告によれば、2013年1月から9月末までの9ヶ月で合計49例の腸チフス報告があり、そのうち18例は明らかな海外渡航歴のない国内感染例です。同研究所によれば、この18人がどのように感染したのかについてはほとんどが不明です。
米国では果物からの感染が報告されています。2010年、国外から輸入されたmamey(日本語では何と呼ぶのでしょう。私は食べたことがありません)の冷凍果肉からの感染がCDCにより報告されています。
こういったことを踏まえると、海外に渡航しない日本人が腸チフスに感染する可能性は決して少なくないと考えるべきです。そして、腸チフスがやっかいなのは(梅毒と異なり)重症化することがあるという事実です。最近は薬剤耐性菌が増えてきており強力な抗菌薬の長期投与を余儀なくされる例も増えてきています。
こう考えるとワクチンをうちたくなる人もでてくるでしょう。実際、谷口医院にも感染症に興味のある患者さんからはそのような要望が寄せられています。私自身がおこなったようにタイでのワクチン接種を勧めているのですが、そんなに簡単に海外には行けないという人もいます。谷口医院は未認可のワクチンを扱わない方針なのですが、あまりにも要望が多いこともあり例外的に腸チフスのワクチンを入荷させることにしました。ただし、輸入には様々な経費がかかることから当然のことながら高くなります。私がタイで接種したワクチンは約500バーツ(約1,500円)でしたが、谷口医院での費用は8,800円になります(注3)。
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注1:腸チフスと似た名前の感染症にパラチフスと発疹チフスがあります。パラチフスは細菌学的に腸チフスと似ています。ただし腸チフスのワクチンは効きません。しかし一般にパラチフスは腸チフスよりも軽症です。発疹チフスは「チフス」の文字が入っていますが、細菌学的に腸チフスやパラチフスとはまったく異なる種類で、リケッチアと呼ばれる病原体が原因です。なぜ、全然違う種類の病原体に同じような名前が付けられたかと言うと、腸チフス、パラチフス、発疹チフスのいずれも似たような発疹を呈するからです。ちなみにこれらの発疹は梅毒のときに生じる皮疹と似ていることがあります。話はまだややこしくなります。腸チフス、パラチフスは英語ではそれぞれTyphoid Fever, Paratyphoid Feverというのですが、腸チフス菌、パラチフス菌を英語ではSalmonella Typhi、Salmonella Paratyphi Aと呼びます。つまり、これら2つの菌はサルモネラ属に属する、つまりサルモネラ菌と同じ仲間なのです。
注2:この事件の概要は国立感染症研究所が報告しています。
注3:他のワクチンも驚くほど安いことから、私は海外渡航の多い人にはタイでの接種を勧めることがしばしばあります。例えば、麻疹・風疹・おたふく風邪の三種のワクチンを日本で接種すれば合計16,000円(谷口医院の場合)かかりますが、バンコクのマヒドン大学にある「Thai Travel Clinic」ではわずか227バーツ(約800円)です(2019年11月20日現在)。
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|2019年11月11日 月曜日
2019年11月 医療者と他職種の「正直」はどう違うか
前回のこのコラムでは「医師と他職種の共通点と相違点」について述べました。今回はその続きとして「医療者と他職種の「正直」の違い」について話したいと思います。このような話をする人は他に見当たりませんから、あまり他の人が考えない、あるいは考えても意味のないことを考えるのが私の”癖”なのかもしれません。
まずは「正直」という言葉の意味を考えてみましょう。「正直」に似た言葉に「誠実」があります。基本的に「誠実」と「正直」はまったく異なる概念である、というのが私の考えです。分かりやすい例を挙げましょう。浮気をしたときにそれを包み隠さず伝えるのが「正直」で、浮気という裏切り行為を初めからしないのが「誠実」です。ですから、「誠実」は「正直」よりも”上”の概念、あるいは高貴な真実、もっといえばより重要な原則ということになります。「正直になる」よりも「誠実になる」方が人間にとって大切なことなのです。
「浮気を伝える」というのは極端にネガティブな例であり「正直がよくない」ことを説明するには説得力に欠けるかもしれませんが、「正直がよくない」例は他にも多数あります。例えば、「とても疲れて帰宅したときに妻が高熱で寝込んでいることに気づき、今日は元気がありあまっていてご飯をつくりたい気分だ、と言って妻のためにお粥をつくる」、がそうです。他にも、「子供がまだ幼い時に、その子供の母親が不倫した男と駆け落ちして心中したことを隠して、お母さんは病気で死んだんだよ、と言う」とか「ホームパーティに呼ばれて食事をご馳走になったときに、料理が口に合わなくても美味しいと言う」というのもそうでしょう。私流の解釈として「正直」は「誠実」よりも”下”に位置します。
仕事の場面で考えてみましょう。仕事においても「正直がよくないこともある」とかつての私は考えていました。私が初めて本格的に仕事をしたのは最初の大学生時代の旅行会社でのアルバイトです。このアルバイトを通して私自身がどれだけ成長できたかということについてはすでに何度か述べました。今回述べるのはそのアルバイトを通して私が「正直でない」行動をとっていたことです。今振り返ってみれば本当にそれでよかったのかという疑問が出てくるのですが、当時の私はそうすべきと思っていました。
例えば「新人で何の実績もないのに経験者のフリをする」というのがあります。18歳の頃、生まれて初めてバスの添乗をしたときのことです。「初めてです」と正直に言えば、バスのドライバーからも旅行客からもなめられます。そこでベテラン添乗員のフリをするわけです。何を聞かれても自信たっぷりに答えるのです。もちろんこれをしようと思えば経験のある先輩たちから事前に話を聞いて何度もシュミレーションして望まなければなりませんが。
ある離島のリゾート地で「グラスボート」(底が透明になっている小さな船)のチケットを売る仕事をしていたときのことも紹介しましょう。私自身はグラスボートになど乗ったことがないくせに「ものすごく感動しますよ! 僕が初めて乗ったときは興奮して眠れなかったんです! 昨日来たお客さんは全員チケットを買いましたよ!」などと「正直でないこと=嘘」を言っていました。
これも過去に述べたように、私はひとつめの大学生時代にディスコでウエイターのアルバイトをしていたこともあります。この世界は経験が短いことがお客さんからなめられることにつながりますから、ベテランのフリをしなければなりません。仕事中にお客さんと話すことの大半は「正直でないこと=ハッタリ」でした。
ひとつめの大学を卒業して会社員をしていた頃にも「正直でないこと」を何度も口にしていました。輸入品を全国に販売促進する仕事をしていたときは、「アメリカではすごく売れていて間違いなく日本でも流行りますよ」とか「もうリピートの注文がどんどん入っていてもうすぐ品切れになりますよ」とか、根拠のない「出まかせ」を言っていたわけです。
こうやって過去の私が言ってきた「正直でないこと=嘘・ハッタリ・出まかせ」を振り返ってみると、なんだか自分がとんでもなくひどい人間のように思えてきますが、当時は何の罪悪感もないどころか、仕事というのはそうあるべきだ、と考えていました。実際、私のこのような方針というか”戦略”で失敗したエピソードは特にありません。いつも”成功”していたと言ってもいいと思います。
では医師になってからはどうかというと、私が初めて本格的にこの問題を考えたのは研修医一年目の麻酔科の研修で、初めて麻酔をかけるときの患者さんへの説明でした。麻酔は安全な医療行為ではありますがアクシデントがないわけではありません。そんな医療行為を研修医1年目の者がおこなう、しかも麻酔をかけるのが初めて、となると患者さんは不安になるに違いありません。しかしこの場面で「嘘」を言うわけにはいきません。「正直に」自分は1年目の研修医であり麻酔をかけるのが初めてであることを伝えました。
形成外科の研修時代、初めての手術をするときも「初めての手術です」と伝えました。その患者さんは「ということは先生(私のこと)は僕のことを一生忘れないですね!」と言いつつも、その直後に「他の先生もついてくれますよね……」と加えていましたからやはり不安に感じられたのでしょう。
医療者が「正直」であるべきか否かという問題を最も真剣に考えなければならないのは「医療ミス」をしたときです。長い間医療行為をしていると誰でも「ミス」はします。絶対にミスをしてはいけないのが医療職という考えもありますが、長年医療行為をしていて一度もミスがないという医療者はいません。では、すべての医療者がミスをすれば直ちにそれを患者さんに伝えているかというとそういうわけではなさそうです。例えば医療事故があれば直ちにカルテを公開すべきですが、あとから書き換えたとか、裁判で新たな事実が分かったといった内容が報道されることがあります。
私の個人的な意見は「医療者は(他職種とは異なり)常に正直であらねばならない」です。「見つからなければ黙っておいてもいい」という考えには反対です。以前、太融寺町谷口医院の患者さんに薬を誤って処方したことがありました。私のカルテへの薬の入力ミスはたまにあるのですが、ほとんどはそれをチェックする看護師が気づきます。
ですが、そのときは見逃されており2週間後に患者さんが再診したときに気づきました。処方しようと考えた薬をクリックするときにリストのひとつ下の薬を押してしまい、似た名前の別の薬が処方され、既に飲み終わっていたのです。しかし患者さんの様態はよくなっています。黙っておいた方が余計な不安を与えない、という考えもあるかもしれませんが、私は正直に自分が薬の処方を間違えたことを伝えました。その時は「話してくれて感謝します」と言われましたが、その後この患者さんは受診していません。やはり誤薬が許せない、と考えられたのかもしれません。
もうひとつ実例を紹介します。今度は当院の看護師の話です。ある日その看護師は注射の量を間違えて投与したことに気づきました。ただし、それは黙っていれば誰にも分からないことで、さらにその量の違いが患者さんに影響を与える可能性はほぼゼロです。医師に伝えず、患者さんに伝えることを考えない看護師もいると思います。私はその看護師からこの報告を受けたときに「このことを患者さんに伝えるべきだと思いますか?」と尋ねました。すると、その看護師は間髪おかずに「はい」と答え、すぐに患者さんに電話をかけて謝罪したのです。黙っておけば誰も気付かないことを上司である私に報告し、直ちに患者さんに電話で知らせるというその看護師の勇気と行動に私がどれだけ感動したか想像できるでしょうか。
医師になるまでの私の考えが間違っていたのかどうかについては今も答えが出ていませんが、医療者にとっての「正直」は「誠実」と同じくらい重要な原則であることは間違いありません。
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